ナイロビ

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ナイロビ
Nairobi
ケニアの旗
Nairobi Montage.jpg
ナイロビの市旗
市旗
位置
の位置図
座標 : 南緯1度17分 東経36度49分 / 南緯1.283度 東経36.817度 / -1.283; 36.817
歴史
建設 1899年
行政
ケニアの旗 ケニア
  ナイロビ州
 市 ナイロビ
市長 Geoffrey Majiwa
地理
面積  
  市域 684 km2 (264.1 mi2)
標高 1,661 m (5,450 ft)
人口
人口 (2007年現在)
  市域 2,940,911人
    人口密度   4,230人/km2(10,955.6人/mi2
  市街地 約300万人
  都市圏 約400万人
その他
等時帯 東アフリカ時間 (UTC+3)
公式ウェブサイト : www.nairobi.go.ke

ナイロビ英語スワヒリ語: Nairobi)は、ケニア共和国首都で最大の都市[1]アフリカ有数の世界都市であり、2010年都市的地域人口は336万人であり、世界第99位[2]赤道に近いが標高約1600mに位置し気候は比較的冷涼である[1]。主要な言語は、スワヒリ語英語。ナイロビ (Nairobi) という名前は、マサイ語で「冷たい水」を意味する Ewaso Nyirobi に由来する。

東アフリカの中心的都市として、多くの国際機関が本部あるいはアフリカの代表部などを置く。なかでも国際連合は、国連環境計画 (UNEP) や国際連合人間居住計画 (UN-HABITAT) の本部をナイロビに置き、さらにこの2機関の活動を支援するため1996年国連事務局の四つの主要事務所の一つとして国際連合ナイロビ事務局を設立し、ナイロビを重要拠点都市のひとつとしている。

2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第68位の都市と評価されており[3]、アフリカの都市ではカイロヨハネスブルグに次ぐ第3位であった。

歴史[編集]

建設[編集]

ナイロビは1899年モンバサウガンダの間に建設されていたウガンダ鉄道の給水および補修の拠点として建設された[1]。ここに拠点が置かれたのは、モンバサとヴィクトリア湖畔の町キスムの二つの重要な港町の中間地点にあること、高原にあり冷涼でさわやかな気候を持つこと、マサイ語の「冷たい水」の名の通りに清潔で豊富な水が得られること、街の西にある山地を越えるための機関車の連結地点として適していたこと、などが挙げられる。疫病の大流行と町の大火事の後、20世紀初頭に再建された。

白人の首都[編集]

その後、交通の要衝にあり、良い気候と水に恵まれ、さらに肥沃な農業地帯の中心に位置することから移住者が増え、1907年イギリス保護領であったイギリス領東アフリカの首都となった。この頃にはイギリス本国からケニアへの移住者が増加していたが、彼らは気候のいい高原部に集中して入植し、「ホワイト・ハイランド」(白人高原)を形成していったため、高原地帯の中心に当たるナイロビには多数の白人が居住するようになった。また、インド人黒人の居住区も同時に形成されていった。この都市はアフリカ人による歴史を持たず、最初から白人によって建設された都市であったため、特に白人が快適なように作られており、この三民族の居住区も明確に分けられ、市の西部に広々とした区画で作られた白人居住区に対し、市の東部に広がる黒人居住区は劣悪な環境の下に置かれた[4]1920年代には農産物加工やビール製造などの工業が発達を始め、これにより出現した工場労働者たちが都市に流入し、ナイロビはより発展のスピードを増していった。周囲で大農園を営む白人たちの中には本国で貴族や富裕層だったものも多く、ナイロビには小さな白人上流社会が出現した。カレン・ブリクセンが農園主としてナイロビ南西郊外に住んだのもこのころである。第二次世界大戦後の1948年にはイギリスの東アフリカ3植民地を統括する東アフリカ高等弁務府がナイロビに置かれ、ナイロビはケニアのみならず東アフリカのイギリス植民地全体の経済の中心となっていった。1950年に市制施行[1]1961年には東アフリカ高等弁務府は東アフリカ共同役務機構と改称したが、本部は変わらずナイロビに置かれていた。一方、第二次世界大戦後には独立運動が盛んになり、1952年にはケニア土地自由軍が結成され、マウマウ団の乱といわれる反英独立闘争を繰り広げた。

独立後[編集]

