水木しげる

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水木しげる

水木しげる記念館
水木しげるの看板
本名 武良茂
生誕 1922年3月8日
日本の旗鳥取県境港市
国籍 日本
職業 漫画家・妖怪研究家
ジャンル 妖怪漫画
代表作 ゲゲゲの鬼太郎
受賞 講談社児童漫画賞
講談社漫画賞
日本漫画家協会文部大臣賞
紫綬褒章
旭日小綬章
公式サイト http://www.mizukipro.com/
  
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水木 しげる(みずき しげる、1922年3月8日 - )は日本漫画家である。本名は武良 茂(むら しげる)。鳥取県境港市出身。東京都調布市在住。世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員。調布市名誉市民。境港市には水木しげる記念館がある。

ペンネームは復員後に神戸アパート経営を始めた際、アパートの名称が兵庫区水木通りにあった「水木荘」であり、そのことから彼を「水木さん」と呼ぶ知人がいたことに由来する。

目次

[編集] 生涯

水木プロダクション中国支部(境港市入船町)
水木プロダクション中国支部(境港市入船町)

[編集] 生い立ち

1922年大阪で会社勤めをしていた父・亮一、母・琴江の次男として生まれる。武良家は鳥取県境港市入船町にあり、江戸時代から明治時代にかけて「武良惣平商店」という大きな回船問屋であったという。亮一は早稲田大学を卒業後、商売を始めたが失敗し、大阪で会社員となり、後に境港に帰郷して銀行員、保険会社の社員、通訳などを務めた。母・琴江は、夫がそういう性格のためか、対照的にシッカリ者であった。

幼少時代、「」に興味を抱き、弟を海に突き落とそうとするが、近所の大人にみつかり断念。

恵まれた環境で育つが学校の勉強はできるほうではなく、両親は小学校入学を1年遅らせる。自身も認める超マイペースぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという変わった生徒だった。当時、「新聞の題字を集める」のが子供たちの間ではやったが、他の子供が飽きても熱中していた。また、屁を自在にこくことができ、朝礼のおりなどに屁をこいて、子供たちをワッと笑わせるのが得意だった。

高等小学校卒業後、大阪の石版印刷会社に勤めるもやはりマイペースが過ぎて2ヶ月でクビ。絵の勉強をしようと思い立ち精華美術学院に入るが中退。東京美術学校(現在の東京藝術大学)の受験資格を得るため府立園芸学校を受験するが失敗。新聞販売店に住み込み、工業学校の採鉱科に合格するが半年で退学になる。新聞販売店を辞め中之島洋画研究所に通いデッサンを集中的に学ぶ。

[編集] 軍隊時代

やがて太平洋戦争が始まる。「召集されれば死だ」と考えた茂は、「人生の意味」を求めるため、哲学書や宗教書などを濫読する。その中で、一番気に入ったのが、ヨハン・エッカーマンゲーテとの対話』であった。ゲーテにはその後も心酔し続けており、「自分の行き方の基本はゲーテ」と語っている。

召集令状を受け取った茂は、鳥取歩兵第四〇連隊に入営した。

1943年10月、その後の人生に大きく影響したニューブリテン島ラバウルへ岐阜連隊・歩兵第二二九連隊(連隊長に平田源次郎大佐)の補充要員として出征する(当時21歳)。乗船したのは日本海海戦で「敵艦見ユ」を打電した老朽船・信濃丸であった。ラバウルへ向かう途中敵潜水艦に襲われたものの、なんとか無傷で現地に上陸する。このニューギニアでの戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。装備も作戦も優れた連合軍の前に、所属する臨時歩兵第二二九連隊(水木の作中ではズンゲン支隊と呼ばれる。支隊長は成瀬懿民少佐))が玉砕するが、水木が所属していた中隊の中隊長(第二中隊長・児玉清三中尉)の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる(児玉はその後自決した)。

その後、水木はマラリアを発症し、死線をさまよう。さらに療養中に敵機の爆撃を受けて左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けた。だがマラリアも負傷も快復して終戦を迎え、九死に一生を得て駆逐艦・雪風で日本本土へ復員できた。

片腕を失った事に対して水木は以下のように語っている。

  1. 「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」
  2. 「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」と言う問いには「思ったことはない。命を失うより片腕を無くしても生きている方が価値がある」と答えた。

[編集] 紙芝居作家時代

終戦後、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)に入学する。魚屋などを経て、東北に復員兵救済募金旅行をするうちに中退。募金旅行の途中で立ち寄った神戸市兵庫区水木通のアパートで家主に持ちかけられた話に乗り、借金の肩代わりを条件にこのアパート「水木荘」を譲り受け、貸家経営を始める。加太こうじを紹介され、紙芝居作家として作品を描く。ペンネームの「水木しげる」はこのアパートの名に因んで関係者が付けた通称によるが、貸家経営も紙芝居も次第にジリ貧となり、経済的に逼迫した毎日が続く。

