中山太郎

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日本の旗 日本の政治家
中山 太郎
なかやま たろう
生年月日 1924年8月27日(90歳)
出生地 日本の旗 日本 大阪府大阪市
出身校 大阪高等医学専門学校
前職 大阪医科大学助教
所属政党 自由民主党→)
無所属
称号 勲一等旭日大綬章
衆議院永年在職議員
医学博士
親族 父・中山福蔵
母・中山マサ
弟・中山正暉
長男・中山譲治
第一三共代表取締役兼CEO )
甥・中山泰秀
公式サイト 元衆議院議員 中山太郎オフィシャルホームページ

日本の旗 第116-117代 外務大臣
内閣 第1次海部内閣
第2次海部内閣
第2次海部改造内閣
任期 1989年8月10日 - 1991年11月5日

内閣 鈴木善幸内閣
任期 1980年7月17日 - 1981年11月30日

選挙区 旧大阪5区→)
大阪18区
当選回数 7回
任期 1986年7月8日 - 2009年7月21日

選挙区 大阪府選挙区
当選回数 3回
任期 1968年7月8日 - 1986年6月18日

選挙区 大阪市生野区選挙区
当選回数 4回
任期 1955年4月23日 - 1968年6月8日
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中山 太郎(なかやま たろう、1924年(大正13年)8月27日 - )は、日本政治家医師勲等勲一等旭日大綬章学位医学博士(大阪医科大学)

外務大臣(第116117代)、総理府総務長官第30代)、沖縄開発庁長官第11代)、衆議院憲法調査会長衆議院議員(7期)、参議院議員(3期)、大阪府議会議員(4期)等を歴任した。

父は元参議院議員中山福蔵。日本で初めて女性で閣僚(厚生大臣)を務めた元衆議院議員中山マサは母。弟に元建設大臣中山正暉がおり、長男は第一三共の代表取締役兼CEOである中山譲治、甥に衆議院議員中山泰秀がいる。

来歴[編集]

大阪府大阪市生まれ。1952年(昭和27年)に、旧制大阪高等医学専門学校(現在の大阪医科大学)を卒業し、大阪医科大小児科教室助手を務める。

1955年(昭和30年)に、大阪府議会議員選挙に出馬し、初当選を果たす。大阪府議を4期務めたのち、1968年(昭和43年)の第8回参議院議員通常選挙大阪府選挙区から自由民主党公認で出馬し、当選。

1980年(昭和55年)に、鈴木善幸内閣総理府総務長官沖縄開発庁長官に任命され、初入閣。1986年(昭和61年)の第38回衆議院議員総選挙では参院議員を辞職して旧大阪府第5区から出馬し、当選。第1次海部内閣外務大臣に任命され、海部俊樹首相の退陣まで一貫して海部内閣の外相を務めた。外務大臣時代には冷戦終結に伴う対ソビエト連邦外交に尽力したが、湾岸戦争の際の人質解放問題や国際協力法案等をめぐり左右両派から批判される一幕もあった。

中曽根康弘宮澤喜一両元首相が2003年(平成15年)に引退して以降、現職議員の中では最高齢になったため、衆議院本会議場の座席は主に歴代首相経験者が並ぶ位置に置かれるようになった。2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙では、自民党の党規により重複立候補が認められず、大阪府第18区から出馬するが、民主党中川治に敗れ、落選した。中山の落選により、大正時代生まれの国会議員がいなくなった。

自民党の内規である国政選挙の比例代表定年制の撤廃を要求していた。2010年(平成22年)5月25日、要求が通らなかったとして自民党に離党届を提出したが、幹事長(当時は大島理森)預かりとなり、現在も党籍は残っている[1][2]

政策[編集]

憲法調査会[編集]

古くから憲法改正に積極的で、2000年(平成12年)1月20日に衆議院に設置された衆議院憲法調査会の設置に貢献したことから、設置時より会長を務めてきた。同調査会再編に伴い、2005年(平成17年)9月22日に設置された衆議院日本国憲法に関する調査特別委員会でも、設置時より委員長を務める。通例1~2年で委員長及び調査会長が交代する国会の人事にあって、同種の役職を7年間もの長期間務めた例は他にない。なお、調査活動にあたっては、「人権の尊重」、「主権在民」及び「再び侵略国家とはならない」との3つの理念の堅持をモットーとしており、世界各国の憲法に関する調査のための衆議院代表団を率いて毎年海外を訪問し、精力的に調査活動を行ってきた。

外交[編集]

