禁教令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

禁教令(きんきょうれい)は、ある宗教を信仰したり布教したりすることを禁ずる命令(法令)のことである。特にキリスト教を禁じていた物を指し、キリスト教禁止令とも呼ばれる。禁制扱いになった宗教は邪宗門と呼ばれた。

通常、単に禁教令と言った場合には1612年慶長17年)及び翌1613年江戸幕府が出したキリスト教を禁ずる法令を指す。本項では江戸時代のキリスト教政策を中心に安土桃山時代から明治初期にかけての日本で行われたキリスト教への禁教令について解説する。

概要[編集]

狭義の意味での禁教令は、1612年(慶長17年)及び翌1613年江戸幕府が発令したものである。広義の意味では1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令や明治政府による五榜の掲示が含まれる。もっとも早い禁教令は永禄8年(1565年)と同12年(1569年)に正親町天皇が出した追放令である。これは京都から宣教師を追放するという主旨であったが織田信長によるキリスト教政策もあってさほど効果は無かった。

これらは一口に禁教令と言っても性格は大きく異なる。正親町天皇の追放令やバテレン追放令は、その語が示すように宣教師の追放を目的とした主に布教権の禁止であり、キリスト教自体への弾圧は主目的ではなく、キリスト教徒に対する強制改宗というような(つまり「禁教」)政策は取られなかった。

実際にキリスト教への強権的な措置が取られるのは秀吉が1596年に出した禁教令からで、この時は26名のキリスト教徒が処刑されている(日本二十六聖人)。ただし、この時も主にはフランシスコ会に的を絞った物で、禁教のための継続的な政策が取られたわけではなく、後を継いだ江戸幕府もそれに倣っている。

日本において政策としてキリスト教への弾圧が始まるのは1612年の禁教令からであり、明治初期まで続いた。

豊臣秀吉による禁教令[編集]

1587年の禁教令(バテレン追放令)[編集]

織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉は当初は信長と同様にキリスト教容認の立場を取っていた。しかし、九州平定後の1587年7月(天正15年6月19日)にキリスト教宣教の制限を表明する。これは宣教師(バテレン)の国外退去を求める物であったが、布教に関係しない外国人(商人)の出入りは自由なままであり、また(強制性を伴わない限りにおいて)個人でキリスト教を信仰すること自体も許されていた。大名のキリスト教への改宗についても秀吉の許可が必要だったという点を除けば可能であったが、実際には政治的圧力によって既にキリシタン大名であった黒田孝高が棄教したり、高山右近が信仰のために地位を捨てるということもあった。一方で小西行長有馬晴信のようにキリスト教徒のままでいた者もいた。

また退去を宣告された宣教師たちは平戸に集結して抗議を行い、南蛮貿易を重く見た秀吉は以後黙認する形を取っている。結果として、追放令以後も宣教師達は(制限付きだが)活動することはできた。むしろ、この後、関ヶ原の戦い前後まで毎年1万人余が新たに洗礼を受けていたなど、キリスト教の広がりは活発であった。

秀吉が禁教令を発令した目的には諸説あり、「外交権、貿易権を自身に集中させ国家としての統制を図るため」「九州で日本人の奴隷売買が行われていると知り、それを禁止させるため」「キリスト教徒による神社仏閣への迫害」などがある。

バテレン追放令は日本で最初の国策としてのキリスト教への制限ではあるが、キリスト教やその信者への弾圧が目的ではなく、また形式的な物であったことに注意が必要である。

1596年の禁教令[編集]

秀吉は1596年に再び禁教令を出し、さらに京都で活動していたフランシスコ会(一部イエズス会)の教徒たちを捕らえて処刑した(日本二十六聖人)。

この禁教令が発令された理由についてはよく「サン=フェリペ号事件」が挙げられる。通説においては、サン=フェリペ号の船員が宣教師はスペインが領土征服のための尖兵であると述べたことで、秀吉がキリスト教を警戒したためだとされる。一方でやはり信徒に対する強制改宗などの政策は取られず、京都のフランシスコ会以外には弾圧は加えられなかった。キリスト教は建前上は禁止だがお目こぼしを受けていたという情勢下で、フランシスコ会を始めとする新参の修道会の活動が目に余ったために秀吉が弾圧に踏み切ったという説もある(古参のイエズス会は活動の自粛を促していたが、新参の修道会はそれを無視していた)。