[編集] 貸本作家時代

その後、昭和30年代になると貸本漫画の流行で紙芝居が廃れたことからアパートを整理して上京し、貸本漫画家に転身。各地を転々としていたが、調布市に家を買い、現在もその地に住んでいる。

貸本時代の水木は、主に戦記物漫画や怪奇系漫画を描いた。しかし貸本業界もまた零細であり、頼りの原稿料を反故にされたり版元が倒産してもらえないということもざらであった。また、当時の水木の漫画は、マニア受けはしたが、一般読者には人気がなく、そのため事前の約束より原稿料を値切られることもしばしばであった。

墓場鬼太郎』の一編「亀男の巻」は版元倒産のどさくさで出版もされずに原稿が紛失してしまっている。

あまりの貧乏さに、訪れた税務署員は「こんなに収入が少ないワケがないでしょう?」と疑ったが、水木は「われわれの生活が、キサマらにわかるか!」と怒って追い返した。

この時代に描かれた『貸本版・悪魔くん』の「この間違っている世の中を倒して、革命を起こす」という過激な思想は、当時の水木の「懸命に働いても貧乏な」、自身の生活への怒りから発している。[1]

なお、この貧乏のさなか、安来市出身の現夫人と見合いで結婚した。水木は多忙で、田舎に滞在する時間も惜しく、見合いから5日後に結婚式というスピード婚であった。なお、見合いから結婚式の間、水木は母親の厳命で、左手に義手をつけていた。だが、本人は義手が大嫌いであったため、それ以降、義手をつけることはなかった。

夫人は上京して、水木のあまりの貧乏生活に驚く(水木は両親にも自分が「貧乏している」ことを隠していたため、見合いの際は、「東京でそれなりの暮らし」と偽っていた)。だが、水木の非常に熱心な仕事ぶりに、次第に尊敬の念がわき、器用だったため漫画のアシスタント役もこなした(『墓場鬼太郎』など)。また、夫婦で「連合艦隊の再現」をめざして「軍艦の模型作り」を楽しんだりもした。

[編集] 人気漫画家となる

長女が生まれて生活が困窮し、水木家は大変なピンチであった。が、ついに、長い貸本作家としての活動を経て、1964年長井勝一編集の雑誌『ガロ』創刊号で、漫画家として雑誌デビュー。『ガロ』には『鬼太郎夜話』(鬼太郎シリーズ)、忍者モノのパロディ『忍法屁話』、本名の武良しげる名義での「漫画家講座」などを連載した。当時の『ガロ』は”白土三平の『カムイ伝』を載せるための雑誌”であったが、水木のユーモラスな作品も、読者の人気をよんだ。

1965年には『少年マガジン』で、手塚治虫が編集部と対立して(いわゆるW3事件)決別したため、その後の「劇画路線」の一員としてさいとう・たかを等とともに起用される。『別冊・少年マガジン』に掲載された『テレビくん』が、講談社児童漫画賞を受賞。40歳をすぎて初めて、人気作家となる。

その後、『悪魔くん』や『墓場の鬼太郎』(鬼太郎シリーズ)、『河童の三平』など主に妖怪が登場する漫画を発表し、妖怪漫画の第一人者となる。水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界は一代妖怪ブームとなる。また民俗学での専門用語であった「妖怪」が、一般に伝わる経緯ともなった。また、『少年マガジン』で「大図解」を担当していた大伴昌司も、水木の妖怪画にほれこみ、何度も妖怪についての特集を組んでいる。

初めてまともな原稿料が入るようになり、金額を聞いた夫人は思わず「こんなにもらっていいの!?」ともらしたという。その後は鬼太郎シリーズの5回にわたるテレビアニメ化(『ゲゲゲの鬼太郎』)などで収入も生活も安定し、執筆ペースはさすがに衰えたものの80歳を超えた現在も健在である。

なお、80年代初期には一時「過去の作家」的な低迷期もあったが[2]、1985年の鬼太郎の再アニメ化と、『のんのんばあとオレ』『昭和史』などの自伝的な作品で水木自身の特異なキャラクターと、昭和の歴史を生きてきたその数奇な人生が知られるようになったことで、再ブームを巻き起こし現在にいたっている。

また、貸本時代の作品も何度も復刻され、『墓場鬼太郎』などは文庫化までされた。ただし、復刻されていない作品や絶版作品も多く、古書として高値をよんでいる。

[編集] 妖怪研究家として

1970年に『水木しげる妖怪画集』を既に出していた。その後も、子ども向けの「妖怪図鑑」の類を多数執筆。なお、「子泣き爺」「砂かけ婆」「ぬりかべ」「一反木綿」などは、水木によって初めて姿が描かれたものであり、現在の日本人の「妖怪」イメージは、水木の漫画から大きく影響を受けている。[3]