1963年には独立したケニア共和国の首都となった。独立後、ケニア政府は首都としてナイロビの積極的な開発を進め、また富の集積するナイロビを目指して農村部から人口流入が起き、人口が爆発的に増加した。東アフリカ共同役務機構を受け継ぎ1967年に発足した東アフリカ共同体は本部をタンザニアのアルーシャにおいたが、東アフリカの経済の中心地としてのナイロビの地位は揺らがなかった。1960年代から1970年代にかけては年率7%もの人口増加を記録し、その後も高い人口成長率は続いた。これにより街の規模は拡大したものの、雇用の拡大が追いつかず、深刻な失業問題が起き、流入人口のかなりがスラムへと流れていった。これにより特に街の東部を中心に広大なスラム街が生まれ、また1980年代より治安の急速な悪化を招いた。

1998年8月、ナイロビにあるアメリカ大使館がウサーマ・ビン=ラーディンの国際反米テロ組織アルカーイダにより爆破された。この事件では市民200人以上が死亡した。この場所は今では記念公園となっている[5]

2007年12月から2008年2月にかけて、大統領選挙での不正疑惑からケニア危機が起き、ナイロビでも暴動が発生した。

地理[編集]

ナイロビの衛星写真

アフリカ大陸の東、南緯1度16分、東経30度53分に位置し、市の面積は696km2である[6]。標高は1795mである[7] 。アフリカ大地溝帯の東端に接しているため、小さな地震や火山性の微動がときおり発生する。市の西部にはかつての死火山の跡であるンゴングヒルズがある。ンゴングヒルズはナイロビでもっとも特徴的な地形であり、標高は2000mを越え、ナイロビ市街を一望することができる。ナイロビの北にはケニア山、南東にはキリマンジャロ山があり、どちらも晴れてよく澄んだ空の日には市街から眺めることができる[8]。ナイロビ付近にはナイロビ川とその支流が流れている。ナイロビ川本流は、市街の中心部の北から南東に向けて流れている。ノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイは、市の北部にあるカルラの森を住宅開発やインフラ整備などによる乱開発から守るために運動を繰り広げてきた.[9]

高地に位置しているため、赤道からわずか南に150km離れているだけのほぼ赤道直下にありながら快適に過ごすことができる[10]。ケッペンの気候区分においては温帯夏雨気候 (Cwb) に属する。6月から7月にかけては最も気温が下がり、夜には気温が10度を切ることもある。12月から3月までは日照時間が長く、暖かくなる。日中の気温は25度前後まで上がる。最高気温は2月と3月が平均26℃と高く、7月と8月が21℃と低くなるが、概して年間通じて気温の変化は少なく穏やかな気候である。1年に2回の雨季と2回の乾季があるが、雨季の降雨も穏やかなものである。雨は11月と4月・5月に多く、1月から2月と6月から9月は少ない。日の出と日没の時間は赤道直下のためほとんど変動しない[11]

ナイロビの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C (°F) 24.5
(76.1)
25.6
(78.1)
25.6
(78.1)
24.1
(75.4)
22.6
(72.7)
21.5
(70.7)
20.6
(69.1)
21.4
(70.5)
23.7
(74.7)
24.7
(76.5)
23.1
(73.6)
23.4
(74.1)
23.4
(74.1)
平均最低気温 °C (°F) 11.5
(52.7)
11.6
(52.9)
13.1
(55.6)
14.0
(57.2)
13.2
(55.8)
11.0
(51.8)
10.1
(50.2)
10.2
(50.4)
10.5
(50.9)
12.5
(54.5)
13.1
(55.6)
12.6
(54.7)
12.0
(53.6)
降水量 mm (inch) 64.1
(2.524)
56.5
(2.224)
92.8
(3.654)
219.4
(8.638)
176.6
(6.953)
35
(1.38)
17.5
(0.689)
23.5
(0.925)
28.3
(1.114)
55.3
(2.177)
154.2
(6.071)
101
(3.98)
1,024.2
(40.323)
平均降雨日数 4 5 9 16 13 5 3 4 4 7 15 8 93
平均月間日照時間 288.3 268.4 266.6 204 189.1 159 130.2 127.1 180 226.3 198 257.3 2,494.3
出典 1: World Meteorological Organisation[12] and Hong Kong Observatory[13]
出典 2: BBC Weather[14]

地域区分[編集]

