大隈重信

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日本の旗 日本の政治家
大隈 重信
Shigenobu Okuma 5.jpg
大礼服を着用した大隈
生年月日 1838年3月11日
(旧暦天保9年2月16日
出生地 Japanese Crest Nabesima Gyouyou.svg 佐賀藩肥前国佐賀
没年月日 1922年1月10日(満83歳没)
死没地 日本の旗 大日本帝国 東京府東京市
出身校 佐賀藩蘭学寮
所属政党 立憲改進党→無所属→立憲改進党→進歩党憲政党憲政本党
称号 従一位
大勲位菊花章頸飾
侯爵
親族 大隈信常養子
大隈英麿娘婿
大隈信幸養孫
配偶者 美登(離別、二人の間に長女・熊子)、綾子
サイン OkumaS kao.png

内閣 第1次大隈内閣
任期 1898年6月30日 - 11月8日
天皇 明治天皇

日本の旗 第17代 内閣総理大臣
内閣 第2次大隈内閣
任期 1914年4月16日 - 1916年10月9日
天皇 大正天皇

日本の旗 第3・4代 外務大臣
内閣 第1次伊藤内閣
黒田内閣
任期 1888年2月1日 - 1889年12月24日

日本の旗 第11代 農商務大臣
内閣 第2次松方内閣
任期 1897年3月29日 - 11月6日

日本の旗 第30代 内務大臣
内閣 第2次大隈内閣
任期 1914年4月16日 - 1915年1月17日

その他の職歴
日本の旗 第11代 外務大臣
1896年9月22日 - 1897年11月6日
日本の旗 第14代 外務大臣
(1898年6月30日 - 11月8日)
日本の旗 第29代 外務大臣
(1915年8月10日 - 10月13日
日本の旗 第32代 内務大臣
(1915年7月30日 - 8月10日)
日本の旗 貴族院議員
1916年7月14日 - 1922年1月10日)
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大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日1838年3月11日) - 大正11年(1922年1月10日)は、日本武士佐賀藩士)、政治家教育者位階勲等爵位従一位大勲位侯爵

政治家としては参議大蔵卿外務大臣(第34111429代)、農商務大臣第13代)、内閣総理大臣(第817代)、内務大臣(第3032代)、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

佐賀県佐賀市に現存する大隈重信の生家(国の史跡に指定)
佐賀藩士時代の大隈

佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。

重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学(後に復学を許されたが戻らず)。この頃、枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の義祭同盟にも参加した。安政3年(1856年)、佐賀藩蘭学寮に転じた。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。そして慶応元年(1865年)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。またフルベッキに英語を学んだ。 このとき新約聖書アメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けた。また京都や長崎に往来して、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島と共に将軍徳川慶喜大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。

明治維新[編集]

明治維新に際しては小松清廉の推挙により明治元年(1868年)、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年(1869年)からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。明治3年(1870年)に参議に補され、1873年(明治6年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。

大隈の下には伊藤博文井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。

民部省を吸収合併させて大蔵省を一大官庁とした大隈は地租改正などの改革に当たるとともに、殖産興業政策を推進した。征韓論には反対し、その後、殖産興業と財政改革という点から、明治8年(1875年)10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出したりしている。また、単独でも財政の意見書を提出している。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。

大隈は、会計検査院創設のための建議をおこなっており、会計検査院は明治13年(1880年)3月に設立された。

自由民権運動に同調して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、明治14年(1881年)10月12日、参議を免官となった。いわゆる明治十四年の政変である。大隈は、10月15日付で辞表を提出した。

下野後[編集]

野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄犬養毅矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。また10月、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現早稲田大学)を、東京郊外(当時)の早稲田に開設した。ただ、明治17年(1884年)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している。明治20年(1887年)、伯爵に叙された。

外務大臣から総理大臣へ[編集]