1980年代には『水木しげるの妖怪事典 正・続』、『水木しげるの世界妖怪事典』などを発表。さらに、1992年には『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行して話題となる。

稲生物怪録』についても、『木槌の誘い』として漫画家している。

また、水木の周囲に、妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、1995年世界妖怪協会を設立して会長となる。会員は、荒俣 宏京極夏彦多田克己ら。1996年には、「世界妖怪会議」が開催され、以降、毎年夏に行われている。また、角川書店から1997年世界妖怪協会公認の妖怪マガジン「」が刊行開始。水木も漫画を執筆している。

それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの大泉実成らと、アフリカ・マリ共和国ダゴン族マレーシアの夢を自由に見れるセノイ族、オーストラリアのアボリジニ、メキシコのインディオたちの村、アメリカの先住民・ホピ族の村など、世界のあちこちに「冒険旅行」と称したフィールド・ワークに行き、各地のスピリチャル文化に触れ「妖怪を感じて」いる。

なお、祭りなどがあると、(こっそりと)録音やビデオ撮影をして、自宅で何度も鑑賞をしている。また、仮面などを購入し、自宅に展示している。なお、大泉実成『水木しげるの大冒険』によると、マレーシアのジャングルで、現地人に『水木しげるの妖怪画集』を見せたところ、「これは知っている」「これも知っている」と、猛烈な反応があった。その結果として水木は、「妖怪千体説」(どの国でも、妖怪は千種類づつしかいず、ほぼ共通した妖怪がいる、という説)を唱えた。

2005年に、かつての大映映画のリメイク映画『妖怪大戦争』が製作された時、妖怪の長役として出演した。

」連載の『神秘家列伝』など、妖怪が直接登場する作品を手がける機会は少なくなっていたが、映画に合わせて久しぶりに新作妖怪漫画『妖怪大戦争』(荒俣宏原作)を発表した。

[編集] のんのんばあと水木

のんのんばあとは彼がべビィ(水木語で“子ども”の意味)の頃、武良家に手伝いにきていた景山ふさという老婆のことである。当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていたという。ふさは子どもたちを集めてはお化け妖怪地獄の話をしてくれた。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている[4]、。ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。ふさは水木が小学5年生の時に死去した。

幼少時代の彼は自分の名前を正確に発声できず「ゲゲ」と言っていたため、それがあだ名となった。後に水木はそのあだ名がアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルの原点となったと語っている。『のんのんばあとオレ』には、幼少期の水木の様子が生き生きと描かれている。同作品はNHKで実写ドラマとなって放映された。

[編集] 戦争と水木

戦争を主題とした水木の漫画・著作は多く、彼の代表作の一つとなっている『昭和史』や歴史上の人物の伝記漫画、SFミステリー作品も多数ある。

戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語るほど水木自身の思い入れが強い作品。2007年8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『鬼太郎が見た玉砕 ~水木しげるの戦争~』が放送された。

水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある(腕を失ってからも、彼らの助けで生活したと言う)。そこでの彼への待遇は最上級のものであり、敗戦後、上官であり後の国立加古川病院名誉院長(現在は財団法人甲南病院・加古川病院に名称変更)となる砂原勝己軍医大尉(2004年1月28日に逝去)に現地除隊を申し込むほどであった(1999年7月26日に放送された『驚きももの木20世紀』では生前の砂原がニューギニアでの水木の事を詳しく語っており、非常に印象深い患者だった事が分かる)。水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人と言う用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみをこめて使用している。

また、貸本漫画家時代の一時期、戦記ものを集めた雑誌を主宰していたが、熱心な極わずかな購読者を別にすると売り上げはさほどでもなかった。その頃、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わった(結果的にラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった)坂井に対し、圧倒的な武力の米軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対であったが故に水木にはそのような話を描く事は不可能であった。程なく、主宰していた雑誌は潰れた(梅本浩『ビルマ航空戦・下』大日本絵画)。

上記の経験から反戦、左翼的思想を持つが、『総員玉砕せよ!』やインタビューにわかるとおり叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を哀れむ態度から保守派論壇誌『正論』でも一定の評価を受けている。また「近年自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから死なせてやればいい。どうして止めるんですか」と答えた。[5]

