フルベッキ群像写真

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フルベッキ群像写真(フルベッキ写真)

フルベッキ群像写真(フルベッキぐんぞうしゃしん)は、在米オランダ改革派教会から派遣されたオランダ出身の宣教師グイド・フルベッキとその子[1]を囲み、上野彦馬のスタジオで撮影された44名の武士による集合写真の俗称。西郷隆盛が写っているといわれることが多い[2]。「フルベッキ写真」、「フルベッキと塾生たち」とも呼ばれる[3]。明治元年(1868年)頃、フルベッキが佐賀藩藩校致遠館」の学生とともに撮った可能性が高い写真とされている[4]

歴史[編集]

この写真は古くから知られており、明治28年(1895年)には雑誌『太陽』(博文館)で、佐賀の学生たちの集合写真として紹介された。この「フルベッキ博士とヘボン先生」という記事を書いた戸川安宅は被写体となった人々については一切言及していない[5]。日本滞在経験のある日本学の研究者ウィリアム・グリフィスはその著書『Verbeck of Japan』(1900年)の中で、フルベッキがアメリカに送ったこの写真は「のちに政府の様々な部署で影響力を持った人々」「のちに皇国の首相となった人物」が写されていると述べており、大隈重信岩倉具定、岩倉具経らが確認できる、としている[6]。その後、明治40年(1907年)に刊行された『開国五十年史』(大隈重信編)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」のタイトルで掲載されている。

「維新の志士達の集合写真」説[編集]

昭和49年(1974年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、「この写真には坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが写っている」とする論文を発表した(2年後の昭和51年にはこの論文の続編を同誌に発表)[5]。島田は彼らが写っているという前提で、写真の撮影時期を慶応元年(1865年)と推定した[5]。佐賀の学生たちとして紹介された理由は、「敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、偽装されたもの」だとした[7]

この説は学会では相手にされなかったが、一時は佐賀市の大隈記念館でもその説明を取り入れた展示を行っていた。また、昭和60年(1985年)には自由民主党二階堂進副総裁が議場に持ち込み、話題にしたこともあったという[8]。また、平成16年(2004年)には、朝日新聞毎日新聞日本経済新聞にこの写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された[9]東京新聞が行った取材では、各紙の広告担当者は「論議がある写真とは知らなかった」としている。また、業者は「フルベッキの子孫から受け取ったもので、最初から全員の名前が記されていた」と主張している[10]。平成21年(2009年)にも、朝日新聞と毎日新聞は「フルベッキ写真の陶板」広告を掲載している。また、平成22年(2010年)には、コンピューターで画像処理され、写真に写る46人全員が色付けされて販売され、スポーツ報知に広告が掲載された[11]

この写真の話題は、間歇的に復活して流行する傾向がある。ちなみに、最初に島田が同定した維新前後の人物は22人であったが、流通するたびに徐々に増加、現在では44人の侍全てに維新前後の有名人物の名が付けられている。

この見解を取るものの中には、大室寅吉(大室寅之祐)という名でのちの明治天皇が写っているとした説を唱えるものや、「明治維新は欧米の勢力(例:フリーメイソン)が糸を引いていた」説等の陰謀論偽史の「証拠」とする例もある(松重正、加治将一大野芳ら)[12]

写真の実体[編集]

この写真はフルベッキと、佐賀藩が長崎に設けた英学校「致遠館」の学生と教師を写真師・上野彦馬が撮影したものとされる。龍馬没後の明治元年10月27日(1868年12月10日)に致遠館に留学した岩倉具定・具経兄弟(岩倉具視の次男と三男)が写っていることや[13]、撮影が行われた彦馬のスタジオ内の背景などから、慶応年間の撮影はあり得ないとされている[14][15]。上野彦馬の一族である上野一郎は明治2年(1869年)の撮影であると推定しているが、岩倉兄弟などの長崎滞在の時期から見て明治元年に撮影された可能性のほうが高いともいわれている[16]

近年、その証拠となる写真も発見されている。明治元年10月8日(1868年11月21日)にフルベッキと佐賀藩中老・伊東次兵衛(外記、祐元)が致遠館教師である佐賀藩士5人(中島永元、堤薫信、中野健明中山信彬、副島要作)と一緒に撮ったガラス湿板写真が見つかった[17]。その写真の撮影日を裏付ける伊東次兵衛の日記[18]の存在も知られている。ガラス板に写る致遠館教師5人はほぼ同じ姿で「フルベッキ群像写真」にも写っている[19][20]

「フルベッキ群像写真」に写っている致遠館の学生の名前も徐々に判明してきている。フルベッキ親子の両隣にいる岩倉兄弟をはじめ、折田彦市鍋島直彬など、維新の志士ほどではないにしても政治家や官僚としてのちの歴史に名を遺す人物も確認されている。

