女子教育

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女子教育(じょしきょういく、英語: Female education)は、女子に対する教育のことである。

女子は人間であり、本質的には、女子教育は教育の基本原則である「人間の可能性を一人一人の中から引き出し、能率的・効果的に成長を促す」ものであるべきであるが、諸要因によりこの原則は達成されていない[1]。また、女子が人間であるからといって、男女の性差を無視してまったく同じ教育を施してもよいとは一概には言えない[2]保健体育などがその例とされる[2]

世界の状況[編集]

欧米[編集]

フランスでは14世紀に女子教育論の文献が出され、フランス革命期にはシャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールコンドルセらが女子教育を支持した[3]ドイツではフランスに影響を受け、17世紀末にフランケ学院に女子の中等教育機関が設置された[4]。また同時期の教育学者コメニウスは以下のように述べ、男子同様に女子にも教育が必要であると主張した[1]

男子のみがそれ(教育)に携わって、女性が知識の探求ということから、まったく除外されて差支えないという理由が、どこにあるのだろうか。……彼らは男性と同様の、鋭敏なる精神と知識に対する能力とを与えられているのである。(否しばしば、男性よりもすぐれた能力に恵まれているのである。)

コメニウス『大教授学』

18世紀前半にはイギリスダニエル・デフォーが「この世界で最も野蛮な習慣の一つは、女子の学問の利益を否定することだ」と主張した[5]。一方でサミュエル・ジョンソンは「男というものは、一般には、食卓の上で御馳走にありつける方が、自分のギリシア語を話すことよりも喜ぶものだ」と言ったようにすべての人に女子教育の必要性・重要性が一般認識であったわけではなかった[6]アメリカでは、1833年にオベリン・カレッジ(オベリン大学)が男女共学を採用、1841年に同校が大学がBachelor of Arts(教養学士)の学位を与えるなど世界的に見て女子への高等教育の門戸を開いたのは早かった[7]。イギリスで大学が女子の入学を認めたのは1841年ロンドン大学のクインズ・コレジが最初である[8]

アラブ諸国[編集]

アラブ諸国では2010年現在も女子教育が十分とは言えず、非識字が広がっており、2010年10月28日にはアラブ連盟の付属機関であるアラブ女性機構の第3回会議の場で女性への教育・訓練に力を入れるよう呼び掛けられた[9]。また、女子教育への関心が女性の就業や社会発展に必ずしも結び付いていないことも問題視された[9]

女性の識字率[編集]

識字率は特定の地域の総人口に占める「識字者」の割合であり、経済社会の発展と密接に関連する数値とされる[10]。ただし、「識字者」の定義が国によって異なり、読み書き能力を問う場合、自己の名前を書けるかを問う場合などさまざまで、日本では就学率をもって識字率と見なしている[10]。ゆえに、一概に比較できないことに注意を要する。

二宮書店発行の『データブック オブ・ザ・ワールド 2011年版』によれば、男性の方が女性よりも識字率の高い国が多いが、いくつかの国では女性の識字率が男性を上回っている[11]

以下に女性の識字率が男性の識字率より高い国を列挙する。(ただし、『データブック オブ・ザ・ワールド 2011年版』には識字率のデータが掲載されていない国がある(先進国など)[11]。)なお、1990年の統計では、日本の女性識字率は99.7%、男性識字率は99.9%である[12]

