谷垣禎一
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たにがき さだかず
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| 生年月日 | 1945年3月7日(64歳) |
| 出生地 | 京都府福知山市 |
| 出身校 | 東京大学法学部卒業 |
| 前職 | 弁護士 |
| 所属政党 | 自由民主党 |
| 称号 | 法学士(東京大学・1972年) |
| 親族 | 谷垣専一(父) |
| 公式サイト | 谷垣禎一(さだかず)公式サイト: tanigaki sadakazu: 自由民主党衆議院議員 |
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| 内閣 | 福田康夫改造内閣 |
| 任期 | 2008年8月2日 - 2008年9月24日 |
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| 内閣 | 第3次小泉内閣 第3次小泉改造内閣 |
| 任期 | 2005年9月21日 - 2006年9月26日 |
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| 内閣 | 第2次小泉内閣 第2次小泉改造内閣 |
| 任期 | 2003年11月19日 - 2005年9月21日 |
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| 内閣 | 第1次小泉第2次改造内閣 |
| 任期 | 2003年9月22日 - 2003年11月19日 |
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| 内閣 | 第1次小泉第1次改造内閣 |
| 任期 | 2003年7月1日 - 2003年9月22日 |
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その他の職歴
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(2003年4月10日 -2003年9月22日) |
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(2002年11月8日 -2003年4月10日) |
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(2002年9月30日 -2003年9月22日) |
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(2000年4月5日 -2000年7月4日) |
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(2000年2月25日 -2000年4月5日) |
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(1997年9月11日 -1998年7月30日) |
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(1983年 -現職) |
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谷垣 禎一(たにがき さだかず、1945年(昭和20年)3月7日 - )は、日本の弁護士、税理士、政治家。衆議院議員(9期)。
郵政、防衛、大蔵各政務次官、科学技術庁長官(第58代)、金融再生委員会委員長(第3・4代)、国家公安委員会委員長(第69代)、産業再生機構担当大臣、食品安全担当大臣、財務大臣(第3・4・5代)、自由民主党政務調査会長、国土交通大臣(第9代)を歴任。宏池会(谷垣派)会長を務めた。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 政界入り~宏池会のホープ
京都府福知山市出身。麻布中学校・高等学校、東京大学法学部を卒業し、短期間の弁護士生活を経て、元文相で父・谷垣専一の死去に伴う補選で父の地盤を引き継ぎ、1983年衆議院旧京都2区補欠選挙に自民党より出馬し初当選。
宏池会では早くから将来を嘱望された。1996年に『文藝春秋』が企画した「現役政治部記者が選ぶ21世紀のリーダー」では既に3位に選出されている。翌1997年、第2次橋本内閣改造内閣の科学技術庁長官として初入閣。
