チャニング・ウィリアムズ

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Channing Moore Williams
チャニング・ムーア・ウイリアムズ
生誕 1827年7月18日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ヴァージニア州リッチモンド
死没 1910年12月2日
リッチモンド
出身校 ウィリアム・アンド・メアリー大学
バージニア神学校
職業 宣教師
配偶者 なし
子供 なし

チャニング・ムーア・ウイリアムズChanning Moore Williams中国語: 維廉1829年7月18日-1910年12月2日)は、米国聖公会宣教師日本聖公会初代主教。日本各地に複数の教会や学校を設立するなど、日本聖公会の発展に力を尽くした[1]墓碑に記されている「道を伝えて己を伝えず」という言葉の通り、ウィリアムズは自分について知られることを嫌っていて、それは日本から帰国する際に自分に関する資料を燃やしてしまったほどだという[2][3][4]

生涯[編集]

出生・青年期[編集]

1827年7月18日、アメリカ合衆国東海岸ヴァージニア州リッチモンドで弁護士のジョン・グリーンとメリー・アニーの間に三男、第五子として生まれる[5]。出生後まもなく同地の教会で洗礼を受け、その教会の牧師で当時の米国聖公会バージニア教区の主教であったリチャード・チャニング・ムーア英語版の名前から、洗礼名をチャニング・ムーアとした[6]

ウィリアムズが19歳になった頃、大学の学費を稼ぐためにケンタッキー州ヘンダーソンでウィリアムズの兄が経営している雑貨店にて働き始める。1850年、蓄えた学費でウィリアム・アンド・メアリー大学に入学し、1852年7月に優秀な成績で卒業[7][8]。同年秋にはバージニア神学校英語版に入学する[9]。神学校在学中に伝道への情熱を養ったウィリアムズは、1855年に神学校を卒業し[10]、当時中国への伝道を開始しようとしていた米国聖公会で、同級生であったジョン・リギンズとともに中国への派遣を名乗り出、受理される[11]

中国での伝道[編集]

1855年11月30日に、オナイダ号でニューヨークを出港、リオデジャネイロシドニーを経由し、出港からおよそ7か月かけて翌年の6月26日に上海へ到着する[12][13]。上海に上陸して4日目から中国語の勉強を開始し[14]、1年半後には日常会話どころか説教まで中国語で行ってしまうほどに上達した[15]

日本へ[編集]

日本が開国したという情報を得た米国聖公会は、日米修好通商条約が発効したことを機に、日本へ宣教師を派遣することとし、ウィリアムズとリギンズを日本に派遣することに決める[16][17]。リギンズがマラリアの療養のため、ウィリアムズより早く1859年5月に来日し、2か月後にウィリアムズも来日した。両者は来日後長崎の崇福寺の境内に滞在した。しかしリギンズの体調は回復せず、アメリカに帰国してしまったため、ウィリアムズのみ日本にとどまった。ウィリアムズが来日した直後、日本ではキリスト教が禁止されていたため、ウィリアムズはいつかキリスト教が解禁されるときのために、熱心に日本語を勉強し、また聖書や聖歌、祈祷書を日本語に翻訳していた[18]

1864年ウィリアム・ブーン英語版中国語版が亡くなってから空席であった中国・日本伝道監督に、1865年米国聖公会はウィリアムズを指名した[19]。その按手式を受けるため、1866年にウィリアムズは帰国する[20]。ただし、実際にその監督職の任命を受けると決めたのはアメリカに到着してからであった[21][22]。1866年10月3日、ウィリアムズは中国・日本伝道主教に任命を受けた[23]

サンフランシスコを出港し横浜を経由して上海に到着したウィリアムズは、休む暇もなく中国各地を視察した[24]。そんなとき、日本で大政奉還が行われたことを聞きつけたため、大阪に居を移すことにし、川口居留地に建物を得、英語塾を開いた[注 1][20][26]

東京伝道[編集]

呼び寄せた宣教師を迎えるため東京に伝道の拠点を移したウィリアムズは、1874年築地居留地に立教学校を開く[27][28][注 2]。婦人教育を行うことも必要だと考えたウィリアムズは、1872年に女学校を設立する構想を提示し[29]、1877年にはブランシェーにより湯島立教女学校が設立される[30][31]。1882年、立教学校はジェームズ・ガーディナーを校長に迎え、立教大学校と名前を変える[32][33]

1872年9月20日から25日にかけて、第一回プロテスタント宣教師会議が横浜にて開催される。日本では当時米国聖公会の宣教師のほかにもイングランド国教会の宣教師がそれぞれの教会の監督の下活動しており、両者が連携して活動すべきであると考えられたからである[34][35]。この会議により、同一の日本語祈祷書を用いることや神学校を設立することが決定し[36]、ウィリアムズを校長に東京三一神学校が設立された[37][38]

日本聖公会設立後[編集]

第一回プロテスタント宣教師会議以来協力関係にあったイングランド国教会と米国聖公会が合同で日本聖公会を設立し、1887年2月11日には最初の総会を開催した[39]。1889年にはウィリアムズが日本伝道主教を辞任し[40]、1893年12月にアメリカへ帰国した。

