ボルチモア・オリオールズ

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ボルチモア・オリオールズ
Baltimore Orioles
創設: 1901年
所属リーグ

アメリカンリーグ東地区

歴代チーム名
  • ボルチモア・オリオールズ (1954年 - )
  • セントルイス・ブラウンズ (1902年 - 1953年)
  • ミルウォーキー・ブルワーズ (1901年)
歴代本拠地

CamdenYards 2005-05-08.jpg

収容人員: 48,190人
永久欠番
4, 5, 8, 20, 22, 33, 42
獲得タイトル(獲得年)
ワールドシリーズ優勝 (3回) 1966 • 1970 • 1983
リーグ優勝 (7回) 1944 • 1966 • 1969 • 1970
1971 • 1979 • 1983
地区優勝 (8回) 1969 • 1970 • 1971 • 1973
1974 • 1979 • 1983 • 1997
ワイルドカード (1回) 1996
球団組織
オーナー: ピーター・アンジェロス
GM: アンディ・マクフェイル
監督: バック・ショーウォルター

ボルチモア・オリオールズBaltimore Orioles、略称:BAL)は、アメリカMLBアメリカンリーグ東地区所属のプロ野球チーム。本拠地はメリーランド州ボルチモアにあるオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ。名前の由来のボルチモアムクドリモドキとはムクドリモドキ科の鳥であり、メリーランド州の州鳥でもある。

目次

[編集] 概要

アメリカンリーグ加盟初年度はウィスコンシン州ミルウォーキーに本拠を置き、ニックネームもブルワーズだった。翌1902年からミズーリ州セントルイスに移転し、「セントルイス・ブラウンズ」となる。現在の「ボルチモア・オリオールズ」になったのは1954年のことである。

フランク・ロビンソンが移籍した1966年サンディー・コーファックス等を擁した投手王国だったロサンゼルス・ドジャースを下し、初の世界一、1969年から1979年までは地区優勝6回、リーグ優勝4回、ワールドシリーズ優勝1回の黄金時代を築いた。1983年にもワールドシリーズに優勝したが、その後は低迷、1988年には開幕21連敗のアメリカンリーグ記録を作ってしまった。

また1901年から2年間に限り同名のボルチモア・オリオールズ(AL)が存在したが、1903年よりニューヨークへ移転した。現在のニューヨーク・ヤンキースである。

1980年代までは帽子のマークにボルチモアムクドリモドキを漫画風にデフォルメされていたものが使われていたが90年代に入って使用中止となるも、2012年より復活することとなった。

2009年1月、読売ジャイアンツからFA宣言した上原浩治が球団との2年契約を結んだ。同球団が日本人選手とメジャー契約をするのはこれが初めてである。 2011年12月、福岡ソフトバンクホークスからFA宣言した和田毅が球団との2年契約を結んだ。2012年より、再び日本人選手が所属することとなった。

[編集] 球団の歴史

[編集] セントルイス・ブラウンズ

球団は1901年、ウィスコンシン州ミルウォーキーを本拠地として、1年だけ「ミルウォーキー・ブルワーズ」として活動した(現在のブルワーズとは無関係)。当時の名選手で後年野球殿堂入りしたヒュー・ダフィーを兼任監督に据えたが、48勝89敗と大きく負け越す多難な船出だった。

1902年にはミズーリ州セントルイスに本拠地を移し、セントルイス・ブラウンズとなった。移転した最初の年には、ジャック・パウエルレッド・ドナヒューという投手の二枚看板が22勝ずつを挙げる活躍をし、カージナルスから移籍した名遊撃手ボビー・ウォレス、3度の首位打者に輝いたジェシー・バーケットといった面々がチームを引っ張り、78勝58敗の成績でリーグ2位となった。しかし同じ町にセントルイス・カージナルスがあったこともあり、人気はなく球団経営は常に苦しい状況だった。成績が伸び悩んでいた1913年には、春のキャンプのスタジアム使用料にバジー・ウェアーズという名の選手を出したこともある。後に革新的な球団経営者として知られるブランチ・リッキーが、ブラウンズの監督をしていたのもこの頃である。

