酒屋

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酒屋(さかや)とは、醸造し、販売する業者を指す。

概要[編集]

鎌倉時代に始まり、しだいに多額の資本を持つようになり、土倉(どそう)などの金融業や、荷送りなどの流通業通信業などさまざまな業種を扱い、京都市中に大きな店舗をかまえ、手代丁稚などの店員のほか、用心棒なども養う豪商となった。

現代でいう総合商社のような要素もあり、また京都以外の町では現代でいう商工会議所の会頭のような顔役としての役割も果たした。

それに対して、純粋に醸造業と酒の販売だけに専念する零細な酒屋を造り酒屋と呼んで区別する[独自研究?]が、その境界線は明確に定義づけられているわけではない。

もともとは造り酒屋から始まった酒屋であっても、酒で財を成したとはいえ、原業の醸造業は衰滅してしまい、残った財を資本として他の業種に乗り出していき、さらに成長していった酒屋もある。だから「酒を売らない酒屋」というのも存在する。いっぽう、「酒を売らない造り酒屋」というのはまず存在しないと言ってよい。[独自研究?]

語源[編集]

もともとは一つの村落で、村人が共同で酒を造る小屋のことを酒屋(さかや)といった[要出典]。そういう建築物としての酒屋は現在でも、合掌造りで知られる飛騨において見ることができる。職業としての「酒屋」への移行に関しては「歴史-中世以前」を参照のこと。

歴史[編集]

中世以前[編集]

平安時代以前には、朝廷には造酒司(もしくは造酒寮)が、神社には酒殿が置かれて、民間では自家製造が主で酒を製造・販売する業者の記録は確認されていない。

やがて杜氏の職業的先駆にあたる酒師(さかし)が民間で自分で酒を造り、売るところを酒屋というようになっていった。このなかで醸造業を中心とする商店と、金融業を中心とする商店で、のちの「造り酒屋」と「酒屋」が分化していく。

民間の酒屋は鎌倉時代に全国的に発生した。当初鎌倉幕府はこうした業者を禁止していたが、京都朝廷では財源不足を補うために酒屋を認めてその代わりに酒造役壷銭)を徴収した。室町時代には隆盛を極め、応永32年(1425年)には洛中洛外の酒屋の数は342軒に達していたことが記録に残っている。文安の麹騒動1444年)以後は京都においては屋業も吸収合併した。

室町幕府にとっては、酒屋に貸した酒屋役(さかややく)は、土倉に貸した倉役(くらやく)とならんで、幕府の重要な財源となった。室町時代中期以後は弱体化した室町幕府や、経済的に貧しくなった朝廷に対しても、酒屋は大きな政治的発言力を持った。

安土桃山時代には、日本各地はもとより東南アジア諸国との南蛮貿易に進出する酒屋もあらわれ、豪商として育っていった。またこういう富裕層から茶道のような洗練された文化も生まれた。

近世[編集]

江戸時代になると、大都市となった江戸を中心として、金融業でも醸造業でもない、他のところで醸造した酒を販売する(今日でいう「酒屋」のイメージに近い)商店として酒屋が多く出現するようになる。彼らは強固な組合をもち、江戸酒問屋江戸十組問屋を組織していった。

酒屋が室町時代のころに持っていた政治的影響力は表面的に減じたが、それでも幕閣奉行代官らに多額の政治献金を送り、陰の政治力はかなり残っていたと考えてよい。宝永年間や文化年間に見られるように、酒屋たちが連帯して反対すると、幕府も一度出した法度でもあわててひっこめたりしているくらいである[要出典]

幕府としても運上金(うんじょうきん)、冥加金(みょうがきん)など、何かと口実をつけて酒屋からの献金に財源を期待した。

昔ながらの酒屋といえば昭和時代以降でも「三河屋」という屋号で知られる[独自研究?]が、17世紀末には江戸十組問屋という10の同業者組合ができ、中でも酒、味噌、醤油を扱う「酒店組」には、徳川家康三河を領していた小大名だったころから松平家に出入りしていた(あるいは、そのように自称する)三河出身者が多くまた繁盛した。のれんわけの他にも、繁盛にあやかろうと三河屋を名乗るものが多くなった[要出典]

酒屋万流[編集]

やがて酒屋は、酒屋万流(さかやばんりゅう)といわれるように、総合商社的な特徴を生かして日本国中に強力な民間ネットワークを築いていた。

酒そのものは、主に摂泉十二郷出身の酒屋が自前の蔵で醸造し、下り酒として江戸へ船で輸送し、江戸で売りさばいたが、生産部門である蔵だけでなく、輸送・流通・販売・営業部門についても以下のように進出した。

まず輸送部門に関しては、はじめは廻船を差配する廻船問屋という稼業が酒屋とは別個に存在し営業していたが、資本力をつけた酒屋が次々とこれを買収し、酒屋自身が樽廻船問屋として自前の船を所有し、腕のよい船乗りたちを雇い入れ、今でいうフェリー・ターミナルにあたる廻船を大坂に出店するようになった。