晩年[編集]

1895年に再び来日した[41]ウィリアムズは、京都に住まいを得、京都聖ヨハネ教会など3つの教会を管理した[42][43]。その頃になると、目が見えなくなったり、また自分の行こうとしていた場所を失念したりするなど、老衰が顕著にみられるようになってきた[44]。このためウィリアムズはガーディナーに依頼してアメリカへ帰国する手続きをしてもらい、リッチモンドまでガーディナーに付き添われながら帰国した[45][46]

1909年にはウィリアムズの病状が悪化したため入院する。入院中は日本語を話して看護婦を困らせたとされる。1910年12月2日、ウィリアムズは昇天した[47][48]

墓碑[編集]

「IN LOVING MEMORY OF THE RIGHT REVEREND CHANNING MOORE WILLIAMS, D.D. WHO CONSECRATED HIS LIFE TO JAPANESE PEOPLE AS MISSIONARY AND BISHOP FROM JULY 1859 TO APRIL 1908. THIS TABLET IS ERECTED BY JAPANESE CHRISTIANS.

創業ノ難ヲ拝シ堅忍能ク日本聖公會ノ基ヲ奠ム嗚呼我ガ老監督ウイリアムス美哉日本在任五十年道ヲ傳ヘテ己ヲ傳ヘズ一朝飄然トシテ去リ老骨ヲ故山ニ埋ム温容彷髴追憶日ニ新ナルモノアリ茲ニ碑ヲ老師就眠の地ニ建テ日夕愛慕ノ意ヲ表ス 大正二年七月 日本聖公會 有志者」

逸話[編集]

ウィリアムズの幼少期、ある暴風雪の日曜日に、外に出ることは不可能だと考えたウィリアムズの母、メリーが自宅の中で礼拝を行おうと準備をしていると、窓の外に当時ウィリアムズらの教区の主教であったリチャード・チャニング・ムーアが教会へ向かって歩いている姿が見えた。これに感激したメリーは、直ちにムーア主教を追って幼いウィリアムズらとともに教会へ急いだという[49][50][51]

日本でキリスト教が禁止されていたある日、ウィリアムズの元に客が来た。客が来ることは珍しいため、ウィリアムズは丁重にもてなした。その客は他に誰か人がいないか心配していたため、他に誰もいない旨を伝えると、おもむろにキセルを懐から取り出し、このキセルをキリシタンの魔法で純金のキセルに変えてほしいと言った。ウィリアムズはこれに対し、自分は魔法使いではないと答えると、今度は金持ちの家の蔵に忍び込み金を盗んで逃げる方法を聞いてきた。自分は日本に泥棒の方法を教えるために来たわけではない、とウィリアムズがはっきり断ったため、客は気落ちして帰っていったという[52][53]

神戸から船で横浜へ向かっている際、ウィリアムズがあまりにもみすぼらしい服を着ているところを見た知人の船長が、服は裏返すと新しく見えることをウィリアムズに教えた。ウィリアムズはこれに対して、この服はすでに裏返したあとで、また古くなったのだと答えた[54][55][56]

1889年、名出保太郎が東京三一神学校の神学生であった際、名出をはじめとする神学生は自身に割り当てられた寮の屋根裏部屋を不満に思い、ウィリアムズに改善してほしいと伝えると、ウィリアムズは善処すると答えた。明くる日、名出らが神学校に行っている間に、ウィリアムズは用務員とともに自分の部屋と神学生らの部屋の荷物を入れ替えて、部屋を交換した。名出はこれに対して、ウィリアムズに申し訳ないと平謝りしたが、ウィリアムズは自分が部屋を使うのは寝るときだけであり、学生は勉強のためによい部屋を使うべきだと言って、一度決めたことを譲ろうとはしなかった[57][58]

土曜日の最終の汽車を逃した際、日曜日は安息日であるので汽車を使わないと決めていたウィリアムズは、自宅まで歩いて帰った。

時間に非常に厳しく、生徒が5分でも遅刻した際は授業を受けさせなかった。

ウィリアムズが汽車に乗ってくるということで、信者らが駅まで迎えに行った。当時、ウィリアムズのような宣教師は二等車に乗車していたため、二等車の降り口で出てくるのを待ち構えていた。だが、汽車が発車するときになっても二等車から出てくることはなく、ウィリアムズは三等車の降り口から出てきた。信者がウィリアムズに、なぜ三等車を使うのか尋ねたところ、ウィリアムズは「四等車がないものですから」と答えたという[59]

非常な倹約家で、当時のアメリカ聖公会主教の月々の俸給は 400 円(現在の価値で約 150 万円)だったが、彼の生活費は 15 円(同約 6 万円)程度だったといわれている。 このようにして貯めたお金は、教会の建築に多額を費やすなどして使っている(築地の聖三一大会堂、京都の聖ヨハネ教会は、ほとんどがウィリアムズの私費によって建てられたとされる)。また、路傍の困窮者へお金を与えることもあったが、その際も彼はこれみよがしに金を差し出したりはせずに、「汝の右手のなすことを左手をして知らしむるなかれ」の教え通り、困窮者のもとに近寄り、袖の下から落とすようにしてこっそりと金を差し出すのが常であった。

