エマ・フルベッキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エマ・フルベッキ
生誕 1863年2月4日
日本の旗 日本 長崎
死没 1949年
職業 宣教師教育者
配偶者 ヘンリー・テイラー・テリー
テンプレートを表示

エマ・フルベッキ(エマ・ヴァーベック、Emma Japonica Verbeck 、エミリー・ヴァーベック、Emily Verbeck、1863年2月4日 - 1949年)は、米国聖公会から日本に派遣されたアメリカ人女性宣教師立教女学校(現・立教女学院)、立教大学校(現・立教大学)、東京女子師範学校附属高等女学校の教師。長崎生まれ。グイド・フルベッキ夫妻の次女。生後半月で他界した長女と同名。フルベッキの他の子どもたちと同様に、フルベッキの盟友チャニング・ムーア・ウィリアムズ立教大学立教女学院創設者)から洗礼を受け、聖公会の信徒となる。東京帝国大学(現・東京大学)で英文法を教えていたH.T.テリーの妻である。

経歴・人物[編集]

1863年(文久3年)2月4日、グイド・フルベッキ夫妻の次女として長崎で生まれる[1]

アメリカに帰国後、カリフォルニア州オークランドで代数学、幾何学、ラテン語を学び、高校を卒業。

立教女学校校舎
(築地居留地26番)

米国聖公会宣教師として、高校卒業後すぐの1883年(明治16年)2月2日に19歳で再来日。(2日後には20歳となる日の来日であった。)
その年の春からフローレンス・ピットマンガーディナー夫人)が校長を務める立教女学校(現・立教女学院)で英語と音楽を教え、6月からは同年1月に創設された米国式カレッジの立教大学校(現・立教大学)で英語(訳読)と音楽を教える[2][3]。 特にその音楽指導は評価が高く、生徒から敬慕された。

エマが赴任した当時の立教女学校は、ガーディナー夫妻が住む築地居留地26番の住居の2部屋が教室として利用されていたが、1884年(明治17年)に、ジェームズ・ガーディナーの設計で、同地(築地居留地内26番)に洋風三階建ての美しい新校舎が竣工した。

1885年(明治18年)4月に、22歳となったエマは東京女子師範学校附属高等女学校専修科(お茶の水女子大学附属中学校お茶の水女子大学附属高等学校の前身)に英語、音楽の教員として採用される[4]。同年秋からは父、グイド・フルベッキと一緒に東京で暮らす[1]。また、同年冬には、林歌子がエマの日本語教師となり、その縁で林は1886年(明治19年)から立教女学校(現・立教女学院)で 和漢学や算術を教えた。

グイド・フルベッキの元には、書生として7年間フルベッキ邸に寄宿した高橋是清(後の日銀総裁内閣総理大臣)のほか[5]、外国事情を知りたい政府の高位高官たちが、まず最初に訪れて教えを請うた。加藤弘之辻新次杉孫三郎などもしばしばやってきて教えを受けていた[6]。そうした中でエマは、元土佐藩士で司法大輔工部卿枢密顧問官など明治政府の高官を歴任した佐々木高行[注釈 1]の令嬢、静衛(後の加賀美繁子)に英語を教えていた[5][7][8]

父の逝去を見届ける1898年(明治31年)まで立教女学校で音楽と英語を教えた。同年、一度アメリカに帰国するが、翌年再来日[1]

1899年(明治32年)7月に、東京帝国大学(現・東京大学)で英文法を教えていたヘンリー・テイラー・テリーと結婚し、長く日本に住んだ[1]。夫のヘンリー・テリーが停年退職した1912年(明治45年)にアメリカに渡った[9]

消えたフルベッキ日記[編集]

グイド・フルベッキは英国人商人のトーマス・グラバーと同様に倒幕を進めた幕末の志士たちや維新後の政府高官たちと大変親しかったことから、倒幕の裏事情や明治政府の秘密を多く知っており、彼が残したフルベッキ日記には国事の機密情報が多く書かれていたと思われる。
父が亡くなった時、エマは手紙に「父の日記やノートブックは大切に保存しています。父がしばしば申しておりました。『もし私が日本人とその習慣、道徳等について私の真実な見解を発表したら、この国での私の有用性は失われてしまいます。私は荷造りして、すぐに国を去らねばなりません。』と全くそのとおりで、お分かりだと思いますが、伝記を書く人は非常な注意を払わなければなりません。」と書き残している。
このエマが保存していたフルベッキ日記は行方不明になっており、アメリカの子孫たちも所在不明だと話している[10]

出典[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 土佐藩出身の坂本龍馬が率いた海援隊の支援・監督者で、龍馬亡き後は、1868年の戊辰戦争開始後の海援隊を率いて長崎奉行所を接収し、長崎を管轄するなど倒幕活動に尽力した。維新後はグイド・フルベッキが草案し結成された岩倉使節団の一員として各国の司法制度の調査も行っている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 村瀬寿代「フルベッキの背景 : オランダ,アメリカの調査を中心に」『桃山学院大学キリスト教論集』第39号、桃山学院大学総合研究所、2003年3月、55-78頁、ISSN 0286973XNAID 110000215333 
  2. ^ 平沢信康「近代日本の教育とキリスト教(7)」『学術研究紀要』第18巻、鹿屋体育大学、1997年9月、31-42頁。 
  3. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 『立教大学一覧』 昭和14年度
  4. ^ 石田三雄「明治の群像・断片[その9]:外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本」『近代日本の創造史』第14巻、近代日本の創造史懇話会、2012年、35-54頁、doi:10.11349/rcmcjs.14.35ISSN 1882-2134NAID 130003354414 
  5. ^ a b 崎陽の群像 長崎さるく『世界で一番美しい港、それは長崎』 2021年2月6日
  6. ^ 井上篤夫 『大隈重信、岩倉具視ら「幕末の獅子たち」を惹きつけた宣教師「フルベッキ」…その魅力の正体』現代ビジネス 2022.09.30
  7. ^ 西日本シティ銀行 ふるさと歴史シリーズ「北九州に強くなろう」 No.9 末松謙澄 平成7年7月
  8. ^ 名古屋大学大学院法学研究科・人事興信録データペース 加賀美繁子 第4版 大正4(1915)年1月]
  9. ^ 舎人学校『「フルベッキ写真」に関する調査結果』慶應義塾大学 高橋信一 2007年1月15日
  10. ^ 中島耕二「フルベッキ博士の生涯と日本の近代化」『新長崎学研究センター紀要』第1号、長崎外国語大学、2022年3月、175-193頁。