亀井静香
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かめい しずか
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| 生年月日 | 1936年11月1日(72歳) |
| 出生地 | 広島県比婆郡山内北村 |
| 出身校 | 東京大学経済学部経済学科卒業 東京大学経済学部商業学科卒業 |
| 前職 | 警察庁長官官房調査官 |
| 所属政党 | (自由民主党→) 国民新党 |
| 称号 | 警視正(警察庁退官時) 経済学士(東京大学・1960年) 経済学士(東京大学・1962年) |
| 世襲の有無 | 無 |
| 親族 | 亀井郁夫(兄) |
| 公式サイト | 亀井静香公式ホームページ |
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| 内閣 | 第2次橋本内閣 |
| 任期 | 1996年11月7日 - 1997年9月11日 |
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| 内閣 | 村山内閣 |
| 任期 | 1994年6月30日 - 1995年8月8日 |
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| 選挙区 | (広島県第3区→) 広島県第6区 |
| 当選回数 | 10回 |
| 任期 | 1979年 - (現職) |
亀井 靜香(かめい しずか。1936年11月1日 - )は、日本の警察官僚、政治家。階級は警視正(警察庁退官時)。衆議院議員(10期)、国民新党代表代行、死刑廃止を推進する議員連盟会長(第4代)。報道などでは亀井 静香(かめい しずか)とも表記される。
目次 |
[編集] 概要
警察庁入庁後、警察官僚となり警察庁長官官房調査官を最後に退官した。警察官時代の階級は警視正である。退官後、衆議院議員となり、村山内閣のもとで運輸大臣(第69代)を務めた。また、第2次橋本内閣のもとで建設大臣(第64代)を歴任した。
[編集] 来歴
[編集] 生い立ち
広島県比婆郡山内北村(現・庄原市川北町)で農業を営んでいた亀井素一・静恵夫妻の次男として生まれる。父は終戦まで山内北村の助役を務め、終戦後は県の嘱託として開墾事業に携わった[1]。
広島市の修道中学校に入学。修道高等学校2年生時に、通学定期券の購入に必要な通学証明の発行を学校が有料化したことに対して批判ビラを配る。これが学校側の不興を買い学校を放逐される(自主退学)。
[編集] 上京
自主退学後、実兄を頼りに上京し、都立日比谷高校や都立九段高校の編入試験を受けるが入学を許可されず、都立大泉高校に編入し、同校を卒業する。
1956年、東京大学教養学部文科II類に入学。駒場寮に入りキャバレーのボーイ、家庭教師などのアルバイトをして学費、生活費を稼ぐ。1960年、同大学経済学部経済学科を卒業し、住友精化に入社。この頃ガンの宣告を受けるが後に誤診と判明。1961年、同退社、猛勉強の結果国家公務員採用上級(甲種・行政)試験に3番の成績で合格、警察官採用上級試験に7番の成績で合格。
[編集] 警察庁
1962年、学士入学していた同大学経済学部商業学科を卒業し、警察庁入庁。鹿児島県警察(徳之島警察署)を振り出しに鳥取県警察本部警務部長、埼玉県警察本部捜査第二課長等を歴任。鳥取時代には鳥取県議であった日本社会党の野坂浩賢と親しくなる。1972年、連合赤軍あさま山荘事件、成田空港事件、テルアビブ空港事件の捜査に初代の警備局極左事件統括責任者として参加。1977年、警察庁警備局理事官、長官官房調査官を経て退官。政界を引退した永山忠則の地盤にて350万円の退職手当を元手に立候補準備を始める。
[編集] 自由民主党
1979年10月、第35回衆議院議員総選挙に初出馬、初当選。以後連続当選。