1920年からの3年間は、ブラウンズの戦力が最も充実していた時期と言ってよい。一塁手のジョージ・シスラーは1920年に当時のメジャーリーグ記録となり、その後80年以上も破られなかったシーズン257安打と打率.407を記録し、既にリーグを代表する選手となっていた。外野手は1922年に本塁打王となるケン・ウィリアムズ、1920年と1921年に.350以上の打率を残したベビードール・ジェイコブソンフェデラル・リーグでデビューし、1920年から1923年まで4年連続200安打以上を記録したジャック・トビンの3人が攻撃を牽引し、投手陣ではヤンキースから移籍したアーバン・ショッカーが1920年~1923年の4年連続20勝を挙げる活躍をした。ブラウンズは1922年に優勝争いに加わり、ついに首位ヤンキースを1ゲーム差まで追い詰めたが、後一歩のところでリーグ優勝を逃す。しかし良い時期は長続きせず、1920年代後半には徐々に成績は低迷していった。シスラーが引退した後、ブラウンズはヘイニー・マナシュグース・ゴスリンを攻撃の主軸に据えるが、ゴスリンやチーム生え抜きで活躍してきた名捕手リック・フェレルらがチームを離れた1930年代以降は、ブラウンズは万年下位を低迷するチームになってしまっていた。

[編集] 戦時下の優勝とベックの時代

ブラウンズは1930年から1953年の24年間でAクラスになったのはわずか3回、優勝したのはたったの1回である。唯一のリーグ優勝は、第二次世界大戦の影響で他チームの有力な選手が兵役についていた1944年のことだった。ワールドシリーズの対戦相手は同じセントルイスに本拠地を置くカージナルスで、両球団は本拠地球場も共有していた。ワールドシリーズが全試合同じ球場で開催されたのは2012年現在大リーグ史上唯一のケースである。

この前年のオフシーズン、つまり1943年と1944年の間、ブラウンズから兵隊にとられた選手はいなかった。選手の大部分が「兵役不適格」、つまり軍隊にも入れないような体格や体力の選手だった。1944年当時の主力投手ジャック・クレーマーネルズ・ポッターは、現役通算勝ち星の約半分を1943年から1946年の間に上げており、兵役から他チームの主力選手が戻ってくると再び勝てない投手に逆戻りしてしまった。

観客の動員に困った球団は苦肉の策を次々と打ち出した。代表的なのが1945年のピート・グレイの獲得である。彼は事故で右腕を失っていた。マイナーリーグ首位打者、3AでMVPを獲得するなどしたが、メジャーリーグは甘くはなかった。プレーしたのは1年77試合のみ、打率は2割1分8厘。その姿は感動を呼んだものの、戦力にはならなかった。

戦後の1947年、すでに1941年に引退していたディジー・ディーンをプレーさせる。彼がラジオの解説で「俺が投げたほうがましだ」と言ったからである。彼は3回と3分の2を0点に抑え、ヒット1本を放った。しかし所詮ジョークであり、客寄せのためだった。また同年はブルックリン・ドジャーズに入団したジャッキー・ロビンソンの成功にならい、ニグロリーグで”ホームラン・ブラウン”の異名をとったアフリカ系アメリカ人の強打者ウィラード・ブラウンを加入させたが、偏見からくる執拗な嫌がらせにあい、その打率は2割に満たないまま1年で球団を離れることになった。1950年には、デビッド・トレイシーという心理学者を雇いチームを勝たせようとした。選手に対して催眠術をかけさせようというのである。もちろんうまくいくはずがなく、彼は解雇された。

1951年、新しくオーナーになったビル・ベックは球史に残る奇策を講じた。身長わずか109センチのエディー・ゲーデルをプレーさせたのである。背番号「1/8」をつけた彼は小さい体をさらに低くかがませ、狙い通り四球になった。そして彼が一塁に立ったところで代走が送られ、そのまま二度とプレーすることは無かった(さらに詳しい情報はゲーデルの項目を参照)。この事件の5日後、さらにベックは前代未聞のイベントを行った。観客に指揮を取らせたのである。まず監督のザック・テイラーはダッグアウトの上に座り、試合の要所で観客に作戦についての質問をする。そして観客は持っている「はい」と「いいえ」のカードを出し、多数決で実行するかどうか決めたのである。そして驚くべきことに、フィラデルフィア・アスレチックスを5対3で破ったのである。