統計年 女性識字率
(%)
男性識字率
との差[注 1]
アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 2005 91.5 2.0
フィリピンの旗 フィリピン 2008 93.9 0.6
モルディブの旗 モルディブ 2007 97.1 0.1
モンゴルの旗 モンゴル 2008 97.8 1.1
セーシェルの旗 セーシェル 2008 92.3 0.9
ボツワナの旗 ボツワナ 2008 83.5 0.4
レソトの旗 レソト 2008 95.1 12.5
マルタの旗 マルタ 2004 93.5 2.3
アンティグア・バーブーダの旗 アンティグア・バーブーダ 2008 99.4 1.0
コスタリカの旗 コスタリカ 2008 96.2 0.5
ジャマイカの旗 ジャマイカ 2008 90.8 10.2
セントルシアの旗 セントルシア 2001 90.6 1.1
バハマの旗 バハマ 2003 96.5 1.8
ベリーズの旗 ベリーズ 2000 77.1 0.4
アルゼンチンの旗 アルゼンチン 2008 97.7 0.1
ウルグアイの旗 ウルグアイ 2008 98.5 0.7
コロンビアの旗 コロンビア 2008 93.4 0.1
チリの旗 チリ 2008 98.7 0.1
ブラジルの旗 ブラジル 2007 90.2 0.4
トンガの旗 トンガ 2007 99.3 0.1
マーシャル諸島の旗 マーシャル諸島 1999 93.7 0.1

日本の状況[編集]

明治以前[編集]

702年(大宝2年)に施行された大宝律令による大学寮には女子は入学できなかったが、典薬寮雅楽寮で学び、女医、楽士になることはできた。平安時代万葉仮名から女文字ができ、詩文を書くことから仮名交じり文に発展した。貴族の女子については、習字絵画琵琶読書に及び教育、特に和歌の修練は大切にされた。

鎌倉時代になると尼僧になる子供寺子屋に入り、室町時代には、庶民の子女も寺子屋へ入学するようになった。

16~17世紀にはキリシタン宗門が九州を中心として各地に学校を設け、男女の区別なく教育を施すようになった。教科は、国語ポルトガル語算数修身音楽作法であった。

江戸時代寺子屋が興隆を極め、江戸時代末には就学率は7割を超えた。女子限定の寺子屋もあったが多くは男女共学(寺子屋によっては席を分けるなどの配慮はあったようである)で多くの女子が「読み・書き・そろばん」の教育を受けた。

明治維新後[編集]

1872年(明治5年)の学制には、女児小学校があり、尋常小学校技芸を教えた。1899年(明治32年)の高等女学校令の実施以降、特にキリスト教宣教師、私学人による女子教育が振興され、科学技術地歴教育、習字手芸家政体錬も加わったが、その基本とされた理念は良妻賢母であった。一方で渋沢栄一伊藤博文らが発起人となって設立した女子教育奨励会は、欧米の貴婦人と対峙できる日本女性の育成を目指し、女性の社会参加国際化の教育を推進した[13]

女子の高等教育教員養成から始められ、1874年(明治7年)に女子師範学校が設けられ、1890年(明治23年)には女子高等師範学校が設置された。明治30年代になると、日本女子大学校などの私立の高等教育機関が設けられたが、いずれも専門学校(旧制)であった。その後、大正年間には女子の高等教育振興の声も大きかったが、女子は大学教育から疎外されていた。


WomanSchoolSystem.jpg


女子の中等教育は初期は私塾的な学校が主体となっていたが、女子中等教育制度が確立されると、師範学校令(1886年)により初等学校の教員を養成する女子師範学校と、高等女学校令(1899年)により普通教育及び実践教育を実施する高等女学校によって担われた。私立の主な学校には、下田歌子によって設立された実践女学校・女子工芸学校(1899年)、戸板関子によって設立された戸板裁縫学校(1902年)・三田高等女学校(1916年)がある。