1985年12月、運輸政務次官就任。1989年4月、 自民党中堅・若手議員による派閥横断グループ「自由革新連盟」を結成、リーダー格として活動。1989年6月、 自民党党総裁選で石原慎太郎を擁立したため清和研から除名処分(後に復帰)。
1994年6月、 運輸大臣就任。1996年10月、自民党組織広報本部長として臨んだ第41回衆議院議員総選挙、初めての小選挙区選挙で新進党新人佐藤公治破る。翌月建設大臣就任(政務次官は中曽根派佐藤静雄)。臓器移植法採決を棄権(臓器移植法には各党党議拘束なし)。
1998年9月、 清和研を離脱し、中山太郎元外務大臣らと「中山・亀井グループ」を結成。同グループ代表に就任。1999年3月、亀井グループと中曽根派が合流し「志帥会」(村上・亀井派)旗揚げ。同派会長代行に就任。1999年10月、自民党政調会長就任。公共事業の見直しを表明し連日深夜に及ぶ議論の末、2兆7000億円削減。
2001年4月、自民党総裁選挙に出馬するが小泉純一郎と政策合意したため直前に辞退。2001年11月、死刑廃止を推進する議員連盟会長に就任。2003年9月、 自民党総裁選挙に再び出馬するも敗北。2003年10月、志帥会(亀井派)会長就任。
[編集] 国民新党
2005年8月、 自民党に離党届を提出、志帥会会長を辞任。2005年8月、 国民新党結党に参画。
2005年9月、 衆議院議員総選挙において無所属で出馬した堀江貴文に苦戦を強いられるが、友人である俳優・菅原文太らの応援もあって26,546票差で当選。選挙後、国民新党の代表代行に就任。
2005年10月、自民党から郵政民営化反対の責任と、新党結成を理由に離党届は受理されず、除名処分となる。
[編集] 人物
[編集] プライベート
養神館合気道6段。趣味はゴルフと油絵。尊敬する人物はチェ・ゲバラと大塩平八郎。
ビートたけしに狂言師和泉元彌の母・和泉節子に似ているとネタにされる。本人は容姿の悪さを気にしている。
実家は農家である。資金集めのために何かと無理をしてきており、献金絡みの事件があると都度々名前が挙る。亀井の自宅(広島県庄原市)は近隣住民から亀井御殿と呼ばれている[要出典]。
[編集] 大学時代
学生時代、アメリカの水爆実験反対を訴えるストライキが原因で退学となった友人を救うため、ハンストを決行する。その後、1週間あまりでドクターストップとなったが、大学当局はその友人の退学を取り消した。
他校の合気道部の学生を糾合して「日本学生合気道連盟」を結成、その初代委員長を務めた。段位は学生時代に三段を取得した。
駒場寮に住んでいた
また、アルバイト先で出されて初めて食べたシュークリームが大好物である。安価でよく食していたラーメンも学生時代からの好物である。[2]
学生時代は「マルクスの亀井」と呼ばれるほど、マルクス経済学に精通していた。
[編集] 政策
[編集] 政治思想
かつては自民党に所属していたが、学生時代にマルクス主義を勉強していた影響もあり社会民主主義傾向が強く、保守政党である自民党の理念に賛成しないときもあった。チェ・ゲバラの思想に心酔し、連合赤軍に対しても、取調べを通して向き合った経験から「“世のため人の為”と立ち上がった彼らの思想そのものに間違いはない」と一定の評価をしている。事務所にはポスターも飾られ、駐日大使当時招かれたハワード・H・ベーカー・ジュニアがこれを見て目を剥いたという。
清和研所属時代の1989年、海部俊樹支持の安倍晋太郎の意向に反して、同じく清和研の石原慎太郎を自民党総裁選に担ぎ出し、派閥からの退会処分を受ける。 その後派閥に復帰、三塚博会長時代は、同派の幹部森喜朗と張り合うまでに影響力を拡大した。塚原俊平、平沼赳夫、桜井新、中川昭一らを擁して派中派・亀井グループを形成し、派閥の意向に反して、橋本龍太郎(1995年)、梶山静六(1998年、いずれも清和研候補は小泉純一郎)らを総裁選に担ぎ出すなど、独自行動をとることもしばしばあった。