ただし、この時も一般教徒に対する大きな迫害などは行なわれていない。

「禁教令」というのはない。あるのは「定」としての伴天連追放に関する通達。日本国で禁止されていた薬物の使用持ち込み。麻薬(阿片等)。切支丹とは、当時丹は薬の末尾(仁丹、万金丹)江戸時代は「丸」が多い、現在は剤を使う。きりしたん国(キリスト教徒の住む国)の人が手術のあとに痛み止めとしてアヘンを使った。仏法で禁止されていた四「肢」五体を「切」る行為(きりしたん、切支丹と掛詞になっている)。そしてアヘンの使用。一般の下痢、痛み止めにも使用した。医者ではなく宣教師が使用したことが問題であり仏法からみて「邪法」だった。出島開港後は瀉血療法、水銀療法、アヘン等日本で禁止されていた治療法も自国民が自国民に医師が出島内で行うことで見てみぬふりをしていた。当時、アヘンの使用、持ち込みは十字架による磔、火刑だった。欧州と日本の薬に対する規則、法律の違いが悲劇を生んだ。

江戸幕府による禁教令[編集]

禁教令発布まで[編集]

江戸幕府はキリスト教に対してはこれまでと同様の政策を取り、弾圧と呼べるような政策はとっていなかった。1602年にはドミニコ会アウグスティノ会の宣教師達が来日して日本に本格的な布教をし始めており、1596年に秀吉の弾圧を受けたフランシスコ会も、1603年に代表ルイス・ソテロ徳川家康秀忠と面会し、東北地方への布教を行っている。

しかし、幕府の支配体制に組み込まれることを拒否し、かつ活動は活発化していったキリスト教に対して幕府は次第に態度を硬化させていった(日本の情勢に詳しかった古参のイエズス会は秀吉の時代の時と同様に慎重な対応を求めたが、新参の修道会には受け入れられなかった)。日本との貿易権を狙うイギリスやオランダの忠告や、神仏勢力の暗躍もあった。

そんな中で1609年にマードレ・デ・デウス号の事件が発生する。それ自体はキリスト教と何の関係も無かったが、その事件処理を巡って当事者でありキリシタン大名として有名でもあった有馬晴信目付役で同じくキリシタンであった岡本大八の収賄事件が発覚する(岡本大八事件)。

この事件をきっかけとして幕府はキリスト教の禁止を行い始める。

慶長の禁教令[編集]

江戸幕府は慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告する。これ自体はあくまで幕府直轄地に対する物であったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め同様の施策を行った。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。

これは布告された教会の破壊と布教の禁止以外にも、家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分に付されるなど厳しい処置が取られた。特に旗本だった原胤信は出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されている。

その後、一連の処置を総括した「条々」が同年8月6日に出され、1612年の禁教令は一段落する。また同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した。

そして翌慶長18年2月19日(1613年1月28日)。幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。また合わせて家康は崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で23日に公布させた(これは崇伝が一晩で書き上げたと言われる)。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法となる。

この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオマニラに国外追放された。その中には著名な日本人の信徒であった高山右近もいた。

公的にはキリスト教は禁止になったが、幕府は信徒の処刑といった徹底的は対策は行わなかった。また、依然としてキリスト教の活動は続いていた。例えば中浦ジュリアンクリストファン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者もいたし(この時点で約50名いたといわれる)、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が済む区画も残ったままであった。幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、宣教師は南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためである。幕府による取締りが厳しくなるのはもう少し後の話である。

元和の大殉教[編集]

元和年間での一連の出来事を機に幕府はキリスト教徒の発見と棄教(強制改宗)を積極的に推進していくようになる。

京都所司代であった板倉勝重はキリシタンには好意的で、そのため京都には半ば黙認される形でキリシタンが多くいた(先述の「デウス町」の住人)。しかし、秀忠は元和2年(1616年)に「二港制限令」、続けて元和5年(1619年)に改めて禁教令を出し、勝重はこれ以上黙認できずキリシタンを牢屋へ入れた。勝重は秀忠のお目こぼしを得ようとしたが、逆に秀忠はキリシタンの処刑(火炙り)を直々に命じた。そして同年10月6日、市中引き回しの上で京都六条河原で52名が処刑される(京都の大殉教)。この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。これは明白な見せしめであったが、当のキリシタンは殉教として喜んだため、幕府は苛立ちを高めた。

