コフィー・アナン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コフィー・アッタ・アナン
Kofi Atta Annan
コフィー・アナン

任期: 1997年2006年12月

出生: 1938年4月8日
ガーナ共和国、アシャンテ州

コフィー・アッタ・アナン GCMGKofi Atta Annan GCMG1938年4月8日 - )は、第7代国際連合事務総長1997年1月から2006年12月まで務めた人物である。ガーナ共和国アシャンテ州クマシ出身。

目次

[編集] 経歴

1958年クマシ科学技術大学経済学専攻)を卒業後に渡米。1961年、米マカレスター大学ミネソタ州セントポール経済学部を卒業する。この渡米経験が後に国連事務総長就任の一因となる。1961 - 62年スイス国際高等大学(Institut universitaire des hautes études internationales, IUHEI) 留学(経済学専攻)。1971 - 72年、米マサチューセッツ工科大学スローン・スクール(MBA取得), 科学修士 (M.S.) 取得

1962年世界保健機関の行政・予算担当官として国連入り。国連アフリカ経済委員会、イスマイリアの国連緊急軍(UNEF)、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に勤務。一旦ガーナに帰国し、1974年から3年間ガーナ観光振興会社常務取締役に就任。

1980年にUNHCR人事部長、1984年には国連本部の財務部予算部長、1987年人事管理担当事務次長補兼国連システム安全保障調整官、1990年財務官兼計画立案・予算・財政担当事務次長補を歴任。1990年には、イラククウェート侵攻を受け、事務総長から特別の任務として、900人を超える国連職員の帰還と、イラクで人質となった西側諸国の人々の釈放を促進するよう要請された。その後、人道援助物資購入のための原油販売に関し、イラク側と交渉する初の国連代表団の指揮をとった。

1992年PKO担当国連事務次長補、1993年から1996年までPKO担当国連事務次長を務める。。1995年11月から1996年3月にかけては、旧ユーゴスラビア事務総長特別代表として、ボスニア・ヘルツェゴビナにおける国連保護軍(UNPROFOR)から北大西洋条約機構(NATO)主導の多国籍平和実施部隊(IFOR)への部隊引継ぎを監督した。

1997年1月1日、国連職員から選出された最初の事務総長として就任。

2001年には、国際連合とともにノーベル平和賞を受賞した。

2004年、国連の事務総長としては初めて来日し、初の国会演説(外部リンク参照)を行なって、日本の対イラク支援政策や自衛隊派遣を高く評価するとともに、北朝鮮による日本人拉致問題にも言及した。

2006年12月に国連事務総長を引退。その際スピーチで、近年の国連を無視するアメリカの覇権主義的行動を批判し、アメリカが国連を重視した多国間主義に回帰する事を望む声明を発表した。

640億ドルにのぼるイラク石油食糧交換プログラムに関する国連の大規模な不正疑惑により、政治生命が危機にさらされた。これに関しては、アナン本人の長男コジョが、この人道援助にかかわったスイス企業から退社後も不透明な給与を受けていたことが発覚している。

[編集] 顕彰

[編集] 言語

英語フランス語クル語 (Kru) 、アカン語 (Akan) 、他のアフリカ諸言語

[編集] 家族

妻はスウェーデン出身の弁護士で芸術家のナーネ夫人 、子供は3人。

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
ウィキクォート
ウィキクォートコフィー・アナンに関する引用句集があります。

[編集] 国会演説全文


先代:
ブトロス・ブトロス=ガーリ
国際連合事務総長
1997 - 2006
次代:
潘基文