正教会
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正教会(せいきょうかい、ギリシア語:Ορθόδοξη Εκκλησία、ロシア語:Православие、英語:Orthodox Church)は、キリスト教の教派のひとつ。ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる。文脈によっては「東方教会」(とうほうきょうかい)の語が正教会を指している場合もある。
日本には主にロシア正教から伝道され、現在、日本ハリストス正教会に結実している。
日本語の「正教」、英語名の Orthodox はギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" が起源で「正しい賛美」を意味する。正しく神を賛美するためには正しい伝統に基づいた信仰が必要なことから、「正統教会」も意味する。
いわゆる使徒継承教会のひとつで、その歴史は1世紀にまでさかのぼる。「最も古いローマカトリック教会(西方教会)から東方正教会が分離した」といった認識や言説は今日でも散見されるが、事実に大きく反する。ローマ教皇が東方教会に対して西方教会に対するのと同じような権限を行使し得た史実は無いからである。東方正教会もローマカトリックも自らを「使徒の教会」としているのであって、いずれかを「本家」とするような解釈は著しく片側の見解に偏ったものである。東西教会のいずれも自らを正統であると自認しており、かつ他方と起源を同じくすることを認めている。
正教会は8世紀から11世紀にかけて西方教会との差異を深め、11世紀頃に東西に分裂したとされるが、1054年の「大シスマ」とも呼ばれる東西教会の相互破門は完全な分裂に帰結したとは言えず、その後も東西教会の交流は続いていた(後述参照)。より確定的な分裂の契機となったのは1204年の第四回十字軍であり、これにより正教徒の反西方教会感情と、それによる東西教会の決別が決定的となった。
なお正教会の組織は少なく無い例外はあるものの国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。ロシア正教会・ルーマニア正教会・ギリシャ正教会・日本正教会は異なる教義を信奉している訳ではなく、これらは組織名であって教派名ではないことに注意が必要である。教派名はあくまで正教会である。
成立期において東地中海地方を主な基盤とし、東ローマ帝国の国教として発展したことから「東方正教会」の名もあるが、今日では世界五大陸すべてに信徒が分布する。各地域の教会は、国をおもな単位として、信仰と精神性と伝統を共有し、相互に独立と自主性を認め合いつつ、緩やかな連携を保っている。諸教会の諸主教・諸首座主教のなかで、コンスタンティノポリス(英語名コンスタンティノープル・現代ギリシャ語名コンスタンディヌーポリ、現在のイスタンブル)の総主教が名誉上の首位であり、全地総主教(エキュメニカル総主教)と呼ばれる。いわば、コンスタンディヌーポリ教会を名誉上の首座として尊敬しつつ、各主教を核に連帯を保っている国別の正教会の総体が正教会であるといえる。
正教会に属する日本ハリストス正教会では、イエス・キリストを、ギリシャ語・ロシア語由来の読み方でイイスス・ハリストスと読むなど、用語上、日本の慣例的な表記と異なる点がある。以下、この記事では日本ハリストス正教会で使われている用語を断りなく用いる場合がある。こうした用語については日本正教会の聖書・祈祷書等にみられる独自の翻訳・用語体系を参照。
なお、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会、アルメニア正教会も同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属する。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は東方諸教会か、#非カルケドン派正教会を参照されたい。
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[編集] 名称
東方正教会という別称は、西方教会(ローマカトリック・聖公会・プロテスタントほか)に対置される語である。両者は11世紀頃に分立した。東方教会という名称自体は多く西方で使われた語であり、正教会自身は、たんに「正教」ないし「正教会」の語を好んで用いる[1]。これは「正教」が「正しい教え」であるため、それ以上の限定を必要としないという発想に基づいているほか、現在は正教会の伝道範囲が東方に限定されていないという現状も反映されている。また自称としては「正教徒」が多く使われる。
なお、正教会と頻繁に比較されるものとしてカトリック教会(普遍教会)があるが、「オーソドクス」(正しい讃美)と「カトリック」(普遍)は元来、概念として対立するものではなかった。双方の概念は違う文脈からキリスト教の本質をいおうとしたものである。正教会もまた信経にある通りに、「一つの聖にして『公なる』(カトリケー)使徒の教会」であることを任じており、教会の普遍性(カトリコス)を深く自覚している。