[編集] 年譜

  • 1922年大阪府西成郡粉浜村(現・大阪市住吉区)に武良亮一・琴江の二男として生まれる。生後まもなく父の故郷である鳥取県西伯郡境町(現・境港市)に戻る。
  • 1927年:祖父の代からまかない婦として武良家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)に可愛がられ強い影響をうける。
  • 1937年:境港小学校高等科卒業 大阪の石版印刷会社に入社するが2ヶ月でクビになる。大阪の親類の紹介で中村版画社に入社するがすぐにクビになる。
  • 1938年:精華美術学院に入学。
  • 1939年:大阪府立園芸高校を受験(定員50名受験者51名)するが水木1人だけ不合格。松下電器守口工場に職工として就職するがわずか2日で解雇され、その後は西淀川区毎日新聞配達所に住み込みで新聞配達の仕事を始める。
  • 1940年:働きながら日本鉱業学校採掘科に合格し入学するが半年で退学する。
  • 1941年:日本大学付属大阪夜間中学(現・大阪学園大阪高等学校)に入学。
  • 1943年:夜間中学3年の春召集令状来る。ラバウルへ出兵。
  • 1944年:爆撃により左腕を失う。ニューギニアの病院で療養し、現地人のトライ族(水木いわく「土人」)たちと仲良くなる。
  • 1945年:敗戦。水木は現地人たちと仲良くなっていたため、「現地除隊」を申し出るが、説得され断念する。
  • 1946年:帰国。横須賀浦賀に駆逐艦雪風で上陸。
  • 1948年武蔵野美術学校に入学。輪タク業を営む。
  • 1950年神戸で、のちにペンネームとなる「水木荘」というアパートの経営者になる。
  • 1951年:アパートの住人のつてで、紙芝居画家となる。
  • 1953年:アパートの経営もうまくいかず売り払って西宮に二階屋を買って引っ越す。B級戦犯巣鴨プリズン拘留されていた兄・宗平が出所したので同居する。
  • 1957年:単身上京し、亀戸に下宿する。貸本漫画の処女作となる『ロケットマン』を2ヶ月かけて完成させる。
  • 1958年:デビュー作『ロケットマン』を兎月書房から刊行。
  • 1960年:『幽霊一家墓場の鬼太郎』を発表。
  • 1961年兎月書房より、『河童の三平』を刊行開始。40歳になる独身の水木を心配した両親が縁談の話をもってくる。島根県安来市出身の布枝夫人とお見合い結婚
  • 1964年東考社より、『悪魔くん』刊行。『ガロ』で雑誌デビュー。
  • 1965年:講談社の『別冊少年マガジン』でメジャー出版社デビュー。それまでの、大人向けの怪奇な画風から、子ども向けの画風にするのに苦労したという。  
  • 1966年
    • 講談社児童漫画賞受賞。44歳にしてようやく、売れっ子漫画家になる。プロダクション制をとり調布の自宅を水木プロとする。
    • 『悪魔くん』が実写でテレビドラマ化。最初の放送は、実家の両親も上京として一緒に正座してテレビを鑑賞し、感激して番組終了後は拍手をしたという。
  • 1968年:『墓場の鬼太郎』を『ゲゲゲの鬼太郎』と改名することで、スポンサーが了解して、テレビアニメ放映開始。この際も、最初の放送の際は、一家で正座して番組を鑑賞し、終了後、拍手をしたという。以降、何度もリメイクを繰り返す長寿シリーズに。
  • 1971年:『ゲゲゲの鬼太郎』が二度目のアニメ化。また、たまたま再会した元上官の宮軍曹と二人で、26年ぶりにパプアニューギニアを訪れ、現地人たちと再会する。以降、何度もニューギニアを訪れ、「ニューギニアに移住したい」とまで惚れ込む。
  • 1985年:『ゲゲゲの鬼太郎』が三度目のアニメ化。
  • 1993年宮田雪の案内で、ホピ族等のアメリカ・インディアンを探訪。この頃以降、「世界の妖怪」を求めて、毎年自費で海外の奥地を「冒険旅行」するようになる。
  • 1998年:TBSテレビ「テレビ世界紀行」の取材で、マリ共和国ドゴン族の村を取材。 
  • 1990年:画業生活40周年。『水木しげる画業四〇周年』(籠目舎)が刊行される。
  • 1991年:NHKテレビでドラマ『のんのんばあとオレ』が放送される。翌年には続編が放送。
  • 1992年:『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行。
  • 1994年:「水木しげるの妖怪道五十三次 妖怪と遊ぼう」展が開催される、以降、各地を巡回。
  • 1995年: 世界妖怪協会を設立して会長となる。会員は、荒俣 宏京極夏彦多田克己ら。また、「第6回東京平和の日平和展」の催しとして、「平和への祈り-水木しげる戦争体験絵画展」を開催。
  • 1996年:『ゲゲゲの鬼太郎』が四度目のアニメ化。生まれ故郷、鳥取県境港市に「水木しげるロード」が敷設される。
    • 8月、境港市において、世界妖怪協会主催の「世界妖怪会議」が開催される。以降、毎年夏に行われるようになる。
  • 1997年世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『』が角川書店から刊行開始。
  • 1998年:アニメ版鬼太郎生誕30周年。
  • 2000年:画業生活50周年。それを記念して、1,600枚の妖怪画の原画集『水木しげる妖怪原画集 妖鬼化(ムジャラ)完全版』を刊行。
  • 2003年:境港市に「水木しげる記念館」開館。
  • 2005年:同年11月から翌年にかけて、荒俣宏・京極夏彦プロデュースにより、「大(Oh!)水木しげる展 なまけものになりなさい」が開催される。
  • 2006年:テレビ・ドキュメンタリーのため、荒俣宏とパプアニューギニア・セピック河へ。
  • 2007年:『ゲゲゲの鬼太郎』が五度目のアニメ化。
    • 『怪』の姉妹誌『コミック怪』が刊行され、1976年に『月刊少年ジャンプ』に掲載された幻の作品『復活! 悪魔くん』を『鬼太郎対悪魔くん』と改題して収録。
  • 2008年:アニメ版鬼太郎生誕40周年。それを記念して『墓場鬼太郎』が初のアニメ化。また、「水木しげるの妖怪道五十三次 妖怪と遊ぼう」展がアメリカ・ワシントンDCにて開催。

