禁教令

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禁教令(きんきょうれい)は、ある宗教を信仰し布教したりすることを禁ずる命令(法令)のことである。日本においては特にキリスト教を禁じていたものを指し、キリスト教禁止令(キリシタン禁制、禁令)とも呼ばれる。交付した禁教令の内容は、「キリスト教は侵略的植民政策の手先であり、人倫の常道を損ない、日本の法秩序を守らない」と激しく糾弾するものである[1]。禁制扱いになった宗教は邪宗門と呼ばれた。

通常、単に禁教令と言った場合には、日本で慶長17年(1612年)及び翌慶長18年12月22日(1614年1月31日)[2]江戸幕府が出したキリスト教を禁ずる法令を指す。世界においては、ローマ帝国におけるネロディオクレティアヌスなどの皇帝によるキリスト教禁止の勅令と、それに伴う弾圧が知られているが、一般にはキリスト教徒に対する弾圧、迫害と一括りに呼ばれ、禁教令の語を充てない(例えばディオクレティアヌスによる303年の勅令と、それに伴う弾圧は「最後の大迫害」と呼ばれる)。

本項では、江戸時代のキリスト教政策を中心に、安土桃山時代以降の日本で行われた、カトリック教会への禁教令および関連する事項について説明する。

概要[編集]

狭義の意味での禁教令は、1612年(慶長17年)及び翌1613年江戸幕府が発令したものである。広義の意味では1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令や明治政府による五榜の掲示が含まれる。もっとも早い禁教令は永禄8年(1565年)と同12年(1569年)に正親町天皇が出した追放令である。これは京都から宣教師を追放するという主旨であったが、織田信長によるカトリック教会の保護政策もあって、さほど効果はなかった。

これらは一口に禁教令と言っても性格は大きく異なる。正親町天皇の追放令やバテレン追放令は、その語が示すように、宣教師の追放を目的とした主に布教権の禁止であり、キリスト教自体への弾圧は主目的ではなく、キリスト教徒に対する強制改宗というような(つまり「禁教」)政策は取られなかった。

秀吉バテレン追放令や書簡は[3]キリスト教に対抗して、吉田神道の宇宙起源説を引用するなど[4]神国思想を意識的に構築しており、家康もその基本路線を踏襲している[5][6][7]。秀吉の書簡や家康の禁教令はキリスト教を、統一された日本の宗教(儒教神道仏教三教一致)の敵であると名指しで批判して、禁教令の正当性を示そうとしており[注釈 1][8][9][10]、秀吉と江戸幕府の宗教政策には禁教令の観点から継続性が見られる。

今日に知られるような弾圧と呼べるものの最も早いものは、豊臣秀吉が1596年に出した禁教令で、この時は26名のキリスト教徒が処刑されている(日本二十六聖人)。ただし、この時も主にはフランシスコ会に的を絞った物で、禁教のための継続的な政策が取られたわけではなく、後を継いだ江戸幕府もそれに倣っている。

日本において、政策としてキリスト教への弾圧が始まるのは、1612年の禁教令からであり、明治初期まで続いた。

豊臣秀吉による禁教令[編集]

1587年の禁教令(バテレン追放令)[編集]

織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉は当初は信長と同様にキリスト教容認の立場を取っていた。しかし、九州平定後の1587年7月(天正15年6月19日)にキリスト教宣教の制限を表明する。これは宣教師(バテレン)の国外退去を求めるものであったが、布教に関係しない外国人(商人)の出入りは自由なままであり、また(強制性を伴わない限りにおいて)個人でキリスト教を信仰すること自体も許されていた。大名のキリスト教への改宗についても秀吉の許可が必要だったという点を除けば可能であったが、実際には政治的圧力によって既にキリシタン大名であった黒田孝高が棄教したり、高山右近が信仰のために地位を捨てるということもあった。一方で小西行長有馬晴信のようにキリスト教徒のままでいた者もいた。

また退去を宣告された宣教師たちも抗議を行うなどして、南蛮貿易を重く見た秀吉は以後黙認する形を取っている。結果として、追放令以後も宣教師達は(制限付きだが)活動することはできた。むしろ、この後、関ヶ原の戦い前後まで毎年1万人余が新たに洗礼を受けていたなど、キリスト教の広がりは活発であった。

秀吉が禁教令を発令した目的には諸説あり、「外交権、貿易権を自身に集中させ国家としての統制を図るため」「九州で日本人の奴隷売買が行われている[注釈 4]と知り、それを禁止させるため」[注釈 2][注釈 3]キリスト教徒による神社仏閣への迫害[要検証][注釈 6]」などがある。ヨーロッパは日本の植民地化をもくろんでいて、キリスト教はその尖兵の役を果たし、その意図に気づいたため、秀吉はキリシタンの禁圧に乗り出した、との説明があるが、この説には無理があり、この時期に日本に盛んに来航していたポルトガルスペインは実は国力が乏しく、日本のように抵抗力のある国を植民地化するなど、とても不可能であるという指摘がある[32]

これらの発令の原因とされる諸説は日本で提案されているもので、ポルトガルイエズス会は現存しているにも関わらず、日本人による一方的な批判によって構成されている。「神社仏閣への迫害」説[注釈 6]については、仏教徒の領主が十字架を倒す等の宗教施設の破壊行為を行いキリスト教徒に対して仏教に強制改宗するように命じたり[26]、1563年十一月七日頃[27]修道院キリシタンの農民たちの家を燃やす事件を起こす[28]等、双方の信者間での対立関係が激化していた。神社仏閣の破壊についてはイエズス会の責任者は寺社の破壊を禁じていた[31]

奴隷人身売買を原因とする説[注釈 4]については、1537年に発令された教皇勅書スブリミス・デウスは異教徒を奴隷とする事を禁じ、イエズス会は日本人を奴隷として売買することを禁止するようにポルトガルに呼びかけていたこと、ポルトガル国王セバスティアン1世は大規模になった奴隷交易がカトリック教会への改宗に悪影響を及ぼすことを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した[33][34]ことについて秀吉が知っていたかどうかについては不明である点には留意が必要である。

バテレン追放令は日本で最初の国策としてのキリスト教への制限ではあるが、キリスト教やその信者への弾圧が目的ではなく[要出典][注釈 1]、また形式的なものであったことに注意が必要である。