英語ではギリシャで発祥した教会という意味で Greek Orthodox Church といい、これにあわせて日本では正教会を指してギリシャ正教と呼ぶことも多い。これはギリシア語圏に正教会の中心があったことから誤用とはいいがたく、日本ハリストス正教会関係者のなかにも、ギリシャ正教の語を用いるものがある。なおギリシャ正教会と呼ぶこともあるが、これは近代に設置された、ギリシャ共和国を主として管轄するギリシャ正教会(ギリシャ共和国の正教会)(Church of Greece) を指す名称でもあるため、文脈に注意する必要がある。
正教会の信仰把握においては、信徒個人の実践である信仰と、信徒の団体である教会が伝承しまた実践する信仰が一つにとけあっている。そのために信仰のあり方をいう「正教」と、正教を保持する「正教会」の二概念が、ほぼ等値なものとして使われることがある。
[編集] 教義と教会の特徴
聖書や七つの公会の決定などを含む聖伝承(Holy Tradition)を信仰の基準とした神学を有す。ニカイア・コンスタンチノープル信経(単に「信経」とも)を告白する。ほかニカイア信経、ハリファゲン信経(カルケドン信条)を承認する。これらについては、西方教会も同様である。
聖神の発出は父からのみとする(フィリオクェ問題参照)、また聖画像敬拝(崇敬)を重視し、聖画像の形式を厳格に遵守する。聖画像の形式は聖伝承のうちであり、画家による恣意的な変更は許されない。領聖は必ず聖体と尊血の両方でおこない、聖餅(聖パン)にはイーストを用いる。
古代教会スラヴ語などの聖書と奉神礼の現地語化を重視するが、一方で奉神礼の構成は、ほぼ全世界的に共通する。マリア論では「無原罪懐胎」説を承認しない。
教会はハリストス・イイススを頭とし、聖神の導きのもとでハリストスの体である教会全体が歩んでゆくものである。コンスタンディヌーポリ総主教(全地総主教)を名誉上の首位と認めるものの各首座主教や各主教が自立した主教区を管轄する。いかなる限定や条件付きでも一主教・一首座主教が教義に関して無謬の宣言を出すことは承認しない。したがって西方教会の採用する教皇首位権や教皇不可謬説はこれを認めない。
今日の正教会は五大陸にまたがり、各国地域それぞれに特徴があり多様さを許容している。その多様性は各主教・主教区の間での、聖神の恵みによる愛の交わりによる一致に基礎を置く。また西方典礼(アングリカン様式、ローマ様式その他)などさまざまな伝統(traditions)が共通の信仰のもとにも正教会の中に包摂されている。
神品の妻帯についていえば、古代には主教の妻帯も認められていた。ナジアンスのグレゴリイ(ナジアンゾスのグレゴリオス)の父は妻子がある身でナジアンゾスの主教職を務めた。中世以降は修道士のみが主教に任ぜられるため、主教の妻帯は事実上禁止されている。(ただし例外的に、妻帯者が主教に選出される場合があり、この際には妻は女子修道院に入ることになっている。)また司祭の妻帯は輔祭叙聖(叙階)時にすでに妻帯しているものにのみ認められ、輔祭職以上の教役者の新たな結婚は、再婚を含め禁止されている。このように、正教会では、司祭の妻帯を認めているが、カトリック教会では一部の例外(聖公会などプロテスタント教派からの転籍者や東方典礼に属する者など)のほか、近世以降原則としてこれを認めない。
なお現在ではコンスタンディヌーポリとローマの相互破門状態は相互撤廃されたが、これによって完全な一致が回復したわけではない。未解決の教理上の問題を双方が検討しあい、和解と一致に向かって進み始める第一歩が開かれ、今日もその対話が継続中という段階にある。よって、信仰上の完全な一致が成立していない現段階では、正教会では信徒のカトリック教会での領聖(聖体拝領、倍餐)、およびカトリック教会信徒の正教会での領聖を認めていない。シリア正教会などの、本項で詳述しているギリシャ正教とも呼ばれる正教会からは非「正統」信仰を持つされている諸教会との交流もなされているが、ローマカトリック教会と同様、他教会信徒の領聖は全教会レベルでは認められない。
[編集] 信仰の源泉
正教会の信仰の源泉は「聖伝」(せいでん、Holy Tradition)である。聖伝は、ハリストス(キリスト)自身から使徒たちを通じて教会に今日まで流れ受け継がれて守られてきたハリストスの福音、福音的生命、生活でもある。聖伝を過去から受け継ぎ、実践し、未来へと継承する教会は、「ハリストスの体」であり「聖霊が臨在」されハリストスの生命と聖霊に生かされていく。正教徒にとって、聖伝は干からびた形式や化石的な儀礼の集積ではなく、今日も正教会の信仰生活を導く生きた伝承(Living Tradition)として機能している。
「聖伝」は、特定の民族性や文化、典礼様式に内包され内在するものではない。特に今日の正教会は全世界に広がり、それぞれの民族や地域の特徴を帯びている。このようなさまざまの様式、特徴、言語、典礼様式などの諸伝統(traditions)は、唯一の信仰、「聖伝」(Tradition)と矛盾はしない。福音は、民族や各地域の文化や伝統に光を当て、変容させる。それぞれの地域や時代の教会も同様である。しかし福音は、特定の民族性や文化にのみ身を籍ったり内在化するのではない。よって、特定の文化、民族性に固有の特徴、ましてや国家を正教性と同一視することはできないし、普遍的な「正教文化」なるものが存在するわけでもない。