脚注[編集]

  1. ^ 古写真研究家の高橋信一は次女のエマ・ジャポニカ・フルベッキ(1863年2月4日生)としている。石黒敬章著『こんな写真があったのか』(角川学芸出版2014年)参照。
  2. ^ 石黒敬章は自著『こんな写真があったのか』で、フルベッキの後ろに写るごつい顔の男が西郷ではないことは確かで、西郷の写真はない、としている。
  3. ^ 斎藤充功(2012年)、4ページ
  4. ^ 倉持基「「フルベッキと塾生たち」写真の一考察」(『上野彦馬歴史写真集成』、渡辺出版、2006年、98-102ページ)
  5. ^ a b c 村瀬寿代 2000, pp. 84.
  6. ^ 村瀬寿代 2000, pp. 87.
  7. ^ 斎藤充功(2012年)、4ページ
  8. ^ 斎藤充功(2012年)、113ページ
  9. ^ これは、佐賀県有田市の陶器業者である山口孝が製作販売したもの。「日本を動かした幕末維新の志士達」というタイトル付きの、46人の名前が入ったフルベッキ群像写真の陶板額で、現在でも長崎などの土産物店でこの説を取り入れた商品が販売されることがある。斎藤充功(2012)、114ページ
  10. ^ 子孫とされているオランダ人の血を引く日本人は、フルベッキと全く血縁のない人物であることが判明している。斎藤充功(2012年)、116ページ
  11. ^ 斎藤充功(2012)、114ページ
  12. ^ 『決定版 秘密結社の暗号FILE』、学習研究社、2009年、165-170ページ
  13. ^ 村瀬寿代 2000, pp. 88.
  14. ^ 上野一郎「撮影年代を推定する」(『写真の開祖 上野彦馬』、産業能率短期大学出版部、1975年、205-213ページ)
  15. ^ 村瀬寿代 2000, pp. 83.
  16. ^ 高橋信一「「フルベッキ写真」の解明」(『葉隠研究』第62号、葉隠研究会、2007年)
  17. ^ 「「フルベッキ写真」伝説覆す原板」(読売新聞、2013年4月24日付朝刊27面記事)
  18. ^ 「幕末伊東次兵衛出張日記」(『佐賀県近世史料』第五編第一巻、佐賀県立図書館、2008年)
  19. ^ 倉持基、高橋信一「新史料発見!ついに「フルベッキ写真」の年代が確定!」(『歴史読本』2013年7月号、中経出版、190-199ページ)
  20. ^ 丹下甲一「「フルベッキ写真」はなぜ撮られたのか?」(『歴史読本』2013年8月号、中経出版、208-217ページ)

参考文献[編集]

  • 鈴木八郎、小澤健志、八幡政男、上野一郎監修『写真の開祖 上野彦馬』、産業能率短期大学出版部、1975年
  • 高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』、新教出版社、1978年
  • 大橋昭夫、平野日出雄著『明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯』、新人物往来社、1988年
  • 高橋佐知著『角館歴史村 青柳家の秘密』、新人物往来社、1999年
  • 村瀬寿代著「長崎におけるフルベッキの人脈」、『桃山学院大学キリスト教論集』第36巻、桃山学院大学、2000年、 63-94頁、 NAID 110000215333
  • 中島耕二、辻直人大西晴樹著『長老・改革教会来日宣教師事典』(日本キリスト教史双書)、新教出版社、2003年
  • W.E.グリフィス著、村瀬寿代訳編『新訳考証 日本のフルベッキ:無国籍の宣教師フルベッキの生涯』、洋学堂書店、2003年
  • 馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』、渡辺出版、2006年
  • 加治将一著『幕末維新の暗号-群像写真はなぜ撮られ、そして抹殺されたのか』、祥伝社、2007年
  • 世界の秘教研究会編『決定版 秘密結社の暗号FILE』、学習研究社、2009年
  • 守部喜雅著『日本宣教の夜明け』(マナブックス)、いのちのことば社、2009年
  • 守部喜雅著『聖書を学んだサムライたち』(フォレストブックス)、いのちのことば社、2010年
  • 片桐勧著『明治お雇い外国人とその弟子たち』、新人物往来社、2011年
  • 斎藤充功著『「フルベッキ群像写真」と明治天皇"すり替え"説のトリック』、ミリオン出版、2012年
  • 加治将一著『ビジュアル版 幕末維新の暗号』、祥伝社、2012年
  • 落合莞爾著『明治維新の極秘計画』、成甲書房、2012年

外部リンク[編集]