焼肉
焼肉(やきにく)とは、肉を焼く料理であり、火で直接あぶり焼きする直火焼きや(焼網を使用する場合も)、鉄板(フライパンなど)を使用して鉄板焼きをする料理。同時に野菜も調理する場合もあるが、それらを含めて『焼肉』と呼ぶ。またこのような調理法の名称でもある。
調理方法としての焼肉は、ローストビーフやローストポーク、焼き鳥、ステーキ、ジンギスカン鍋、バーベキューなど肉を焼いたものを指す。メニューとしての詳細は個別の記事に譲り、本項では主に日本の「焼肉店」と称する店舗において提供されるような、肉を焼網などに乗せ炙って食べる料理について解説する。
鉄板で焼く料理に付いては「鉄板焼き」、串刺しにし串焼で提供するものについては「焼き鳥」が詳しい。すき焼きや肉煮込み料理など広義の食肉文化についての記事としては日本の獣肉食の歴史を参照の事。
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概要 [編集]
まったく同じ食材、道具、調味料、調理手順をもちいても、野外で行われる場合は、バーベキューと呼称することが多く、両者の境界は日本語的には不明瞭である。
肉を焼く方法には、直火焼き(網焼き、串焼き等)と鉄板焼きがある。直火焼きは、焼くときに脂が滴り落ち表面がカリッと仕上がるので比較的さっぱりとした味となる。また、火で直接炙るので焦げ目がつきやすく、落ちた脂による煙で多少燻されるので香ばしい風味となる。一方、鉄板焼きは脂が落ちにくい為に脂は落ちにくく、直火で炙られることが無いため水分が飛ぶ事が少なく、比較的シットリとした食感となる。
日本における焼肉の味付けは、醤油を基本に酒、砂糖、ニンニク、ゴマなどを調合して作った配合調味料(タレ)を使うものと、塩や胡椒もしくはレモン等で味付けをするものが一般的である。日本国外にはTeppanyaki/Yakinikuとして知られている。
調理師により調理されたものを供(サービス)されるものやガスや電熱台などを使用するものよりも、七輪やグリルに木炭を使用し直火あぶりで各自が焼くもののほうが野趣めいて好まれることがある。
起源 [編集]
「ホルモン焼き」も参照
肉を焼いて食べるという単純で基本的な調理法は、人類による火の使用とともに始まった原始的で普遍的なものであり、特定の起源をもつ料理とは考えにくい。日本においても古くから獣肉食の歴史がある(日本の獣肉食の歴史)。下処理や調味・調理方法、使用する民具などによりそれぞれの文化や風俗の差異が区別できることはあるが、これらについても明確な起源や伝承が判明していることは多くない。
2002年(平成14年)のNHK人間講座[1]で「焼肉は韓国文化と思いがちだが、戦後の日本が生んだ食文化である」と放送された。日本人が韓国で焼肉を食べたいときに「プルコギ」(불고기火肉)を指定するとすき焼きのような料理が出てきて驚くことがしばしばある。また日本の焼肉に近いカルビグイを単独に供する外食店は一般になく、韓国ではプルコギ、カルビグイともメニュー名の一つである。焼き上がりをタレにつけて食べさせるスタイルは日本特有であり、また韓国では精肉以外にホルモンをメニューとして提供する焼肉店は一般的でない。