「聖伝」の核心は「聖書」である(下記「聖書の扱い」の項を参照)。次のようなものが聖伝中重要な要素となる。
[編集] 聖書の扱い
聖書は聖伝の中から生まれ、聖伝の中核をなすものと正教会では考える。聖書に並ぶ権威を持つ文書や伝承は存在しない。聖書は聖伝の基礎であり、聖伝を確証する基準でもあり、聖伝中の聖伝といえる。このため聖伝を保持する教会のなかで読まれるとき、はじめて聖書の正しい理解が可能になると考える。
正教会で用いる旧約聖書の底本は今日二種類ある。ユダヤ人が伝承したマソラ本文版と、ギリシャ語に翻訳された七十人訳聖書である。七十人訳は使徒たち、初代・古代教会の教父たちも用い、教会の中で広く用いられてきたという歴史がある。この二つの旧約聖書は、細部では少なからぬ相違もあるが、教会はこの二つの伝承を、ともに「旧約聖書」として受け入れている。一説に正教会は七十人訳しか承認しないとも言われるが、誤りである(マソラにない部分については、教会によって諸見解がある)。
公祈祷である奉神礼では一年を周期として新約聖書が通読されるが、黙示録は朗読されない。 旧約聖書は聖詠経(詩篇)が随所で朗読・歌唱される。その他、大斎期間、イサイヤ書、創世記、箴言がほぼ通読される。また大斎期には聖詠経全文が合せて二回通読されることになる。 旧約聖書からの朗読は多く祭日の前日の晩課においてなされる。これをパレミヤといい、特に復活祭・降誕祭・神現祭・旧約の聖人を記憶する祭には多くの箇所が朗読される。 また聖詠経の中の語彙を用いて、新約の信仰に一致するようにアレンジした祈祷文が編集されることも多い。
[編集] 日本語の正教会訳聖書
日本においては、明治時代にニコライと中井らにより「新約聖書」が全訳された。今日も用いられている『我等の主イイスス・ハリストスの新約』である。教会スラブ語聖書を底本に、ギリシャ語、欽定訳聖書、漢訳なども参照しつつ翻訳されたもので、日本正教会では今日も奉神礼ではこの翻訳のみが使用される。 旧約部分については奉神礼で頻繁に使われる聖詠(詩篇)が『聖詠経』として全訳されたが、他の部分については、各祈祷書の旧約朗読箇所(パレミヤ等)の部分的な訳のみにとどまり、全訳は完成されず今に至っている。旧約部分の翻訳は七十人訳ないし七十人訳のスラブ語訳からの訳ではなく、マソラ本文を基礎として七十人訳も勘案して訳された、ロシア正教会シノド版ロシア語旧約聖書からの訳であることが判明している。
[編集] 公祈祷と諸祈祷
本項目:奉神礼
正教会における祈祷は、聖伝の一部とみなされている。正教会においては、祈祷は歌であるとしばしばいわれる。たんに言語だけで行われるのではなく、生命のリズムに満ち、五感のすべてを駆使して神に感謝し嘆願し讃栄する。教会がこの世で神へ向けて行う全てが祈祷であり、それは優れて他の信者との交わりのうちに聖神の恵みの許で実現される信仰の営みである。
公祈祷は、通年の教会暦に従い、あるいは時刻に応じて行われる。公祈祷は司祭以上の神品によって行われる公的な祈祷である。ギリシア語ではレイトゥルギア(リトルギア)といい、人々の/公共の奉仕を意味する。これを訳して奉神礼と呼ぶ。但し、公祈祷のみを奉神礼と呼ぶのは狭義の意味で用いられる場合であり、広義に言われる場合には個人的に行う私祈祷も奉神礼に含まれる(私祈祷については後述する)。
奉神礼のうち、もっとも中核にあるのは聖体礼儀である。信者が集ってハリストスの生涯、とりわけ死と復活を記憶し、領聖(聖体をいただくこと)を行い、神とのつながりを新たにする。聖体礼儀においては、必ず使徒書簡と福音書から朗読が行われる。領聖に先立っては、痛悔機密を受けなければならず、またその日の真夜中からの禁食(斎 ものいみ)が求められる厳粛なものであり、また神と一体となる喜びの祭である。聖体礼儀は毎週の主日をはじめ、十二大祭をはじめとする種々の祭において行われる。また奉神礼には、時課をはじめとする時刻ごとの祈祷、洗礼などの機密の執行、パニヒダ(死者の記憶)、モレーベン(感謝祈祷)、種々の成聖式などがある。正教会の奉神礼では、祈祷文(祝文)はあらかじめ定められており、構造的に自由な即興的な祈祷がなされることは一切ない。また、古来よりの決まりとして、主日の聖体礼儀をはじめとする公祈祷では立つ姿勢を基本とする。とくに福音朗読と信経の告白では一同に起立が求められる。
ほとんどの公祈祷は基本的に歌う。歌唱でなく朗詠がなされるもの(誦読)も、伴奏用器楽を一切用いないので歌うに等しい。もっとも正教会内で広く用いられているビザンチン典礼の教会の場合、聖堂にはイコノスタシスをはじめ随所に聖像を安置する。公祈祷の中では、これらの聖像に向けての崇敬が行われる。蝋燭の使用も好まれる。蝋燭は神の本質である「光」の象りであり、また「立ち上る祈り」「信徒に下される聖霊」の象りでもある。公祈祷では、乳香を中心とした香を振り香炉で焚く。振り香炉はまた、イコンや信者(精確には、そのうちなる神の像)に対して振り敬意を表す炉儀にも用いられる。炉儀は神品が行う。敬意を表すには、俯礼(おじぎ)や伏拝(身体を投げ出し、額を地につける、叩拝とも)、あるいは接吻などの手段によることもある。