03年自民党総裁選では「(小泉総裁の再選は)500%無い」2005年の郵政民営化法案審議等のような政局の緊迫時にはたびたび「(小泉首相は)独裁者、ヒトラーのようだ」等と訴えた。後に小泉首相によって自民党を「除名」された時には、「ヒトラーでもやらない事をやった」と吐き捨てた。外国人記者クラブの会見で第44回衆議院議員総選挙での自民党執行部の刺客作戦について「政治的ガス室に入れられた」「刺客を放って仲間を刺し殺す自民党では日本はおしまい」と発言。
かつては将来の内閣総理大臣候補と目されていたが、郵政民営化法案に反対し新党を立ち上げたためその可能性は低くなった。
[編集] 死刑制度廃止
警察官僚としての経験から、誤認逮捕や冤罪は必ずや起きてしまうものとして、「警察官に誤って無実の人を殺させるようなことがあってはならない」と死刑制度廃止に積極的に取り組み、死刑廃止を推進する議員連盟の会長をしている。アムネスティ・インターナショナル関係の集会にメッセージを寄せることもある。近年は共謀罪にも反対している。
[編集] 防衛政策
若い頃は自由革新同友会(旧中川派)に所属していて、国家基本問題同志会の座長を務めるなど、タカ派のイメージが強い政治家の一人であるが、親米保守ではなく、イラクへの自衛隊派遣に反対している。亀井自身は「タカ派か?ハト派か?」と訊かれたら「ハトを守るタカ」と答えている。
[編集] 雇用政策
運輸大臣当時の1994年、日本航空が計画していた客室乗務員の契約制客室乗務員としての採用に対して、「乗客の安全を守るべき客室乗務員に極端に異なる2つの雇用体系が存在すると、士気の低下に繋がり安全上好ましくない」と格差解消や安全面から強硬に反対し白紙撤回を迫った。 許認可権を盾にとった上、規制緩和に逆行するとしてマスコミにも取り上げられ、日本航空のシンボルマークである鶴との対比から「鶴亀戦争」などと呼ばれた。労働組合の意見をそのまま受けたとも言われるような意見[要出典]は、前年自民党が野党転落のおり、亀井が空港の特別待合室を利用しようとしたところ日本航空側に拒否され、その報復とも囁かれた[要出典]。また、日本航空の社内では、その裏に何らかの利権があるのではないかと言われたりもした。結果的に、「子会社が客室乗務員を採用し親会社に出向させる」、「正社員には移行させない」といった当初案から、「数年間の有期限雇用の契約社員後、正社員へ移行」に変更され導入された(詳しくは、契約制客室乗務員を参照のこと)。
[編集] 道路公団改革
運輸大臣に就任後、全国の高速道路サービスエリア、パーキングエリアの営業を、1社独占から複数社の競合に改める改革を実施し、サービス水準の向上を図った。
一度、「高速道路のサービスエリアで清酒販売を行わせるべき」と発言し、実行させようとした。高速道路で飲酒運転事故により身内を失った家族、国民世論から猛反発された。
[編集] 大型公共事業の見直し
政調会長に在任中は、公共事業の見直しを表明し、連日深夜に及ぶ議論の末、中海干拓事業などを含め2兆7000億円削減した。これに反発した業界団体は、実兄の亀井郁夫が参院選に立候補した際、支援を拒否した。
しかし、亀井自身の経済政策の基本的なスタンスは、「国債発行による景気対策」、「公共事業による景気回復」である。小泉政権下では、小泉首相が掲げる新自由主義への反発から、一貫して反主流を歩んで小泉首相を批判しており、郵政民営化も猛烈に反対していた。現在では犯罪とされる談合についても、2006年4月18日の国会での質問で「地方救済の為には必要。日本のよき助け合いの精神」などと正当化している。
弱者救済・地方振興を主眼とする経済思想は、国民新党のマニフェストにも表れている。本人のウェブページには、ダム建設や干拓などの大型事業に反対である旨記しており、そのような事業を進める余裕があれば弱者救済などに向けるべきであるとしている。
一方、羽田空港の再拡張事業である四本目の滑走路(D滑走路)は、親友の石原慎太郎と亀井の二人で計り、当時の運輸省をほとんど脅して、15分の交渉で調査費をつけさせ着手に持ちこんだものという[3][4]。
[編集] 郵政民営化への反対
2005年の郵政民営化法案を巡る政局では、自民党総務会において郵政民営化法案が多数決採決された際、多数決の無効を主張する意味で採決を棄権した。