追放令を命じた当の秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[36]。1590年、ガスパール・コエリョと対象的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している[37]

秀吉ポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった[38]。勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し[39]豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した[40]

1587年、フィリピンには2隻の日本船が来航したが、バテレン追放令の敵対的政策と整合しないためスペイン人の疑惑は深まり、フアン・ガヨというキリスト教徒で冒険家の日本人に対してフィリピン人の反乱計画に加担した容疑がかけられた[注釈 7][42][43]1589年、30〜40人の巡礼者と称する日本人の集団がマニラを訪問した。彼らはマニラ周辺の河口を15リーグ (単位)歩いて偵察し去っていったが、スペイン人はこれを日本側の諜報活動と見ており、秀吉の領土拡張政策の始まりと考えた[44]1591年には原田孫七郎がフィリピン征服の実地調査を行ったとされ、侵略を警戒するスペインと日本の相互不信が強まっていった[45]

1596年の禁教令[編集]

秀吉は1596年に再び禁教令を出し、さらに京都で活動していたフランシスコ会(一部イエズス会)の教徒たちを捕らえて処刑した(日本二十六聖人)。

1597年2月に処刑された26聖人の一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオンスペイン語版フィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした[46][47]。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入るつもりである」と述べている[46][47]

この禁教令が発令された理由についてはよく「サン=フェリペ号事件」が挙げられる。通説においては、[要検証]巨額の積荷を没収されたサン=フェリペ号の一人の船員が憤り、宣教師はスペインが領土征服のための尖兵[注釈 8]であると積荷を没収された腹いせに発言したことで、秀吉がキリスト教を警戒したためという説がある[注釈 9]。豊臣政権はアジアにおけるスペインの脆弱な戦力を正確に把握しており[53][注釈 9]、スペイン人船員の口から出任せの発言を高度な情報分析能力のあった奉行とその報告を受けた秀吉が宣教師脅威論を真に受けたかについての結論は出ておらず、それどころかフィリピン侵略に乗り気であった[注釈 10]

スペイン国王フェリペ2世1586年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土防衛策に早くから舵を切っていた[60]

私には、より多くの王国や国家を手に入れようとする野心に駆られる理由はありません....私たちの主は、その善意によって、私が満足するほど、これらすべてのものを与えてくださっています[60] — 1586年、スペイン国王フェリペ2世

スペイン側の視点では新領地獲得には否定的であることが判明しているにも関わらず[60]、日本側は宣教を征服の一部と一方的な主張をしているが、この説を裏付けるものはガレオン船8隻の建造費に相当する巨額の財宝を没収された事に動揺した船員が怒りにまかせて口に出した出任せでしかなく、絶対的な軍事的優位を背景にフィリピン総督に服従せねば征伐すると勧告した豊臣秀吉がフィリピンからの侵略を恐れていたことを裏付ける資料もない。

1596年の禁教令において信徒に対する強制改宗などの政策は取られず、京都のフランシスコ会以外には弾圧は加えられなかった。キリスト教は建前上は禁止だがお目こぼしを受けていたという情勢下で、フランシスコ会を始めとする新参の修道会の活動が目に余ったために秀吉が弾圧に踏み切ったという説もある(古参のイエズス会は活動の自粛を促していたが、新参の修道会はそれを無視していた)。

江戸幕府による禁教令[編集]

禁教令発布まで[編集]

江戸幕府は当初はキリスト教に対してはこれまでと同様の政策を取り、弾圧と呼べるような政策はとっていなかった。1602年にはドミニコ会アウグスティノ会の宣教師達が来日して日本に本格的な布教をし始めており、1596年に秀吉の弾圧を受けたフランシスコ会も、1603年に代表ルイス・ソテロ徳川家康秀忠と面会し、東北地方への布教を行っている。

しかし、幕府の支配体制に組み込まれることを拒否し、かつ活動は活発化していったキリスト教に対して幕府は次第に態度を硬化させていった(日本の情勢に詳しかった古参のイエズス会は秀吉の時代の時と同様に慎重な対応を求めたが、新参の修道会には受け入れられなかった)。日本との貿易権を狙うイギリスやオランダの忠告や、神仏勢力の抵抗活動もあった。

そんな中で1609年マードレ・デ・デウス号の事件が発生する。それ自体はキリスト教と何の関係もなかったが、その事件処理を巡って当事者でありキリシタン大名として有名でもあった有馬晴信目付役で同じくキリシタンであった岡本大八の収賄事件が発覚する(岡本大八事件)。

この事件をきっかけとして幕府はキリスト教の禁止を行い始める。

慶長の禁教令[編集]

江戸幕府は岡本大八事件をきっかけに、慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告する。これ自体はあくまで幕府直轄地に対するものであったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行った。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。

これは布告された教会の破壊と布教の禁止以外にも、家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分に付されるなど厳しい処置が取られた。特に旗本だった原胤信は、出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されている。

その後、一連の処置を総括した「条々」が同年8月6日に出され、1612年の禁教令は一段落する。また同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した。

慶長18年(1613年)12月19日、家康は新たなバテレン追放令の作成に着手した。幕府の重要文書を起草した臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ以心崇伝を江戸に呼び、文案を作成させ、翌日、これを承認、秀忠に送り捺印、12月23日に公布させた[61][62]。その結果、「伴天連追放之文」ができあがった。伴天連追放之文は排吉利丹文ともいう[61]。「伴天連追放之文」の大半は神道儒教仏教に関するもので、キリスト教を統一された日本の宗教(神道儒教仏教三教一致)の敵とし、キリスト教を禁止するための神学的正当性を示そうとした[8][9][10]。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法となる。

この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオマニラに国外追放された。その中には著名な日本人の信徒であった高山右近もいた。

ただし、公的にはキリスト教は禁止になったが、幕府は信徒の処刑といった徹底的は対策は行わなかった。また、依然としてキリスト教の活動は続いていた。例えば中浦ジュリアンクリストヴァン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者もいたし(この時点で約50名いたといわれる)、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が住む区画も残ったままであった。幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、通説では宣教師が南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためとされる。

元和の大殉教[編集]