ブラックタイを着用した大隈
和服を着用した大隈
アカデミックドレスを着用した大隈

大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した。 同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗に遭い、明治22年(1889年)には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、右脚を切断するとともに辞職した[1]。 明治29年(1896年)、 第2次松方内閣(「松隈内閣」(しょうわいないかく)と呼ばれる)で再び外相に就任するが、薩摩勢と対立して翌年に辞職した。

明治31年(1898年)6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。俗に言う「隈板内閣」(わいはんないかく)である。しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文相・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると、後任人事をめぐって対立はさらに激化する。後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いたことに不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。結局、組閣からわずか4か月後の11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。

政界引退[編集]

明治40年(1907年)、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。

明治41年(1908年)11月22日にアメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合における大隈重信の始球式は記録に残っている最古の始球式とされている。大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者、総長、政治家である大先生の投球をボール球にしてはいけないと考えた早稲田大学の1番打者がわざと空振りをしてストライクにした。これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった[2]

政界に復帰、首相へ[編集]

第一次護憲運動が興ると政界に復帰した。大正3年(1914年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、2度目の内閣を組織(第2次大隈内閣)。与党は立憲同志会大隈伯後援会→無所属団→公友倶楽部、および中正会である。7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保を求めて、8月23日に対宣戦布告をおこない、翌年1月には外相・加藤高明と共に対華21ヶ条要求を提出した。ただし、その後日本側は、第五号の7項目を除外した[3]。 内相・大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、8月には自身が外務大臣を兼任して内閣を改造し心機一転を図るが、政権は次第に国民の支持を失っていった。改造の際に「いったん辞表を提出し天皇の慰留により留任」というこれまでの藩閥政治家と同様の型をとったことやそれに対する弁明も批判された[4]。さらに政府に対する元老の圧迫が激しさを増し、大正5年(1916年)10月、遂に内閣は総辞職、以後大隈も政界から完全に引退した[5]。 退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。また、再び首相に就任するまでの16年というブランクは歴代最長記録である。

この間、大正5年(1916年)7月14日に侯爵に陞爵され貴族院侯爵議員となる[6]

死後[編集]

護国寺内 大隈重信墓

大正11年(1922年)1月10日に胆石症のため早稲田で死去、1月17日に自邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。この3週間後に同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の「国葬」では、山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで「まるで官葬か軍葬」と言われ、翌日の東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。

墓所は佐賀市の龍泰寺東京都文京区護国寺にある。

人物[編集]

人物像[編集]

  • 身長180cmと言われている。
  • 日本の暦を現在でも使われているグレゴリオ暦に変えた。
  • 「あるんである」、若しくは、「あるんであるんである」という言い回しを好んで用いた[7]
  • 現在残されている大隈の関連文書は全て口述筆記によるものであり、大隈自身の直筆のものは存在しない。これは弘道館在学中に字の上手な学友がいて、大隈は字の上手さでその学友に敵わなかったため、書かなければ負けることはないと負けず嫌いで字を書くことをやめ、以降は勉強はひたすら暗記で克服し、本を出版する時も口述筆記ですませ、死ぬ時まで文字を書かなくなったためと言われている。

人間関係[編集]