これら公祈祷のほかに、信者には私祈祷が奨励されている。祈祷の文言は、公祈祷同様、正教会の伝統のうちから編まれた祈祷書を用いることが勧められている。原則として、起床後の朝の祈りと就寝前の夜の祈りが勧められており、時課を簡略化したものを用いる。聖三祝文のような幾つかの祈祷は、公祈祷で用いるものと共通である。祈祷文のなかには聖書から直接とられたもののほか、4世紀など古代に遡るものも多く、全世界で共通のものが綿々と用いられている。他、食事のときの祈りや就寝直前の祈りも広く行われる。私祈祷においても、聖像・蝋燭・香炉の使用を伴うことは多く、とくに信者は自宅に必ず聖像をおくことを奨励される。
[編集] 教会芸術
正教の教えを可視化・可感化する教会芸術、すなわち聖像(イコン)などの教会美術、聖堂における教会建築、祈祷を歌唱する聖歌なども、聖伝の一部である。聖歌については奉神礼の項目も参照。
[編集] 建築
関連項目:ビザンティン建築、東欧諸国のビザンティン建築
歴史的には、個人の家での集会やカタコンベでの礼拝、バシリカ様式の教会などを経験してきた正教会ではあるが、現在もっとも一般的に正教会の聖堂建築様式として採用されているのは、ビザンティン式といわれる様式である。これはバシリカ様式を変形したもので、三つの張り出し部をもつ、ふくらんだ長方形をしている。この形は舟(ノアの箱舟)を象っているとされ、舟を模して内部に木を張ることも行われる。張り出し部は左右の側面にひとつずつ、最奥にひとつ設けられる。西方教会の聖堂と異なり、ビザンティン式では、張り出し部を長く張って側廊とはすることはない。
ビザンティン式聖堂は必ず東を奥にして建設される。開口部は西に正面玄関を設ける他、左右の側面にも扉を設けることが普通である。東はハリストスを象徴する。内部は三つの部分に分かたれる。正面玄関を入ったところを啓蒙所(けいもうじょ)といい、古くは未洗礼者は啓蒙所にのみ入ることを許された。啓蒙所に続く部分を聖所(せいじょ)といい、建築用語でいえば内陣部にあたる。古くは啓蒙所と聖所の区別は明確で扉などで区切られていたが、現代ではその区別は必ずしも明快ではない。聖所の奥に至聖所(しせいじょ)がおかれ、区切りとしてイコノスタシスと呼ぶイコンで装飾した障壁が立てられる。至聖所は聖体礼儀の中核である聖変化がおき、先備聖体礼儀や病者のために先備された聖体が安置されるなど神聖な場であり、立ち入るには司祭の祝福(許可)が必要とされる。なお西方と異なり、聖体そのものが礼拝対象とされることはなく、したがって聖体櫃が聖所に安置されることはない。
またこの他、聖堂には通常、鐘楼が付属する。鐘は公祈祷の開始や終了、やむなく出席できなかったもののために聖変化の瞬間を告げるなどの目的でならされる。
大聖堂など、多数の信者を入れる必要のある教会建築では、集中方式によってドームを作り、巨大な空間を実現したものも多い。ハギア・ソフィアなどがその典型である。この場合も、内部の配置は上記と同じである。
教会の内部装飾には、板絵イコンを取り付けるほか、フレスコ画、モザイク、ステンドグラスなどによりイコンを描きだすこともある。とくに正面玄関の上には門を象徴とする生神女マリヤを描くことがしきたりとされている。
[編集] 美術
聖像(イコン、ギ:エイコーン)は、写実よりも超自然のものを思い起こすための像であることを旨とする。彫像は感覚的に過ぎるとして基本的に用いられない。聖像の形式は逸脱を防ぐことを目的に、厳格に決められている。新しい画像を用いることに慎重であり、それぞれの図像は、多く古来伝承された型を教会会議が承認したものを用いる。なお、いったんある程度流布したものが、教義の誤解を招くと禁止されることもある。中世初期には聖像破壊運動が数次行われ、その教義上の妥当性が議論されるとともに古来伝承された多くのイコンが失われたが、第2ニカイア公会議議決(787年)以来、イコンを用いることは「見えざる神の見えるものからの想起」「ハリストスが托身(受肉)によって聖とされた人間性は、神の像をあらわすに十分な品位と能力を備えている」として正当化されている。
[編集] 斎(ものいみ)について
西方教会では、第二バチカン公会議以降、斎の義務がゆるやかになったが、正教会では今でも食物制限を伴う「斎」が教義上重要な位置を保ち、信者の生活の習慣となっている。
斎は主に食物摂取の規定に言及されるが、斎の期間は他の遊興なども控え、行いを慎み、祈りを増やし、学びの機会を積極的に設け、ハリストス・教会のための働きを増すことが勧められている。「断食」という言葉で斎を限定する事は避けられる傾向がある。
斎についてのキリスト教文書の最古の規定は19世紀にコンスタンディヌーポリ総主教庁図書室で発見された1世紀の文書『ディダケー』(十二使徒の教え)である。斎の習慣は旧約時代から継承されたものであり、古代からごく最近に至るまで、東西を問わず守られていた。