[編集] その他

  • 売れない貸本漫画家時代から、膨大な「絵についての資料」をスクラップ・ブックにしてコレクションしていた(貸本漫画家時代は100冊。現在は300冊を超えるという)。また、「ハヤカワ・ミステリ」などの書籍も「ネタになる」と、多数購入していた。妖怪関連書も神保町の古本屋で、古いものまで集めていた。それを見た桜井昌一は、「この人は絶対、世に出る」と感じたという。のちに、若き時代の呉智英などが、その資料の整理を手伝った。
  • 「私は胃が丈夫だった」と称し、幼少時から大食漢だったという。そのため、戦中、戦後の食料不足の際は、非常に辛い思いをしたという。80才をすぎた現在も食欲は非常に旺盛で、また失った左手以外には特に病気もなく、健康そのものという。
  • 座談が面白いことで有名で、多忙な水木のため、水木プロには「面談30分」という貼り紙があったが、水木自身がそれを無視して来客と何時間も、会話を楽しんでいたという。なお、テレビに出演してトークをしたことがあるが、ダイナミックに左右に体を動かして話すため、テレビのフレームからはみ出してシャベッテいたこともある。
  • 自身を漫画のキャラとして登場させることが多いが、『昭和史』のような自伝的作品を除いて、「左手はある」ように描かれている。また水木の自画像は「現在の顔」と比べると細長く描かれているが、実際に貸本漫画家時代の水木は、十分な食事が取れないこともあって、やせて細い顔をしていた。
  • 故郷の鳥取県境港市に「水木しげるロード」がある。ロードに沿って妖怪オブジェが並び、水木ロード郵便局(既存局を改称)もある。設置されていた86体の妖怪を100体にするために1体100万円としてスポンサーを募集し、2007年現在、合計120体となった。このオブジェの「目玉の親父」は度々盗難にあうため現在は台座に固定されている。合わせて「水木しげる記念館」も開館している。また同市では世界妖怪協会による「世界妖怪会議」の第1回、第2回も開かれた。
  • 米子駅境港駅を結ぶJR境線では「鬼太郎列車」が運行されている。また、同線の沿線16駅には「ねずみ男駅」(米子駅)「鬼太郎駅」(境港駅)の他、全国各地の妖怪をモチーフにした愛称が付与されている。
  • 40年あまり住んでいる東京都調布市には、「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラクターが車体に描かれた鬼太郎バスが3路線運行されている。
  • 2003年10月には「深大寺そば」で有名な調布市深大寺の門前に「鬼太郎茶屋・深大寺店」が開店した。「妖怪舎」(株式会社きさらぎ。本社:鳥取県境港市)が営業している。なお、元祖「鬼太郎茶屋」は境港の「水木しげるロード」内にあり、経営等は無関係。境港の「本店」店長は「鬼太郎音頭」の作詞者である。
  • 水木が住む京王線調布駅北口の天神通り商店街にはゲゲゲの鬼太郎を始めとする代表的な妖怪のオブジェが並んでいる。商店街入り口の目印は街灯に腰掛けた鬼太郎。
  • 家を改築するのが好きで、気が向くままに自宅を改築した結果、トイレ5つ、風呂場3つ、階段5ヶ所の2階建て、しかも3階がある部分もあるという迷路のような家になってしまったという。そのせいか、『東西奇ッ怪紳士録』には「二笑亭主人」「フランスの妖怪城」(郵便配達夫シュヴァルの理想宮)の建築道楽もの2篇が収録されている。
  • 現在の一人称は“私”や“僕”ではなく「水木サン」である。昔からそうだった訳ではなく“私”や“僕”、“俺”を使っていたこともある(実写版『悪魔くん』のプロデューサー・平山亨氏によると、水木は“自分”という一人称を使う事が印象深いとコメントしていた。妻の布枝の著書によると、「漫画家・水木しげる」を演じるために使っているようで、家族に見せる顔と、ファン・編集者らに見せる顔は違うという)。
  • 2007年3月22日、妖怪のブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」の振興に役立てて欲しいと水木プロダクションは境港市に2000万円を寄付した。水木プロは2004年にも200万円を市に寄付している[6]
  • 境港市の観光協会による「第1回妖怪人気投票」で3位になっている。