ベックは更に、1949年に一度引退し44歳になっていたサチェル・ペイジをブラウンズで現役復帰させた。衰えを知らぬペイジは1953年まで3年間ブラウンズに所属し、1952年には45歳で二桁勝利を挙げてみせた。1951年当時ブラウンズのエースだったネッド・ガーヴァーは、史上二人目の『100敗以上したチームで20勝を挙げた』投手になった。一方でベックは2球団が本拠地とするにはセントルイスは小さいと考え、1901年に本拠地としたミルウォーキーや、ボルチモアへのブラウンズの移転も画策したが、いずれも他の球団オーナーの反対に合い実現しなかった。散財し手詰まりとなったベックは、1954年にボルチモアのクラレンス・マイルズとジェリー・ホフバーガーを代表とする資産家グループにブラウンズを売却し、オーナーから身を引いたが、ベックが去った後ブラウンズのボルチモア移転は実にあっさりと認められた。

[編集] ボルチモアへ~躍進の1960年代

1954年4月、新たな本拠地メモリアル・スタジアムまでのパレードで、新生オリオールズの歴史は始まったが、他の球団と優勝争いができるようになるまでは、更に6年の歳月を要した。強化されたファームシステムからは、ブルックス・ロビンソンブーグ・パウエルデーブ・マクナリーらが徐々に成長してきていた。

そして1965年オフに、シンシナティ・レッズとのトレードでミルト・パパスと交換にフランク・ロビンソンを獲得。ロビンソンは翌1966年にアメリカンリーグの三冠王となり、同年最優秀選手も獲得。アメリカンリーグとナショナルリーグの両方でMVPを獲得した初めての選手となった。同年オリオールズはリーグ優勝を果たし、1966年のワールドシリーズではサンディ・コーファックスドン・ドライスデールの絶対的な二枚看板を擁したロサンゼルス・ドジャーズを4勝負けなしで下すという大番狂わせをやってのけた。

[編集] アール・ウィーバーと黄金時代

1968年途中から監督となったアール・ウィーバーのもと、オリオールズは1983年まで、常にアメリカンリーグ東地区の優勝を争えるチームになった。2地区制となった1969年から1983年の間に、オリオールズは計7度の地区優勝、4度のリーグ優勝、2度のワールドシリーズ制覇を成し遂げている。この間は年間の勝率が5割を割ったシーズンは一度もなかった。

所属選手達の活躍もめざましく、1969年にマイク・クェイヤーサイ・ヤング賞を受賞したのをはじめ、1970年にはブーグ・パウエルがリーグの最優秀選手となった。ジム・パーマーは1973年と1975,1976年の3度サイ・ヤング賞を獲得、他にも1979年にマイク・フラナガンが、また1980年にはスティーブ・ストーンがそれぞれサイ・ヤング賞投手となった。前後するが、1971年にはデーブ・マクナリーが21勝、パーマー、クェイヤー、パット・ドブソンがそれぞれ20勝を記録し、1チームで20勝投手が4人誕生した。これは1920年シカゴ・ホワイトソックス以来の快挙で、以後も達成例はない。1980年代以後は投手の分業や先発投手5人ローテーションが完全に定着し、20勝投手じたいメジャー全体で年に数人出るか出ないかというレベルとなった現状であり、今後も達成する球団は現れないと思われる。

ルーキー・オブ・ザ・イヤーについても1973年のアル・バンブリー、1977年のエディ・マレー、1982年のカル・リプケンと、有望な若手選手が次々輩出された。リプケンは翌1983年にリーグ最優秀選手の栄誉も得ている。

ウィーバーは1982年シーズンの後、監督の座をジョー・アルトベリに譲る。アルトベリが監督となった1983年にオリオールズはワールドシリーズを制覇したが、この年を最後にチームは優勝から遠のくことになる。ウィーバーは1985年シーズン途中に再びオリオールズの監督に復帰したが、1986年シーズンに20年ぶりの負け越しという結果に終わり、監督の座から退いた。そして1988年シーズン、チームは『開幕から21連敗』という不名誉な記録を作ることになってしまった。