郵政民営化法案反対派を煽動して解散は絶対ないと何度も断言し、同法案の参院否決前後に心配した森喜朗が電話をかけた際には浮かれて祝勝会を行っており、話題になったミモレットの挿話と併せて、いわゆる小泉劇場のピエロ役にされてしまった。
志帥会でありながら郵政民営化法案に賛成票を投じて2005年8月1日に自殺した永岡洋治衆議院議員の葬儀で葬儀委員長を務め、「私がふがいないばかりに、君を守ることができなかった。許してくれ」と弔辞を読んだ。しかし、同年8月13日に永岡議員の妻の永岡桂子が郵政法案賛成の遺志を継ぎ、自民党から立候補したため面目を失う。
堀江貴文と選挙で戦った際に「大麻やら薬やらをやっている若者に支持を受けているようだから信用に値しない」とTVで発言した。
[編集] 創価学会との対立
2007年2月13日の衆議院予算委員会で6年ぶりに(国民新党結党後初めて)質問に立ち[5]「まさか自分が野党側で質疑応答するとは想定外でした」「(安倍首相に対し)小泉総理時代の思想はやめて自分なりの思想でやってはどうだ」「創価学会の名誉会長の池田大作との安倍総理の2者対談をしたのか?」など、安倍首相の姿勢や創価学会関連の質疑応答など国家の予算とは全く関係のない議論に終始した。
2007年11月21日国民新党の会合でのあいさつにおいて、自民、公明両党推薦の現職候補が敗北した大阪市長選に関連し「創価学会の麻薬で生きてきた自民党だが、麻薬が効かなくなると大変だ。慢性依存症が強くなっていて、そこが手を引くと、全体ががたついた」と発言した。[6] ただ、自公連立時の自民党時代には公明党からの支援を得ており、政治理念の一貫性のなさが指摘されている。
[編集] 民主党との関係
国民新党代表代行として、2007年の第21回参議院議員通常選挙では民主党との連携の中心的役割を果たし自公連立政権の過半数割れを実現。一方で、「国会や選挙での共闘といっても、(民主党という)泥舟に乗って戦いはやれない」と発言した。
2008年3月、日銀総裁人事で自民党と民主党が対立し、日銀総裁が空席になったことに対し、「(民主党と自民党という)バカとアホの絡み合いで日本が沈んでいく」と発言した[7]。
しかし、2008年9月に民主党と国民新党との合併構想が浮上した際には、合併に前向きな発言も行っている[8]。
[編集] 選挙運動
選挙の際、名前にちなむ「亀」をトレードマークとしたバッジやステッカーを配っており、今でも公式ホームページ上で見ることができる。
2007年4月、25年以上の親交があるという川内康範に打診し許可を得た川内作詞・作曲の「おかあさん」を、国民新党のテーマソングとすることを発表。この曲は亀井が北島三郎の「兄弟仁義」と並ぶレパートリーとしている。それに伴い川内も参加し、亀井の歌唱のよるレコーディングが行われた。川内から19回ダメ出しされた。第21回参議院選挙でテレビCMとして実際に放送された。
[編集] 家族
姉は俳人で俳誌「茜」を主宰していた出井知恵子(いずい ちえこ、1929年9月2日 - 1986年10月18日)、[9]。兄は参議院議員で国民新党副代表の亀井郁夫である。
[編集] 著書
- 『死刑廃止論』 (花伝社 2002年)ISBN 4-7634-0389-3
- 『繁栄のシナリオ』 (中経出版 2003年)ISBN 480611765X 教育学者・濤川栄太との対談
- 『ニッポン劇的大改造』 (扶桑社 2003年)ISBN 4594040039
- 『月刊亀井静香』 (アスコム 2003年)
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
- 田中康夫
- あさま山荘事件
- 日本航空
- 高速道路無料化
- 野坂浩賢
- 綿貫民輔
- 青嵐会
- 許永中
- 江藤隆美
- 野中広務
- アクメツ
- 砂防会館
- 国家基本問題同志会
- 東京大学の人物一覧
- 談合
- 死刑廃止論
- 死刑廃止を推進する議員連盟
[編集] 外部リンク
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