さいとう・たかを

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さいとう・たかを
本名 斎藤 隆夫
生誕 1936年11月3日(78歳)
日本の旗 日本 和歌山県
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
活動期間 1955年 -
ジャンル 劇画
代表作 ゴルゴ13
受賞 第21回小学館漫画賞青年一般部門
第50回小学館漫画賞審査員特別賞(いずれも『ゴルゴ13』による)
公式サイト さいとう・プロダクション 東京都中野区
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さいとう・たかを(本名:斎藤 隆夫、1936年11月3日 - )は、日本漫画家

和歌山県生まれ、大阪府堺市育ち。岩手県花巻市在住。

貸本漫画時代に劇画という分野を確立。大衆向け漫画(アクションを取り入れたものが多い)から子供向け漫画まで幅広く手がける名実ともに劇画界の第一人者。また、さいとう・プロダクション(中野区)を設立し、各スタッフの分業体制により作品を制作するという方法を確立した。なお、さいとう・プロの出版部門が分社化したのがリイド社で、兄の斎藤發司がさいとう・プロダクション及びリイド社の代表取締役社長を務めている。

この関係で、他社の雑誌に連載されている作品であっても、単行本化・再刊は、リイド社から大半が出版されている(例えば『ゴルゴ13』は、小学館ビッグコミック』連載で、単行本はリイド社、小学館でも一部再刊)。

2010年6月に新潮社で、自伝『俺の後ろに立つな さいとう・たかを劇画一代』[1]を上梓。

生い立ちと経歴[編集]

少年時代[編集]

1936年昭和11年)、5人兄弟の末子として和歌山県に生まれる。のちに大阪府堺市に移り住む。さいとうが小さい時に父親が家を出たため、母親が理髪店を営みながら女手一つで5人を育てた[2]

小さい頃から図工(美術)科目とケンカが得意であり[3]、中学時代には府の絵画展で金賞を獲得。しかし前述の父親が正業の理髪店を放り出し、写真家・画家・彫刻家などを目指すが、そのすべてが中途半端だった人物ということもあり、母親はその絵をさいとうの目の前で何の躊躇もなく竈にくべて絵を焼いてしまったほどで、「男が芸術で食べていけるわけが無い」と芸術関係、特に漫画を嫌悪したという[2]。俗に言う不良少年で、中学校3年間は、「こんなもんただのクイズだ、試験でもなんでもない。個人の能力がわかるはずがない。」と考え、一度もまともに試験を受けなかった。しかし、ある教師が担当になったとき、いつものように答案用紙を白紙で返すと、その教師はさいとうの答案用紙を持って来て机の上に置き、「これを白紙で出すのは君の意思だから構わない、しかしこの答案用紙を提出するのは君の義務なんだから、自分の責任の証明として名前を書け。」と諭されて感銘を受け、それを期に人間の約束と責任について深く考えるようになったという[4]

1950年に堺市立福泉中学校を卒業した後は実家の理髪店で働き始める。当時は漫画に興味がなく、将来の夢は挿絵画家だった。しかし、挿絵業界は今後狭まっていく、あるいは自分の考えている方向とは違う方に行くだろうという漠然とした不安感[5]から、当時はまっていた映画進駐軍が持ち込んだ「10セント・コミックス」に影響を受けて[6]、一転ストーリー漫画を志す。同時期に手塚治虫の『新寶島』を見て衝撃を受け「紙で映画が作れる!」と興奮したという[2]。その頃のさいとうの絵は手塚治虫の影響を受け柔らかなタッチの絵を描いていた。

正確な時期は不明だが、『漫画少年』ファンの友達に勧められ、一度だけ『漫画少年』に投稿した経験があり、それが悪い見本として取り上げられ、手塚治虫に酷評されたという[7](しかし実際には投稿欄の手塚によると思われていた文章は、編集者が書いたものであり手塚は忙しくて名前だけ貸していた状態であったことが後に分かる)。

デビュー・新人時代[編集]

1952年には家業である理髪店を継ぐが、1953-1954年頃に漫画家を嫌う母親に1年の期限を願い出て、働きながら漫画を描き始め、生まれて初めて書いたストーリー漫画『空気男爵』を日の丸文庫に持ち込む。単行本化(デビュー)が決まるが、自分の文字に合わせた大きさで吹き出しを描いてしまっていたため、吹き出しの大きさの変更を指示される。吹き出しの大きさの変更にとりかかるが、それと連動して構図なども変わってしまったため、1年近くかけて書き直すことになった。