女子の高等教育は1890年(明治33年)に中等学校の教員を養成する女子高等師範学校が設置したことに始まる。 その後専門学校令により私立の女子専門学校として、普通教育及び実践教育を目的とする1901年(明治44年)に日本女子大学校が成瀬仁蔵によって設置されたのを皮切りに、現在の私立女子大学の前身となる学校が次々と開設された。主な学校にミッション系の聖心女子学院専門学校(1916年)、東京女子大学(1928年)、横井玉子によって設立された女子美術学院を前身とする女子美術専門学校(1929年)、鳩山春子によって設立された共立女子専門学校(1928年)、津田梅子によって設立された女子英学塾を前身とする津田英学塾(1933年)がある。 官立の女子専門学校は、1923年(大正12年)に福岡県女子専門学校を皮切りに各地に開設されたが、官立の女子専門学校は国ではなく道府県市によって設置された。 一方1912年(明治45年)には医歯薬系の教育を目的とする東京女子医学専門学校が吉岡弥生により設置されたが、医歯薬系の女子専門学校は第二次世界大戦期になるまで長く私立の学校のみであった。 なお旧制大学には女子大学として設置されたものはなく、大学レベルの教育を受けるためには一般の大学に入学する必要があった。なお戦前の学制では、女子学生は大学の進学課程とされていた旧制高等学校に入学することが出来なかったため、女子学生が大学に進学するには女子高等師範学校女子専門学校から進学(傍系入学)した。


主な旧制大学、女子高等教育機関の設立時期と旧制大学の女子学生の受け入れ状況
西 暦( 和 暦 )年 出来事
1886年(明治19年) 東京帝大設立
1897年(明治30年) 京都帝大設立
1900年(明治33年) 東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)設立
1900年(明治33年) 津田梅子により女子英学塾(現津田塾大学)設立
1901年(明治34年) 最初の旧制女子専門学校として日本女子大学校が開学
1907年(明治40年) 東北帝大設立
1908年(明治41年) 奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)設立
1909年(明治42年) 神戸女学院専門部(現神戸女学院大学)設立
1911年(明治44年) 九州帝大設立
1912年(明治45年) 東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)開学
1913年(大正2年) 東北帝国大学 3名東京女高師2名、日本女子大学校1名)の女子学生が入学
1916年(大正5年) 聖心女子学院高等専門学校(現聖心女子大学)開学
1916年(大正5年) 男子の旧制専門学校である東洋大学に女子学生が入学
1918年(大正7年) 旧制専門学校として東京女子大学が開学
1918年(大正7年) 北海道帝大農科大学 女子学生を全科目履修選科生として受け入れる
1919年(大正8年) 大学令制定。帝国大学以外の大学も認められるようになる。府立大阪医科大学を設置
1920年(大正9年) 東京帝大 女性の聴講生を受け入れる
1920年(大正9年) 大学令による東京商大、愛知医大、慶應義塾大、早稲田大、同志社大、日本大、中央大、法政大、明治大、國學院大を設置
1920年(大正9年) 男子の旧制専門学校である日本大学専門部に女子学生が入学
1920年(大正9年) 京都女子高等専門学校(現京都女子大学)が開学
1921年(大正10年) 早稲田大学 女子聴講生を受け入れる同志社大学 女子学生を選科生として受け入れる
1923年(大正12年) この年以降、東北帝国大学では継続的に女子学生が入学するようになる
1923年(大正12年) 公立の女子専門学校として福岡県女子専門学校(現福岡女子大学)が開校。公立女子専門学校として昭和4年までに 大阪府(1924)、宮城県(1926)、京都府(1927)、広島県(1928年)、長野県(1929)が開校
1923年(大正12年) 同志社大学 女子学生が入学
1924年(大正13年) 京城帝大設立
1925年(大正14年) 九州帝大法文学部 2名奈良女高師1名、東京女子大1名)の女子学生が入学
1925年(大正14年) 帝国女子医学専門学校(現東邦大学)が開学
1928年(昭和3年) 台北帝大設立、大学令による東洋大学設置
1929年(昭和4年) 大学令による東京工業大大阪工業大(大阪帝大→現大阪大学)、神戸商業大(現神戸大学)、東京文理科大東京教育大学→現筑波大学)、広島文理科大(現広島大学)を設置
1930年(昭和5年) 北海道帝大理学部 女子学生が入学(北海道帝大には昭和22年までに20人が入学)
1930年(昭和5年) 同志社女子専門学校(現同志社女子大学)設立
1931年(昭和6年) 大阪帝大設立
1939年(昭和14年) 名古屋帝大設立
1939年(昭和14年) 早稲田大学 女子学生が入学