そのような情勢の元和6年(1620年)、日本への潜入を企てていた宣教師2名が偶然見つかる(平山常陳事件)。この一件によって幕府はキリシタンへの不信感を高め大弾圧へと踏み切る。キリスト教徒の大量捕縛を行うようになり、元和8年(1622年)、かねてより捕らえていた宣教師ら修道会士と信徒、及び彼らを匿っていた者たち計55名を長崎西坂において処刑する(元和の大殉教)。これは慶長の日本二十六聖人以来の宣教師に対する大量処刑であった。続けて1623年に江戸で55名、1624年に東北で108名、平戸で38名の公開処刑(大殉教)を行っている。

一方でこれらの大弾圧はいち早くヨーロッパへ伝えられ、布教熱を引き起こしたとも言われる。例えばドミニコ会の宣教師は、この後も日本への潜入や潜伏を試みていた。

鎖国令と島原の乱[編集]

元和2年(1616年)に幕府(秀忠)は最初の鎖国令(厳密には鎖国令ではない)「二港制限令」を出し、その中で「下々百姓に至るまで」とキリスト教の禁止を厳格に示した。以後、鎖国体制が構築されていくが、それは宣教師の潜入を防ぐ、海外渡航した日本人がキリシタンになるのを防ぐという側面を持っていた(ただし、鎖国自体の目的はキリスト教の弾圧ではない)。鎖国を完成させた家光は鎖国令の中でキリスト教の弾圧を直接指示したことは無かったが、長崎奉行への大綱の中でキリスト教徒の捜索・逮捕を指示している。

また、鎖国令が構築されていく中で起こった島原の乱は参加した農民がキリスト教を拠り所にしていたという点で幕府に大きな衝撃を与えた。

この時期にも宣教師の潜入・潜伏はやはり続いており、寛永14年(1637年)には琉球経由で密入国を企てていたドミニコ会の宣教師ら4人が長崎で処刑されている。しかし、鎖国の完成と共に潜伏していた、あるいは潜入を試みていた宣教師達は姿を消していった(ジョバンニ・シドッチのように完全に密入国を試みる者がいなくなったわけではない)。

幕府の諸政策[編集]

先述のように元和年間を基点に幕府はキリスト教徒(隠れキリシタン)の発見と棄教(強制改宗)を積極的に推進していくようになった。これは世界に類を見ないほど徹底した禁教政策であった。

幕府はかねてより治安維持のために用いられてきた五人組制度を活用したり、寺請制度を創設するなどして、社会制度からのキリスト教徒の発見及び締め出しを行った。また島原の乱の後には、元和4年(1618年)に長崎で始まった訴人報償制を全国に広げ密告を奨励した。密告の報償金は、人物によって決まり宣教師の場合には銀30枚が与えられた。報奨金は時代によって推移したが、基本的には上昇しており、最後は宣教師1人に付き銀500枚が支払われた。棄教を選択した場合には誓詞に血判させ、類族改帳によって本人は元より、その親族や子孫まで監視した。

また、隠れキリシタンの発見方法としては有名な物に踏み絵がある。そのごく初期には効果があったが、偽装棄教が広まるにつれ発見率は下がっていった。最後は正月の年中行事として形骸化し、本来の意味は失ってしまったが開国まで続けられた。

また、キリシタンにとって殉教は喜びであるという事を思い知った幕府は、彼らを死刑にするのではなく、苛烈な拷問にかけて棄教させるという方針をとった。

有名な物には、棄教のために京都所司代の板倉氏が考案したとされる「俵責め」がある。身体を俵に押し込めて首だけ出させ、山積みにして鞭を打つという拷問である。俵責めに耐えられず棄教した信徒は多く、俗に棄教した信徒を「転びキリシタン」(あるいは棄教した宣教師を「転びバテレン」)と呼ぶのは、この俵責めからきているといわれる。

キリシタン弾圧で有名な長崎奉行竹中重義が考案したとされる「穴吊るし」も有名である。穴吊るしは、深さ2メートル程の穴に逆さ吊りにされる拷問である。公開されても穴から出た足しか見えず、耳やこめかみに血抜き用の穴が開けられることで簡単に死ぬことはできず、それでいて棄教の意思表示は容易にできるという非常にきつい拷問であった。寛永10年9月17日(1633年10月18日)、この拷問によって管区長代理であったクリストファン・フェレイラが棄教し、カトリック教会に大きな衝撃を与えた。同じく拷問を受けた中浦ジュリアンは殉教している。