1955年に『空気男爵』でデビュー後、貸本漫画家として単行本を次々と発表。翌1956年に漫画に専念するため、家業の理髪店を辞める。母親はこれに激怒し、漫画を更に嫌うようになった。さいとうによれば、自身が漫画家として大成した後も「母親は漫画家と言う職業を死ぬまで嫌い、病床に置かれた僕の本に一度たりとも触れなかった。」と、母親に送ったゴルゴ13の単行本は即刻燃やされたという[2]

デビュー当初はSF志向があったが、貸本の客層がそれを受け入れなかったため、アクション漫画がメインになっていった。

劇画の誕生[編集]

1958年(昭和33年)に上京。日の丸文庫の貸本短編集『影』に執筆していた漫画家たちと交流を深める。この当時、「大手出版の雑誌をメインに描く漫画家」と「貸本をメインに描く漫画家」では明確に客層と絵柄が異なっており(前者は子供向けで丸い絵柄、後者は労働者向けでリアルな絵柄)、同メンバーの中で新しい漫画表現を模索するために日々論争が行われていた。

その論争と前後して、手塚のストーリー漫画にはまだギャグやコミカルな部分があると見做し、ストーリー漫画から更にコミカルな部分を抜きドラマ性を純化させていくという手法が同時多発的に行われていた。1957年(昭和32年)に辰巳ヨシヒロは、短編誌「街」に描いた作品「幽霊タクシー」のキャプションで「劇画」という名前を使用。また松本正彦は自らの作品を『駒画』と呼んでいた。

1959年、さいとうはこのグループを組織化しようと試み、辰巳ヨシヒロ石川フミヤスK・元美津桜井昌一山森ススム佐藤まさあきと「劇画工房」を結成。なお、さいとうは紙芝居を専門用語で「画劇」と呼ぶ事から当初劇画という言葉に反対していた。松本正彦も自らの「駒画」の名を捨てず、劇画工房に参加したのは翌年である。ただし、劇画工房立ち上げ時の話し合いに参加していたことから実質オリジナルメンバー扱いになっている。

当初さいとうは劇画工房から出版を始めるつもりでいたため、兄の斎藤發司を劇画工房のマネージャーとして当たらせていたが、さいとうの組織論に付いていけないメンバーが現れ、翌年1960年春には劇画工房は短期で分裂した。

さいとう・プロダクション設立[編集]

1960年(昭和35年)、「劇画工房」の分裂を受け、劇画制作、さらに出版までに手を広げた「さいとう・プロダクション」を設立。「さいとう・プロダクション」は、初めて漫画制作に分業体制や脚本部門を置いた所である。スタッフには当時の仲間が現在もいる。漫画業界では長時間低賃金労働が一般的であるが、さいとう・プロは雇用条件に気を配り、給与の高さで業界ダントツである。これも無理なく長期連載を請け負って計画的に仕事をこなしている故に可能となっている。設立後は劇画を少年誌に連載するなどの活動をした。

少年誌などに冒険・アクション漫画やミステリー・怪奇漫画を掲載、『台風五郎』の大ヒットにより注目される。

さいとう・プロダクションの活動[編集]

設立当初は少年誌に漫画を連載していたが、イアン・フレミング原作で話題となっていたアクション映画007シリーズ』に注目、劇画化した。その作品は『ボーイズライフ』に連載され大好評であった。その他にも単発もので中短編様々な種類(横溝正史作品に倣ったミステリー、冒険もの)の作品を発表。

その後、『ビッグコミック』にてアクション漫画を連載(「挑戦野郎」「捜し屋禿鷹登場!!」など)する。その中でも1968年(昭和43年)10月より連載開始の『ゴルゴ13』は、一度も休載する事なく連載45年を越え、現在も連載中の長寿漫画で日本の「劇画」の代名詞である。『ゴルゴ13』は高い評価を受け、1976年(昭和51年)1月には1975年度小学館漫画賞の青年一般部門を受賞し、2005年平成17年)1月には2004年度小学館漫画賞の審査委員特別賞を受賞した。

岩手県とのかかわり[編集]

基本的にはさいとう・プロダクションのある中野区在住だが、妻の出身である岩手県にも居を構えている。なお、『ゴルゴ13』で岩手県出身の商社マン(後に商社を辞めて帰郷)をたびたび登場させたり、東條英機戦犯として逮捕された自分の奪還を企てた者に達観の心境を示す場面など、同県への思いも示されている。