 

第二次大戦後[編集]

第二次大戦後、教育基本法が施行された後の女子教育は、アメリカ教育使節団報告書男女共学を打ち出し、公立学校の共学化が進んだこともあり、高等学校における職業専門の課程・短期大学・女子大学と、私学を中心として発展してきた。良妻賢母教育の最たるものであった家庭科が男女とも必修になったのも、戦後間もないころであった[14]

大伴茂は「日本天才児の心理学的研究」を発表した。この論文は1926年から1950年にかけて関西地方中国地方を中心として知能指数(IQ)140以上の小中高校生を調査し、そこに掲載されているデータを読み取ると男女比では女子の方が少なく、低学年から高学年になるにつれてIQの高い女子が減少するような傾向が読み取れる[15]。このことについて日本女子大学助教授(当時)の吉田正昭は私見として「『女の子だから』ということで、周囲も手加減し、本人も安きについてしまう従来の"女子"教育の思想が禍いしているためではあるまいか」と述べている[16]

日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)と日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(日米安全保障条約)が締結された頃より、いわゆる逆コースの風潮が高まり、家庭科の男女別学、高等学校のクラス編成を男女別にするなどの動きが現れた[17]1959年(昭和34年)に文部省が発表した『わが国の高等教育』では「女子労働力に対する社会的要請が高まりつつあることも関連して、今後の女子の高等教育には、いろいろ検討すべき問題が含まれている。」と書かれた[18]が、1960年代に女子の高等教育への進学率が上昇した際には「女子大生過剰論」が盛んに叫ばれ、文学部薬学部が女子に多数派を占められている現況では学問的水準の低下は余儀なし、と非難する動きがあった[5]。女子の大学生就職戦線からからの締め出しもあった[18]。ただし、当時の女子進学率は22.5%(1964年度)で、ソビエト連邦の42%、フランスの41.5%、アメリカの38%と比較しても高い値ではなかった[6]。このころには中等教育段階でも技術家庭科において「男子は技術、女子は家庭」という方針が明確化され、女子高校では保育士(当時は保母)・看護師(当時は看護婦)不足を補うことを目標とした家庭科・看護科・保育科が新設され、「女子の特性」を強調するいわば男女差別の様相を呈するにいたった[17]。また、1965年(昭和40年)6月には、2歳の女児が交通事故で死亡し損害賠償を求めた裁判で、裁判所は「女子は25歳で結婚するものとされていることから、賠償すべき金額は、中学卒業から結婚するまでの10年に見込まれる利益分であるべき」という判決を下した[19]。これは、結果的に女児への賠償は男児よりもはるかに安いものとなった[19]

しかし、1986年(昭和61年)4月1日に施行された男女雇用機会均等法とともに女性の社会進出が進み、女子教育のあり方も変化してきている。

今日における意義[編集]

今日では女子教育は歴史的使命を終えており、女子だけに門戸を開放した教育機関(女子高校、女子大学など)は男性差別的であるという意見も現れつつある。また女子校でも、少子化や長引く不況のあおりを受け、男女共学に移行する学校が増加している。

このような社会情勢の中でも女子校として女子教育を継続する学校では、それぞれ女子教育の必要性を訴えている。例えば、東京女子学園中学校・高等学校は「男は男らしく、女は女らしく」という意識が現代でも根強く残っており、共学校では性差による役割分担が見られると指摘したうえで、女子生徒のみの女子校であれば男子がいない分、性差による役割分担や甘えはなく、自立した女性の育成に適している、と主張している[20]名古屋女子大学などを運営する学校法人越原学園は、創立者の越原春子が定めた学園訓「親切」に則り、変化する社会の中で女性としての見方・考え方を生かし、自己実現するために女子教育が必要であるとしている[21]愛徳学園小学校愛徳学園中学校・高等学校を運営する学校法人愛徳学園は、「今だからこそ、女子教育」と銘打ち、女性として逞しく生きる人の育成に努めている[22]。また明治期に設立された女子教育奨励会を21世紀版として再生した特定非営利活動法人女子教育奨励会(JKSK)は、「停滞した日本には女性の活力が必要」であるとして、2001年(平成13年)に発足した[13]。同会は東京女学館に事務所を置き、女性のリーダーシップの育成を目指している[23]