元和年間での一連のできごとを機に幕府はキリスト教徒の発見と棄教(強制改宗)を積極的に推進していくようになる。

京都所司代であった板倉勝重はキリシタンには好意的で、そのため京都には半ば黙認される形でキリシタンが多くいた(先述の「デウス町」の住人)。しかし、秀忠は元和2年(1616年)に「二港制限令」、続けて元和5年(1619年)に改めて禁教令を出し、勝重はこれ以上黙認できずキリシタンを牢屋へ入れた。勝重は秀忠のお目こぼしを得ようとしたが、逆に秀忠はキリシタンの処刑(火炙り)を直々に命じた。そして同年10月6日、市中引き回しの上で方広寺門前の正面橋近辺で[63]、彼らを方広寺大仏(京の大仏)に向かいあうように磔にして[64]、火あぶりで処刑した(京都の大殉教)。処刑者は52名とされ、この中には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。正面橋東詰には現在「元和キリシタン殉教の地」という碑が建てられている。

そのような情勢の元和6年(1620年)、日本への潜入を企てていた宣教師2名が偶然見つかる(平山常陳事件)。この一件によって幕府はキリシタンへの不信感を高め大弾圧へと踏み切る。キリスト教徒の大量捕縛を行うようになり、元和8年(1622年)、かねてより捕らえていた宣教師ら修道会士と信徒、及び彼らを匿っていた者たち計55名を長崎西坂において処刑する(元和の大殉教)。処刑された55名には3歳、4歳、5歳、7歳、12歳の子供が含まれていた。これは日本二十六聖人以来の宣教師に対する大量処刑であった。続けて1623年に江戸で55名、1624年に東北で108名、平戸で38名の公開処刑(大殉教)を行っている。

一方でこれらの大弾圧はいち早くヨーロッパへ伝えられ、布教熱を引き起こしたとも言われる。例えばドミニコ会の宣教師は、この後も日本への潜入や潜伏を試みていた。

鎖国令と島原の乱[編集]

元和2年(1616年)に幕府(秀忠)は最初の鎖国令(厳密には鎖国令ではない)「二港制限令[注釈 11][注釈 12]を出し、その中で「下々百姓に至るまで」とキリスト教の禁止を厳格に示した。以後、鎖国体制が構築されていくが、それは宣教師の潜入を防ぐ、海外渡航した日本人がキリシタンになるのを防ぐという側面を持っていた(ただし、鎖国自体の目的はキリスト教の弾圧ではない[要検証])。鎖国を完成させた家光は鎖国令の中でキリスト教の弾圧を直接指示したことはなかったが、長崎奉行への大綱の中でキリスト教徒の捜索・逮捕を指示している。

1616年のニ港制限令によってイギリス人とオランダ人を長崎と平戸に閉じ込めることが決定された。これはイギリス商館リチャード・コックスの発言が彼が意図した以上に幕府に警戒感を抱かせたことが発端となった可能性が指摘されている[65][注釈 12]

松倉重政はスペインによる日本侵略や宣教師の脅威を主張してフィリピン侵略の計画を幕府に申し出ている[注釈 13]フィリピン侵略は息子の松倉勝家の代となる1637年においても検討がなされた[75]

その後、5年間はフィリピンへの遠征は考慮されなかったが、日本の迫害から逃れてきたキリスト教難民マニラに到着し続ける一方で日本への神父の逆流が続いていた……松倉重政の後を継いだ息子の松倉勝家は、父に劣らず暴君でキリスト教であったが、勝家が島原の大名として在任中に、最後のフィリピン侵略の企てに遭遇することになる。 — 海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー、69(4)、10、2016、pp. 8-9[75]

フィリピン征服の司令官は松倉勝家が有力であったが、同年におきた島原の乱によって遠征計画は致命的な打撃を受けた[76][注釈 14]

鎖国令が構築されていく中で起こった島原の乱は、参加した農民がキリスト教を拠り所にしていたという点で幕府に大きな衝撃を与えた。

この時期にも宣教師の潜入・潜伏はやはり続いており、寛永14年(1637年)には琉球経由で密入国を企てていたドミニコ会の宣教師ら4人が長崎で処刑されている。しかし、鎖国の完成と共に潜伏していた、あるいは潜入を試みていた宣教師達は姿を消していった(ジョバンニ・シドッチのように完全に密入国を試みる者がいなくなったわけではない)。

キリスト教の禁令はローマカトリック教会に限定されていたわけではなく、平戸のオランダ倉庫はキリスト教の年号(1639年)を使用したことを理由に破壊され[79]、オランダ人墓地も同時期に破却、死体は掘り返され海に投棄された[80]。1654年、ガブリエル・ハッパルトは長崎での陸上埋葬の嘆願をしたが、キリスト教式の葬儀や埋葬は認められず、日本式で行うことを条件に埋葬が許可された[81][82][83][注釈 15]

オランダ人の記録によると、徳川家光はオランダ人の宗教がポルトガル人の宗教と類似したものであると理解しており、オランダ人を長崎の出島に監禁した理由の一つにキリスト教の信仰があったとしている[87][注釈 16]

エンゲルベルト・ケンペル1690年代の出島において、オランダ人が日本人による様々な辱めや不名誉に耐え忍ばなければならなかったと述べている。キリストの名を口にすること、宗教に関連した楽曲を歌うこと、祈ること、祝祭日を祝うこと、十字架を持ち歩くことは禁じられていた[88][注釈 17]

幕府の諸政策[編集]

先述のように元和年間を基点に幕府はキリスト教徒(隠れキリシタン)の発見と棄教(強制改宗)を積極的に推進していくようになった。これは世界に類を見ないほど徹底した禁教政策であった[要出典]

幕府はかねてより治安維持のために用いられてきた五人組制度を活用したり、寺請制度を創設するなどして、社会制度からのキリスト教徒の発見及び締め出しを行った。また島原の乱の後には、元和4年(1618年)に長崎で始まった訴人報償制を全国に広げ密告を奨励した。密告の報償金は、人物によって決まり宣教師の場合には銀30枚が与えられた。報奨金は時代によって推移したが、基本的には上昇しており、最後は宣教師1人に付き銀500枚が支払われた。棄教を選択した場合には誓詞(南蛮誓詞)に血判させ、類族改帳によって本人は元より、その親族や子孫まで監視した。また、隠れキリシタンの発見方法としては有名な物に踏み絵がある。そのごく初期には効果があったが、偽装棄教が広まるにつれ発見率は下がっていった。最後は正月の年中行事として形骸化し、本来の意味は失ってしまったが開国まで続けられた。