キベラは中心街から5km離れた巨大なスラムである。
地区 居住区
セントラル フルマ · カリオコル · マタレ · ンガラ · スタレヘ
ダゴレッティ カワングワレ · ケニヤッタ/ゴルフ・クラブ · ムトゥイニ · リルタ · ウシル/ルスミツ · ワイタカ
エンバカシ ダンドラ · エンバカシ · カリオバンギ南 · カヨレ · ムクル・クワ・ンジェンガ · ンジル · ルアイ · ウモジャ
カサラニ ギツライ · カハワ · カリオバンギ北 · カサラニ · コロゴチョ · ロイサンブ · ルアラカ
キベラ カレン · キベラ · ライニ・サバ · ランガタ · ムグモイニ · ナイロビ・ウェスト · セラ・ンゴンベ
マカダラ マカダラ · マコンゲニ · マリンゴ · ムクル・ニャヨ · ヴィワンダニ
プムワニ バハチ · イーストレッジ北 · イーストレッジ南 · カムクンジ · プムワニ
ウエストランズ ハイリッジ · カンゲミ · キリマニ · キティスル · ラヴィントン · パークランズ
ケニア信用組合本部

自治体としてのナイロビは、1900年に白人がナイロビ市共同体を組織したのが最初である。1919年にはこれが発展的解消してナイロビ市政府が成立し、1983年に一度解散されたものの、1992年には再び復活した[15]。また、ナイロビ単独でナイロビ州及びナイロビ県が置かれていた。2007年にナイロビ県は分割され、ナイロビ北県、ナイロビ西県、ナイロビ東県の3県が設置された。市内には8地区と49の居住区が置かれている。地区はそのまま下院選挙区を兼ねているが、選挙区名と地区名は違った名がつけられることがある。それぞれの地区内にはさまざまな区があり、たとえば市の西部に広がるキベラ地区にはナイロビ最大、アフリカ全体でもヨハネスブルクソウェトに次ぐスラムであるキベラ居住区があるが、一方で裕福な居住区であるカレンやランガタも含んでいる。

市内の中心はタウンと呼ばれ、ナイロビのシンボルであるケニヤッタ国際会議場ニュー・セントラル・バンク・タワー、その他市役所や国会議事堂などの政府機関、大企業のオフィスやショッピング街が広がっている。タウンの東はウフル・ハイウェイで区切られ、その東にはセントラル・パークやウフル・パークといった大きな公園が広がっている。タウンはおおまかにケニヤッタ・アベニューによって二つに区切られ、南部が官庁街や高級ショッピング街、北部は市場などがある商業街となっている。ナイロビ最大のモスクであるナイロビ・ジャミアモスクやマクミラン記念図書館はタウン北部に位置する。タウンの北端には、ナイロビ大学のキャンパスがある。タウンの南端にはケニア鉄道のナイロビ駅がある。ナイロビはもともとウガンダ鉄道の拠点として発展した町であるが、現在ではナイロビ駅は都市にそれほど大きな役割を果たしていない。タウンの北西から南東に向かって伸びるモイ・アベニュー以東はダウンタウンと呼ばれる下町であり、ナイロビ川方面へと広がっている。

西部の丘陵はウエストランドと呼ばれ、植民地時代から続く高級住宅街である。一方で、キベラをはじめとしてマザレ、カンゲミ、ダゴレッティ、ワイザカ、プムワニ、コロゴチョ、ソウェト、カリオバンギ、ダンドラなど市内各地にスラムが点在し、大きな問題となっている。ナイロビの人口約400万人中、60%の人々が市の居住地の5%に過ぎないスラムに集中して居住している[16]

人口[編集]

ナイロビはアフリカの都市の中でももっとも急速に成長した都市の一つである。1899年に建設されて以来、この地域で最も若い都市であるにもかかわらず東アフリカ最大の都市に成長した。2011年現在、ナイロビの人口増加率は年間4.1%である[17]。ナイロビの人口は、2025年までには500万人に達すると予想されている[18]

人口 人口増加数
1906 11,500 0
1911 14,000 2,500
1921 24,300 10,300
1926 29,900 5,600
1929 32,900 3,000
1931 47,800 14,900
1939 61,300 13,500
1944 108,900 47,600
1948 119,000 20,100
1955 186,000 67,000
1957 221,700 35,700
1960 251,000 29,300
1962 266,800 17,800
1965 380,000 113,200
1969 509,300 129,300
1979 827,775 318,475
1989 1,324,570 496,795
1995 1,810,000 485,435
1999 2,143,254 333,254
2005 2,750,561 607,307
2009 3,138,369 387,808[19]

経済[編集]

