アル・ゴア
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Albert Arnold Gore, Jr.
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アル・ゴア
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| 生年月日 | 1948年3月31日(61歳) |
| 出生地 | ワシントンD.C. |
| 出身校 | ヴァンダービルト大学ロー・スクール中退 ハーバード大学卒業 |
| 前職 | 上院議員 |
| 現職 | 環境活動家 |
| 所属政党 | 民主党 |
| 称号 | ノーベル平和賞 |
| 親族 | 父・アル・ゴア・シニア(上院議員) |
| 配偶者 | メアリー・エリザベス・アチソン・ゴア |
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| 当選回数 | 2回 |
| 任期 | 1993年1月20日 - 2001年1月20日 |
| 退任理由 | 任期満了のため |
| 大統領 | ビル・クリントン |
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アルバート・アーノルド “アル” ゴア・ジュニア(Albert Arnold "Al" Gore, Jr., 1948年3月31日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。環境問題の論客として知られ、ビル・クリントン政権の副大統領を1993年から2001年まで務めた。彼は2000年に大統領に立候補した。全国一斉投票では共和党候補ジョージ・W・ブッシュより得票数で上回ったが、フロリダ州での開票手続きについての問題の後、落選が決定した。
彼の企画した情報スーパーハイウェイ構想に刺激されて、インターネットが爆発的に普及したことは有名である。また、クリントン政権の末期にナノテクノロジーに興味を示し、この研究に対して資金援助した。これが、ナノテクノロジーが世界的に注目されるきっかけになった。
現在では、1970年代からのライフワークとなっている地球温暖化問題について世界的な啓発活動を行っており、この講演の模様をドキュメンタリー化した『不都合な真実』は衝撃をもって受け止められた。
目次 |
[編集] 生い立ちと家族・人物評
ゴアはアルバート・ゴア・シニアとポーリーン・ラフォンの長男としてワシントンD.C.で生まれた。父はテネシーのベテラン民主党上院議員で、ゴアは、ワシントンD.C.とテネシー州カーセッジで幼少期を過ごした。学生時代ゴア一家はワシントンのホテルに住み、セント・アルバンズ・スクールに通学した。夏季休暇中はカーセッジで暮らし、家族の農場で働いた。
1965年にハーバード大学に入学し、政治学を専攻した。当時の彼のルームメートは後に俳優として知られるトミー・リー・ジョーンズであった。彼は1969年の6月にハーバードを文学士として卒業した。 1974年にヴァンダービルト大学ロー・スクールに入学したが、1976年に中退。
1970年にメアリー・エリザベス・アチソン (ティッパー・ゴア)と結婚した。彼らは高校時代にテネシーのダンスパーティで出会い、結婚後は四人の子供をもうけた。カレナ (1973年8月6日 - , ドルー・シフの妻)、 クリスティン (1977年6月5日 - )、サラ (1979年1月7日 - ) およびアルバート3世 (1982年10月19日 - )。ゴアにはさらにワイアットおよびアンナ・シフという2人の孫がいる。
ゴアはナッシュビルの郊外に住み、カーセッジの近くに小さな農場を所有している。一家はカーセッジのニュー・セイレム・ミッショナリーバプティスト教会に通っている。2005年、一家はサンフランシスコのセント・リージスにマンションを購入した。
[編集] 政歴
1976年の春、ロースクールを退学したゴアはテネシー州の選挙区から下院議会選挙に出馬し、当選した。3回当選を重ねた後の1984年には下院に出馬せず、上院議会選挙に立候補して当選し、1992年にアメリカ合衆国副大統領に選出されるまで務めた。
1988年に大統領選に出馬するも予備選の段階で敗退、その後マイケル・デュカキス支持にまわっている。
1989年4月3日、当時6歳の息子であるアルバートがボルティモア・オリオールズの開幕戦から帰る途中交通事故に遭い、瀕死の重傷を負った。これを受けてゴアは、大統領予備選に向けてクリントンに対抗する基盤作りよりも息子の回復を見守ることを選んだ。そして、その間は環境保護を訴える本(『Earth in the Balance』邦題:『地球の掟』)の執筆を行い、それがニューヨークタイムズによるベストセラー本のリストに入った。
[編集] 副大統領
ビル・クリントンは、1992年の大統領選にむけて1992年7月9日にゴアを副大統領候補に選んだ。大統領選に勝利した後、ゴアは1993年1月20日に第45代副大統領に就任した。そして、クリントンと共に1996年に再選され、二期8年間副大統領職を務めた。
在任中、ゴアは表舞台には現れなかったが、多くの専門家は、彼をアメリカ合衆国の歴史上、最も活動的で多大な影響力を持った副大統領の一人だと考えている。彼の副大統領としての主な業績としてはまず、国家運営の検査と評価が挙げられる。彼は、連邦政府の浪費、不正行為などの問題点を指摘し、官僚機構の規模の縮小や規制の撤廃の必要性を強調した。後に、これに関するゴアの改革案[1]が連邦政府の規模縮小に繋がった。
1993年には、ラリー・キングがホストを務めるCNNの番組で自由貿易問題についてロス・ペローと討論を行った。この討論の後に行われた世論調査では、大部分のアメリカ人が彼の視点に賛成し、NAFTAを支持していた。この討論会でのゴアの主張の浸透によって、NAFTAへの加盟案が下院議会を234対200の僅差で通過したとする者もいた。