一方で苛烈な拷問も行われていた。

有名な物には、棄教のために京都所司代の板倉氏が考案したとされる「俵責め」がある。身体を俵に押し込めて首だけ出させ、山積みにして鞭を打つという拷問である。俵責めに耐えられず棄教した信徒は多く、俗に棄教した信徒を「転びキリシタン」(あるいは棄教した宣教師を「転びバテレン」)と呼ぶのは、この俵責めからきているといわれる。

キリシタン弾圧で有名な長崎奉行竹中重義が考案したとされる「穴吊るし」も有名である。穴吊るしは、深さ2メートル程の穴に逆さ吊りにされる拷問である。公開されても穴から出た足しか見えず、耳やこめかみに血抜き用の穴が開けられることで簡単に死ぬことはできず、それでいて棄教の意思表示は容易にできるという非常にきつい拷問であった。寛永10年9月17日(1633年10月18日)、この拷問によって管区長代理であったクリストヴァン・フェレイラが棄教し、カトリック教会に大きな衝撃を与えた。同じく拷問を受けた中浦ジュリアンは殉教している。

元和年間こそ大量処刑という手を打ったが、基本的に幕府の政策は棄教させることにあり、捕らえて即処刑ということは少なかったばかりか、1708年に密入国してきたシドッチに対しては新井白石の取り成しもあって軟禁に留めている(晩年は地下牢への拘禁)。

こういった幕府の対策により、死刑にされる者より、拷問で死亡したり、棄教したりする者の方が圧倒的に多かった[要出典]

江戸時代を通してキリスト教徒の発見・強制改宗は続けられたが、一方で隠れキリシタンもまた信仰を隠し通したり、偽装棄教によって、幕末に至るまで独自の信仰を貫いた。

禁教令の緩和[編集]

幕末、開国が始まると禁教令の緩和が取られ始めた。

1859年(安政6年)、幕府は開港場居留地において、外国人の信仰の自由を認め、宣教師の来日を許可した。カトリック教会はパリ外国宣教会を通して宣教師を派遣し、フランス横浜領事館付通訳兼司祭として来日したS・B・ジラールは江戸入りしている。またジラールは1862年1月(文久元年12月)に横浜天主堂を建立している。その他にも「隠れキリシタンの発見」で有名なベルナール・プティジャンは、1862年に来日し、1864年大浦天主堂を建立している。

アメリカ、イギリス、カナダ、オランダからはプロテスタントの宣教師が来日している。正教会からは1861年ニコライ・カサートキンが函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として来日し、後に日本ハリストス正教会を設立している。

ただし、信仰の自由及び、活動が認められたのはあくまで外国人居留地であって、依然日本人に対する布教や日本人の信仰は禁止されていた。プティジャンは大浦天主堂で隠れキリシタンを発見して密かに信徒として匿ったが、それが結果として1867年(江戸幕府の最晩年)に浦上村の信徒が幕府に発覚するきっかけとなり、大きな問題となる(浦上四番崩れ)。この一件は間もなく大政奉還によって明治政府に委ねられ、明治政府の禁教令に大きな影響を与えることとなる(後述)。

明治政府による禁教令と政教分離[編集]

明治政府は大政奉還五箇条の御誓文)を出した翌日の明治元年3月15日(慶応4年、1868年4月7日)、5枚の高札により「五榜の掲示」を出した。ここでは、いくつかの江戸幕府の政策を継承することが記されており、その第三項に「切支丹邪宗門厳禁」として江戸幕府からの政策を継承する形で禁教令を出した。これに依拠して前年の「浦上四番崩れ」への対処も信徒の弾圧として続くことになり、信徒を流罪とし、さらに流刑先では拷問や私刑が横行した。

ただ、明治政府のこの対応は公的な布告として使われた高札も幕府から新政府に権勢が移ったことを示したにすぎなかったが、五箇条の御誓文で国際法を守ることを謳いつつ、高札ではそれに反するキリスト教の禁止を謳っていたため、英国公使パークスを始め、列強の反発を招いた[91](高札制そのものについても反発があったとされる)。

政府の外交顧問を務めていたシャルル・ド・モンブランは、明治2年(1869年)10月に「宗教政策に関する意見書」を提出し、日本が列強諸国からの信教の自由に関する内政干渉を避けるには、少しずつ政教分離政策をとるのが良策であるが、当面の間は黙許するのが良いだろう、と進言した[91]。政府はこの策を採用し、明治6年(1873年)までに制度としての高札の廃止[92]と同時に、これらの各条が事実上廃止され、キリスト教は当面黙認されることとなった。

攘夷論者の中にも、例えば福沢諭吉のように、キリスト教徒の内村鑑三から「宗教の大敵」と批判されながらも、『宗教の必用なるを論ず』(明治9年、1876年)、「宗教は経世の要具なり」(『時事新報』社説、1897年7月24日)などから、後世に彼の持論は単なるキリスト教排斥論者ではなかったとする研究もある[93]

一方で、尊皇に基づく国体維持のための国家神道を進めるべく、明治15年(1882年)には神道から祭祀と宗教を分離し「祭祀を行うだけの神道は宗教ではない」という解釈を、その後明治22年(1889年)に制定された大日本帝国憲法28条に信教の自由を保障する規定を設け、条文に「安寧秩序ヲ妨ケス」場合に「公共の福祉#一元的外在制約説」にもとづいて排斥できる、という解釈を生み、政治からは手段としても実質神道以外の宗教をほぼ排除した。なお、政府は、1911年に、無政府主義者である幸徳秋水大逆事件で処刑しているが、その一方で、幸徳の反キリスト教の意識が政府の見解に合致していたため、幸徳の遺作である『基督抹殺論』の刊行を認めている。

明治政府として、キリスト教の活動を公式に認めるのは、明治32年(1899年)の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」(内閣省令第41号、7月27日付)によってである。しかし、ほぼ同時に「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外二特立セシムル件」(文部省訓令第12号、8月3日付)によって、私立学校の教育課程における宗教教育、および学校において宗教的儀式等を行うことを禁止している[注釈 18]など、教育に関しては慎重な態度が続くことになった。

後世の評価[編集]

英国国教会1959年に禁教令で処刑された日本人の殉教者の記念日を2月6日とした[94]アメリカ福音ルター派教会でも、2月5日を記念日としている。アメリカ合衆国歴史家ジョージ・エリソンは初代宗門改役に任じられた井上政重ナチスホロコーストで指導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンと比較した[95]