I&M銀行本社

ナイロビは東アフリカ最大の都市であり、多くの国際機関や企業が本部や支社をおいている。なかでも国際連合は、国連環境計画 (UNEP) や国際連合人間居住計画 (UN-HABITAT) の本部をナイロビに置き、さらにこの2機関の活動を支援するため1996年国連事務局の四つの主要事務所の一つとして国際連合ナイロビ事務局を設立し、環境と人間居住の分野に関する活動の本部とするなど、ナイロビを重要拠点都市のひとつとしている。この国連の諸組織は、ナイロビに経済や雇用の面でも大きな利益をもたらしている。日本の諸組織も、ナイロビか南アフリカヨハネスブルグにその機能をおくことが多い。

国際関係の諸組織が集積し、来客などの受け入れ態勢も整っていることから、ナイロビでは多くの国際会議が開かれ、これまでに多くの条約がナイロビで締結された。オリンピック・シンボルの保護に関するナイロビ条約(1981年)やナイロビ実施要請(2009年)、海難残骸物の除去に関するナイロビ国際条約(2007年)などナイロビの名を冠する条約も数多い。

ナイロビ証券取引所 (NSE) は、アフリカ有数の証券取引所の一つである。この証券取引所は、1953年に正式に設立された。現在では、アフリカで4番目の取引量と、アフリカで5番目のGDPに対する時価総額の割合を持つ証券取引所となっている.[20]

都市問題[編集]

ナイロビのの94%は市の北にあるAberdare山系から供給される。中でも最も重要な供給源はティカ・ダムである。しかし、取水された水のうち40%は配水中に失われてしまい、水道に接続している消費者のうち水の供給が受けられるのはわずか40%にすぎない。スラムには水道水の供給がほとんどないために、幸運にも水道水の供給を受けられるものや水売りから水を買わざるを得ず、水道料金よりもはるかに高い水代を払わねばならない。2009年7月には、深刻な水不足が続く中、トランスペアレンシー・インターナショナル・ケニアとケニアのNGOであるMaji Na Ufanisi(水と開発)の発表した報告書によってナイロビ市上下水道事業会社の取締役会が不正のために解任される事態となった。この報告書はナイロビを含むケニア国内5都市のメーターの不正検針や産業用水の不正転用、水道への不正な接続を見逃すための賄賂の授受を告発し、中でもナイロビで最も不正が激しいことを指摘していた.[21]

これに限らず、ナイロビ市政府は急増する住民に十分な行政サービスを提供することができていない。ケニア政府は独立以来一貫して都市重点政策を展開し、インフラ整備の大半を人口の10%台を占めるに過ぎない都市地域に振り向けてきたにもかかわらず、である。ごみの収集能力は1994年時点で1日800tから1000tの発生に対し回収能力は200tに過ぎなかった[22]。この状況は以後も根本的な改善はなされていない。停電も多く、住宅供給は間に合わずに市の人口の60%が可住地の5%に過ぎないスラムに住む事態となった。公共交通機関も十分ではなく、公営バスの不足の隙間を埋める形で1960年代よりマタトゥ(ミニバス、乗り合いタクシー)の普及が急速に進んだ。一方でモータリゼーションの進行によって自動車の数は大幅に増え、交通渋滞が激しさを増しており、大気汚染もはじまっている。

また、ナイロビは治安の悪さにおいても悪名高い。特に、1990年代より凶悪犯罪が急増、組織的、凶悪的な事件も目立つようになった。2013年9月21日には、比較的安全とされていたナイロビ中心部のウェストゲート・ショッピングモールに武装集団が乱入するテロ事件(ケニアショッピングモール襲撃事件)も起きた[23]

教育[編集]

ナイロビには、いくつかの大学がある。最も古い大学は、イギリス領時代の1956年に王立技術大学 (Royal Technical College) として設立されたナイロビ大学である。1963年の独立とともにナイロビ大学はウガンダのマケレレ大学およびタンザニアのダルエスサラーム大学ともに東アフリカ大学の一部となったが、1970年に3大学は独立して独自の卒業証書を授与するようになった。ついで、1972年にはケニヤッタ大学が設立された。1980年代までは長らくナイロビにある大学はこの2校のみ、ケニア全土でも4校であったが、その後各地の師範学校や技術専門学校が国立大学に昇格し、ナイロビでもジョモ・ケニヤッタ農工大学が誕生した。さらに私立大学が急増し、ストラスモア大学アライアント国際大学(ナイロビキャンパス。本校は、アメリカカリフォルニア州サンディエゴにある)、デイスター大学アフリカナザレネ大学などが設立された。