  • 伊藤博文はライバル視していたことがよく知られており、以下のようなエピソードが伝えられている。
    • 明治30年(1897年)に大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には、当時、伊藤が本邸を構えていた。様々な政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、明治40年(1907年)には別邸を新たに国府津に構え、わずか10年で引き払われた。
    • 大隈と同郷で、彼に目をかけられた行政法学者・織田萬のエッセイ集[8]によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈君とはいろいろ競ってきたが、教育機関を自ら作ったという点ではかなわない」と述べたことに満悦したという。また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と羨みつつも悲しみ、大泣きに泣いたとのことである[9]
  • 西郷隆盛は大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされ、特に明治4年(1871年)の西郷上京の際に書かれた『西郷吉之助意見書』では名指しこそ避けたものの大隈の政策を「武士のやること」ではないと切り捨て、更に同年に西郷の推挙で大蔵省入りした安場保和が大隈への弾劾意見書を提出したこと(西郷も大久保もこれには反対したために却下された)によって、大隈の西郷への反感は抜きがたいものになったとされる。しかし、大隈は西郷について、「人情には極めて篤かった」とも述べている[10]
  • 政治家嫌いの福澤諭吉とは、度々雑誌での論戦に暮れていた。福沢は大隈のことを「生意気な政治家」と、大隈は福沢を「お高くとまっている学者」と言ってお互いに会うことを避けていた。そんな二人を周囲は犬猿の仲だと言っていた。ある日、雑誌の編集部が大隈と福沢を会わせてみようと本人達に内緒で酒宴の席を設けた。いったいどうなるかと、周囲は面白がっていたが、直接相対した両者は、酒が通ると意気投合し、大隈が「福澤先生はうらやましいですね。未来ある若者に囲まれておいでだ」と言うと、福澤が「あなたも学校をおやりになったらどうです?」と持ちかけられて、早稲田大学を作ったという[11]
    • その後、両者は互いの自宅を訪れるほどに親密となった。大隈は、矢野文雄尾崎行雄犬養毅と言った慶應義塾出身者を会計検査院に起用していたが、「大隈は福澤一派と結託して政権を奪い取ろうとしている」との流言が生じた。そのため、明治十四年の政変によって大隈および矢野、尾崎、犬養等の大隈支持者が下野する羽目に陥った。しかしこの事件によって、かえって福澤との絆は堅固なものとなり、政変後に設立された東京専門学校の開校式では、福澤の姿があった。また、福澤の葬儀では福澤家は献花を断っていたが、大隈からの献花に対しては黙って受け取った[12]
  • 1906年頃、当時園芸家を目指していた後の衆議院議員山本宣治を住み込みで雇っていた。さらに山本のカナダへの園芸留学を支援した。
  • 同志社大学の創立者である新島襄とは、東京専門学校の設立時から深い交流があった。新島は同志社の設立資金を集めるべく奔走していたが、大隈がこれに賛同したことで、両者の親交は深まった。大隈は、新島亡き後も徴兵制の改正に端を発した同志社紛争の調停に尽力したほか、京都に行った時は必ず同志社に立ち寄り演説していたと言う。現在、早稲田大学と同志社大学との間には国内交換留学協定が締結されている。

逸話[編集]

  • 浦上信徒弾圧事件の際、イギリス公使ハリー・パークスは「日本の行っている事は野蛮国のすることであり、今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ」と抗議してきた。その対応に手をこまねいていた明治政府は、交渉役に、英語が話せ、キリスト教の知識もあった大隈を選び派遣した。しかし当時大隈はまだ31歳だったため、パークスは「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ!」と激怒したという。しかし大隈は「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、抗議は全面撤回とみなす。また、あなたの言うことは、国際法で禁止されている内政干渉である」と言い返し、互角に渡った。パークスは日本を極東の小さな島国ぐらいにしか思っていなかったため、日本の若者の口から“国際法”や“内政干渉”という単語が出てきた事に驚いたという。さらに大隈は「或る歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。又或る宗教家は言う、欧州の歴史は即ちキリスト教の歴史なりと。この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史は即ち戦乱の歴史なり。キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは是何者の所為なり」と続け、今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとして、パークスを説得した。大隈はこのことが大きく評価されて政界の中心へと躍り出たが、その一方で信者であった浦上村の農民3,384人は20藩に分けて移され、牢に入れられてキリシタン信仰を捨てるように説得や拷問を受ることになった[13]
  • あちこちに講演に招かれて人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちにはしごしたことがあるという。これは大隈が政治家であるため様々な方面に応援を求めなければならなかったという事情も存在する。早稲田大学非常勤講師の佐藤能丸は、このことが今日に至るまで大隈の全集が発行されていない遠因となっていると指摘している。
  • 日本最初の鉄道が新橋横浜間に建設された際、そのゲージ(軌間)を1067mm(狭軌。現在のJR在来線の軌間)に決めたのは大隈である。イギリス人技師の説明を聞いて大隈が決めたのだが両者ともに「日本の鉄道なら狭軌で十分」という感覚だったといい、「我輩の一世一代の失策」と大隈は後日語っていたという(池田邦彦「鉄道史の分岐点」イカロス出版、2005年)。なお、「日本の改軌論争」も参照。
  • 日本初の地方遊説を行った首相でもある。
  • 日露戦争開戦の前年にあたる明治36年(1903年)、対印貿易の重要性を認識していた澁澤榮一の後押しを得て、日印協会を設立している[14]
  • 大正8年(1919年)、病床にあった成瀬仁蔵を励ますために、トマトやメロンをもって見舞った[15]
  • 大隈はメロンが大好物で、外国から持ち帰り日本で初めてメロンを栽培したと言われている。
  • 人間は25年を5回生きる能力を有している、いわゆる人生125歳説を唱えた。大隈自身は83歳で死去したが、創立した早稲田大学にとって125という数字は特別なものとなり、大隈講堂の時計台の高さは125尺(約37.9メートル)であるほか、創立125周年にあたる平成19年(2007年)には記念式典を行っている。
  • お金を表す指のサインを考えた人物である。彼は通貨を設定するときにお金(硬貨)は円だから、誰でもお金のことだと分かるようにこのサインを使って説明した。