日本起源を否定するものとして『別冊BUBKA』2006年(平成18年)7月号33ページに「焼肉」の起源は日本であるが、日本発祥といえども始めたのは朝鮮人であるという説が掲載された。戦前に捨てるか肥料にするかしていた臓物肉を朝鮮人女工がもらってきて焼いて食べたのがホルモン焼きの始まりであり、ホルモンを焼いて食べる習慣は朝鮮にはなく、ホルモン焼きは日本で始まった。そして戦後、ホルモン焼きの屋台が「ホルモン屋」や「朝鮮料理屋」という名称になって行く中、新宿にミノやセンマイといったホルモンだけでなくロースやカルビなどの精肉を用いる店が出来る。この在日朝鮮人女性が経営する明月館が焼肉の祖であるとするのが同誌の主張であり、さらに同誌は、「焼肉」と呼称するようになったのは1965年(昭和40年)に日韓基本条約が結ばれて以降、韓国籍を取得する者が増え、在日朝鮮人の主張した朝鮮料理屋と在日韓国人の主張した韓国料理屋との呼称論争を収拾する案としてプルコギを直訳した「焼肉」が用いられることとなったのだとの説を主張している。
しかし、「焼肉」という語は仮名垣魯文の『西洋料理通』(1872年〈明治5年〉)にバーベキューの訳語として使用されていること、朝鮮料理の焼肉が張赫宙の『権といふ男』(1933年〈昭和8年〉)という小説に登場していることなどから、語源の解説としては同誌の主張は疑わしい。一方で日韓基本条約以降、それまで「朝鮮料理」「朝鮮焼肉」と表示していた焼肉店の多くが「焼肉(店)」と看板変更しはじめたことにより、この名称が一気に普及したのも事実である。ホルモン料理は大阪西心斎橋の「北極星」北橋茂男により提供され昭和15年に商標登録されている。
焼肉店のメニューについてはキムチやクッパ、ビビンバ、朝鮮式冷麺など朝鮮の食文化を象徴するサイドメニューを豊富に提供することが「焼肉」の朝鮮由来のイメージを補強しているのであるが、これらのメニューの起源と「焼肉」の起源考察はやはり分離しておこなう必要がある。明治時代の朝鮮料理店は東京などに高級店として数店が営業している程度であり、また提供する料理は韓定食(「韓国料理」の項目を参照)などの正統派宮廷料理であり現代のいわゆる焼肉料理店のようなものではなかった。
「焼肉」の風習は明治以前からすでに存在しており、起源を考察するにあたってフォークロアにしばしば見られる伝聞上の誤謬が含まれているのであろう。たとえば幕末開港期の横浜では牛肉を串に刺して焼いたものを売り歩き客に食わせる料理がすでにあったとされる[2]。一方で客に肉を焼かせ酒を飲ませる外食産業としての様式は日韓併合期の朝鮮で成立したとするのが佐々木道雄の結論である[3]。また戦後、食道園や清香園、その他多くの名店が内地に残る決断をした在日韓国朝鮮人らにより創業・経営されてきたことは事実であり、彼らが日本における焼肉料理の発展に重要な貢献をしていることに疑いの余地はない[4]。
最も一般的な説では江戸時代のももんじ屋などでひっそり続いていた食肉文化があり、これは猪や鹿、犬、牛、馬など各地方や食文化により多種多様な様態をもっていた。幕末の開国期には日本各地の開港場で日本国外の人向けとして食肉処理(屠蓄業)が始められ、当初は英国人・米国人・清国人などが経営を行った。たとえば神戸では英国人キルビーにより最初の屠畜場が設けられて以降、9名の外国人により7箇所の屠畜場が設置された。彼らの屠畜方法は「神戸肉仕立て」といい、後の神戸肉ブランドを支える屠畜方法に大きな影響を与えたと言われる。本郷浩二によれば神戸における屠畜業は当初から外国人が大きく関与しており、近世期の伝統的な生牛の屠畜技術との連続性は相対的に希薄であるとする。日本人の屠畜は神戸の場合、宇治野村風呂ヶ谷の「えた」が動員されたという記録がある。これは死牛馬勝手処理令や開放令以前の段階において生牛の屠畜もえたの役分としての延長に解釈されたことを推測させるものである。1870年(明治3年)には食肉需要が拡大するなかで商社の宇治野組は屠畜場を経営するに至ったとされる[5]。神戸の場合では被差別部落民とされた食肉加工事業者は明治期にはすでに裕福で蔵や処理施設などをかまえる屋敷町を形成しており、周辺には港湾労働者らの貧民街が形成されており、その一部が食肉処理事業に従事していたという[6]。