斎は祭と表裏一体をなす。大きな祭には必ず厳格な斎がその前に義務付けられる。正教徒の生活は斎と祭によってリズムをつけられているといえる。
[編集] 斎の種類
斎の規定は食品を以下のように分類する。
斎は程度に応じてこれらの食品を禁止または許可するものである。 もっとも厳格な斎は、肉、魚、乾酪、酒、オリーブ油を禁食するものである。明示的に禁止されているのはぶどう酒であるが、他の酒類も避けるのが通例である。これに対して、オリーブ油以外を避けなければいけないかどうかは、論者により分かれる。
最も厳格な斎は次の時になされる。
これに対して、祭および他の定められた時節には、斎が解禁される。
- 光明週間(復活大祭につづく週) この期間はむしろ斎が「禁止」されている。
- 税吏とファリセイの主日につづく週(不禁食週間)
- 乾酪の主日につづく週 ただし肉類は禁止される
また大斎中の主日には酒とオリーブ油、生神女福音祭が大斎期間にある場合には加えて魚が許される。
なお、一般信徒の間では斎の際にも魚食は許される事が多い。上記の斎規定はあくまで標準的な修道院のものであり、一般信徒に対してはこれらに比べて比較的緩やかな斎が勧められるのが常である。しかしどの程度の斎・食物規定が信徒に勧められるかは地域・教区によって差があり、一概には言えない。
[編集] 斎の期間
もっとも期間の長い斎は大斎である。土日を除く8週間、合計四十日が最も厳しい斎に充てられる。詳細は大斎の項を参照。
これに対して短い斎は、水・金曜日および定められた祭の前の一日の斎である。領聖前の禁食を斎とみなすならば、半日に満たない斎期間もあるといえる。
これらの中間に
などの比較的長期にわたる斎がある。
[編集] 祭
教会暦も参照。
正教会の信仰生活は、1年を周期として組み立てられている。その節目をなすのが祭である。
禁欲と節制の時期である斎に対して、祭期は喜びをもって迎えられる。毎週の主日の聖体礼儀のほか、正教会には小祭・中祭・大祭等の三種類の祭日がある。 大祭は復活大祭、十二大祭、他のいくつかの祭りからなる。これに対して、ほとんどの聖人の記憶日などは中祭または小祭にあたる。 大祭、中祭・小祭の祝い方は各教会によって異なる。ただし復活大祭と十二大祭はすべての教会で祝われる。
基本的に祭日は移動されないが、小教区の教会などでは信者の便宜を図り、一部の祭日を近い主日に移動させて祝うことも行われる。
なお、正教会の多くはユリウス暦を使用しており、グレゴリウス暦を使用している西方の教会とは祭を行う日が異なることが多い。またかつては世界創造紀元という、いわゆる「西暦」とは違う紀元を使用していた。
[編集] 復活大祭
詳細は復活大祭を参照。
復活大祭とは西方教会の復活祭(イースター)に相当する正教会最大の祝祭日であり、他教派に比べ典雅華麗になる傾向がある。 それは「祭の祭」「祝いの祝い」とも称される。
復活大祭当日の深夜、聖職者が「ハリストス復活!」と告げると、信徒は「実に復活!」と応答し、復活の賛歌「ハリストス死より復活し、死をもって死を滅ぼし、墓にある者に生命を賜えり」を唱和するならわしがある。地域によっては、聖歌を数時間にわたって歌い続け、徹夜祷となることもある。
[編集] 十二大祭
移動祭日は復活大祭の日付を基準として決められる。他は固定祭日である。ユリウス暦上での日付を採用する教会では、対応する祭があるものは、カトリックと同じ日付である(ただしグレゴリオ暦上の日付は異なる)。主の降誕祭に限り、教会によってグレゴリオ暦の12月25日におこなうところもある。
☆移動祭日
[編集] 正教会に所属する教会
コンスタンディヌーポリ総主教座との一致にある教会か否かが、全世界の正教会コミュニティの中でその教会法上の合法性を満たしているかどうかの分りやすい指標となる。コンスタンディヌーポリ総主教座との一致にある事が、当該教会が教会法上の合法性を満たしている事を示すと考えて良い。ただしコンスタンディヌーポリ総主教座との一致に無い教会に対しても、どの程度の教会法上の合法性に対する疑義が他の正教会から持たれているかは個々の教会ごとに差異があり、その扱いは一定していない。
[編集] コンスタンディヌーポリ総主教座との一致にある教会
- コンスタンディヌーポリ総主教庁(全地総主教庁)
- アレクサンドリア総主教庁
- アンティオキア総主教庁
- アンティオキア総主教庁アメリカ自治正教会(元アメリカ管区)
- エルサレム総主教庁
- グルジア正教会(グルジア総主教庁)
- セルビア正教会(セルビア総主教庁)
- ブルガリア正教会(ブルガリア総主教庁)
- ロシア正教会(モスクワ総主教庁)
- ルーマニア正教会(ルーマニア総主教庁)
- ギリシャ正教会
- キプロス正教会
- アメリカ正教会
- アルバニア正教会
- ポーランド正教会
- チェコ・スロバキア自治正教会
- フィンランド自治正教会
- シナイ(山)正教会
- など
[編集] コンスタンディヌーポリ総主教座との一致にない教会
[編集] 沿革
キリスト教の歴史を参照。