[編集] カムデンヤーズの時代

1992年には新球場オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズが開場。観客動員数は大幅に増加する。しかし、球場建設の債務が重くのしかかり、当時のオーナーだったイーライ・ジェイコブスは同年オフに破産を申請、球団は1993年にピーター・アンジェロスらの資産家グループに売却された。読売ジャイアンツOBのデービー・ジョンソンが監督に就任した2年間は、1996年にワイルドカードを獲得し、1997年に地区優勝を果たした。プレーオフでは2年連続でリーグチャンピオンシップ敗退に終わり、ワールドシリーズ進出は果たせなかった。新球場の魅力に好成績が重なり、観客動員は1997年に過去最高の371万1132人(1試合平均4万5816人)を記録している。

この時期にチームの顔であったカル・リプケンは、1982年5月30日から1998年9月20日までの15年間に2632試合連続出場の大記録を成し遂げた。1999年3月にはキューバ野球キューバ代表と交流試合を行っている。

[編集] 長期低迷

ジョンソン監督は、メリーランド州のたばこ業界から42億ドルを勝ち取ったことで有名なピーター・アンジェロスオーナー(弁護士)と対立したことで解任された。その後投手コーチだったレイ・ミラーが就任した1998年からは、地区4位がほぼ定位置となる。この年以降は12シーズン連続負け越しで、3位以上も1回(2004年)のみという長期低迷が続いている。1990年代に強打のインディアンズを作り上げたマイク・ハーグローブや、2005年途中から元ヤクルトサム・パラーゾ等が指揮を執り、ミゲル・テハダ等の好選手を補強したりしたが、同地区のヤンキース、レッドソックスを中心とした優勝争いに割って入れない状況は改善しなかった。2008年には地区最下位に転落し、観客動員も20年ぶりに200万人を割り込んだ。2009年は残り3試合を残して61勝98敗だったが、最後に3連勝して100敗は免れた。しかし、リーグ最低の勝率で2年連続の地区最下位に沈んだ。

[編集] 主な選手

[編集] 現役選手

投手

捕手

内野手

外野手

* アクティブロースター外
** 40人ロースター外

2012年2月19日更新   
[公式サイト(英語)より:40人ロースター 選手の移籍・故障情報 予想オーダー]

[編集] 殿堂入り選手


太字はセントルイス・ブラウンズでの殿堂入り

[編集] 永久欠番

[編集] 傘下マイナーチーム

クラス チーム 参加リーグ 提携 本拠地
AAA ノーフォーク・タイズ
Norfolk Tides
インターナショナルリーグ
International League
2007年 アメリカ合衆国の旗バージニア州ノーフォーク
ハーバー・パーク
AA ボウイ・ベイソックス
Bowie Baysox
イースタンリーグ
Eastern League
1993年 アメリカ合衆国の旗メリーランド州ボウイ
プリンス・ジョージズ・スタジアム
A+ フレデリック・キーズ
Frederick Keys
カロライナリーグ
Carolina League
1989年 アメリカ合衆国の旗メリーランド州フレデリック
ハリー・グローブ・スタジアム
A デルマーバ・ショアバーズ
Delmarva Shorebirds
サウス・アトランティックリーグ
South Atlantic League
1997年 アメリカ合衆国の旗メリーランド州サリスバリー
アーサー・W・パーデュー・スタジアム
A- アバディーン・アイアンバーズ
Aberdeen IronBirds
ニューヨーク・ペンリーグ
New York-Penn League
2002年 アメリカ合衆国の旗メリーランド州アバディーン
リプケン・スタジアム
Rookie+ ブルーフィールド・オリオールズ
Bluefield Orioles
アパラチアンリーグ
Appalachian League
1958年 アメリカ合衆国の旗バージニア州ブルーフィールド
ボーウェン・フィールド
Rookie ガルフ・コーストリーグ・オリオールズ
Gulf Coast League Orioles
ガルフ・コーストリーグ
Gulf Coast League
1991年 アメリカ合衆国の旗フロリダ州サラソタ
エド・スミス・スタジアム
ドミニカン・サマーリーグ・オリオールズ
Dominican Summer League Orioles
ドミニカン・サマーリーグ
Dominican Summer League
1989年 ドミニカ共和国の旗ドミニカ共和国
シウダー・デ・ベイスボル

[編集] 脚注

[編集] 参考資料

  • ブルース・ナッシュ、アラン・ズーロ「アメリカ野球珍事件珍記録大全」東京書籍、1991年

[編集] 外部リンク

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