戦後[編集]

戦後、日本国憲法信仰の自由が明確に宣言されたが、政教分離に関してはフランスライシテに依っている)を除いた西側陣営の欧米に比べて厳格である。

テロ事件を起こしたオウム真理教に関しては破壊活動防止法を適用する計画があったが流れた(オウム真理教破壊活動防止法問題)。その結果、新たに制定された団体規制法によって後継団体Aleph等が監視下に置かれている。

キリスト教以外の禁教令[編集]

キリスト教以外にも禁教令が出された宗教(邪宗門)はあった。日蓮宗不受不施派1665年に幕府によって禁教令が出され、キリスト教と同様に徹底的な禁教政策を受けた。

局所的な物では、1601年(慶長6年)に島津家(薩摩藩)が一向宗浄土真宗)禁止令を出している。同様の例は人吉藩にも存在した。一向宗に対する迫害や弾圧はそれ以外にも行われているが、政策として禁止を明言したのは珍しく、この地域に隠れ念仏が生ずる一因になった[注釈 19]

不受不施派に対する禁令解除もまた明治まで待つ必要があり、1876年(明治9年)4月10日に派名の再興と布教が許可されることとなった[96]。一向宗に対する弾圧も維新後は消滅したが、隠れ念仏は一宗派のような形で現在に続いている[97]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 1591年インド総督大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、三教神道儒教仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した[35]
  2. ^ a b 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがあるが、イエズス会1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[13]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[14]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[15][16][17]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[18]。宣教師によって記述された情報は「ポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動」[19]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる。
  3. ^ a b 伴天連追放令(バテレン追放令)後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[22][注釈 5]、秀吉が許可した遊郭女衒などによる人身売買の温床となり、島原の乱が終わった1639年以降に設置された丸山遊廓遊女による唐人屋敷の中国人男性への性的サービス提供は、日本人女性が誘拐されて海外に売られることもあった「からゆきさん」の語源となっていった[24][25]
  4. ^ a b デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本文化宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[11]
    日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235
    デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[11]
    また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969年、p232-235
    デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[11]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[12]天正遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差が伺える[注釈 2]。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発であり[注釈 3]、宣教師が批判した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた[20][21]
  5. ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [23]のだという。
  6. ^ a b 日本初の南蛮外科医である修道士ルイス・デ・アルメイダは、有馬晴純は領内にあった十字架を倒し、キリスト教徒が元の教えに強制改宗するように命じたと1564年十月十四日付、豊後発信の書簡で言及している[26]。1563年十一月七日頃[27]には横瀬浦港にある修道院が焼かれ、次いですぐにキリシタンの農民たちの家が焼かれたという[28]。1573年には深堀純賢によってトードス・オス・サントス教会が焼き払われた[29]。こうしてキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していたが[30]、日本におけるイエズス会の責任者であるヴァリニャーノは寺社仏閣の破壊を禁じていた[31]
  7. ^ 1587年のバテレン追放令後、秀吉はポルトガル人を介さない通商路の開拓に関心を抱くようになった。明国との貿易は閉ざされており、フィリピンは数少ない選択肢の一つとなり、1591年にはフィリピンとの貿易が許可された[41]
  8. ^ 宣教師脅威論については、アメリカ大陸フィリピンでのスペインやポルトガルの侵略は軍事作戦だけで行われていた。フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年メキシコ制圧の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、フランシスコ会宣教師侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な役割を果たした事実はない[48]イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だったが、1500年ペドロ・アルヴァレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経過した後のことである[49]。宗教を絡めないイギリス、オランダ等は東南アジアの植民地化に成功している。