[編集] 別名義

  • 東真一郎
  • 関谷すすむ
  • 米替富夫
  • 武良茂
  • 堀田弘
  • 竹取いさむ

[編集] 受賞

[編集] 主な作品

[編集] 漫画

[編集] 著作

  • ねぼけ人生
  • のんのんばあとオレ
  • ほんまにオレはアホやろか
  • 水木しげるのラバウル戦記
  • 妖怪なんでも入門
  • 水木しげるの妖怪事典
  • 水木しげるの続・妖怪事典
  • 水木しげるの世界妖怪事典
  • 水木しげるのあの世の事典
  • 水木しげるの中国妖怪事典
  • 水木しげるの続・世界妖怪事典
  • 日本妖怪大全
  • 水木サンの幸福論 妖怪漫画家の回想
  • 水木しげる伝

など自伝、妖怪図鑑を中心に多数。

[編集] テレビ番組

  • ETV8 妖怪たちはどこへ行った ~水木しげるのねぼけ人生 NHK 1989年製作
  • BSマンガ夜話 「悪魔くん千年王国」 1998年8月27日
    • 出演:大月隆寛いしかわじゅん夏目房之介岡田斗司夫北野誠清水ミチコ
      • 夏目房之介は、水木の絵を拡大して「この人は、背景を絵のように綿密に描く。その前にマンガ的な省略されたキャラがいる。これが画期的な水木の発明であった。そしてこの描き方によって、『卑小な人間』と『偉大な自然』の対比も現している」と語った。いしかわじゅんは、「悪魔くん」の革命思想は白土三平の影響ではないかと語った。
  • 妖怪水木しげるのゲゲゲ幸福論 2006年3月に、BS JAPAN(テレビ東京系)で放送。
    • 主演:水木しげる 朗読:和久井映見(悦子役)
    • 出演:荒俣宏呉智英南伸坊京極夏彦佐野史郎、武良幸夫(水木しげる弟・マネージャー)、武良布枝(水木しげる夫人)、武良悦子(次女・悦子)、村沢昌夫(水木しげるアシスタント)
    • DVD化されている。
      • 特典映像1:田辺一鶴講談「妖怪お化け軍談修羅場」一鶴師匠によるオリジナル講談をDVDのために撮り下し。
      • 特典映像2:座談 「妖怪五者会談」(未公開版)水木しげる・荒俣宏・呉智宏・南伸坊・京極夏彦各氏による妖怪五者会談の完全版。
  • NHKスペシャル ドラマ「鬼太郎が見た玉砕 〜水木しげるの戦争〜」 2007年8月12日

[編集] DVD

  • 水木サン大全 -水木しげると荒俣宏の対談 2004

[編集] CD-ROM

  • メールアルバム ゲゲゲの鬼太郎 2000
  • 妖怪花あそび 2001
  • ゲゲゲの鬼太郎 妖怪花あそび 2003
  • 水木しげるオフィシャルBOX 世界妖怪遺産 2002
  • 水木しげるプライベートBOX 世界妖怪遺産 2002

[編集] 家族・親族

  • 実家
    • 祖父・武良辰司(実業家)[7]
    • 祖母・さい(住田善平娘)[8]
    • 父・武良亮一(会社員、銀行員等) 水木は父親に「イトツ」(突出して胃が丈夫)とあだ名をつけていた(胃が丈夫なことから)。<[9]>、[10]
    • 母・琴江 水木は母親に「イカル」とあだ名をつけていた(すぐイカルことから)。[11][12]
    • 兄・宗平
    • 兄嫁・澄子(水木プロの経理担当)
      • 兄の娘夫婦(境港の水木プロ中国支部担当)
    • 弟・幸夫(水木プロ・ゼネラルマネジャー)
  • 自家
    • 妻・武良布枝 著書『ゲゲゲの女房』)
    • 長女・澄子(貸本版『墓場鬼太郎』の、「水木しげる」の娘・花子のモデル。また、鬼太郎の赤ん坊時代を描く際の、モデルにもしている。小学校の教員をつとめた後、水木プロ社員)
    • 次女(水木プロ社員 水木悦子 著書『お父ちゃんと私―父・水木しげるとのゲゲゲな日常』)
  • 他家
    • 大叔父・住田寅二郎[13]

