高村正彦

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日本の旗 日本の政治家
高村 正彦
こうむら まさひこ
高村正彦
生年月日 1942年3月15日(71歳)
出生地 山口県周南市
出身校 中央大学法学部法律学科
前職 弁護士
所属政党 自由民主党大島派
親族 父・高村坂彦
公式サイト 衆議院議員 高村 正彦 =Koumura.net=

選挙区 旧山口2区→)
山口1区
当選回数 11回
任期 1980年6月23日 - 現職
議員会館 衆議院第1議員会館226号室

日本の旗 第140代 外務大臣
内閣 福田康夫内閣
福田康夫改造内閣
任期 2007年9月26日 - 2008年9月24日

日本の旗 第126代 外務大臣
内閣 小渕内閣
小渕改造内閣
任期 1998年7月30日 - 1999年10月5日

日本の旗 第3代 防衛大臣
内閣 安倍改造内閣
任期 2007年8月27日 - 2007年9月26日

日本の旗 第70・71代 法務大臣
内閣 第2次森改造内閣
任期 2000年12月5日 - 2001年4月26日

その他の職歴
日本の旗 第50代 経済企画庁長官
1994年6月30日 - 1995年8月8日
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高村 正彦(こうむら まさひこ、1942年3月15日 - )は、日本政治家弁護士(登録番号:10863)。自由民主党所属の衆議院議員(11期)、自由民主党副総裁(第13代)。

番町政策研究所(高村派)会長、経済企画庁長官第50代)、法務大臣(第7071代)、防衛大臣第3代)、外務大臣(第126140代)を歴任した。

徳山市長、衆議院議員を務めた高村坂彦の四男。

目次

来歴 [編集]

山口県徳山市(現周南市)出身。父・高村坂彦衆議院議員初当選を機に東京都へ移る。東京都立立川高等学校中央大学法学部法律学科卒業。23歳で司法試験に合格。司法修習第20期を修了し、弁護士登録。同期に、同い年で後の法務大臣・江田五月がいる。

1980年、父の引退に伴い、第36回衆議院議員総選挙自由民主党公認で旧山口県第2区から出馬し、初当選した(初当選同期で中大法学部の同窓に中曽根派長野祐也がいる。長野は、2000年4月よりアール・エフ・ラジオ日本で『長野祐也の政界キーパーソンに聞く』を担当、高村は定期的に出演)。予算不足から準備が暗礁に乗り上げていた国際科学技術博覧会(つくば万博)の予算獲得のために一回生議員ながら「科学技術振興・若手議員連盟」を発足させ鈴木善幸首相に陳情するなど尽力し予算獲得に成功する。この際、国際的な約束に基づくものの予算はシーリング枠外(万博は国際博覧会条約に基づいて開催される)という前例を作り、後の科学技術関連の予算獲得に貢献した。

小選挙区比例代表並立制導入後は山口県第1区から出馬し、中選挙区時代も含めて通算10期連続当選している。早くから河本敏夫率いる新政策研究会の次世代を担う存在として目されていた。

1994年村山内閣経済企画庁長官として初入閣。当時大学生だった長男を秘書官に任命し、批判を受けた。1996年には第2次橋本内閣では、閣僚経験者でありながら池田行彦外務大臣の下で外務政務次官に就任し、ペルー日本大使公邸人質事件では解決に向けて奔走した。

1998年小渕内閣外務大臣に就任。ガイドライン関連法成立に努力し、国会答弁では「スーパー政府委員」の異名を取った[1]小渕改造内閣でも留任。2000年には第2次森改造内閣法務大臣に就任し、この頃から総裁候補の1人に目されるようになった。

2000年7月、旧河本派会長に就任し、2001年には高村派に代替わりした。

山崎拓加藤紘一小泉純一郎の「YKK」に森喜朗を加えた「MYKK」に高村を加えて、「NY3K」と称されることもあった。この頃、小泉の後継を窺い、麻生太郎古賀誠平沼赳夫らと共に士志の会を結成した。

2003年自由民主党総裁選挙に出馬。自派所属議員の他、宏池会堀内派林義郎やその長男・林芳正大勇会鈴木恒夫森英介[2]平沢勝栄らが高村の推薦人に名を連ね、保守党党首から自民党に復党した野田毅も高村を支援したが、結果は最下位(54票)に終わった。