  9. ^ a b サン=フェリペ号事件当時、秀吉による明と朝鮮の征服の試みが頓挫し、朝鮮・明との講和交渉が暗礁に乗る緊迫した国際情勢ではあったが、それ以前の1591年に原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、入貢と服従を勧告する秀吉からの国書を1592年5月31日にフィリピン総督に渡し、1593年には原田喜右衛門もフィリピン征服、軍事的占領を働きかけ、秀吉はフィリピン総督が服従せねば征伐すると宣戦布告ともとれる意思表明をしている[50][51][52]
  10. ^ 1592年豊臣秀吉フィリピンに対して降伏朝貢を要求してきたが、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは1592年5月1日付で返事を出し、ドミニコ会の修道士フアン・コボが秀吉に届けた。コボはアントニオ・ロペスという中国人キリスト教徒とともに日本に来たが、コボとロペスは、朝鮮侵略のために九州に建てられた名護屋城で秀吉に面会した。原田喜右衛門はその後、マニラへの第二次日本使節団を個人的に担当することになり、アントニオ・ロペスは原田の船で無事にマニラに到着した[54]1593年6月1日、ロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けたが、そのほとんどは日本フィリピンを攻撃する計画について知っているかということに関するものであった。ロペスはまず秀吉が原田喜右衛門に征服を任せたと聞いたと述べた[55]。ロペスは日本側の侵略の動機についても答えた。
    フィリピン黄金が豊富にあるという話は万国共通である。このため兵士たちはここに来たがっており、貧しい国である朝鮮には行きたがらない[56]
    ロペスはまた日本人フィリピン軍事力について尋問されたとも述べている。アントニオ・ロペスはフィリピンには4、5千人のスペイン人がいると答えたのを聞いて、日本人は嘲笑った。彼らはこれらの島々の防衛は冗談であり、100人の日本人は2、300人のスペイン人と同じ価値があると言ったという[53]。ロペスの会った誰もが、フィリピンが征服された暁には原田喜右衛門が総督になると考えていた[57]。その後、侵略軍の規模についてロペスは長谷川宗仁の指揮で10万人が送られると聞いたが、ロペスがフィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だと言うと、日本人は1万人で十分と言った。さらにロペスに10隻の大型船輸送する兵士は5、6千人以下と決定したことを告げた[58]。ロペスは最後に侵攻経路について侵略軍は琉球諸島を経由してやってくるだろうといった[59]
  11. ^ イギリス商館リチャード・コックスの発言が引き金を引いたとの説が検討されている[65]。詳細は後述する。
  12. ^ a b イギリス商館長コックスは着任早々、オランダ人がイギリス人と称して海賊行為を行い、イギリス人の悪評が立っていることに衝撃を受けたという[66]。オランダ人に対抗するためにリチャード・コックスはオランダがスペイン王国の一部であるためオランダ人は反逆者であり、いずれ日本国を滅ぼすかもしれないと幕府に訴えた。またオランダは英国のおかげで独立しており、オランダは英国の属国だとの風評を立てた[67]。 オランダ商館長ヤックス・スペックスもコックスと同様に、オランダ総督をオランダ国王として虚偽の呼称を使用し、オランダ国王がキリスト教王国の中でも最も偉大な王であり、全ての王を支配しているとの風評を広げようとした。コックスはこれを逆手にとり、自国がオランダよりはるかに優れていることを大名や役人の前で説明したが、島津家久はこれを信じて、オランダ人でなくイギリス人に薩摩での貿易を許可するとの言質をとることに成功した[68]。さらに宣教師も追い打ちをかけて、連邦共和国を巡ってスペインが困っているのは、イギリスの支援があるからであり、イギリス人が正統な国王に対して対抗する手段を与えたとの有害な事実を広めた[69]
  13. ^ 1630年松倉重政フィリピン侵略の計画を立て幕府に申し出た。将軍徳川家光マニラへの日本軍の派遣を確約することは控えたが、重政にその可能性を調査し、軍備を整えることを許した。1630年12月14日、重政は長崎奉行竹中重義の協力を得て、吉岡九郎右衛門と木村権之丞という二人の家来をマニラに送り、スペインの守備を探らせた[70]。彼らは商人に変装し、貿易の発展について話し合いたいとの口実でルソン島に渡航した。それぞれ10人の足軽を従えていたが、嵐の中の帰路、木村の部下は10名とも死亡した[47]マニラへの先遣隊は1631年7月、日本に帰国したが1632年7月までスペイン側は厳戒態勢をしいていた[71][72]。重政は軍備として3,000の弓と火縄銃を集めたという[73]。この作戦は侵略指揮官である松倉重政の突然の死によって頓挫した[74]
  14. ^ オランダ人1637年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光だと確信していたが[77]、実際は将軍ではなく、上司の機嫌をとろうとしていた榊原職直馬場利重だったようである。遠征軍は松倉勝家などの大名が将軍の代理として供給しなければならなかったが、人数については、松倉重政が計画していた2倍の1万人規模の遠征軍が想定されていた[78]
  15. ^ 現存する最古の西洋人墓碑は江戸時代後期、元出島オランダ商館長ヘンドリック・ホットフリート・デュルコープ(1736-1778)のものである。オランダの日誌によるとキリスト教式の葬儀が異例ながら許された[84][85]。墓碑は1779年1月4日に設置された[86]
  16. ^ 家光はキリスト教への恐怖からオランダ人を出島に移したが、外国との貿易に付随する政治的な利害関係を排除するためでもあった[87]
  17. ^ 島原の乱において幕府の軍事支援要請にオランダ人は応じた。そのことでオランダはイギリスを含むヨーロッパ諸国から強く非難された[89]ジョバンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリはオランダ人が行っていた踏み絵をイギリス人が拒否したと記述しているが[90]、オランダ人が踏み絵をしたという一次資料は残されていない[89]ガリヴァー旅行記でもオランダ人が踏み絵をしていたとの風評が描かれている。
  18. ^ 訓令の文言では「公立学校では学外での宗教活動も禁止」とあるが、その前の文と併せて「一般でも学校教育で宗学をしてはならない」と解釈された。
  19. ^ 隠れ念仏は基本的には本願寺教団に属しており、異端視されていた東北の隠し念仏などとは別物である。隠し念仏#隠れ念仏との違い