また江戸には、下り酒を引き受ける下り酒問屋というものがあったが、これもじつはそもそも上方の酒屋が自分のところの酒を江戸市民に売りこむため、手代など重要な人材を派遣し江戸に開店させた「営業所」であった。

摂泉十二郷のなかでも熾烈な販売競争があったので、さらにこうした「営業所」は、自分の蔵の酒を良さをお客に熱心に説いて回る、いわば営業活動もまめに行なった。こういう点からしても、ライバルの関東の酒である地廻り酒を扱う店はとてもではないが太刀打ちできなかったのである。

黒船来航から幕末にかけては、このような営業マンの持つ情報テリトリーと、押し寄せてきた欧米列強の商社マンとの人脈、廻船や早馬など強力な自家流通ルートを生かして、情報産業にも進出していった。風雲急を告げるこの激動の時代に、長州藩薩摩藩などの反幕府側も、北国諸藩箱館政権など旧幕府側も、酒屋に頼った情報入手、物資輸送の例は数知れない。

江州蔵と小売店[編集]

メジャーな酒屋と違って、マイナーではあるが独自の投資経営技術で関東から東北にかけて幅広く小さな酒蔵や造り酒屋をたくさん展開した、近江商人江州蔵(ごうしゅうぐら)という酒屋の形態も忘れてはならない。これらは細く長く明治以降もそのまま引き継がれ、けっして大規模ではないが確固としたシステムを基盤として今日の地方蔵にも残っているのである。

また、町中の小売業としての酒屋については、江戸においては升酒屋(ますざかや)といった。上方では、小売店を板看板酒屋(いたかんばんさかや)といったが、これもメジャーな大酒屋が自分のところの酒の販売窓口として各都市に持っていた「営業所」にすぎなかった。

近代以降[編集]

樽からの量り売り[編集]

明治末年に白鶴によって一升瓶が開発されたが、全国津々浦々に浸透するまでに年月がかかったため、昭和初期(地方によっては昭和20年代)まで酒は現在のように瓶で売られるのではなく、町の酒屋においてはまだ酒樽からの量り売りするのが主流であった。

酒屋の店頭には、いろいろな酒蔵から買いつけてきた酒が菰(こも)をかぶった樽に入れられて置かれており、客の好みに合わせて、酒屋の主人がそれらをブレンドして売っていた。酒を造っている蔵や杜氏からすれば、自分たちの造った酒を勝手に他の蔵の製品と混ぜられるのは、必ずしも愉快でなかったかもしれないが、どのようなブレンドをするかは酒屋の主人の力量の一つですらあった。たいてい来るのは地元の旧知の客ばかりであり、酒屋の主人は客の好みを熟知していた。すなわち、昭和初期の酒屋は現在のバーテンダー的な技量も必要だったのである。

販売する容量はおおかた2合、5合、1升(=10合)(参照:日本酒の単位)の三種類で、地方によってはごく稀に1合でも売られたという。客はその酒屋からリースされている貧乏徳利を持参して買いにいった。今で言う「マイバッグ」のような「マイ徳利」持参が必須であった。

やがて日中戦争が勃発し、日本酒が品薄になると、酒屋のなかには水をまぜて酒をうすめて販売するところもあらわれた。金魚を入れても死なないくらい薄い酒ということで金魚酒と呼ばれた。(参照:金魚酒の横行
なかには水を混ぜていないのに、客から「金魚酒にしただろう」と難癖をつけられ、「していない」と身の潔白を示すために抗議の自殺をした酒屋までも出現した[要出典]

マイナー路線としての小売販売店[編集]

明治時代から1980年代まで[編集]

明治時代以降は、町中で諸方面の商品を扱うよろずや的な要素を高めていき、人々の生活と切っても切り離せない存在となった。 酒屋の若い店員が各家庭に御用聞きといって、その日に必要な食料や日用品を注文を聞いて回り、あとから宅配するというサービスも一般的に行なわれていた。 そのような意味では、今日のスーパーマーケットコンビニエンスストアデリバリー・ショップを合わせたような存在であったともいえる。

1980年代から1990年代にかけて[編集]

昭和時代後期以降には、大資本がそれぞれの町にある酒屋をフランチャイズ化し、多くの酒屋がコンビニやスーパーへ変化していき、また酒類の販売に関しては大型量販店がシェアを大きく奪うようになり、また酒類販売の規制緩和により酒の小売がしやすくなったこともあり、昔ながらの酒屋には逆風が吹き荒れた。

1990年代以降[編集]

バブル崩壊後、平成時代に入ってからは、小売酒販店として酒屋本来の領分である「酒の専門店」として生き残りを図り、販売する品目を限定するかわりに、商品に関する情報を蓄えることで付加価値をつけ、健全な成長を続けている酒屋が各地に存在する。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]