副大統領として、ゴアは全米の学校と図書館をインターネットに接続させる連邦政府プログラムを立てた。これは、彼がその数年前から練り始めていた案の集大成であった。実際、上院議員の在職期間中に、ゴアは情報スーパーハイウェイ構想を推進するべく、連邦政府によるコンピューター教育研究センターの設立を要求する法案を提出していた。ゴアの政策のおかげでインターネットの発展は大いに促進された[2]。しかし、これを自画自賛して「私がインターネットを創った」と発言したことが[3]、自己の過大評価が過ぎるとされ、不幸なことに2000年の大統領選に敗れる致命傷になってしまったとみられる[4]。
ゴアは、在職期間の前後を問わず環境保護も強く訴えていた。彼は世界中を何度も事実調査団として回った。
[編集] 2000年の大統領選
詳細は「2000年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照
2000年の大統領選では共和党のジョージ・ウォーカー・ブッシュ候補と接戦の末、敗北している。
[編集] 政治以外の活動
2001年2月、コロンビア大学ジャーナリズム大学院の客員教授および児童家族政策研究所 (Institute for Child and Family Policy) の客員スカラー就任。 2003年3月19日、アップルコンピュータ取締役に就任。2005年4月4日、ケーブル・テレビ局「カレントTV」を立ち上げると発表した。テレビから離れた若者を対象とし、インターネットとGoogleとビデオ・ブログを駆使した構成になっている。放送開始は2005年8月1日。アメリカ合衆国では、主要ケーブルテレビ局およびディレクTVのデジタル放送チャンネルで配信されている。 またGoogleのシニアアドバイザーやカリフォルニア大学ロサンゼルス校、フィスク大学、ミドルテネシー州立大学の客員教授を務めている。 ちなみに2007年1月15日に来日した。他に松原武久名古屋市長と会談をした。他に2007年1月15日放送の「筑紫哲也 NEWS23環境SP」に出演。世界と日本の環境問題について市民対話形式で語った。2007年2月3日放送の「世界一受けたい授業(日本テレビ系列)」に出演。環境問題に関する特別授業を行った。
[編集] 環境問題
アル・ゴアは大学生のころ、1970年代からロジャー・レヴェル博士の影響で地球温暖化について関心を持つようになった。またレイチェル・カーソンを尊敬しておりここ数年は、世界中で地球温暖化防止についての関心を高める運動に精力的に参加している。
アル・ゴアはカーボンニュートラルの推進者で、航空機を使用する度にカーボンオフセットを実行している。ゴア自身と家族はハイブリッド車を所有している。
2004年終わりごろ、ゴアは伝統的な利潤の追求に加え、社会や環境に対する責任を負うコーポレートガバナンスを要求する新しい投資のスタイルに対する需要に応えるべく、気候変動など深刻な地球環境問題に対し責任ある立場をとる企業を対象にした投資会社 Generation Investment Management を設立し、同社の会長に就任した。
2006年、アル・ゴアは、デイビス・グッゲンハイム監督の地球温暖化に関するドキュメンタリー映画『不都合な真実 (An Inconvenient Truth)』(ローレンス・ベンダー制作、パラマウント・ピクチャーズ配給)に出演した。この映画は2006年5月24日にロサンゼルス、ニューヨーク、バークリー、キャンベル、サンノゼ近郊の限られた映画館で公開された数日後に、全国で公開された。映画には、ゴアの最近の講演が含まれている他、ゴアの談話と研究が紹介されている。すでに米国国内では600以上の映画館で公開されており2006年7月現在、ドキュメンタリー映画としてはアメリカ合衆国映画史上3番目の興行成績を収めている。同作は2007年2月、第79回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。同名の本 (ISBN 1594865671) も出版している。科学界の評価としては、科学的には概ね正確であると評価されたが、一部には誇張の批判もある。しかし、この誇張がどの部分であるかは明確でない。
2007年10月12日、講演や「不都合な真実」での環境啓蒙活動が評価され、IPCCと共にノーベル平和賞を受賞することが発表された。
2009年、『不都合な真実』の続編「Our Choice(原題)」を11月に出版することが決定した。
[編集] 2004年アメリカ合衆国大統領選挙
詳細は「2004年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照
2004年の大統領選では、一部にゴアを推す動きがあったものの、結局は出馬せずディーン候補支持にまわった。
[編集] 2008年アメリカ合衆国大統領選挙
詳細は「2008年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照
2008年アメリカ合衆国大統領選挙では出馬も噂されたが早々に否定、バラク・オバマを支持した。
[編集] 出典
- ^ Reinventing Government
- ^ インターネットの商用利用前夜において教育機関のネットワークを強化することは、研究者の活動を支援する意図もあったが、一般の人々にネットの恩恵を認知させる上で、きわめて重要な政策であった。
- ^ 2000年の大統領選における失言。このひとことが彼のイメージを大きく損ねた[要出典]。
- ^ WIRED VISION 『ゴア副大統領がインターネットの父だって?』 Declan McCullagh 1999年3月12日 自己の評価を過大に主張することは、アメリカの政治家として当たり前の行動である。しかし、ゴアがインターネットに興味を持つ以前から、インターネットは既に存在したのは歴史的事実であることから、ゴアの発言が反感をかったのも仕方のないことであると言わざる負えない。
詳細は「アーパネット」を参照
ゴアの失言は小さなことであった。そもそもネットの発明者というものは、たった一人に還元できるものでない以上、ゴアの発言もある意味 間違っていない。けれども、「私がインターネットを創った」発言は、政敵によるネガティブキャンペーンの材料にされてしまい、ゴアは傲慢な人物であるとするイメージが形成されてしまった。このことがゴアが大統領を目指す上で非常に不利に働いたとみられる。
[編集] 関連項目
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