後世[編集]

栄典・授爵[編集]

外国勲章等

系譜[編集]

大隈家
「大隈家は、伝承によれば、菅原道真の血筋を受け継いでいるという。戦国時代末、その末裔である家泰(いえやす)が筑後国大隈村(現福岡県久留米市梅満町)に土着して大隈に改姓。家泰の孫・孝家(たかいえ)が肥前国中津江村に移住して、やがて鍋島氏に仕えたのだと伝えられる。」という。[31]
系図
※実線は実子。破線は養子。
大隈家泰
 
 
 
 
(略)
 
 
 
 
満辰
 
 
 
 
信保
 
 
 
 
重信 松浦詮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
熊子
 
 
英麿
 
信常 久原房之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊子
 
信幸
 
 
 
磐子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
和子
 
明子
 
治子
 
里砂
  • 最初の妻・美登との長女・熊子:幼名は犬千代[32]南部利剛の次男・英麿を婿養子に迎えるが、明治35年(1902年)に離婚。
  • 2番目の妻・綾子は旗本・三枝七四郎の次女で、小栗忠順の親戚。綾子の兄の三枝守富(小倉鉄道取締役)の三女・光子は重信の養子・信常の妻。
  • 養嗣子・信常は伯爵・松浦詮の五男。侯爵。貴族院議員、衆議院議員を務めた。

彫像[編集]

