ワンガリ・マータイ

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ワンガリ・マータイ
Wangari Muta Maathai ノーベル賞受賞者
生誕 1940年4月1日
ケニアの旗 ケニア
死没 2011年9月25日(満71歳没)
職業 ナイロビ大学教授
環境保護活動家
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ワンガリ・マータイWangari Muta Maathai, 1940年4月1日 - 2011年9月25日)は、ケニア出身の女性環境保護活動家。ナイロビ大学初の女性教授となった人物である。

2004年12月10日に「持続可能な開発民主主義平和への貢献」のため、環境分野の活動家としては史上初のノーベル平和賞を受賞した。アフリカ人女性としても史上初。関西学院大学早稲田大学青山学院大学名誉博士

目次

[編集] 略歴

1940年、ケニア中部のニエリの農家の娘として生まれ、アメリカカンザス州ベネディクティン・カレッジ卒業後、ピッツバーグ大学修士号、ナイロビ大学で博士号(獣医学)を取得し、1971年にはナイロビ大学教授に就任した。1977年グリーン・ベルト・ムーブメントを設立して土壌の浸食と砂漠化を防止する植林活動を開始し、1986年にアフリカン・グリーン・ベルト・ネットワークへ改称後、アフリカ大陸全土で植林活動を行い、民主化や持続可能な開発の推進に取り組んだ。

また、独裁政権下にあったケニアにおいて、公然と政権を批判したことで数度の逮捕と投獄を経験。女であるにもかかわらず意志が強すぎ、コントロール不可能であると夫が国に訴え離婚させられた経験ももつ。1997年にはケニアの大統領選挙に立候補しようとしたが、所属政党の説得により断念。2002年国会議員となり、2003年から環境・天然資源・野生動物省の副大臣を務め、ケニア・マジンジラ緑の党を設立して代表も務めた。2007年実施のケニア国会議員総選挙で落選した。

2005年3月28日、アフリカ連合経済社会文化会議の初代議長に選出された。

また、2005年2月14日から10日間、京都議定書関連行事出席のため来日した際、日本語の「もったいない(モッタイナイ[1])」という言葉を知って感銘を受け、同年3月に国連女性地位委員会で出席者全員と「もったいない」と唱和したこともある。「MOTTAINAI」キャンペーンとして展開している。2009年5月にはケニアの岩谷滋雄特命全権大使から旭日大綬章の伝達を受け、同年12月には国連平和大使に任命された。

2006年のトリノオリンピックの開会式ではオリンピック旗を掲揚する際の旗手を務めた。

2011年9月25日、ガンのためケニアの首都ナイロビの病院で死去[2]。71歳没。

9月28日、ケニアのキバキ大統領は生前の功績を称え国葬とすることを決め[3]、10月8日にナイロビ市内のウフル公園で国葬が行われた。葬儀は「木を使わないで」という遺言に従い、特製の棺に納められガスによる火葬に付された[4]

[編集] ノーベル平和賞

ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:2004年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:持続可能な開発、民主主義と平和に対する貢献
ノーベル平和賞の賞状
マータイと上院議員時代のバラク・オバマ(ナイロビ)

ノルウェー・ノーベル委員会は、2004年度のノーベル平和賞受賞者を発表する席で次のようにコメントした。「マータイは、ケニヤの圧政的な前政権に対し果敢にも立ち上がり、彼女のユニークな運動は政治的抑圧に対して国内、また国際的にも注意を引くのに貢献した。彼女は民主的権利への運動の中で多くの人々にとってインスピレーションとなり、また特に女性の地位向上を促すのに勇気を与えた」。

ノーベル平和賞受賞の報告を受けての席上で、マータイは、エイズウイルス陰謀説のうちの一つである「HIVウイルスは生体工学の産物であり、アフリカにおいて西洋の科学者によって、黒人を懲らしめるために大量破壊兵器としてばら撒かれた」との主張に対して賛成するようなコメントをした。その後マータイは自らの見解を、2004年10月10日付TIMEマガジンヨーロッパ版にて明らかにする[5]

[編集] 受賞した賞

[編集] 著作

  • UNBOWEDへこたれない ワンガリ・マータイ自伝(小池百合子訳、小学館)
  • モッタイナイで地球は緑になる(福岡伸一訳、木楽舎)

[編集] 脚注

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[編集] 関連項目

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