本人について[編集]

趣味はテレビや映画鑑賞、若い頃からの大相撲ファンでもある。 80年代にはゴルフに熱中しており、山梨の富士野屋別館には交流の深い漫画家仲間である石ノ森章太郎北見けんいちちばてつやつのだじろう藤子不二雄A古谷三敏らと書いた寄せ書きが額縁入りで飾られている(松本零士も来る予定だったが、原稿が間に合わず参加できなかったという)。

能見正比古の提唱した血液型性格診断の熱烈な信奉者であり、血液型の著書を複数出している。

元妻のセツコ・山田との間に娘が2人。

作風への批判[編集]

前述の通り、さいとうの作品はプロダクション形式で、それぞれのエキスパートが集まって漫画製作をしているものであったが、90年代後半までは一部の漫画家・漫画評論家がそれをきちんと理解しなかったため、「目だけ描いている漫画家」等、いわれのない批判を受けることが多かった。夏目房之介は彼の描く女体を、不特定多数がよってたかって色っぽいだろうと思う線をかき集めたために、個人の思い入れが極めて希薄であると、吾妻ひでおなどと対比して評している(夏目はさいとうが完全分業制による漫画制作というビジネススタイルを確立したことには一定の評価をしている)。また、いしかわじゅんは彼の書き文字を例にとり、新人であった時代からいっさい変化していないことを挙げ、進歩する意志を失った証拠として批判している。ただし本人は、作品が「色あせてしまう」ため「その時代の観念、その時代の常識では絶対描かない」ことを「作品描く時に一番気をつけている」という[2]

賞歴[編集]

  • 1976年1月 - 第21回小学館漫画賞青年一般部門(『ゴルゴ13』)
  • 2005年1月 - 第50回小学館漫画賞審査委員特別賞(『ゴルゴ13』)

栄典[編集]

作品リスト[編集]

※は映画化された作品

さいとう・プロダクション スタッフ[編集]

現スタッフ[編集]

以下はさいとう・プロダクション会社案内―制作スタッフ(2012-10-16 閲覧)を参照にして記述

  • 石川フミヤス(石川文康)
  • いとう・たかし
  • 千葉利助
  • 上柚宇大
  • クニムラ利雄
  • 赤司教
  • 杉本洋平
  • 大野恵
  • 宇良尚子

過去のスタッフ[編集]

  • 武本サブロー
  • 青木和夫
  • なかざと遊生
  • TAKU
  • 正村弟
  • 横井仁司
  • 谷平由佳

出身者[編集]

関連書籍[編集]

  • 「劇画家生活30周年記念 さいとう・たかを 劇画の世界」 さいとう・たかを リイド社 昭和61年12月15日発行 ISBN 4-947538-60-0
  • 「さいとう・たかをのコーヒーブレイク 俺の秘密ファイル」 さいとう・たかを フローラル出版 1992年11月20日初版第1刷発行 ISBN 4-930831-08-3
  • 「さいとう・たかを 劇・男」 劇・男制作委員会 リイド社 2003年11月19日初版第一刷発行 ISBN 4-8458-2374-8
  • 「俺の後ろに立つな―さいとう・たかを劇画一代」 さいとう・たかを 新潮社 2010年6月発行 ISBN 4103257318 
  • 「さいとう・たかをの【ゴルゴ流】血液型人物観察術」 さいとう・たかを PHP研究所 2002年4月19日第1版第1刷発行 ISBN 4-569-62043-4

エピソード[編集]

さいとう・たかをの悲願は、『劇画』という熟語が辞典に載ることであった。これは実現している[9]

脚注[編集]

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  1. ^ 自伝エッセイは、他に『さいとう・たかをのコーヒーブレイク 俺の秘密ファイル』(フローラル出版、1992年)がある。
  2. ^ a b c d e 探検バクモン』2013年1月23日付放送分
  3. ^ さいとう・たかをプロフィール
  4. ^ この教師の姓である「東郷」は、後に『ゴルゴ13』の名の一部となった
  5. ^ 石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)p.86-87
  6. ^ さいとう・たかをプロフィール
  7. ^ 石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)p.87
  8. ^ 『SPコミックス 劇画座招待席60 THE シャドウマン ACT.1』 リイド社、281頁の奥付より。
  9. ^ 「劇画家生活30周年記念 さいとう・たかを 劇画の世界」179ページ

外部リンク[編集]