内臓などいわゆるホルモンは枝肉(精肉)とは異なり鮮度の劣化が激しく2・3日も経てば腐敗が進み悪臭で食べられたものではなく、冷凍流通の存在しない当時としては肥料にでもするしか利用価値の無いものであったが、当日落としたような内蔵部位については食肉加工場の周辺で売られ食材用として流通していた。精肉と内臓部位の流通経路は当初から明確に異なっており、江戸時代からの慣習[7]で内臓などは屠畜作業者の取分とされ[4]、これらを港湾労働者らに販売した売却益は屠畜作業者の重要な副収入となっていた。
日本の焼肉文化が朝鮮人と深く関連づけられたのは在日朝鮮人と被差別部落民とが居住や労働の場においてしばしば身近な存在であったことと無関係ではない。朝鮮人労働者が屠場から牛や豚の内臓等を譲り受けて[4]食べていたことが朝鮮料理の日本での普及と関連してしばしば語られ、東京においても品川の屠場と朝鮮人の焼肉料理との関連を示唆する証言があり、芝浦の朝鮮人集住地を舞台とする村山知義の小説「或るコロニーの記録」には豚の蹄を煮て塩で食べる朝鮮人の描写がある。東京においても朝鮮人と被差別部落民は近隣住民や同じ職場の労働者として、あるいは雇用者と被雇用者として関係を結んでいた[8]。
戦後ひろく見られるようになった「直火焼き」による焼肉の形態については、西欧のバーベキューの影響を受けて変化し、更に世界各国に存在する肉を焼く料理(ヨーロッパのステーキ、北米のバーベキューなど)の影響をも受けて変化したのが現在の日本料理の焼肉であるとされている。彦根藩では第3代藩主井伊直澄のころ、反本丸(へいほんがん)と称して全国で唯一牛肉の味噌漬けが作られており、滋養をつける薬として全国に出回り、幕末まで幕府や他藩から要求が絶えなかったという。これは近江牛が名産となるはしりとなった[9][10]。近江牛は開港期には東海道を徒歩で、のち汽船を使用し東京・横浜まで出荷されるようになる[11]。
一方朝鮮でも李氏朝鮮の時代にすでに宮廷料理として精肉(枝肉)を用いた焼肉料理が存在したが、これは庶民の口に届くようなものではなかった。李朝時代の焼肉は煖炉会と呼ばれソウル周辺の風習として記録されており、高級貴族が初冬の節会に屋外で楽しんでいたものである。李朝末期の風土記である洪錫謨の『東国歳時記』(1849)にはレシピが記述されており、前処理としてタレに漬け込んだ肉を鉄なべで野菜などと焼くプルコギないしはすき焼きのようなものであり、肉の下処理など調味方法は独自のもので、また内臓(ホルモン)を用いるようなものではなかった。現在の日本でみられる「韓国風焼肉店」の品揃えのうち、韓国・朝鮮式のものの一部はこの宮廷料理の調理方法を応用したものであり、前処理としてタレを揉み込み、あるいは漬け込むこの調理方法が次第に一般の焼肉店にも広がり採用されたものと考えられている。一方で焼き上がりをタレにつけ食べさせるスタイルは食道園 (大阪)が始めたものとされ、韓国ではこの食べ方は一般的ではない。韓国における牛肉消費量は1980年代まで少なかったが、1988年のソウルオリンピック開催に伴って経済が発展したことで大きく増加した[12]。韓国の牛肉輸入自由化は2001年である[12]。
日本の「焼肉屋」はバーベキューなど直火焼きの調理法がとられる事があり、これを戦後日本の外食産業のなかで独自に発展したものであり、焼肉屋のメニューにバーベキューと似て、肉(ウィンナーやソーセージも)や魚介やピーマン、茄子、人参、椎茸、とうもろこし(輪切り)などの野菜の他にデザートとして杏仁豆腐やフルーツカットなどがあることなども、客層に受け支持されやすいもので、日本の食文化となるなど人々に受け入れられるものになっている。