[編集] 系譜

  • 武良氏 - “武良”(むら)という苗字は全国的には珍しいが境港、米子地方には多い。武良氏は隠岐発祥と考えられており隠岐諸島の島後にある西郷町に「武良祭り」があり武良トンネルが残っている。[14]戦国時代の弓ヶ浜に高岡城という城があり武良隣左ェ門という豪族がおりその一族がルーツだろうと水木本人は考えている。江戸時代から明治時代にかけての武良家は回船問屋を営んでいた[15][16]。又、竹内村(高松)の武良氏について『境港市史』には「高岡城趾と古松三幹あり。往古武良某此所に居りしと云へり。今村中其裔あり。」(『伯耆志』)と記載されている[17]
武良辰司━━武良亮一━┳武良宗平
           ┃
           ┣武良茂
           ┃
           ┗武良幸夫

[編集] 演じた俳優

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

  1. ^ 『ボクの一生はゲゲゲの楽園だ』より
  2. ^ 水木家では、夫人が「自分が働きにでようか」と思うほどのピンチだったという。水木は自信を失い、「妖怪なんていないんだ」と言い出すほどの落ち込みぶりだった。だが、次女が修学旅行で「目々連」を目撃し、その話をしたところ、水木は喜んで立ち直った。水木悦子『お父ちゃんと私』p.159~165
  3. ^ なお、20078月に、妖怪研究家の湯本豪一が保有する江戸時代の絵巻に描かれた「四角い犬のような妖怪」が、米国ブリガム・ヤング大学の図書館にあるものと符合され、「ぬりかべ」の絵と判明した。
  4. ^ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』 37-39頁
  5. ^ 2004年8月28日放送『NHK土曜インタビュー』より
  6. ^日本海新聞
  7. ^ 『完全版 水木しげる伝(上)』 104-107、201-203頁 - 祖父・辰司は大阪で「関自動車」というタクシー会社を経営していた。又、バタビヤ(現・ジャカルタ)に渡り印刷会社を興し成功したという
  8. ^日本海新聞2004年9月2日 23面 - 鳥取県米子市東倉吉町にある水木の祖母の生家・住田家の保存活用の話がすすめられている。住田家は江戸時代から続く商家(呉服商)で米子町(現・米子市)4代目町長をつとめた善平の長女さいが水木の祖父に嫁いだ
  9. ^ 『完全版 水木しげる伝(上)』 52-54頁 - 父・亮一は大学を出ると当時の金で5000円という大金をもらい商売するが失敗して大阪の会社に勤めた。しかし勤務時間中に映画を見ていたのが社長にばれてクビになった。境町に戻り今度は銀行に勤めた。ある時、銀行強盗が横行したことがあり、当直だった亮一は明け方まで粘ったが、恐怖に耐え切れずついに当直を放棄して家に帰ってしまった。このため銀行をクビになったが「なんとかなる主義」という奇妙な主義を信じていたため全く平気だったという。なお『ねぼけ人生<新装版>』16頁には“銀行強盗”となっているが、『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』34頁には“脱獄囚”と記されている
  10. ^ 武良布枝『ゲゲゲの女房』によると、水木が漫画で成功し、上京して一緒に暮らすようになってからは、好きな映画や歌舞伎を観るなどして、幸せに暮らしていたという。死の際は「境港に葬ってくれ」と遺言があり、武良家代々の菩提寺におさめた。そのため水木はその後、境港をしばしば訪れるようになり、「水木しげるロード」誕生につながったという。
  11. ^ 『完全版 水木しげる伝(上)』 250-251頁 - 母・琴江は江戸時代苗字帯刀を許された米子の旧家に生まれその家柄を誇りとしていたという。『グレートマザー物語』では、琴江はしげるが左腕を失ったことを知ると自らの左腕を縛り、一時期右腕だけで生活していたという
  12. ^ 武良布枝『ゲゲゲの女房』によると、戦争中に、近所でバケツ・リレーの練習をしていても「負け戦とわかっているのに無駄だ」と参加しなかったという。また、水木が東京で貸本漫画家をしている時は、非常に心配し、「漫画がダメなら灯台守になれ」と薦めた。また、しばしば、心配する長文の手紙を送ったという。返事が来ないと、さらに心配して長文の手紙がくるため、水木は母親から手紙が来ると即「元気だ」という返事を書いた。また、「貧乏している」ことが母にばれないよう、軍人恩給を実家に送っていたという。また、水木が漫画家に成功して両親を呼び寄せた後は、漫画のストーリーにしばしば口を出し、『鬼太郎』にシーサーが登場するようになったのは、母親の強い薦めがあったためだという。
  13. ^ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』 201-202頁 - 大叔父・寅二郎は米子ではじめて東大を出たとされる。なお寅二郎には出世欲がなく米子でパンを売って一生を終えたとのことである。寅二郎の弟にフランスで客死した絵描きの良造と武良家に居候していた延寿がいる。延寿は赤鉛筆片手に英語の原書ばかり読んでいたが、結局定職に就かずに遊んで暮らしたという
  14. ^ 水木しげるは、自らのルーツを求めて、二度も隠岐を訪問しているが、地元の人に「昔のことは、よくわからない」と言われた。
  15. ^ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』 36頁
  16. ^ 『完全版 水木しげる伝(上)』14-16頁
  17. ^ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想―』 222頁 - 武良家は長生きの家系であり父は享年88、母は94。両兄弟健在である