古代には、ローマ帝国の管区をもとに、キリスト教会は4世紀頃から5つの総主教区――ローマ(ロマ)、コンスタンティノポリス(コンスタンディヌーポリ)、アンティオキア(アンティオケ)、アレクサンドリア、エルサレム(イエルサリム)――に分かれていた。このうちローマを除く4教会、およびグルジア教会が、正教会のもっとも古い教会として現在まで続いている。現在もっとも信徒数が多いのはロシア正教会であり、ルーマニア正教会がこれに次ぐ。
[編集] ローマ帝国の国教
4世紀、ローマ帝国はミラノ勅令でキリスト教の信仰を公認した。キリスト教はさらに国教となり、ローマの多神教にとってかわった。当時、キリスト教の中心は、ラテン語地域のローマ、ギリシア語地域のシリアのアンティオキアおよびエジプトのアレクサンドリアにあったが、新首都コンスタンティノポリスの教会は、旧首都ローマに次ぐ第二位の序列を認められた。
キリスト教を認めたのちのローマ帝国は、国内の安定と一体性の基盤としての宗教の役割を重視し、教会一般を庇護するにとどまらず、教会の人事や教義に直接かかわることも多かった。帝国分離後の東ローマ帝国もこの政策を踏襲した。一方西ローマ帝国は早くに滅び、その後西欧世界を支配したゲルマン系諸部族は必ずしもキリスト教を信仰しなかったため、西方のラテン語教会は国家の庇護をほとんど期待することができなかった。西ローマ帝国滅亡後、西方世界にも名目上は東ローマ帝国皇帝の主権が及んでいたが、実際の統治権が及ぶことはまれであった。このため西ローマ帝国滅亡後、ローマ教会の長であるローマ教皇に西方世界の行政権が認められた。このことは、西方教会の自立と組織化を促した一方、のちの東西分裂を準備することにもなった。
古代の教会にはたびたび教義に関する論争が起き、歴代の皇帝はそのつどあるいは二派の融和を図り、会議を招集し、あるいは一方を正統とし他方を排除する命令を出した。全教会が召集されるものを全地公会(公会議)といい、その決定は全教会に適応された。一方、地方で行われた会議を地方公会ないし教会会議といい、その決定はその地方に適応された。ただし教義に関する地方公会の決定も、基本的には尊重され、他の地域に受け入れられていった。そのような重要な地方公会の決定としては、4世紀のカルタゴ教会会議における新約聖書の範囲の確定などがある。
5世紀に単性論がエジプトを中心に盛んになり、アレクサンドリアでは二派がそれぞれ独自に主教を擁立する事態に至った。単性論問題は教義論争の枠を超え、皇帝の側近をもまきこむ教会内の政争に発展し、これを収拾するため451年召集されたカルケドン公会議(ハリファゲン全地公会)は、単性論を異端として退けた。このとき単性論論者は、己を排斥した両性論者を「メルキテス」(皇帝派)と呼んだ。異端として排除され独自の教会をたてた東方の諸教会を総称して反メルキト派というのはこれに由来する。アンティオキアでも単性論教会が分立した。正教会がメルキト派を自称することはほとんどなかったが、正教会は東ローマ帝国の国教として栄えていった。その象徴的建造物が6世紀コンスタンティノポリスに建造された聖ソフィア大聖堂である。現在でも世界最大級の大きさをもつこの教会には、1453年の東ローマ帝国滅亡までコンスタンディヌーポリ総主教座がおかれた。
[編集] イスラム教の台頭と聖像破壊論争
7世紀にイスラム教が成立すると、アンティオキア、アレクサンドリア、エルサレムの三主教座を含む地域はイスラム教徒の支配域に入った。キリスト教徒は信仰を許されたものの、ズィンミーとして厳しい差別と抑圧を受けた。これにより、キリスト教圏に残ったのはローマとコンスタンティノポリスだけとなり、ローマ皇帝の座所でもあるコンスタンティノポリス教会の権威が強くなった。
イスラム教は、礼拝に像を用いることを厳しく禁じた。このため礼拝に聖像を用いるキリスト教を偶像崇拝であると非難した。この非難はイスラム教徒から始められたものであったが、偶像拒否はキリスト教の教義にもあり、小アジア(現在のトルコ南部)を中心に一部のキリスト教理論家は礼拝から一切の像を退けるべきだと考えるにいたった。8世紀に入りこの主張は公然となされるようになり、大規模な聖像破壊運動に発展した。聖像破壊主義は伝統的な聖像崇敬と衝突するため教会を二分する論争になったが、皇帝レオーン3世は聖像破壊主義を支持し、726年聖像破壊令を出した。レオーン3世と息子のコンスタンティノス5世は2代に渡って聖像破壊主義を取り、反対者を追放あるいは投獄し、あるいはその拠点である修道院を没収した。修道士はイコン崇敬を実践また奨励したのみならず、修道院は聖像制作の場であったため、これは聖像崇敬そのものに対する大きな打撃となった。これに対し、聖像破壊運動が及んでいなかった西方教会に助けを求め、西方に逃亡した聖職者たちもあった。一般信徒、ことに首都コンスタンティノポリスや帝国のヨーロッパ側では聖像破壊運動をほとんど支持せず、修道士や信徒などは広範な抵抗をみせ、反乱が起きた地方もあった。787年、皇后エイレーネーは事態を収拾するため第七全地公会を召集した。全地公会は聖像使用の教義を確認し、聖像破壊主義を否定した。
[編集] 東西の分裂
詳細は東西教会の分裂を参照。