「焼肉店」のイメージは、既に1960年代に大都市圏に存在していたが、1970年(昭和45年)以降は次第に日本各地へ広まるようになった。1968年(昭和43年)にはエバラ焼肉のたれが発売された。2004年(平成16年)の統計では20997件[13]である。牛肉消費形態については、1960年代なかばから、伝統的な形態以外の調理法による各種の牛肉料理が急速に広まり、その主要なものは「濃いたれ」をつけて焼く「焼肉」、ハンバーグなど各種ミンチ料理、カレー・シチューなど煮込み料理であり、その背景には1960年代以降のグラスフェッド(草牧肥育)ビーフの輸入の増加や乳用種去勢牛の若齢肥育の本格化などによる肉質多様化をともなった牛肉消費の増大があった[14]。日本の牛肉輸入自由化は1991年(平成3年)4月である[15]。
日本においては牛肉がメインであるが、韓国の焼肉店の場合はデジカルビ(豚肉)が好まれる。米国のKOREAN TOWNにおいても古くから焼肉店があったが牛肉しか出されていなかった。
もっとも、冒頭に述べた通り、肉を焼いて食べるという原始的な調理法に特定の起源を求める方がナンセンスであることは間違いない。
道具 [編集]
直火では焼き網を使う事が多く、他は鉄板、また石焼式がある。焼き網のかわりに、鉄板にスリットが入った鋳物のロストル(火格子)を使用する事もあり、これはこびりつきが比較的少ないが、焼き網は焼きついたり清掃の手間がかかるため、店舗においては使い捨ての場合もある(卸価格では網1枚十数円台である)。直火(特に炭火)で焼くと肉の表面がカリっと焼けるが、網や鉄板の下に水受けを設けた物で焼く事もあり、これで野菜を焼くと直火と比べて水蒸気の作用で乾燥しにくく、ふっくらと焼ける。
焼肉店の多くで普及している「無煙ロースター」は日本企業の開発・特許である[16]。
調理の熱源には電熱、ガス火、炭火(炭火式、セラミック炭式、溶岩炭式)が使われる。店舗での炭火焼きでは、備長炭のような性質を示し比較的安価なオガ炭がよく使われている。オガ炭は形状から練炭と誤解される場合も多いが、日本では練炭は焼肉店で使われていない(韓国では練炭式も多い)。
日本式の製法以外で造られた欧米やアジアの外国産炭には、もともと炭焼き時に木酢液を抜く工程がないため、木酢成分が多く残っており、燃え始めの段階で、かなりきつい燻煙がでるので焼き肉には向かない。特に、バーベキュー用と称した格安のマングローブ炭や東南アジア産炭などは煙臭や爆跳が多く、燃焼時に木酢液のような異臭を伴い、食味や口内に違和感や嘔吐感、頭痛を伴わせ、場合によっては数週間もそれが続くこともあるため避けた方がよい[17]。また再生紙で覆い固めた木炭粉のバーベキュー用ブロックなども低質炭が多い。
焼肉の日 [編集]
全国焼肉協会によって毎年8月29日が焼肉の日と制定され、(1993年〈平成5年〉)一般社団法人日本記念日評議会に公式認定された。(2013年〈平成5年〉)
種類 [編集]
いわゆる、肉を焼く料理は世界中で幅広く見られるが、ここでは日本語で「焼き肉」と呼称される分野について、日本式だけでなく、韓国式のメニューも含める。
焼物 [編集]
サイドメニュー [編集]
朝鮮焼肉 [編集]
かつては「朝鮮焼肉」という呼び方があり、1967年(昭和42年)1月封切の東宝映画『社長千一夜』では、冒頭で秘書役の黒沢年男が勇み張り切って大声で挨拶するシーンがあり、森繁久弥から(息が臭うので)「何を食べたのか」と聞かれ、黒沢は「朝鮮焼肉を食べた」と言う内容のセリフがある。また1968年(昭和43年)の雑誌[要出典]には「スタミナの秘訣はもちろん朝鮮焼肉よ!六本木の東京園によく行くわ!」という泉アキの記述がある。