1998年の金融危機にあって、小渕恵三総理大臣は宮澤喜一に大蔵大臣就任を要請。宮澤が就任条件の一つとして谷垣の政務次官就任をあげたため、閣僚経験者でありながら次官となった。続く「金融国会」において金融二法の成立に尽力、引続き国務大臣・金融再生委員会委員長に抜擢されたことで、経済政策のエキスパートとしての評価が高まった。
しかし続く森内閣では、加藤紘一の側近であったことから、2000年の加藤の乱に際して行動を共にして挫折。この際、山崎拓と二人だけで本会議に不信任票を投じに行こうとする加藤を、「大将なんだから、1人で突撃なんてダメですよ!」と涙ながらに慰留するシーンがテレビで放送され話題となった。
[編集] 小泉政権
「加藤の乱」後は宏池会分裂により一時厳しい立場に追い込まれたが、2001年に小泉純一郎が首相となると谷垣は重用され、2002年秋以降は常に閣僚の座にあった。とりわけ要職である財務大臣を3年にわたって無難に務めあげたことで表舞台での活躍が増し、広く認知されるきっかけとなった。また2005年、小里貞利の引退により、会長席が空いた宏池会・小里派から加藤紘一最高顧問が離脱したのを機に、谷垣派を形成して派閥の領袖となる。名実ともに総裁候補となり、自然とポスト小泉「麻垣康三」の一人と目されるようになり、2006年の総裁選初出馬へと至った。
[編集] 自民党総裁選初出馬
小泉内閣の財務大臣であった2006年7月27日、小泉総裁の後継を選ぶ自民党総裁選挙(9月20日投開票)に立候補することを正式に表明。
政権構想として
- 財政再建(2010年代半ばまでには消費税を10%に引き上げ)
- 東アジア外交の立て直し(在任中は靖国神社参拝を控え、日中韓首脳同士が常時対話をとれる「アジアホットライン」の構築)
- 地域社会の活性化(法人税、地方交付税などの税体系の見直しを通じた税収の地域間格差の是正にとりくむ)
といった政策を提示、増税やアジア外交の転換を率直に謳ったことで注目された。
9月20日、投開票が行われた結果、谷垣は703票中102票(国会議員66・地方36)を獲得。安倍晋三、麻生太郎に次いで最下位に終わったが、投票までの論戦で政策的に安倍・麻生との対立軸を明確に打ち出して目標としていた三桁の票を確保したため、党内非主流派として一定の影響力を保ちながら、後継総裁の座を窺うことになった。
[編集] 安倍政権以後
敗北に終わった総裁選をうけて成立した安倍政権では谷垣派からの閣僚・党三役への登用はゼロで、外務大臣に留任した麻生との処遇の差が際立つことになった。与党が過半数割れした2007年7月の参院選後は、安倍内閣の政治姿勢に対して公然と疑問を呈するなど批判の度を強めていたが、直後の内閣・党役員人事でも谷垣派からの要職起用は無かった。
同年9月、安倍総理の突然の辞任を受け、07年自民党総裁選への出馬を検討したが、福田康夫の立候補にともない派としての支持を約束、自らの立候補は見送った。総裁に就任した福田からの要請で政調会長に就任、初の三役入りを果たした。
福田政権の誕生を機に、懸案であった宏池会再結集の動きが一気に具体化し、翌年1月には古賀派との合併が決定(いわゆる「中宏池会構想」)。5月に発足した新派閥では、代表世話人となった。しかし新派閥の総裁候補は棚上げされたままで、派内には麻生支持議員も少なくなく、派として谷垣を一枚岩で支援する体制は整わなかった。谷垣自身、福田政権下においても政調会長として目立った調整力を発揮することはほとんど見られず、手腕に疑問符が投げかけられることもしばしばであった。2008年8月2日の内閣改造では国土交通大臣に就任。翌月の福田退陣表明による総裁選では出馬に意欲を見せたが、福田政権の責任者という立場も考慮し出馬を断念し、宏池会は自主投票となった。同総裁選では世代交代をアピールした若手の出馬表明が相次いだ他、足元の宏池会からも与謝野馨や麻生を率先して支持する議員があらわれるなど、谷垣の総裁候補としての立場は微妙なものとなりつつある。
[編集] 人物・エピソード
宏池会の政治家らしくスマートな知性派で、万事をそつなくこなすと評される。経済問題を中心に幅広く政策に通じ、「官僚が選ぶ次期総理になって欲しい政治家ランキング」で1位に選ばれるなど、政策・実務能力の評価は高い。一方で、政府での経験の豊富さとは裏腹に、党の要職にはほとんど就くことはなく、2007年の福田康夫政権における政調会長就任までは、総務局長を一度務めたのみである。また温厚な人柄で自ら率先して前に出るタイプではなく、財務大臣時代も無難に職責を果たしたものの、独自性をアピールすることは少なかった。さらに、内政全般には明るいが、未だまとまった外交ビジョンを提示したことがない。こうした点から、総理の座を狙うには克服すべき点が多く、2006年の総裁選立候補も将来に向けたアピールという点が強かった。