基本的に幕府の政策は棄教させることにあり、捕らえて即処刑ということは少なかったばかりか、1708年に密入国してきたシドッチに対しては新井白石の取り成しもあって軟禁に留めている(晩年は地下牢への拘禁)。

こういった幕府の対策により、死刑にされる者より、拷問で死亡したり、棄教したりする者の方が圧倒的に多かった。

江戸時代を通してキリスト教徒の発見・強制改宗は続けられたが、一方で隠れキリシタンもまた信仰を隠し通したり、偽装棄教によって、幕末に至るまで独自の信仰を貫いた。

禁教令の緩和[編集]

幕末、開国が始まると禁教令の緩和が取られ始めた。

1859年(安政6年)、幕府は開港場居留地において外国人の信仰の自由を認め、宣教師の来日を許可した。カトリック教会はパリ外国宣教会を通して宣教師を派遣し、フランス横浜領事館付通訳兼司祭として来日したS・B・ジラールは江戸入りしている。またジラールは1862年1月(文久元年12月)に横浜天主堂を建立している。その他にも「隠れキリシタンの発見」で有名なベルナール・プティジャンは、1862年に来日し、1864年大浦天主堂を建立している。

アメリカ、イギリス、カナダ、オランダからはプロテスタントの宣教師が来日している。正教会からは1861年ニコライ・カサートキンが函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として来日し、後に日本ハリストス正教会を設立している。

ただし、信仰の自由及び、活動が認められたのはあくまで外国人居留地であって、依然日本人に対する布教や日本人の信仰は禁止されていた。プティジャンは大浦天主堂で隠れキリシタンを発見して密かに信徒として匿ったが、それが結果として1867年(江戸幕府の最晩年)に浦上村の信徒が幕府に発覚するきっかけとなり、大きな問題となる(浦上四番崩れ)。この一件は間もなく大政奉還によって明治政府に委ねられ、明治政府の禁教令に大きな影響を与えることとなる(後述)。

明治政府による禁教令とその廃止[編集]

明治政府は大政奉還の翌明治元年3月15日(慶応4年、1868年4月7日)に高札五榜の掲示を出す。ここではいくつかの江戸幕府の政策を継承することが記されており、禁教令もまた、その第三項「切支丹邪宗門厳禁」において継承されていた。前年の「浦上四番崩れ」への対処は信徒の弾圧という形で継承され、明治政府は信徒を流罪とした(さらに流刑先では拷問や私刑が横行した)。

禁教及び浦上四番崩れは諸外国の反発を招き、明治6年(1873年)に制度としての高札が廃止されるのと同時に明治政府によるキリスト教の禁止も取り止められた(一説には、この諸外国の反発が高札の制度その物が廃止された理由として挙げられている)。その後、日本人へのキリスト教の布教が行われるようになるが、明治政府としてキリスト教の活動を公式に認めるのは1899年の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」によってである。

キリスト教以外の禁教令[編集]

キリスト教以外にも禁教令が出された宗教(邪宗門)はあった。

日蓮宗不受不施派1665年に幕府によって禁教令が出され、キリスト教と同様に徹底的な禁教政策を受けた。 1876年(明治9年)4月10日明治政府は日蓮宗不受不施派の派名を再興し,布教を許可する[1]。 局所的な物では1601年(慶長6年)に島津家が一向宗禁止令を出している(一向宗に対する迫害や弾圧はそれ以外にも行われているが、政策として禁止を明言したのは珍しい)。

  1. ^ 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』470ページ

参考文献[編集]

  • 国史大辞典吉川弘文館 吉川圭三 1983年12月25日初版発行
  • 『日本史総合辞典』東京書籍 林陸朗 村上直 高橋正彦 鳥海靖 1991年11月10日初版発行
  • 『日本史広辞典』山川出版社 野澤伸平 1997年9月5日初版発行
  • 『日本史辞典』朝倉書店 藤野保 2001年1月20日初版発行
  • 『日本宗教事典』「キリシタンの流行と禁制」青山玄 弘文社 1985年

関連項目[編集]