ナイロビで最も古い図書館は、中心部にあるマクミラン記念図書館である。1931年に建設され、1962年にナイロビ市議会へと移管された[24]

言語[編集]

ナイロビにおいて使用される言語は、公的な場面においては英語、日常的な場面においてはスワヒリ語キクユ語が多い。英語は2010年まで唯一の公用語であり、現在でも役場や職場などでは英語を使用するのが一般的である。これに対し、日常会話ではスワヒリ語が共通語となっている。これは、19世紀以降ケニア全土にリンガフランカとしてのスワヒリ語使用が広まり、国内の各民族が集中する首都ナイロビにおいてどの民族も使用することができる唯一の言語だからである。もっとも、ナイロビで話されるスワヒリ語は標準スワヒリ語からはかなりかけ離れたものであり、ナイロビ・スワヒリ語とも呼ばれる方言が使用されている[25]。また、ナイロビはもともとキクユ人の居住する地域の中央部に建設されており、住民としてはキクユ人が最大勢力である。そのため、キクユ語を主に使用する住民も数多い。

1970年代ごろから、上記のナイロビ・スワヒリ語とはまた別の、シェンと呼ばれるスワヒリ語の方言がナイロビにおいて発生した。シェンとはスワヒリ語と英語の合成語であり、その名のとおりスワヒリ語のナイロビ方言に英語やルヒヤ語キクユ語カンバ語ルオ語といった近隣諸民族の言語の語彙を多く導入したもので、マタツ(乗り合いタクシー)の運転手などから若者言葉として広まり、音楽などのポップカルチャーやテレビ、ラジオなどにも使用されるようになった。

交通[編集]

空路[編集]

ケニヤッタ国際空港

外国からの窓口として、1958年に建設され、市の中心部より15km南東にあるジョモ・ケニヤッタ国際空港があるが、ジェット機の時代になる前は1933年に建設された市の中心部から南に4kmはなれた[26]ウィルソン空港英語版(現在は国内線用空港)が使用されていた。1930年代から1940年代にかけて、イギリス南岸のサウザンプトンから南アフリカのケープタウンに向かうイギリスの旅客機や郵便機の中継地であった。このルートでは、イギリスからケニア西部のヴィクトリア湖に面する港湾都市キスムまでは飛行艇が使用され、そこから南では飛行場の航空機が使用された。ジョモ・ケニヤッタ国際空港は、現在東アフリカ最大の拠点的空港として各地に路線が開かれており、ケニア航空やフライ540、ジェットリンク・エクスプレスといった航空会社のハブ空港となっている。

鉄道・バス[編集]

市内の公共交通はケニア・バス・サービスなどの会社組織のバス、ならびに個人経営が多い『マタトゥ』と呼ばれる小型バスが担っている。マタトゥは1960年代後半より公共交通の未整備を補完するために出現したもので、現在では中心部から市内各所に路線網を伸ばしている。マタトゥの路線は固定されているが、時刻は固定されていない。タウン南部にはウガンダ鉄道のナイロビ駅があるが、ナイロビ発展の原動力となったこの鉄道も現在では重要性が低くなっている。現在ではモンバサ駅行きの列車が週に数便出ている。この鉄道近郊路線としての機能はない。長距離輸送は長距離バスが担っており、国内各地、さらにはウガンダのカンパラやタンザニアのダルエスサラームなどにも路線が延びている。まとまったバスターミナルはなく、行き先ごとに発着場は異なっている。大型バスのほかに、国内各地や国境までの長距離マタトゥも頻発している。

道路[編集]

宗主国イギリスと同じく、自動車は左側通行。モンバサからウガンダ国境へ抜ける国道が幹線で、市内を貫いている。中心部では片側2車線である。

市内中心部の道路はほぼ舗装されているが、舗装の傷みの激しい場所もある。信号機は数が少なく、交差点の交通の整理はイギリス式にラウンドアバウト(ロータリー)でなされている。

観光[編集]