雇っていたコックが買い出しの際に値の張るものを買ってくると、それを返してより安いものへと交換しに行かせた。耐えかねたコックが「もうあなたのコックは務まりません。」と退職を申し出た際、ウィリアムズは「そうですか。それは残念です。これはあなたが今まで貯めたお金です。」と言って、彼が食べ物を返品した際の差額を貯蓄していたものを差し出した。これに感激したコックは、引き続きウィリアムズのもとで働き続けることとなった。

彼のポケットには金平糖が入っており、それをことあるごとに子供たちに配って喜ばせた。この逸話に由来し、現在立教大学にあるウィリアムズ主教の銅像は、金平糖を取り出す際の仕草として片手をポケットに入れた姿になっている。

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ これが現在の川口基督教会の発祥となる[25]
  2. ^ この学校が、現在の立教大学のもとになる。

出典[編集]

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  1. ^ 『キリスト教大事典』109頁
  2. ^ 建学の精神について 立教大学
  3. ^ Channing Moore Williams 司教に関する情報 聖アンデレ教会(日本聖公会
  4. ^ 名取多嘉雄 『宣教師の都市と地方における伝道の展開
  5. ^ 大江 2000年 24頁-25頁
  6. ^ 矢崎 1988年 15頁-16頁
  7. ^ 伊藤・松平 2007年 6頁
  8. ^ 大江 2000年 27頁-30頁
  9. ^ 大江 2000年 30頁
  10. ^ 大江 2000年 34頁
  11. ^ 伊藤・松平 2007年 7頁
  12. ^ 矢崎 1988年 31頁
  13. ^ 伊藤・松平 2007年 12頁
  14. ^ 大江 2000年 97頁
  15. ^ 伊藤・松平 2007年 13頁
  16. ^ 伊藤・松平 2007年 15頁
  17. ^ 矢崎 1988年 40頁-41頁
  18. ^ 伊藤・松平 2007年 16頁
  19. ^ 矢崎 1988年 64頁
  20. ^ a b 伊藤・松平 2007年 17頁
  21. ^ 矢崎 1988年 65頁
  22. ^ 伊藤 1979年 33頁
  23. ^ 大江 2000年 256頁
  24. ^ 矢崎 1988年 70頁
  25. ^ 教会の歴史』 川口基督教会
  26. ^ 矢崎 1988年 73頁-72頁
  27. ^ 矢崎 1988年 97頁
  28. ^ 伊藤・松平 2007年 26頁
  29. ^ 大江 2000年 461頁
  30. ^ 大江 2000年 462頁-463頁
  31. ^ 矢崎 1988年 107頁-108頁
  32. ^ 大江 453頁-455頁
  33. ^ 矢崎 1988年 113頁
  34. ^ 大江 2000年 492頁
  35. ^ 矢崎 1988年 114頁
  36. ^ 矢崎 1988年 117頁
  37. ^ 大江 2000年 509頁
  38. ^ 矢崎 1988年 117頁
  39. ^ 矢崎 1988年 156頁
  40. ^ 矢崎 1988年 200頁
  41. ^ 矢崎 1988年 211頁
  42. ^ 大江 2000年 647頁-648頁
  43. ^ 矢崎 1988年 213頁
  44. ^ 大江 2000年 649頁
  45. ^ 矢崎 1988年 241頁-243頁
  46. ^ 大江 2000年 653頁-655頁
  47. ^ 大江 2000年 657頁
  48. ^ 矢崎 1988年 244頁
  49. ^ 矢崎 1988年 18頁
  50. ^ 大江 2000年 25頁-26頁
  51. ^ 伊藤 1979年 14頁-16頁
  52. ^ 矢崎 1988年 55頁-56頁
  53. ^ 伊藤 1979年 31頁-32頁
  54. ^ 伊藤 1979年 52頁-53頁
  55. ^ 矢崎 1988年 132頁
  56. ^ 伊藤・松平 2007年 36頁-37頁
  57. ^ 矢崎 1988年 143頁-144頁
  58. ^ 伊藤 1979年 43頁-46頁
  59. ^ 矢崎 1988年 220頁-221頁

関連人物[編集]

参考文献[編集]

  • 矢崎健一 『チャニング・ムーア・ウィリアムズ』 聖公会出版、1988年 ISBN 978-4-88274-051-3
  • 大江満 『宣教師ウィリアムズの伝道と生涯 ―幕末・明治米国聖公会の軌跡―』 刀水書房、2000年 ISBN 978-4-88708-263-2
  • 伊藤俊太郎・松平信久 『立教の創立者 C.M.ウィリアムズの生涯』 立教学院、2007年
  • 伊藤高清 『ウィリアムズ物語』 聖公会出版、1979年
  • 『キリスト教大事典 改定新版』 教文館、1985年 ISBN 978-4-7642-4002-5
  • 大江満 「ウィリアムズ―日本聖公会の開祖」 『近代日本のキリスト者たち』 高橋章、社会評論社、2006年 ISBN 978-4-7845-9110-7