8世紀から12世紀にかけて、フランク王国を中心とする西ヨーロッパの独自の発展に伴い、ロマ総主教(教皇)を首座とする西ヨーロッパ・北アフリカ管轄地方教会(のちのカトリック)は、その他の地方諸教会との交わりから徐々に離れるようになった。聖像破壊運動においてローマ教皇と東ローマ皇帝が対立したことが、この離間に拍車をかけた。西方教会管轄地にはもとより自治が許されていたが、800年、ローマ教皇レオ3世はフランク王カールを「ローマ皇帝」として戴冠し(カール大帝)、東ローマ帝国からの完全な政治的独立を主張するにいたる。
東西交流の衰退は西方における教義の独自な発展を促し、両教会の教義上の差異は問題となるまでに著しく開いた(フィリオクェ問題参照)。1054年、コンスタンディヌーポリ総主教(エキュメニカル総主教)ミハイル1世キルラリオスとロマ総主教座=ロマ教皇(ローマ教皇)レオ9世は、ローマ教皇の権威・権限や、エキュメニカル総主教の称号が意味する権威についての理解の差が使節交換の際に顕現した事がきっかけになり、「相互破門」した。これを東西分裂、または大シスマなどと呼ぶ。しかしこの時の分裂は決定的なものとは云い難く、東西教会の交流がこの相互破門を境にして唐突に断絶したと考えるのは誤りである。この事件の前後に西方教会でローマ教皇が永眠している事や、東方教会に対する破門が西方教会使節であったフンベルトの独断であった面が強かった事を鑑みると、そもそも破門が破門として有効であったのかどうかすらも疑わしい。正教会側は、「正教会は使節:フンベルト一行のみを破門した」と捉えてきた。
むしろ決定的分裂年代は、1204年の第四回十字軍に求められるべきである、とするのが現代の専門家の間の有力説であり、これまでの教科書的世界史理解の見直しが必要であろう。
その後、幾度か和解の試みがなされたが、完全な教義上の一致をみるには至っていない。むしろ和解のための対話は、かえって細部における両教会の差異の固定化につながっていった。このような対立の深まりは、両教会の政治上の緊張の深まりを反映している。そのような緊張の原因としては十字軍による東方世界の破壊と略奪が挙げられる。十字軍は占領地の小アジア=アナトリアやパレスチナ、(現レバノンを含む)シリアにおいて、暴力によるラテン典礼の押し付け、および教会機構の簒奪・支配を行なった。すでに第一次十字軍においても、十字軍による正教会信徒の殺害が行われ、エルサレム総主教が追放され、カトリックによる司教の任命が行われた。1204年の第四次十字軍は正教会の首座教会があるコンスタンティノポリスを陥落させて略奪・虐殺行為を行い、ここでもラテン典礼の押し付けをおこなった。こうしたローマカトリック勢力による暴力は、正教会信徒の間にローマカトリックに対する根強い不信感を植え付けることとなった。
また、1453年のコンスタンティノポリス陥落に際しては、フェラーラ・フィレンツェ会議で援軍の派遣を決議しておきながら、(西欧内で諸国の内紛があったことも影響したとはいえ)事実上見殺しにした。さらに、ロシアなど東欧一帯で、この公会議でカトリックの教義を受け入れることを主張したものが、破門されてカトリックに走り、正教会の勢力圏内であったウクライナなどに教皇庁の支配を受けるユニア教会(東方典礼カトリック教会)がおかれた。これは当時の正教会側からみれば、分断を固定化するとともに、その土地での正教会の管轄権を否定する行為であり、「ローマカトリック教会は対話や交渉に値しない」という印象を与えることとなった。現在もロシア正教会はローマ教皇庁との対話の条件として、ユニア教会がロシア教会側に復帰することを求めている。16世紀以降にカトリックが対抗宗教改革の一環として、ブレスト合同にみられるように、東欧や東地中海地域での東方典礼カトリック教会の設立を進めたこともさらに両教会の角逐を深めた。なおバルト海沿岸ではこれにルター派教会およびカルヴァン派の宣教も加わり、東西教会の緊張は複雑な様相をみせた。
こうした長年の政治的緊張は、教義上の対立以上に、東西の教会一致に決定的な痛手と否定的作用をもたらした。2003年の教皇ヨハネ・パウロ2世のギリシャ訪問の際、第四回十字軍の略奪及びコンスタンティノープル見殺しについての謝罪があり、正教世界の感動を呼んだことは記憶に新しいが、東西教会間の問題はなお山積している。なお相互破門状態は1965年12月に取り消され、相互理解と和解に向かって双方が歩み始める出発点となった(但し先述の通り「相互破門」はそもそも破門として有効であったのかどうか疑わしい程度のものであり、解決が比較的容易な問題であったとも言える)。
しかし保守派の現ローマ教皇ベネディクト16世は、就任早々にローマ教会の主導権を主張したために、正教側の反発を受けている。教皇首位権はそれぞれが自立している正教会の諸教会には到底受け入れられるものではなく、東西教会の再統一にはまだまだ克服すべき障壁が多いのが現状である。 他方、2006年11月30日、ローマ教皇ベネディクト16世は、コンスタンティノープル総主教座を公式訪問し、合同ミサを執り行った。このとき、「我が兄弟」と相互に呼び合ったことにキリスト教世界が感動したことは記憶に新しい。
[編集] スラヴへの宣教
コンスタンティノープルからは、スラヴ地域への宣教がなされた。