元外務大臣であり、日韓議員連盟顧問、日本・欧州評議会友好議員連盟会長、日本アメリカ友好議員連盟会長、日本オランダ友好議員連盟会長、日本インド友好議員連盟会長、日本イラン友好議員連盟会長、日本スウェーデン友好議員連盟会長、日本フィリピン友好議員連盟会長、アジアエネルギー共同体推進議員連盟会長などの外交関連の議員連盟の会長を務めたなど、外交通として内外に知られている。

また、元ソビエト連邦外務大臣で、元グルジア大統領エドゥアルド・シェワルナゼと仲がよく電話をし合う中である。また、グルジアではソ連崩壊後苦境に陥っていたシェワルナゼを助けた盟友として知られている。

臓器移植[編集]

1997年に成立・施行された臓器の移植に関する法律の制定においては、議員立法として提案した中心人物となった。2009年の法改正においては、2006年に後に採用案となるA案を河野太郎福島豊らと共に提案した。

派閥[編集]

派閥は参議院初当選から一貫して清和会(福田派→安倍派→三塚派)に属し、安倍晋太郎会長下で加藤六月塩川正十郎森喜朗三塚博が「安倍派四天王」と称されると、これに続く「安倍派第5の男」と呼ばれた。1998年、三塚派内で森ラインと亀井静香ラインの対立が激化すると、亀井、平沼赳夫らと清和会を脱退し、「中山 ・亀井グループ」を結成。しかし、翌年の志帥会結成には参加せず、以来無派閥を貫く。

人物[編集]

外見(容姿)から、「お茶の水博士」の愛称がある。

日韓議員連盟顧問。

暴力団が経営に関与しているとされる企業から、中山が代表を務めている自民党選挙支部へ献金が行われていることが報道されている[3]

地元選挙区に位置する関西国際空港の建設を推進したこともあり、現在は、関西国際空港整備促進議員連盟会長を務め、近年では同空港の2期工事の開始を推進するなど、同空港の開発推進に力を入れている。

略歴[編集]

  • 1943年(昭和18年) 旧制生野中学校(現大阪府立生野高等学校)卒業
  • 1952年 (昭和27年)旧制大阪高等医学専門学校(現大阪医大)卒業
  • 1954年(昭和29年) 大阪医科大学小児科教室助手
  • 1955年 (昭和30年)大阪府議会議員初当選(大阪生野区)
  • 1960年 (昭和35年)医学博士号取得(小児麻痺研究・大阪医科大学)
  • 1968年 (昭和43年)参議院議員初当選(大阪地方区)
  • 1971年(昭和46年) 労働政務次官
  • 1976年 (昭和51年)参議院内閣委員長
  • 1980年 (昭和55年)総理府総務長官沖縄開発庁長官(鈴木内閣)
  • 1983年 (昭和58年)参議院自民党幹事長
  • 1986年 (昭和61年)衆議院議員初当選
  • 1989年 (平成元年)外務大臣(第1次海部内閣)
  • 1990年(平成2年) 外務大臣(第2次海部内閣・第2次海部改造内閣)
  • 2000年 (平成12年)衆議院憲法調査会会長
  • 2005年 (平成17年)衆議院日本国憲法に関する調査特別委員長
  • 2009年(平成21年) 衆議院小選挙区選挙で落選
  • 2010年 (平成22年)自由民主党を離党。

栄典[編集]

脚註[編集]

  1. ^ “中山元外相が自民に離党届 新党から参院選出馬か”. 共同通信社. (2010年5月25日). http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010052501000246.html 2010年5月25日閲覧。 
  2. ^ 大阪府第18区の支部長職については2011年に党本部が行った公募の結果、自身の青年局長だった遠藤敬が就任。遠藤の離党後は泉大津市長だった神谷昇が就任した。
  3. ^ 『毎日新聞』2004年2月11日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


議会
先代:
木村睦男
日本の旗 参議院議院運営委員長
第34代:1979年 - 1980年
次代:
桧垣徳太郎
先代:
加藤武徳
日本の旗 参議院内閣委員長
1976年 - 1977年
次代:
増原恵吉
公職
先代:
三塚博
日本の旗 外務大臣
第115・116代:1989年 - 1991年
次代:
渡辺美智雄
先代:
小渕恵三
日本の旗 沖縄開発庁長官
第11代:1980年 - 1981年
次代:
田辺国男
先代:
小渕恵三
日本の旗 総理府総務長官
第30代:1980年 - 1981年
次代:
田辺国男