吉村作治

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吉村 作治(よしむら さくじ、1943年2月1日 - )は日本考古学者早稲田大学人間科学部教授国際教養学部教授、サイバー大学学長(任期満了に伴う退任。2011年4月1日付で本学客員教授に就任)を経て、早稲田大学名誉教授工学博士

1969年早稲田大学第一文学部卒業。元アラブゲリラ隊員[1]1999年早稲田大学理工学部博士 (工学)号取得。それ以前に、ディプロマミルと疑われるパシフィック・ウエスタン大学より考古学博士号を本人曰く「ジョークとして」購入・取得したことがある。

長女はエジプトで活躍する女優の吉村佳南(よしむら かなん)。

日本におけるエジプト考古学の第一人者で、衛星写真分析などのハイテクを導入した調査方法で遺跡を発掘する手法が評価されている。

目次

[編集] 人物

留学と発掘調査、研究などでエジプトでの生活が長く、元妻もエジプト人である。

パレスチナの難民キャンプやゲリラの訓練キャンプへの取材も行った経験もあり、大変なアラブ通である。

口髭がチャームポイントだが、これはアラブでの生活が長く、成人男子は髭を蓄えるもの、という通念のあるエジプトでの活動を効果的に行うためだという。

地上波テレビドキュメンタリーにコメンテーターや解説者として出演し、ときには自ら司会も行う。NHKの考古学ミステリー番組やテレビ東京サイエンスドキュメンタリーに出演することが多い。アラブ通であることから、湾岸戦争のときにテレビのコメンテーターなどを務めたことがあるが、アラブに詳しいだけにイラクに同情的と見られ、しかもアメリカを非難したために、親米論壇から非難され(視聴者や読者から脅迫もされたと語っていた:本人談)、以後は政治的な発言は控えている。また、バツイチとしてテレビに出演したこともある。 また、TBS系列の番組の出演や、同局が主催する自身ゆかりの企画展が多い縁もあり、この系列が企画するものであれば本人曰く「専門ではないけど、TBSさん専属なので」として出演や講演会を行うこともある。一部の企画展等においては一種のお約束ともいえる挨拶となっており、この時は教育や比較文明の視点を中心に話を進めることが多い。

料理が得意でNHK教育テレビの料理番組『男の料理』に度々出演したことがあり、料理に関する著作もある。早稲田大学早稲田キャンパスの近くに「エジプト考古学ビル」という名のビルを所有し、同ビル一階で『パピルス』というエジプト料理店を経営していたが、既に閉店している。

また、沖ノ島世界遺産化運動の第一人者であり、毎年宗像市を訪れて講演を行う。

なお、「ダイドードリンコ日本の祭り」の企画に参加しており、毎年、各地で祭りの取材を行っている(この企画で放送される番組にも出演している)[2]

エジプト考古学において知られているが、博士や教育者としての専門は歴史ではない。彼自身の考え方もまた、教育現場で指すところの歴史という枠組みだけではなく、様々な分野と交えての比較文明の立場に重きを置いているとしている。教育者としてはゆとり教育を肯定した上で、学校教育の外でも様々な経験を積み広い視野で物事を見られる人間になってほしい、と語っている。 また、日本の教育は成績優秀者を伸ばすだけでなく、学校での成績が悪い人間にこそ隠れた素質を見つけだす手助けすべきである、という視点で学生を見ているという。

[編集] エピソード

東京大学の文科II類(現在は文科III類)に入れば学者の道へ、日本大学芸術学部の演劇科に入れば役者の道へと考えていた。結局東京大学は落ちたので役者の道へ進もうと決めたところ、母から「学者は役者になれるけど、役者は学者になれない」と言われて、両方やりたいと思ったため浪人することにした。2浪を経験し、受験に疲れた家族を見て東京大学への進学を断念。早稲田大学へ進学。吉村は当時のことを、早稲田大学の入試は現在ほど難しくなかったと語っている。

後に早稲田大学を経由してエジプトへ留学するが、家が近かった大学教授に特別講義を受けることにより通常の授業に出席する時間を節約し、大使館でアルバイトに励んでいた。当時は他の日本人留学生との交流は悪かったと語っているが、一方で大使館関係者として様々な貴重な経験を得て、後に発掘を始めるに当たってこうして築いた人脈が大きな力になったという。