二世議員、東大卒や弁護士の経歴から苦労知らずとも思われがちだが、当初から弁護士志望で政治家になる気は全くなく、父からも「こういう仕事は世襲じゃないんだから、お前は継ぐな」と言われていた。政界入りのきっかけは弁護士時代に父が急死し、後援会に推されて半ば無理やり補選に出馬させられたことだったという[1]。
麻布中学時代は剣道部、麻布高校時代は山岳部に所属。いずれにおいても部活の先輩であった橋本龍太郎に指導を受けたという逸話を持つ。その縁で、橋本龍太郎が会長を務めていた日本山岳ガイド協会の会長を、谷垣自身が現在務めている。
趣味は落語鑑賞、サイクリング。何度もロードレースに参加し好タイムで完走している。自転車活用推進議員連盟の会長でもある。また趣味のため大学を何年も留年したり 、司法試験に何度も落ちたことがあった。
愛読書は四書五経など中国の古典や宋代の詩人・蘇東坡の漢詩などで、しばしば中国の故事を引用する。キリスト教系の政財官界人の親睦会「インターナショナル・VIP・クラブ」で講師を務めている。1990年代に「国会議員が集まって聖書を読みながら祈る会」を発足させたメンバー議員のひとりで、週1回のペースで同会の活動をしている。今日、同会は毎年夏に海外からも政治家が集まり、聖書を開き、祈りながら相互理解を図ろうという取り組みにまで成長している。
身長176cm、体重80kg、血液型O。
[編集] 略歴
- 1963年 麻布高等学校卒業。
- 1972年 東京大学法学部卒業。以後断続的に父・専一の秘書を勤めた。
- 1979年 司法試験合格。司法修習34期の同期生に伊東秀子、山口なつお
- 1982年 弁護士登録。
- 1983年 旧京都2区補選において衆議院議員に初当選。
- 1986年 衆議院議事進行係に就任。
- 1988年 郵政政務次官に就任。
- 1990年 防衛政務次官に就任。
- 1995年 衆院議運委員長に就任。
- 1996年 自由民主党総務局長に就任。
- 1997年9月11日 科学技術庁長官に就任(翌年7月30日まで)。
- 1998年 大蔵政務次官に就任。
- 2000年2月25日 金融再生委員会委員長に就任(同年7月4日まで)。
- 2000年11月21日 「加藤の乱」に際し、派閥の会長であった加藤紘一と行動を共にする。
- 2002年9月30日 国家公安委員会委員長に就任(翌年9月22日まで)。
- 2002年11月8日 産業再生機構(仮称)担当大臣兼務(前同。翌年4月10日、呼称から「(仮称)」が外れる)。
- 2003年7月1日 食品安全担当大臣兼務(前同)。
- 2003年9月22日 財務大臣に就任(第1次小泉第2次改造内閣)。
- 2003年11月19日 財務大臣に再任(第2次小泉内閣、第2次小泉改造内閣)。
- 2005年9月21日 財務大臣に再任(第3次小泉内閣、第3次小泉改造内閣)。
- 2005年9月26日 宏池会会長に就任。(加藤派→小里派→谷垣派)
- 2006年9月 自民党総裁選に出馬、3位。
- 2006年10月 自民党総務に就任。
- 2007年9月 自民党政調会長に就任。
- 2008年5月13日 旧谷垣派と旧古賀派の合流に伴い、宏池会の代表世話人に就任。
- 2008年8月2日 国土交通大臣に就任。(福田康夫内閣改造内閣)
[編集] 家族 親族
- 実家
- 自家
- 妻・佳子との間に二女あり
[編集] 系譜
- 谷垣家[2]
影佐禎昭━━娘 ┣━━━━━━━谷垣禎一 谷垣専一
[編集] 関係団体
- 北京オリンピックを支援する議員の会副会長
- 日韓議員連盟常任幹事
- 社団法人日本蕎麦協会会長
- たばこと健康を考える議員連盟所属。
[編集] 脚注
- ^ 『週刊文春』2003年9月11日号・阿川佐和子との対談より。
- ^ 近現代・系図ワールド
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 冬柴鐵三 |
第9代:2008年 |
次代: 中山成彬 |
| 先代: 塩川正十郎 |
第3・4・5代:2003年 - 2006年 |
次代: 尾身幸次 |
| 先代: 村井仁 |
第69代:2002年 - 2003年 |
次代: 小野清子 |
| 先代: 創設 |
(産業再生機構) 2002年 - 2003年 |
次代: 金子一義 |
| 先代: 創設 |
2002年 - 2003年 |
次代: 小野清子 |
| 先代: 越智通雄 |
第3・4代:2000年 |
次代: 久世公堯 |
| 先代: 近岡理一郎 |
第58代:1997年 - 1998年 |
次代: 竹山裕 |
| 党職 | ||
| 先代: 石原伸晃 |
自由民主党政務調査会長 第50代 : 2007年 - 2008年 |
次代: 保利耕輔 |
| 先代: 小里貞利 |
宏池会会長 2005年 - 2008年 |
次代: 古賀派と合流 |
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