ナイロビ市街をバックに立つキリン(ナイロビ国立公園

ナイロビには多くの観光名所があり、またケニア観光の拠点ともなっている。

ナイロビ中心部にはニュー・セントラル・バンク・タワーケニヤッタ国際会議場といった高層ビルが立ち並び、上に登ればナイロビ市街を一望することができる。中心部の北には1930年設立のケニア国立博物館があり、ケニアで発見されたアウストラロピテクスの化石などが展示されている。その向かいにはヘビ公園がある。中心部の南には、キリンに直接えさを与えられるキリン公園がある。南西部郊外には、ケニア各民族の伝統家屋や伝統文化を展示するボーマスオブケニアや、ナイロビで暮らし「アフリカの日々」(Out of Africa, 1937年、映画『愛と哀しみの果て』の原作)などの作品を残したデンマークの女流作家カレン・ブリクセンの住居を博物館としたカレン・ブリクセン博物館などがある。また、市の中心部から10kmほど南、ジョモ・ケニヤッタ国際空港のすぐそばにはナイロビ国立公園があり、アフリカの自然を手軽に楽しむことができる。

ナイロビ南西には景勝地ンゴングヒルズがある。また、ナイロビの北88kmにあるナイバシャ湖ヘルズ・ゲート国立公園や、南のマガディ湖などは日帰り圏内であり、ナイロビが観光拠点となっている。

これらの観光資源のほか、ケニア国内のサファリケニア山などの登山を楽しむ外国人観光客もナイロビを拠点とすることが多く、また国連関係はじめ多くの国際機関が存在することから、ナイロビには多くのホテルが立ち並んでいる。

姉妹都市[編集]

ナイロビの登場する作品[編集]

文学[編集]

音楽[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d 『コンサイス地名辞典 外国編』、三省堂、1977年7月、P681。
  2. ^ Demographia: World Urban Areas & Population Projections
  3. ^ 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2014年4月公表)
  4. ^ 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.122-123
  5. ^ United States Embassy. “Quiet Memorials Mark Fourth Anniversary of Embassy Bombing”. usembassy.gov. 2007年6月17日閲覧。 [リンク切れ]
  6. ^ Population distribution by province/district and sex: 1979-199 censuses”. Kenya Central Bureau of Statistics. 2009年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年3月20日閲覧。
  7. ^ AlNinga. “Attractions of Nairobi”. alninga.com. 2007年6月14日閲覧。
  8. ^ Perceptive Travel. “Nairobi by Degrees”. perceptivetravel.com. 2007年6月14日閲覧。 [リンク切れ]
  9. ^ The East African (1998年11月2日). “Karura: Are We Missing the Trees for the Forest?”. nationmedia.com. 2007年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年6月14日閲覧。
  10. ^ 『新訂増補アフリカを知る事典』、平凡社、1991年9月1日新訂増補第1刷 p.310
  11. ^ Gaisma. “Nairobi, Kenya - Sunrise, sunset, dawn and dusk times, table”. gaisma.com. 2007年6月22日閲覧。
  12. ^ World Weather Information Service - Nairobi”. World Meteorological Organisation (UN) (2011年6月). 2010年5月9日閲覧。
  13. ^ Climatological Normals of Nairobi”. Hong Kong Observatory. 2010年5月9日閲覧。
  14. ^ Average Conditions Nairobi, Kenya”. BBC Weather. 2009年8月18日閲覧。
  15. ^ 「抵抗する都市 ナイロビ 移民の世界から」pp54-55 松田素二 岩波書店 1999年11月25日第1刷
  16. ^ 「ケニアを知るための55章」p264 松田素二・津田みわ編著 明石書店 2012年7月1日初版第1刷
  17. ^ CIA - The World Factbook”. Cia.gov. 2011年3月28日閲覧。
  18. ^ Build cities to contain population explosion(2007年5月28日時点のアーカイブ
  19. ^ 2009 Census results End”. knbs.or.ke (2010年8月31日). 2010年8月31日閲覧。
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  21. ^ IRC E-source (2009年8月7日). “Kenya: Nairobi water board sent packing following reports on malpractices”. 2011年11月12日閲覧。
  22. ^ 「現代アフリカ都市社会論序説」p183 松田素二 「アフリカの都市的世界」所収 嶋田義仁・松田素二・和崎春日編 世界思想社 2001年6月10日第1刷
  23. ^ “ケニアでショッピングモール襲撃、26人以上が死亡か”. 産経ニュース (産経新聞). (2013年9月22日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/130921/mds13092121510007-n1.htm 2013年9月22日閲覧。 
  24. ^ 田辺 裕、島田 周平、柴田 匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 p180 ISBN 4254166621
  25. ^ 「ケニアを知るための55章」pp228-229 松田素二・津田みわ編著 明石書店 2012年7月1日初版第1刷
  26. ^ Estimated Road Distance Between Central Nairobi And Wilson Airport
  27. ^ Sister Cities International”. Sister-cities.org. 2010年10月18日閲覧。

外部リンク[編集]