出典[編集]

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  8. ^ a b Guillaume, Xavier. “Misdirected Understandings: Narrative Matrices in the Japanese Politics of Alterity Toward the West.” Contemporary Japan, Volume 15, Issue 1. Japanstudien: Jahrbuch des Deutschen Instituts für Japanstudien 15 (2003): p. 99.
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  13. ^ Slavery in Medieval Japan, Slavery in Medieval Japan, Thomas Nelson, Monumenta Nipponica, Vol. 59, No. 4 (Winter, 2004), pp. 463-492, "As early as 1555, complaints were made by the Church that Portuguese merchants were taking Japaense slave girls with them back to Portugal and living with them there in sin....Political disunity in Japan, however, together with the difficulty that the Portuguese Crown faced in enforcing its will in the distant Indies, the ready availability of human merchandise, and the profits to be made from the trade meant that the chances were negligible of such a ban actually being enforced. In 1603 and 1605, the citizens of Goa protested against the law, claiming that it was wrong to ban the traffic in slaves who had been legally bought. Eventually, in 1605, King Philip of Spain and Portugal issued a document that was a masterpiece of obfuscation intended both to pacify his critics in Goa demanding the right to take Japanese slaves and the Jesuits, who insisted that the practice be banned."
  14. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  15. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 496-497 "If that is the case, the king had then sent copies of the same order to India at least three times: in 1603, when Aires de Saldanha published it, in 1604, with Martim Afonso de Castro, and in 1605."
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  17. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 493
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  41. ^ Visiones de un mundo diferente: Política, literatura de avisos y arte namban Imagen de portada del libro Visiones de un mundo diferente: Política, literatura de avisos y arte namban, Osami Takizawa (coord.), Antonio Míguez Santa Cruz (coord.), Centro Europeo para la Difusión de las Ciencias Sociales, 2015, ISBN 978-84-608-1270-8, p. 63, "Tras el edicto de expulsión de los jesuitas en 1587, Hideyoshi se interesó por abrir una posible vía de comercio que no pasase necesariamente por los portugueses y, puesto que el trato con los chinos seguía cerrado, las Filipinas eran una de las pocas alternativas disponibles; así, a partir de 1591 se autorizó el comercio con Manila9 . De todas formas, se trató de un lujo muy luctuante y bastante pobre, tal y como se extrae del reducido número de navíos comerciales japoneses llegados a la capital ilipina durante los años analizados en este artículo, diecisiete según nos dice el profesor Emilio Sola10. En cuanto a las mercancías intercambiadas, sabemos por los documentos castellanos que el principal negocio era el de la plata japonesa –Japón producía en ese momento nada menos que un tercio de la plata mundial11– a cambio de la seda china, con lo que realmente se trataba básicamente de hacer de intermediarios en el interrumpido comercio entre Japón y China. Aparte de esto, Filipinas importaba cáñamo, cobre, hierro, acero, plomo, salitre, mantas, pólvora, espadas, etc.12 y en Japón estaban muy interesados por cierto tipo de vasijas de cerámica ilipina."
  42. ^ La colonia de japoneses en Manila en el marco de las relaciones de Filipinas y Japón en los siglos XVI y XVII, José Eugenio Borao Mateo, Revista anual de Literatura, Pensamiento e Historia, Metodología de la Enseñanza del Español como Lengua Extranjera y Lingüística de la Confederación Académica Nipona, Española y Latinoamericana, ISSN 1344-9109, Nº. 17, 2005, págs. 25-53, "Con ocasión de la llegada de los barcos de Matsuura de Hirado (1585) y de Ohmura de Nagasaki (1586), los japoneses que aún permanecían en Cagayan así como muchos de Lingayen, se desplazaron a Manila. Las primeras relaciones entre españoles y japoneses de Manila estuvieron marcadas por el recelo. Por un lugar estaban las sospechas sobre los verdaderos motivos de la llegada de barcos japoneses, ya que ello no casaba demasiado con la promulgación del decreto de expulsión de misioneros cristianos en 1587, es decir, de los jesuitas portugueses venidos de Macao. Ciertamente, el decreto no tuvo grandes consecuencias, ya que los misioneros disminuyeron sus apariciones públicas, e Hideyoshi se dio por satisfecho. Pero, las sospechas en Manila se agravaron con los dos barcos que llegaron en 1587. En el primero de ellos, perteneciente al japonés Joan Gayo, la tripulación resultó sospechosa de complicidad en una insurrección de nativos, liderada por Agustín Legazpi. Algunos fueron arrestados y, en particular, el intérprete japonés Dionisio Fernández fue ajusticiado el 13 de junio del año siguiente (1588)8. El segundo barco, de Matsuura de Hirado, llegó el 15 de julio con armas y provisiones. Aunque el capitán del barco llevaba un mensaje de buena voluntad de su señor Matsuura y de su hermano, cuyo nombre cristiano era Gaspar, esta vez los españoles tomaron precauciones y los 40 marineros de la tripulación fueron atendidos por la iglesia de Manila y tras acabar sus negocios se marcharon."
  43. ^ Never Imagine Yourself to be Otherwise: Filipino Image of Japan over the Centuries, Elpidio STA. ROMANA and Ricardo T. JOSE, Asian Studies 29 (1991), pp. 67-68, "In 1587, an ill-fated Filipino anti-Spanish rebellion led by Don Agustin de Legaspi, Martin Panga and Magat Salamat took place in Manila and adjacent areas. The Filipino rebels got in touch with a Christian Japanese adventurer named Juan Gayo and enlisted him in a plan to use other armed Japanese to be disguised as traders stationed offshore. On signal, Gayo and his men were to attack from the sea and help the Filipinos drive the Spaniards out of Manila. But when the time of the attack came, Gayo either simply lost interest or betrayed the rebels. The Filipino rebels waited in vain for his help; meanwhile, the Spaniards discovered the plan, rounded up the leaders and executed them publicly. 9 The involvement of a Japanese naturally made the Spaniards more suspicious."
  44. ^ La colonia de japoneses en Manila en el marco de las relaciones de Filipinas y Japón en los siglos XVI y XVII, José Eugenio Borao Mateo, Revista anual de Literatura, Pensamiento e Historia, Metodología de la Enseñanza del Español como Lengua Extranjera y Lingüística de la Confederación Académica Nipona, Española y Latinoamericana, ISSN 1344-9109, Nº. 17, 2005, págs. 25-53, "En 1589, fueron 30 ó 40 japoneses los que llegaron a Manila. Iban con vestimenta de peregrinos, para visitar las iglesias del país. Llevaban rosarios en el cuello y se movían con gran penitencia. Anduvieron 15 leguas alrededor de Manila y sus esteros, reconociéndolo todo. No se les molestó y se acabaron marchando. El gobernador fue de los que creyó a posteriori que habían venido en misión de espionaje, y con los datos que hubieran obtenido, tras contrastarlos con los de otros de los comerciantes, “se [habría] conocido en Japón la riqueza y la flaqueza de los naturales y la gente española que había para defender las Islas”9. Era el inicio del expansionismo de Hideyoshi10, y los españoles pensaron que también podrían ser objeto de un ataque japonés, y, en previsión de ello, Gómez Pérez Dasmariñas dio instrucciones, a principios de 1592, para preparar la defensa. Una de las medidas adoptadas fue congregar a todos los japoneses residentes de Manila en un barrio extramuros, el de Dilao, confiscarles sus armas y limitar su libre movilidad por la ciudad. La medida no parecía vana, a juzgar por las embajadas de Japón que llegaron a continuación a Manila."
