本野一郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本野 一郎(もとの いちろう、1862年3月23日(文久2年2月23日) - 1918年(大正7年)9月17日)は明治、大正の外交官、政治家である。子爵。
来歴・人物 [編集]
肥前国佐賀生まれ。父は読売新聞創業者の本野盛亨。弟に化学者・早稲田大学教授の本野英吉郎、孫に元駐フランス大使の本野盛幸がいる。フランス公使。ベルギー公使。寺内内閣で外務大臣。
富井政章、梅謙次郎と共にフランスのリヨン大学で法学を学び、法学博士の学位を得ている。特に梅謙次郎とは同じ下宿で暮らし、同時に学位を得た[1]。
年譜 [編集]
- 1873年 単身フランス・パリに留学[1]
- 1876年 帰国し、東京外国語学校入学[1]
- 1880年 横浜貿易商会入社[1]
- 1881年 フランス・リヨン大学法学部入学[1]
- 1889年 法学博士の学位を授与され、帰国[1]
- 1890年 外務省翻訳官[2]
- 1893年 法学博士(帝国大学)、法典調査会委員[1]
- 1896年 ロシア公使館一等書記官[2]
- 1898年 ベルギー公使[2]
- 1901年 フランス公使[2]
- 1905年 3月1日の奉天会戦に際し、フランス外務大臣テオフィール・デルカッセを通じて講和の打診を受ける
- 1906年 ロシア公使。日露戦争後の日露協約締結に尽力
- 1907年9月14日 男爵となり勲一等旭日大綬章受章
- 1908年5月 ロシア大使
- 1916年
- 1917年 ロシア革命に対しシベリア出兵を強硬に主張
- 1918年
- 4月23日 外務大臣を辞職 [2]
- 9月17日 死去。勲一等旭日桐花大綬章追贈
脚注 [編集]
|
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||