パリ外国宣教会

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パリ外国宣教会本部(パリ・バック通り128番地)

パリ外国宣教会 (Missions Etrangères de Paris; 略称MEP) はパリミッション会とも呼ばれ、フランスパリに本部を置くカトリック教会の男子(司祭)の宣教会。1653年にフランソワ・パリューによって設立された宣教会で、当初より東アジアの宣教を担当している。明治以降の日本のカトリック教会の再建に携わった。「パリ外邦伝教会」と訳されることもある。現在の日本管区長は、オリヴィエ・シェガレ師(カトリック社会問題研究所長)。

会の概要[編集]

入会の条件はフランス語母国語とするカトリック司祭である事で、会員にはフランス人の他ベルギー人、スイス人などがおり、近年は非フランス語圏のインド人、韓国人等アジア系の入会も認められ、現在日本において韓国人の司祭(宣教師)も活動している。現在、同会の日本管区本部は東京教区司教座聖堂の近くにあり、21世紀初頭の現在も40名余りの会員が北海道から九州までの日本全国で働いている。

日本宣教史[編集]

1881年

日本は17世紀以来、弾圧が徹底し布教の術がなかったが、状況が変わり始めたため、1838年にバチカンの布教聖省の委託により、パリ外国宣教会は日本へ再宣教の準備を開始した。1844年(弘化元年)テオドール=オギュスタン・フォルカード神父が琉球に入り、日本語を勉強しながら日本入国の機会を狙った。1858年(安政5年)、幕府は米・英・蘭・露・仏5か国と修好通商条約を締結し、外国人居留地内に限っての教会建設を認めた。これをうけて1859年9月、横浜にセラファン・ジラール 神父が上陸。1863年にルイ・テオドル・フューレ神父が長崎に赴いた。1864年(元治元年)12月29日、長崎に大浦天主堂を完成し、フューレ神父にかわって天主堂を完成させたベルナール・プティジャン神父が初代主任司祭となった。

その3ヵ月後の翌1865年(慶応元年)イサベリナ杉本ゆりら長崎浦上村の隠れキリシタン達がフランス寺と呼ばれた同天主堂を訪れて信仰を告白し、隠れキリシタンたちの存在が明らかになった。このニュースは250年間の迫害を超えたキリシタン発見として世界に大きな驚きをもって伝えられた。翌年、プティジャンは再宣教後初の日本司教となった。

大浦天主堂1933年(昭和8年)に旧国宝保存法による国宝に指定され、1953年(昭和28年)に日本最古の西洋建築として文化財保護法による国宝に指定された。

日本で活躍した主な宣教師[編集]

他国への宣教史[編集]

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ベトナム李氏朝鮮などへも宣教師を送り出している。特に、ピエール・ピニョー阮朝建国に関わったことで有名となったが、彼の死後誕生した阮朝ではキリスト教は弾圧され、多くの宣教師が殉教した。同様にキリスト教を弾圧していた李氏朝鮮、清においても多くの宣教師が殉教している(丙寅教獄など)。伊藤博文を暗殺した安重根がパリ外国宣教会の信者であったとする説がある。

参考文献[編集]

邦文[編集]

  • 中島昭子・小川早百合訳『フォルカード神父の琉球日記 幕末日仏交流記』中央公論新社、1993年 ISBN 4-12-201987-7
  • フランシスク・マルナス『日本キリスト教復活史』みすず書房、1985年 4-622-01258-8
  • 中島昭子「フォルカード神父とカトリックの日本再布教」、岸野久編『キリシタン史の新発見』(雄山閣、1996年)所収
  • 小川早百合「19世紀西欧における琉球情報と宣教師」岸野久編『キリシタン史の新発見』(雄山閣、1996年)所収

欧文[編集]

  • Augustin Fourcade, L'apparition à la grotte de Lourdes en 1858, Institut des Sœurs de la Charité et de l’Instruction chrétienne de Nevers Paris, 1872.
  • Franscisque Marnas, La "religion de Jésus" ressuscitée au Japon dans la seconde moitié du XIX e siècle, Paris, Delhomme et Briguet, 1896.
  • Edmond Marbot, Nos Évêques. Vie de Mgr Forcade, archevêque d’Aix, Arles et Embrun, Aix en Prevence, A. Makaire, 1889.
  • Gilles van Grasdorff, La belle histoire des Missinos étrangères 1658-2008, Paris, Perrin, 2007.
  • Gilles van Grasdorff, À la découverte de l'Asie avec les Missions étrangères, Paris, Omnibus, 2008.

脚注[編集]

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  1. ^ 1860年11月18日フランス北東部のセーヌ河畔にある町シャロンで誕生。幼くして両親を亡くし祖母や従姉妹に育てられ、子供のための神学校を卒業。1885年にパリ外国宣教会に入会、1886年に司祭に叙階され、3ヵ月後の1月に来日し、関東以北を管轄する北緯聖会に配属された。神田教会麻布教会で働いた後、東京神学校で教師となり多くの科目を担当したといわれる。建築家としても才能を発揮し、浅草教会や佐渡教会では聖堂を設計、さらに神田教会や山形県鶴岡など多くの教会の聖堂設計に携わった。一方ではローマ字版の聖歌編集の編纂も行うなど、幅広い知識を発揮し活躍した。1911年9月に約25年間滞在した日本を離れ、1919年からは香港へ赴任し、教会誌の発行などに尽力した。その後、1927年フランスに戻り、パリ外国宣教会本部の出版物の編集業務を担当した。1942年11月21日死去。
  2. ^ 1849年4月27日フランスのノール・ドンケルク市で誕生。1869年パリ外国宣教会に入会、1873年司祭叙階と同時に日本派遣を命じられた。甲信越地方において伝道生活を送ったのち、1892年麻布教会主任司祭に就任、1907年には関口教会主任司祭に就任した。1918年静岡県御殿場の神山復生病院院長に就任し、ハンセン病患者の救済に尽力した。1930年11月3日死去。
  3. ^ 1857年12月17日ルクセンブルクのデュドランジュで誕生。大学を卒業後、パリ外国宣教会に入会し1886年司祭に叙階。翌年に日本へ宣教師として派遣された。盛岡築地静岡麻布横浜の各地教会においてカトリック伝道に従事した。1918年築地神学校長及び築地教会主任司祭などの勤務の傍ら、キリシタン研究に没頭し1930年『切支丹大名記』を刊行。さらに、機関誌『声』の編集長の傍ら、執筆にも精を出し「洲飛泉」、「捨井芝園」などのペンネームで作品を発表した。健康を害し、関口教会で静養に努めたが、1929年7月26日、本郷教会において死去。
  4. ^ 1852年11月3日フランスのオート・ピレネ県アルシザック村で誕生。パリ外国宣教会に入り、1876年12月司祭に叙階され、翌年5月に宣教師として日本に派遣された。東京において布教活動に従事するかたわら、教師は彼一人のフランス語学校を開設した。1918年1月29日死去。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]