9世紀にギリシア人宣教師キュリロス(キリル)とメトディオス(メフォディ)の兄弟は、無文字言語であったスラヴ語のために文字を考案し、聖書や祈祷書をスラヴ語に翻訳した。かれらの翻訳したスラヴ語を教会スラヴ語といい、今日もスラヴ語圏の教会では、このときの翻訳が礼拝で使われている。またキュリロスが考案したグラゴル文字は、彼の名を冠したキリル文字へ発展し、スラヴ文化の形成に大きく寄与した。
二人とその弟子たちにより、モラヴィア、セルビアに宣教がなされた。ただしモラヴィアではローマ教皇から派遣されたフランク族の宣教師と対立し、追い出されることになった。
トルコ系の遊牧民族ブルガール人がアジアより移住し、7世紀末にブルガリア帝国を建てていたブルガリアにも、870年に正教会が建立された。ブルガリアでもスラヴ語典礼が行われた。もともと数の少なかったブルガール人は、スラヴ人と同化し、11世紀頃までに吸収されていった。ブルガリアの支配下にあった現在のルーマニアは、古代から正教会に属しており、ラテン語から発展した言語が使われていたが、ここにも、スラヴ語典礼が強制された。
10世紀にはキエフ大公国のウラジーミル1世が改宗し、キリスト教を国教としたことでロシア(ルーシ)正教会が成立した。ウラジーミル1世の改宗は、現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシアがキリスト教化される端緒となった。
のちに、モンゴル帝国やオスマン帝国との対峙を経て、正教会の信仰と典礼は、スラヴ民族が民族的一体性を自覚し、また深めていく上で、大きな役割を果たすことになる。
[編集] ヘシュカズムの体系化
もともと正教会には神秘思想的傾向が強かったのであるが、この流れを決定的にしたのは14世紀のグレゴリオス・パラマス(グレゴリイ・パラマ)である。14世紀初頭、恩寵の非被造性を説き、非被造の恩寵が人間を照らし、神の働きを知ることへと導くとした。そして霊的な指導のもと、徹底した、しかし機械的でない祈り、「祈らずして祈る」者のみが、神の作られざる恩寵の光に与り、恩寵によって神の性質と等しいものになる(テオーシス、神成、en:Theosis)と説いた。この過程で、絶対的な静寂(ヘシュキア)を体験すると言う。これをヘシュカズムという。この教えは正教の公式の教義となり、またそのような祈りのために「イエスの祈り」と呼ばれる短い祈祷文が定着した。この祈りは「主イイスス・ハリストス、神の子や、我罪人を憐れみ給へ」(:Jesus Christ, Son of God, Have mercy on me, a sinner")という短い章句を繰り返すもので、修道士らによって伝播し、今日でも広く行われている。
[編集] オスマン帝国・ロシア帝国と正教会
オスマン帝国が東ローマ帝国を蚕食していった時期は、ロシアではモンゴル帝国の影響が強く、キエフ大公国が衰え新興のモスクワ大公国が進出する時期にあたっている。1329年、ロシア大主教座は現在のモスクワに移転した。
1453年のコンスタンティノポリス陥落後、モスクワは「正教最後の砦」を自称する。また1547年以降、モスクワ大公はロシア皇帝を自称する。首都モスクワは「第3のローマ」「第3のエルサレム」と呼ばれた。このような宗教と結びついた民族意識の高揚は、一面で民族の結束につながる一方、選民意識と他民族の土地への領土拡大を正当化する意識をロシア人に与えることともなった。1589年、ロシア正教会は独立教会となり、モスクワ総主教のもと、コンスタンティノポリスの支配を離れた。
ロシア正教会は帝国の国教とされ、カトリックなど他の宗派の活動は制限された。反面ピョートル1世ら皇帝の正教会への介入と統制は、正教会史上類をみない厳しいものであった。ピョートル1世は西欧化政策を教会にも及ぼし、北欧のプロテスタント国の国教制度にならう統制制度を導入した。1700年にモスクワ総主教アドリアンが没すると、後任をおくことを禁じ、皇帝が直接任命する聖務会院をかわって設置した。また1721年には総主教制を廃止し、聖務会院が教会と修道院を管理するとした。この体制はロシア革命が起こる1917年まで続いた。国家の介入は高位聖職者にもおよび、また修道院の閉鎖と財産の国有化が推し進められた。ドイツ出身のエカチェリーナ2世も、教会への統制を厳しくした。この統制のもとで、ロシア教会は精神的に荒廃したとしばしばいわれる。この荒廃の時期は18世紀末まで続き、後述する『フィロカリア』の紹介を中心とした静寂主義が修道院を拠点に広まったことで、ロシア正教会の信仰生活は復興したといわれる。
一方、オスマン帝国の側も一応はキリスト教信仰を認めたものの、とりわけ帝国の中期以降はイスラームの絶対的優越性の理念の下クリスチャンは厳しい迫害と抑圧に苦しみ、帝国領内での神学教育の禁止やイスラーム教徒への布教禁止など宗教活動でも制限を受けた。このため聖職者の養成は、ローマなど西方に留学して神学を学ぶことにより行われた。これは東方正教会のなかにローマカトリック教会の影響を強めることになった。
1782年、ギリシアで聖歌集『フィロカリア』が出版された。タイトルはギリシア語で「美を愛する」を意味し、ここでいう美とは神のことである。アト