近代映画社発行の「近代映画」1970年7月号の118~119頁には「君にソッとおしえちゃおう!スターのたまり場、好きな店」なる記事があり、その中の「焼肉でヨイショッ!」欄では小畑実が経営する朝鮮風焼肉「六本木苑」は西郷輝彦が常連、また神宮前にある朝鮮焼肉「八角亭」[18]は三田明、水前寺清子、布施明などが常連、「若い歌手やGS連中には人気があるが、店が渡したガムを噛んでも消えない強烈なニンニクの匂いに大人からは敬遠されている」以上の様な記述がある。同誌1970年10月号の95頁「舟木一夫スペシャルリポート」では「食べるものも、必ずといっていいほど同じもの。焼肉(朝鮮焼肉)は六本木にある「レストラン六本木」食べるのは、ロースの焼肉とロースの生肉をそのまま食べ、あとはユッケ(朝鮮風おじや)です」といった記述もある。月刊食堂 柴田書店 1976年2月号 169頁の『パパママ開業指南』の第2回においては『日本で戦後総称されている朝鮮料理はそのほとんどが朝鮮焼肉といってもよい』といった出だしで始まっている。
その他 [編集]
2002年(平成14年)、全国焼肉協会の企画により焼肉のキャンペーンソング「GO!GO!!カルビくん」(作詞・作曲:OK-D、歌:太平サブロー & SiSTA)がシングルCDで発売された。2003年(平成15年)2月時点で売上8000枚(日本経済新聞 2003年2月22日夕刊)。
脚注 [編集]
- ^ 2002年6月 - 7月期(月曜日)大好きな韓国 四方田犬彦 第五回「食事に見る世界観
- ^ キリンビール・横浜の老舗[1]
- ^ 「焼肉の文化史」佐々木道雄9章
- ^ a b c ヒョンミのおいしい焼肉「三河島と焼肉・在日」
- ^ 「明治・大正期の食肉産業と被差別部落」本郷浩二(部落開放研究NO.159 2004.8)[2]
- ^ 牛を屠る (シリーズ向う岸からの世界史) ISBN 9784759267242
- ^ 死馬牛の引き取りはえたの役分であり対価の対象ではなかった。一方でそれを引き取り皮革を納め残余を始末し(ここまでが役務)、その加工を受け持つことなどで生計を成していた。
- ^ 「帝都東京の在日朝鮮人と被差別部落民」外村大(部落開放研究No.171 2006.8)[3]
- ^ 国宝彦根城築城400年祭「列伝 井伊家十四代 第8回」[4]
- ^ [5]
- ^ 「滋賀県における牛肥育の形成過程」野間麻里子(農林業問題研究2010.6)[6]
- ^ a b 韓国の牛肉事情(独立行政法人農畜産業振興機構)
- ^ 総務省統計局平成16年サービス業基本調査[7]
- ^ 「牛肉の生産・消費の国際比較:欧米とわが国」吉田忠(農業計算学研究1986-03-10)[8]
- ^ 過去に行われた輸入自由化等の影響評価(農林水産省関東農政局)
- ^ 無煙ロースターの特許を保有するシンポ株式会社のWebサイト[9]
- ^ 木炭の燃焼ガス項目参照
- ^ 現在は八角館として1階にロッテリア原宿表参道店、2階にはジョナサン原宿店と完全なテナントビル
文献情報 [編集]
- 「焼肉の文化史」佐々木道雄(明石書店 2004年7月)ISBN 978-4-7503-1956-8
- 「日本焼肉物語」宮塚利雄(光文社 2005年10月)ISBN 9784334783884
- 「東アジア生活絵引」朝鮮風俗画編(神奈川大学21世紀COEプログラム2008年2月 [10])112ページに記事あり[11]
- 「絵本/はしれ!やきにくん」塚本やすし(ポプラ社 2011年1月)ISBN 13 978-4591122242