  45. ^ Never Imagine Yourself to be Otherwise: Filipino Image of Japan over the Centuries, Elpidio STA. ROMANA and Ricardo T. JOSE, Asian Studies 29 (1991), pp. 67-68, "In 1591, a Japanese named Harada Magoshichiro was reported to have studied parts of the Philippines and recommended that Hideyoshi conquers the Philippines. Hideyoshi made concrete plans but sent an emissary the following year to Manila and demanded that the Spaniards become his vassals and pay tribute; otherwise he would invade the Philippines. He has just invaded Korea, and the poorly defended Spaniards could only reply that they sought friendship with Japan. Japanese ships entering Manila were checked thoroughly to make sure they carried no weapons. The Japanese community in Manila was disarmed and resettled outside Manila in a place called Dilao district. The next year, the Spaniards tried to guard their north flank by invading Taiwan but a typhoon thwarted that expedition. Later, Hideyoshi also sent a request to the Spanish authorities in the Philippines for shipbuilders but was refused by the Spaniards who realized that they will be used to build warships. The apprehensive Spaniards sought reinforcements from Mexico. 10 The Japanese were also suspicious of Spanish attempts to proselyte in Japan. This mutual suspicion - Spain fearing a Japanese invasion, Japan suspicious of Spanish evangelization and fearful that Japan might be involved in power conflicts in Europe- was to continue into the early 17th century."
  46. ^ a b Martín de la Ascensión to Doctor Morga, 28 January 1597, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 15, p. 125.
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  56. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 41.
  57. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 47-48
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  64. ^ 三俣俊ニ「京都の大殉教の殉教地について」
  65. ^ a b The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 32, "The dénouement of summer 1616 occurred while Cocks was in Edo; indeed, I have argued here that Cocks’s presence was the trigger. But he sorely overplayed his hand. Cocks’s remarks caused alarm more widespread than he could have intended. As well as banishing the bateren shūmon, Hidetada decided to confine the English and the Dutch.177"
  66. ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 30 "Little has been said above about the Dutch. Their base was beside that of the English on Hirado. On first arrival in Japan, Cocks and Saris were shocked to find that individual Dutchmen (not the Company itself) were billing themselves as “English,” which they did so as to engage in piracy without sullying their own country’s name.161 Not withstanding the honours given to Addames, the reputation preceding the English was accordingly not good."
  67. ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 31, "The best strategy was to link the Dutch to the Jesuits, which was intensely done after the first change in shogunal attitude in winter 1613–1614, after Saris had left and Cocks had gained some purchase on the situation in Japan. Jacques Speckx (1585–1652), chief of the Dutch factory, he reported, proclaimed that in Asia, “he took the Graue Moris [graf Maurits (1567–1625)] and the Estates of Holland to be as much as the King of England, if not more.”166 Yet Cocks countered, telling Matsura Takanobu that the Dutch were “natural vassals of the King of Spain,” and “in open rebellion cast hym offe,” referring to the Spanish Netherlands. Takanobu should beware, for the Dutch “might breed some alteration in the harts of his owne vasseles to doe as the Hollanders had done,” with wider ramifications, to “make others as themselves are, to the over throwe of the state of Japan.”167 Cocks pursued a dual line: the United Provinces were rightfully part of Catholic Spain, so the Dutch were rebels, and, though this was contradictory, it was England that had secured such independence as the Dutch enjoyed, and so, in a manner, was overlord to them. He informed the Hirado court “that all might heare” how, “the King of England has vassales much greater than the prince (or county [count]) w’ch governs the Hollanders, and that their state or government was under the command of the King of England, he having garrisons of English soldiers in their cheefest fortes, or places of strength they had.”168"
  68. ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 31-32 "Cocks was drawing attention to the Cautionary Towns, placed under English control as surety for Elizabeth’s enormous loans to the Dutch cause.170 But it was stretching the point to imply that the United Provinces were under English rule in any comprehensive way. Still, on hearing a Dutchman claim “their kinge of Holland to be the greatest kinge in Christendome, and that held all the others under,” Cocks weighed in: “I was not behindhand to tell him hee need not lye so  oude, for that they had no kinge at all in Holland, but wer governed by a count, or rather, they governed him,” that is, he was an elected stadtholder, not a king, which to a Japan just emerging from civil war might seem dangerously loose. And Cocks continued, forgetting Spain: “If they had any kinge of which they might boast, it was the Kinge ma’tes of England, who hitherto have been their protector, otherwise they had never bragged of their states.”171 "
  69. ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 33, "Hidetada, now free of his father, made large-scale alterations to Ieyasu’s dispensation, not just with reference to international commerce. “[E]very one complayneth,” said Cocks, “that matters aer worse than in the ould mans daies, and that this man doth nothing but change offecers and displace tonos [daimyo].”181 The sequence with which this paper has engaged ended that autumn. The Jesuits were gone, or at least should have been. They were not supine, however; though few in number and living in hiding (as in England), they leaked out damaging facts. They tried to turn the tables over the matter of the United Provinces, pointing out the King of Spain was only troubled there because of English support, and “thenglish were they w’ch gave hem [the Dutch] meanes to stand against their naturall prince.”182"
  70. ^ Iwao, “Matsukura Shigemasa,” p. 98. The Nagasaki bugyō were the chief representatives of the Tokugawa regime in the city. Following Hideyoshi’s confiscation of Nagasaki from the Jesuits in 1587, the place was not given to a daimyō (the normal procedure elsewhere in Japan) but retained as “crown property” under the bugyō, a word best translated as “commissioners.” For most of the period under discussion there were two bugyō in office at the same time. As part of their duties involved the supervision of international trade, it was only appropriate that Takenaka was involved in the espionage.
  71. ^ [Antonio Yxida?], “Events in Filipinas, 1630–32,” 2 July 1632, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 24, pp. 229–30.
  72. ^ Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., p. 8
  73. ^ Hayashi, Shimabara Hantō-shi, p. 980;Nagasaki-ken shi, p. 246.
  74. ^ Iwao, “Matsukura Shigemasa,” p. 101.
  75. ^ a b Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., pp. 8-9
  76. ^ Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., p.10-11
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  78. ^ The perceived status of the Dutch as the shogun’s “loyal vassals” is brilliantly analysed in Adam Clulow, The Company and the Shogun: The Dutch Encounter with Tokugawa Japan (New York: Columbia Univ. Press, 2014).
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  88. ^ Imagining Global Amsterdam: History, Culture, and Geography in a World City, M. de Waard / Amsterdam University Press, Amsterdam 2012, p. 37., "we had to endure many shameful restrictions imposed by those proud heathens. We may not celebrate Sundays or other festivities, we may not sing religious songs or speak our prayers; we never pronounce the name of Christ, nor may we carry around the image of the cross or any other symbol of Christianity. In addition we have to endure many other shameful impositions, which are very painful to a sensitive heart. The only reason which induces the Dutch to live so patiently with all these pains is the pure and simple love for profit and for the costly marrow of the Japanese mountains. (1964, 72)". Kämpfer, Engelbert. Geschichte und Beschreibung von Japan. Vol. 2. Stuttgart: Brockhaus, 1964. p. 72
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  90. ^ "Dr. John Francis Gemelli Careri, Voyage Round the World, 1700, Book IV, Chapter II, p. 291. "making no scruple for their Interest to trample the Holy Image of Christ, which the English refus’d to do.”
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参考文献[編集]

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  • 林陸朗・村上直・高橋正彦・鳥海靖 『日本史総合辞典』(東京書籍、1991年11月10日初版発行)
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  • 青山玄「キリシタンの流行と禁制」(『日本宗教事典』弘文社、 1985年)

関連項目[編集]

同時代の東アジアにおけるキリスト教(カトリック)との関係