ジョージ・ミーチャム

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ジョージ・マースデン・ミーチャム
生誕 1833年
カナダの旗 カナダベルヴィル
死没 1919年2月20日
職業 宣教師教師
配偶者 メアリー・リディア・モルトン(Mary Lydia Moulton)
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ジョージ・マースデン・ミーチャム(George Marsden Meacham、1833年 - 1919年2月20日)は、カナダ・メソジスト教会明治時代初期に日本に派遣した宣教師である。静岡県を中心に活躍した。

生涯[編集]

1856年にカナダ・ウェスレアン・メソジスト教会(後のカナダ・メソジスト教会)の信徒伝道者になる。1857年に教職になり、ビクトリア大学 (トロント大学)英語版で学ぶ。

1860年ビクトリア大学 (トロント大学)英語版を卒業。按手礼を受けて年会員になる。牧師としてニューマーケットに赴任。そこで出会ったメアリー・リディア・モルトンと結婚する[1]。メアリーが母親代わりを務めていた妹ジュリア(Julia)も家族として一緒に生活するようになる[1]。ジュリアも後に宣教師となる[1]

1876年9月8日 ミーチャムはカナダ・メソジスト教会の第2陣の宣教師として、C・S・イビーと共に来日する[2]。このとき妻メアリーと義妹ジュリアも供に来日する[1]

1876年10月 ミーチャムは沼津市に赴任する。これは外国人英語教師を探していた江原素六(沼津市集成舎《後の沼津市立第一小学校》の校長)がデイヴィッドソン・マクドナルド(第1陣の宣教師)に相談したのがきっかけである[3]

1877年1月15日 ミーチャムは江原素六らに洗礼を授ける[3]。そのとき洗礼を受けた6人が沼津教会を形成する。

1878年 東京府下谷に赴任。

1879年12月21日 東京仲御徒町2丁目に下谷教会(メソヂスト下谷教会)を設立する[4][5]

1881年9月18日 山中笑平岩愃保土屋彦六浅川広湖ら4人に下谷教会按手礼を授ける[4][5]

1884年 一度帰国する。

1883年 ビクトリア大学 (トロント大学)英語版より名誉神学博士を授与される。

1888年 再来日し、1899年まで横浜ユニオン・チャーチ牧師を務める。

1899年より1902年まで東洋英和学校神学部の部長を務める。

1901年11月19日 妻メアリー、死去[1]

1902年 カナダに帰国する。

1919年2月20日 永眠。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e ジャン・W・クランメル (1996年2月25日). 『来日メソジスト教会宣教師辞典』. 教分館. p. 176 
  2. ^ 『東海教区史』. 日本基督教団東海教区. (2003年5月20日). p. 97 
  3. ^ a b 『東海教区史』. 日本基督教団東海教区. (2003年5月20日). p. 97 
  4. ^ a b 日本メソヂスト下谷教会六拾年史. 日本メソヂスト下谷教会. (1939). pp. 37-38 
  5. ^ a b 日本メソヂスト下谷教会六拾年史 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. pp. 35-35. doi:10.11501/1116110. 2019年1月30日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年
  • 高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年
  • 守部喜雅『日本宣教の夜明け』いのちのことば社、2009年
  • 守部喜雅『聖書を読んだサムライたち』いのちのことば社、2010年
  • 『東海教区史』日本基督教団東海教区、2003年5月20日
  • ジャン・W・クランメル『来日メソジスト教会宣教師辞典』教分館、1996年2月25日
  • 『日本メソヂスト下谷教会六拾年史』日本メソヂスト下谷教会、1939年