[編集] 関連項目

[編集] 関連人物

  • アシスタント
    • 田辺一鶴 - 講談師。若手講談師時代に水木と知り合い、仕事を一部手伝った。
    • つげ義春 - 一時期水木のアシスタントをしていた。
    • 池上遼一
    • 古川益三 - のち雑誌「まんだらけ」で元アシスタントの座談会を掲載した。
    • 鈴木翁二
    • 橋本将次
    • 辰巳ヨシヒロ
    • 森野達弥
    • 矢口高雄 - 銀行員時代にアシスタント志望で来たが、「漫画家より銀行員をやりなさい」と水木が断った。ただし、矢口が自伝的作品『9で割れ!』に記すところによれば、これは水木の記憶違いで、矢口は「ガロ」編集部の紹介でスタジオ見学に訪れただけである。この時に水木や池上から受けたアドバイスは後々非常に参考になった、との事。
  • 妖怪関連
  • 知人、ファンなど
    • 瀧利郎 - 戦友で、戦後も水木と交流があった。編著に『ラバウル戦の末路』。
    • トペトロ - ニューギニアでの療養中に仲良くなった現地のトライ族の少年。水木は漫画家として成功してから、現地を再訪し、恩返しに中古車を贈った。彼との交際は50年に及ぶが、1993年に亡くなった。トペトロの遺族は葬儀をあげる費用がなかっため、水木が費用を出して盛大な葬儀を行った。その交友関係は『トペトロとの50年』に描かれている。
    • 桜井昌一 - 貸本漫画家。後に出版社、東考社をおこし、貸本版『悪魔くん』などを発行。貸本業界が崩壊すると、「桜井文庫」として文庫本形式のインディーズ出版を行うが、水木の短編を多数出版している(1980年代後半までは、一般書店でも購入できた。現在は古本市場で高値を生んでいる)。また、水木の漫画作品中に頻出する「眼鏡で出っ歯のサラリーマン・山田さん」のモデル。
    • 杉本五郎 (漫画家) - 貸本漫画家仲間。「霧の中のジョニー/吸血鬼エリート」のモデル。映画フィルムの日本一のコレクターでもあった。
    • 長井勝一
    • 呉智英 - 資料整理時代に水木マンガの「原作」をいくつか執筆したが、「難解すぎて」採用されなかった。呉は、水木の本質を、「人智を超えたものを信じる人」と、「俗っぽい生活知にあふれた庶民」とか、渾然一体で同居していると、述べている。
    • 南伸坊 - 「ガロ」で「近藤勇」などを担当。
    • 松田哲夫 - 学生時代に「ガロ」の仕事を手伝っていた。「妖怪大裁判」「泥田坊」と「鬼太郎」の原作を2本提供。筑摩書房入社後、水木に自伝の執筆を薦めた。また、「ちくま文庫」創刊後は、水木漫画を多く収録した。
    • 四方田犬彦
    • 宮田雪 - 脚本家。水木に漫画原作を提供。また、アメリカのホピ族インディアンを水木が訪れる、渡し役をした。
    • 手塚真
    • 大泉実成
    • 足立倫行
    • 宮本神酒男 -シャーマニズム研究家。水木とともに、ドラキュラの故郷や、ミャンマーのシャーマンなどの取材旅行をしている。
    • 佐野史郎
    • 三島由紀夫
    • ら・むうん有里紅良夢来鳥ねむ
      • 水木作品の同人サークル「鬼太郎座」を母体として発展構築された劇団兼創作集団。
      • 「鬼太郎座」時代に創られたダイナビジョン作品『女禍』の製作には水木本人をスーパーバイザーに招いている。
      • 中心者2名(有里・夢来鳥)は後に『HAUNTEDじゃんくしょん』など水木作品をモチーフとした商用作品を執筆している。
    • 伊藤徹 -中学生の頃から水木プロに出入りしている水木最大のファン。古書籠目舎・店主。かつては復刻版やファンクラブ誌を出していた。
    • 水木伝説 -公認ファンクラブ。会誌『フハッ』を発行している。
    • 関東水木会 -ファンクラブというより研究会。青林堂の『水木しげる叢書』に協力したファンの有志により、「水木先生をバックアップするための好事家の集まり」として1993年11月に立ち上げられた。会長山口信二、会員平林重雄鈴木信一荒井良荒俣宏京極夏彦佐野史郎ら。

[編集] 外部リンク