奥野誠亮

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日本の旗 日本の政治家
奥野誠亮
おくの せいすけ
生年月日 1913年7月12日(101歳)
出生地 奈良県御所市
出身校 東京帝国大学(現・東京大学
前職 内務省官僚
自治省官僚・事務次官
現職 奈良大学理事
所属政党 自由民主党
称号 勲一等旭日大綬章
衆議院永年在職議員
法学士
親族 長男・奥野信亮
次男・奥野正寛

日本の旗 第16代 国土庁長官
内閣 竹下内閣
任期 1987年11月6日 - 1988年5月13日

日本の旗 第39代 法務大臣
内閣 鈴木善幸内閣
任期 1980年7月17日 - 1981年11月30日

日本の旗 第95代 文部大臣
内閣 第2次田中角榮内閣
第2次田中角榮第1次改造内閣
任期 1972年12月22日 - 1974年11月11日

選挙区 奈良県全県区→)
奈良3区
当選回数 13回
任期 1963年11月22日 - 2003年10月10日
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奥野 誠亮(おくの せいすけ、1913年大正2年)7月12日 - )は、日本内務官僚政治家。「おくの せいりょう」と呼ばれることもある(有職読み)。

奈良県御所市出身。みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会初代会長。平城遷都1300年記念事業協会特別顧問。奈良大学理事。兄は元工学院大学名誉教授の奥野治雄。

経歴[編集]

内務官僚時代[編集]

旧制畝傍中学旧制一高を経て、1938年(昭和13年)3月、東京帝国大学法学部を卒業し、同年4月に内務省に入省。 第二次世界大戦中の昭和18年に鹿児島県警察部特高課長として新興俳句弾圧事件の一つであるきりしま事件で同人37人を検挙した。

自治官僚時代[編集]

第二次大戦終戦後、内務省の廃止に伴い、自治庁(後の自治省、現在の総務省)に移る。自治庁税務部長、自治庁税務局長、自治省財政局長を経て、1963年(昭和38年)7月に自治事務次官に就任し、自治官僚のトップに就任する。同10月に衆議院議員総選挙に立候補するため退官した。

自治官僚時代には道州制を唱えて、県制と道州制のそれぞれの長所と短所を指摘した。衆議院議員に転進した後にも、県の合併に関する法案を出したが、廃案となった。

政治家時代[編集]

1963年(昭和38年)11月、第30回衆議院議員総選挙奈良県全県区から自由民主党公認で立候補し、当選。以後、13回連続当選。政治姿勢は保守派であり、憲法改正靖国神社参拝などを主張して来た。さらに、従軍慰安婦問題でも「従軍慰安婦は商行為」と発言し、積極的に反対論を展開していた。

1972年(昭和47年)、第2次田中角栄内閣文部大臣として初入閣。1980年(昭和55年)、鈴木善幸内閣法務大臣に就任。1987年(昭和62年)竹下内閣では国土庁長官に任命され、土地対策にその手腕が期待されていたが、1988年(昭和63年)5月9日に衆議院決算委員会で日中戦争について「あの当時日本に侵略の意図は無かった」と発言[1]して批判を浴び、5月13日に国土庁長官を辞任。「国庁長官」などと揶揄された。

1974年(昭和49年)5月、メキシコのブラボ・アウハ教育大臣の日本訪問において、奥野と会談した際、日本メキシコ学院の設立が提唱される。

その後も、裁判官弾劾裁判所長、衆議院倫理審査会会長、自民党憲法調査会最高顧問などを務めた。自民党税制調査会でも地方税の権威として重きをなした。

この間、1993年(平成5年)8月の特別国会召集にあたって、自民党から衆議院議長候補に推されるが、当時の細川連立与党7党が推す土井たか子に議長指名選挙で敗れた。ただし、この時は事前の票読みで土井の選出が見えており、本来の候補であった河本敏夫が引っ込められて奥野が立ったともいう。

自民党内では初当選以来、無派閥を通すが、実際は田中角栄に近く、「隠れ田中派」の一人と目されていた。それを裏付けるように、通常、無派閥議員はポストを獲得するのが困難な中で、当選4回で初入閣を果たし、通算3度の入閣を経験している。法務大臣時代にはロッキード事件を擁護する発言で物議をかもした。

アジア福祉教育財団の理事長を30年以上も務め、同財団を通じてアジア諸国との友好交流を進めてきた。また、国交のない台湾との友好親善にも力を尽くし、民間団体である日華交流教育会の活動を積極的に支援した。許國雄ら台湾側の国会議員とも緊密な関係を結んでいる。

2003年(平成15年)10月、第43回衆議院議員総選挙には高齢のため出馬せず、長男の奥野信亮に地盤を譲る形で政界を引退した。

反ジェンダー主義で、選択的夫婦別姓制度にも反対していた。

親族[編集]

エピソード[編集]

  • 若い頃から剣道で鍛えられ、年齢より矍鑠としていた。ある時、院内をスタスタと移動中、杖を突きながら歩く鯨岡兵輔を追い抜く際、「年長者を挨拶無しに追い抜くとは何事か!」と怒鳴られたことがある。しかし実際には、1915年9月15日生まれの鯨岡よりも、1913年7月12日生まれの奥野の方が年長者であった(衆議院議員当選は2人とも同じ1963年)。また、政界を引退した後にも、岩見隆夫と遭遇した際、エスカレーターに乗った岩見がふと階段のほうを見ると、奥野がスタスタと階段を下りていたという[2]
  • 自治大臣・国家公安委員長をしていた縁で「人権110番」主宰の千代丸健二と対談。「警察署長クラスに苦情・抗議を申し入れても埒が明かないときはどうすればいいのか」と問われた際に「オレのところに持って来い。国会で取り上げる」と答えた[3]
  • 2013年7月12日に100歳の誕生日を迎え、そのお祝いとして友人の綿貫民輔島村宜伸から東京スカイツリーの見学に招かれた[4]

著書[編集]

所属団体[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 秦郁彦によれば、奥野発言は、蘆溝橋事件劉少奇中国共産党の一団が引き起こしたとの葛西純一の証言を引用して送られてきたファックスを真に受けてのものだったが、秦がその内容は信用できない所以を説明したところ、「不覚の至りだった」と憮然とした表情を見せたという(秦郁彦「陰謀史観のトリックを暴く」、『Will』2009年2月号、193頁)。
  2. ^ 毎日新聞「近聞遠見」 [いつ?]
  3. ^ 千代丸健二 『無法ポリスとわたり合える本』 [要ページ番号]
  4. ^ “奥野誠亮元法相が満100歳 スカイツリーに上る 「社会のお役に立ちたい」”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2013年7月12日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130712/stt13071219500001-n1.htm 2013年10月15日閲覧。 

関連項目[編集]