大隈重信は政治家と教育者という2つの顔を持っていたため、主に大礼服姿のものとガウン姿のものに分けられる。

大隈重信像
早稲田大学
早稲田大学早稲田キャンパスには2体の大隈像があり、有名なガウン姿の立像は昭和7年(1932年10月17日、早稲田大学創設50周年と大隈重信10回忌を兼ねて作られた。右足を失った後の姿のものであるため、杖をついているのが特徴である。製作者である彫刻家朝倉文夫は大隈像を3回制作しているが、この立像は2回目のもの。高さは298cmあり、大隈講堂の方向を向く形で設置されている。受験期には受験生により賽銭が供えられることも少なくない。
また、あまり知られていない大礼服姿の大隈像は大隈講堂内にあり、制作者は同じく朝倉文夫で1回目に制作した大隈像である。元々は現在ガウン姿の大隈像がある位置にあったが、大隈講堂内に移設された。1907年に大学創立25周年と大隈の数え年70歳を記念して建てられた[33]。1916年に綾子夫人像の建設が計画されると、若手教授や学生達の反対運動が起こり、大隈銅像前に400名が集まり反対演説をした[33]。綾子夫人像の建設は一旦中止されたが、10年後に大熊会館に設置され、現在は大熊庭園にある[33]
これら以外にも、他のキャンパスに大隈の胸像が設置されている。
国会議事堂
国会議事堂にある大隈像は、中央広間1階に日本初の政党内閣を樹立した功績を称え、板垣退助、伊藤博文とともに飾られている。昭和13年(1938年2月明治憲法発布50周年を記念して作られた。
大隈記念館
佐賀県佐賀市にある大隈記念館内にある大隈像は昭和63年(1988年4月に大隈重信の生家跡地に建てられた。大礼服姿の立像で、高さは180cmあり、実際の大隈重信の身長と同じとされている。この立像は大隈重信が右足を失う前の姿のものである。
大隈重信旧宅
佐賀県佐賀市にある大隈重信の旧宅は、武家屋敷の面影を残した貴重なもので、国の史跡に指定されている。庭園には、波多野敬直の筆による「大隈重信侯の生誕地」の記念碑が建っている。

脚注[編集]

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  1. ^ 大隈の右脚切断手術は佐藤勇やドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツにより行われ、その後の大隈は義足を着用した。この際に大隈が失った右脚は、アルコール漬けにされ大隈邸にて一時保管後、消費されるアルコール代が高額で手間がかかるため赤十字中央病院に寄付された。更にその後日本赤十字看護大学にて由来不明となったままでホルマリン漬けで保存(経年のため変色が認められるものの生きているかのようであったという)されていたが、1988年(昭和63年)由来判明後に早稲田大学で保管され、1999年(平成11年)に故郷である佐賀市の大隈家菩提寺の龍泰寺にて安置(保存のための樹脂加工済)されている。
  2. ^ 幸運社 『意外と知らないもののはじまり』 PHP文庫、2002年、p.249。ISBN 4-569-57841-1
  3. ^ 有馬学 『日本の近代4 「国際化」の中の帝国日本 1905-1924』 中央公論新社、1999年、111-113頁。
  4. ^ 大隈は「留任の大命を受けた以上は自分の意志で進退を決めるわけにいかない。とやかく言うのはほとんど君主権を犯すもの」と当時述べた。岡義武「近代日本の政治家」岩波現代文庫、文庫初版2001年、P109
  5. ^ ただし、大隈が元老に加えられたとする文献がまれにあるほか、元老同様に次期首相について天皇の下問を受けたこともある。百瀬孝著・伊藤隆監修「事典昭和戦前期の日本 制度と実態」吉川弘文館、1990年、P13~14。また、死去するまで貴族院侯爵議員であった。
  6. ^ 『官報』第1188号、大正5年7月17日。
  7. ^ 岡崎久彦陸奥宗光」上巻、PHP文庫、初出1987年、P195に「大隈が口舌の徒であるという評価は、明治・大正の人には常識だったようである。大隈は、しばしば、その演説を『我が輩は』で始めて、『あるんである』、時としては『あるんであるんである』で結んだ。ただの口癖と言えばそれまでであるが、少なくとも、言葉を節して、一言半句無駄なことを言うのを忌む人には、とうていできないことである」とある。
  8. ^ 織田萬 『法と人』 春秋社教養叢書、1943年
  9. ^ 大隈をめぐる人々 早稲田大学公式サイトより
  10. ^ 木村時夫 『知られざる大隈重信』113頁
  11. ^ 知ってるつもり?!』「大隈重信」(日本テレビ放送網/1998年2月15日放送)
  12. ^ 大隈をめぐる人々 早稲田大学公式サイトより
  13. ^ カトリック長崎大司教区 Home 教区の歴史 大浦天主堂の建立 信徒発見 浦上四番崩れ
  14. ^ “【ボースの遺骨を守ってもう一つの日印交流】(3)「日印協会」の変遷”. 産経新聞 (産経新聞社). (2008年9月28日) 
  15. ^ 木村時夫 『知られざる大隈重信』 集英社 2000年、237頁
  16. ^ 『官報』第1156号、「叙任及辞令」1887年05月10日。
  17. ^ 『官報』第4491号、「叙任及辞令」1898年06月21日。
  18. ^ 『官報』第7077号、「宮廷録事 - 恩恵」1907年02月04日。
  19. ^ 『官報』第8054号、「叙任及辞令」1910年04月30日。
  20. ^ a b 『官報』第1187号、「叙任及辞令」1916年07月15日。
  21. ^ a b 『官報』第1187号、「叙任及辞令」1916年07月15日。
  22. ^ 『官報』第1754号、「叙任及辞令」1889年05月08日。
  23. ^ 『官報』第4166号、「叙任及辞令」1897年05月25日。
  24. ^ a b 『官報』第4509号、「叙任及辞令」1898年07月12日。
  25. ^ 『官報』第4528号、「叙任及辞令」1898年08月03日。
  26. ^ 『官報』第4583号、「叙任及辞令」1898年10月07日。
  27. ^ 『官報』第4583号、「叙任及辞令」1898年10月07日。
  28. ^ 『官報』第7992号、「叙任及辞令」1910年02月16日。
  29. ^ 『官報』第1159号、「叙任及辞令」1916年06月13日。
  30. ^ 『官報』第1034号、「叙任及辞令」1916年01月15日。
  31. ^ 国民リーダー大隈重信 - Google ブックス
  32. ^ 大園隆二郎 『大隈重信』 西日本新聞社 2005年、178頁
  33. ^ a b c 平瀬礼太、「夫人像の建設巡り紛糾「大隈重信像」」(銅像はつらいよ十選 5)、日本経済新聞、2013年12月19日