郵政民営化については総務会での全会一致の原則を破って法案提出に反対し、衆議院本会議の採決では棄権した。後に参議院の審議で付帯決議付きの法案が可決され、過疎地の郵便局も存続の見通しが立ったため、衆議院の解散後に賛成の立場を明らかにし、自民党の公認を受けた。

2006年自由民主党総裁選挙では、同じ山口県選出の安倍晋三を高村派を挙げて支持し、安倍内閣では山本有二内閣府特命担当大臣(金融)、在職中に死去した松岡利勝農林水産大臣の後任に赤城徳彦を送り込んだ(赤城は事務所費問題が発覚し短期間で更迭)。2007年安倍改造内閣では防衛大臣を務めた。

安倍の後継総裁を選出する2007年自由民主党総裁選挙では、早くから麻生太郎包囲網に参加し、福田康夫を支持。福田康夫内閣では外務大臣に横滑りする。福田康夫改造内閣でも再任された。

2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では、全国的に自民党への猛烈な逆風が吹き荒れる中、保守王国・山口県で圧倒的な強さを見せ、山口1区で民主党新人の高邑勉を破り、10回目の当選を果たした(派閥領袖で小選挙区で当選したのは高村、麻生太郎二階俊博古賀誠の4人のみ)。高邑には5万票弱の大差をつけたものの、比例復活を許した。山口1区で次点以下の候補が比例復活したのは初めてである。

2012年自由民主党総裁選挙では、再び安倍晋三への支持を表明。党副総裁(第13代)に任命された。番町政策研究所会長は、大島理森と交代する。

2013年3月25日付で横綱審議委員会委員に就任。

政策・主張 [編集]

北朝鮮に対する姿勢 [編集]

毎日新聞による小渕内閣の外相時代の評価は高く、北朝鮮問題でも「拉致問題解決なくしてコメ支援なし」の原則を公言していた。当時は北朝鮮に宥和的な政治家が対朝外交の主導権を握っていて、積極的な議員外交が繰り広げられていた[3]

2006年10月25日の参議院外交防衛委員会で北朝鮮による日本人拉致問題の進展に関して「被害者が数人帰国なら進展」との見解を示した。また、翌日の記者会見では「何人かでも帰国すれば進展であることは間違いない」と踏み込んだ発言を行い「進展の度合いに応じて行動を取っていく。日朝関係改善のために当然だ」と北朝鮮に対する制裁の段階的解除を検討する方針を明らかにした。

2008年6月13日、福田康夫首相に北朝鮮がよど号犯の引き渡しに協力することと引き換えに、北朝鮮に対する経済制裁の一部を解除することを提案した。同日、福田内閣は条件付きで北朝鮮籍船の入港を認め、人道支援物資に限定した対北朝鮮制裁措置の一部解除を表明した(人道支援物資の定義を高村は明示していないため、この決定は事実上の経済制裁解除になる)。北朝鮮に対する経済制裁解除の決定について、高村は拉致被害者家族会に一切の連絡を行っていなかったため、家族会は「政府には拉致問題との取引をしないよう要請する。家族はだれも納得しない」との緊急声明を発表する事態となった。

中国に対する姿勢 [編集]

2007年11月2日の衆議院外交委員会で、化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約に関して、民主党の松原仁は「昭和20年の敗戦後に中国側へ兵器を引き渡した際の引継書には化学兵器も含まれていた」と指摘したが、高村は「どっちに立証責任があるかといえば、それは条約上の建前からいって、日本側にあるんだろうと思います。これについては引き渡したものですよ、これについては日本側に責任はありませんよと。それは非常に困難なのではないかな、こういうふうな感じを、今御質問を聞きながら思いました」と述べた[4]

2008年3月17日に参院予算委員会で、中国・南京などにある抗日記念館の展示内容について、「事実関係に疑義のある展示や青少年の教育上、過度に残虐な表現がある展示がみられることは残念だ」と述べた。南京や盧溝橋の抗日記念館には、日本軍兵士による「百人斬り」の記事や写真などが掲示されており、高村は「指摘すべきは指摘し、中国側の適切な対処を求めていく」と語った[5]