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 女性識字率から男性識字率を引いて得られた値
参考文献
  1. ^ a b 一番ヶ瀬(1967):10ページ
  2. ^ a b 一番ヶ瀬(1967):29ページ
  3. ^ 平塚(1965):9 - 10ページ
  4. ^ 平塚(1965):9ページ
  5. ^ a b 平塚(1965):4ページ
  6. ^ a b 平塚(1965):5ページ
  7. ^ 平塚(1965):8ページ
  8. ^ 平塚(1965):7ページ
  9. ^ a b クドゥス・アラビー紙"アラブ女性機構会議 非識字率に警告"神田春菜 訳、東京外国語大学(2011年5月18日閲覧。)
  10. ^ a b 国立国会図書館"識字率の調べ方"2010年8月29日更新(2011年5月18日閲覧。)
  11. ^ a b 二宮書店編集部 編(2011):世界各国要覧(161 - 475ページ参照)
  12. ^ 二宮書店編集部 編(2011):225ページ
  13. ^ a b 中沢(2011):1ページ
  14. ^ 一番ヶ瀬(1967):17ページ
  15. ^ 吉田(1965):60 - 61ページ
  16. ^ 吉田(1965):62ページ
  17. ^ a b 一番ヶ瀬(1967):18ページ
  18. ^ a b 一番ヶ瀬(1965):136ページ
  19. ^ a b 一番ヶ瀬(1968):140 - 141ページ
  20. ^ 辰巳順子"東京女子学園 学園紹介 女子教育への取り組み"(2011年5月8日閲覧。)
  21. ^ 学校法人越原学園"学校法人越原学園 教育の理念(女子教育の意義)"(2011年5月8日閲覧。)
  22. ^ 学校法人愛徳学園"愛徳学園 [兵庫県神戸市] - 小中高一貫女子教育"
  23. ^ NPO法人女子教育奨励会"NPO法人JKSK(女子教育奨励会) 〜女性の活力を社会の活力に〜"(2011年5月8日閲覧。)

参考文献[編集]

  • 一番ヶ瀬康子(1965)"わが国における女子の大学卒業生の雇用状況について-資料紹介を中心に-"『日本の女子教育』(中嶌 邦 監修、真橋美智子 編、日本図書センター、ISBN 4-8205-9639-X):136-155.
  • 一番ヶ瀬康子(1967)"これからの女子教育"『現代女子教育批判』(中嶌 邦 監修、真橋美智子 編、日本図書センター、ISBN 4-8205-9638-1):9-52.
  • 一番ヶ瀬康子(1968)"現代日本の婦人の地位-その主体的考察-"『現代女子教育批判』(中嶌 邦 監修、真橋美智子 編、日本図書センター、ISBN 4-8205-9638-1):140-152.
  • 中沢佳子「女性目線で支援に幅」中日新聞、2011年4月30日付朝刊、1ページ
  • 二宮書店編集部 編『データブック オブ・ザ・ワールド 2011年版』二宮書店、2011年1月10日、479pp. ISBN 978-4-8176-0346-3
  • 平塚益徳(1965)"女子教育の問題点"『日本の女子教育』(中嶌 邦 監修、真橋美智子 編、日本図書センター、ISBN 4-8205-9639-X):4-13.
  • 吉田正昭(1965)"優秀児の研究-女子教育との関係で-"『日本の女子教育』(中嶌 邦 監修、真橋美智子 編、日本図書センター、ISBN 4-8205-9639-X):42-67

関連項目[編集]

外部リンク[編集]