関連項目[編集]

関連作品[編集]

映画
テレビドラマ

外部リンク[編集]


公職
先代:
伊藤博文
山本権兵衛
日本の旗 内閣総理大臣
第8代:1898年6月30日 - 同11月8日
第17代:1914年4月10日 - 1916年10月9日
次代:
山縣有朋
寺內正毅
先代:
伊藤博文
西園寺公望
西徳二郎
加藤高明
日本の旗 外務大臣
第3・4代:1888年2月1日 - 1889年12月24日
第11代:1896年9月22日 - 1897年11月6日
第14代:1898年6月30日 - 同11月8日(兼任)
第29代:1915年8月10日 - 同10月13日(兼任)
次代:
青木周蔵
西徳二郎
青木周蔵
石井菊次郎
先代:
原敬
大浦兼武
日本の旗 内務大臣
第30代:1914年4月16日 - 1915年1月17日(兼任)
第32代:1915年7月30日 - 同8月10日(兼任)
次代:
大浦兼武
一木喜徳郎
先代:
榎本武揚
日本の旗 農商務大臣
第13代:1897年3月29日 - 同11月6日
次代:
山田信道
学職
先代:
創設
早稲田大学総長
初代:1907年 - 1922年
次代:
塩澤昌貞
爵位
先代:
創設
大隈侯爵家
初代:1916年 - 1922年
次代:
大隈信常
先代:
創設
大隈伯爵家
初代:1887年 - 1916年
次代:
陞爵
第7代
伊藤博文
8
1898年6月30日 - 同11月8日
第9代
山縣有朋
第16代
山本権兵衛
17
1914年4月10日 - 1916年10月9日
第18代
寺内正毅

伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衛

寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一

濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介
廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎

阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王
幣原喜重郎
吉田茂

片山哲
芦田均
鳩山一郎
石橋湛山
岸信介
池田勇人
佐藤榮作
田中角榮

三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曽根康弘
竹下登
宇野宗佑
海部俊樹

宮澤喜一
細川護熙
羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎

安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
鳩山由紀夫
菅直人
野田佳彦

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