2008年8月7日中国製冷凍食品による農薬中毒事件で日本に輸出が規制された食中毒問題を起こした餃子が中国国内で流通して6月に中国国内で日本で発生した食中毒が発生したことが中国政府から7月初めに中国の日本大使館に伝えられ、それが高村を通じて福田首相にも伝わっていたが、中国側より公表を控えて欲しいと伝えられ、福田と共に8月までその事実を伏せていた。これについて「中国政府の要請で公表を差し控えただけで問題はない」と述べた。

靖国神社問題について [編集]

靖国神社問題について、「中国が、小泉首相の靖国神社参拝を、戦争美化とか軍事大国化の象徴だとしているのは誤解である。しかし、この誤解を解くのはなかなか大変だ」と述べた。また「国立の追悼施設建設は最良の解決策とは思わない。靖国問題は日中両国の国民感情の相違だから、お互いに知恵と勇気を出さなければならない」と語った。

統一教会との関係 [編集]

弁護士時代に世界基督教統一神霊協会訴訟代理人を務めており、1980年には統一教会の女性信者が強制改宗させられているとして、裁判所に人身保護請求を行なってその信者を解放させたことがある[6]。しかし「今は何の関係もない」としている[7]。また1989年政治資金収支報告書によれば、霊感商法の元締め的会社であるとされる「ハッピーワールド」から時価380万円の高級車(日産・セドリック)を提供されている[8]

いわゆる勝共推進議員であったが、外務大臣に就任した年の週刊ポスト(1998年12月4日号)紙上では統一教会との関係について、冷戦構造下において共産主義反対というところで一致していただけで統一教会の弁護士をやめる際に今後は一切、相談は受けないことを申し入れたこと、統一教会の教祖文鮮明に対してビザ発給などで便宜を図ったことはないこと、1999年の入国に協力するつもりはないことなどを語っている。

党名変更問題 [編集]

第45回衆議院議員総選挙での惨敗後、舛添要一が党再生を議論する政権構想会議の席上で提起した「『自由民主党』の党名変更」についていち早く反対を表明し、「選挙に負けて自虐的になったのかもしれないが、敗戦直後に『日の丸・君が代反対』という人が出たのに近い発想だ。党名を変えて目くらましをしようというのはあまりにも情けない」と舛添を牽制した。政権構想会議の座長だった伊吹文明ら党幹部の多くも反対したため、党名変更の賛成論は広がらなかった。

人物 [編集]

  • 内政・外政に渡る要職を経験した政策通だが、特に政界有数の外交・安全保障の論客として知られている。
  • かつては総裁候補の1人に数えられ、総裁選への出馬経験を有するが、高村派の規模や地味さが災いし、総裁就任は叶わなかった。
  • 趣味は学生時代から行っている少林寺拳法(五段)。

政治資金 [編集]

家族・親族 [編集]

高村家 [編集]

所属議員連盟 [編集]

脚注 [編集]

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関連項目 [編集]

  • 河村龍男 - 前光市議会議員。高村の元秘書。2008年10月26日投票の光市長選挙に突如、民主党推薦で出馬。選挙期間中には菅直人も来援したが、自民党系の前市議会議長・市川熙に敗れた。
  • 中村長芳
  • 藤井真 - 元山口県議会議員、元高村正彦秘書、故人。
  • 合志栄一 - 山口県議会議員、元山口市長。

外部リンク [編集]

官職
先代:
小渕恵三
町村信孝
日本の旗 外務大臣
第126代:1998年 - 1999年
第140代:2007年 - 2008年
次代:
河野洋平
中曽根弘文
先代:
小池百合子
日本の旗 防衛大臣
第3代:2007年
次代:
石破茂
先代:
保岡興治
日本の旗 法務大臣
第71代:2000年 - 2001年
次代:
森山眞弓
先代:
寺澤芳男
日本の旗 経済企画庁長官
第50代:1994年 - 1995年
次代:
宮崎勇
議会
先代:
大原一三
日本の旗 衆議院農林水産委員長
1991年 - 1993年
次代:
平沼赳夫
党職
先代:
大島理森
自由民主党副総裁
2012年 -
次代:
現職
先代:
集団指導体制より移行
番町政策研究所会長
第3代:2000年 - 2012年
次代:
大島理森