一度試しにイスラムに入信したが、とても務まるものではないので、辞めてしまったという(この話が事実だとすれば、イスラム法では背教者として死刑となるが、実際にはムスリムの棄教者も中東以外では少なくない)。

ただし2012年のインタビューでは、1967年にエジプト女性と結婚する際にイスラム教徒になり、離婚後も改宗はしていない、日本人はイスラム教から学ぶ点が多いはずだ[3]と語っている。

祖母は小規模な新宗教団体の教祖であったが、母は跡を継がなかった。(彼は人の人生を掴むような仕事を世襲で継いではいけないと思ったのだろうと述べている)彼自身はイスラムに帰依していた時期を除き、無宗教を公言している(無神論者ではない)。

1999年1月、仙台市成人式で来賓として講演したが、余りの新成人のマナーの悪さに「これは新成人でなく新生児のお祝いなのだ! もう二度と成人式には出ない!!」と大激怒した。

エジプトでの古代の発掘事業プロジェクトを巡り、プロジェクトを持ち掛けた男性(プロジェクトの事務局長を名乗っていたとされる)に出資金名目で金を騙し取られたとして、大阪市内の会社社長が、男性に資金集めを依頼した吉村に対し、約7,000万円の損害賠償を求め、大阪地方裁判所に訴えを起こした。吉村は「問題の男性とは連絡を取れなくなった」と主張している[4]

[編集] 経歴

  • 1943年2月1日 東京都新宿区に生まれる。
  • 1961年3月 東京学芸大学附属高等学校(竹早校舎)卒業。
  • 1964年東京大学を三度受験するも果たせず、二浪して早稲田大学第一文学部に入学。
  • 1966年 早稲田大学古代エジプト調査隊を組織してエジプトでの調査研究を開始(エジプト考古調査隊としてはアジア初)。
  • 1968年 カイロ大学考古学部に留学。
  • エジプト留学中に現地人と婚約し通信社支局にて働き始めるが、恩師の急死にて急遽帰国する。
  • 1969年 早稲田大学第一文学部美術史学科卒業。早稲田大学エジプト調査隊として初の本格調査をルクソール西岸のマルカタ南遺跡にて開始する。参入から5年でエジプト考古最高評議会から単独調査の認可が下りたのは、無名の新参調査隊としては異例の早さであった。
  • 1974年 ルクソールのマルカタ南にある「魚の丘」遺跡において自身がマネージャーを務める発掘隊が彩色階段を発見。
  • 1987年 早稲田大学人間科学部助教授となる。
  • 1992年『宜保愛子 ピラミッドの謎に迫る』(日本テレビ)にて宜保愛子と競演。王家の谷の霊視に同行するなどした。
  • 1994年 ディプロマミルであるパシフィック・ウエスタン大学から30万円で博士号(考古学)を購入。[5]
  • 1996年 早稲田大学人間科学部教授となる。ダハシュール北地区において神殿型大型貴族墓を発見。これは世界で初めて人工衛星の画像解析を利用した調査によるもので世界中の注目を集めた。
  • 1999年 早稲田大学から博士(工学)の学位を取得。
  • 2001年 カエムワセト(ラムセス2世の第4王子)葬祭殿において、世界で2例目となる「クフ王の銘が入った彫像」を発見する(その後更に1体が発見され、世界で3例目の栄誉も得ることとなった)。
  • 2003年 ピラミッドのプロトタイプと考えられている、エジプト最古級の大型石造建造物を発見。
  • 2006年 3月31日に早稲田大学の専任教授を退職(無給の客員教授として継続在籍)、4月1日サイバー大学の初代学長に就任。
  • 2008年 7月2日自身の開設していた公式ブログ「考古学者のひとりごと」を閉鎖。北京オリンピックに絡むフリーチベットブームの中、早稲田大学で行われたデモについてテレビ番組で揶揄するような発言をしたことから大炎上した結果。
  • 2010年 考古学研究の成果より、エジプトにおいて日本の文化勲章に相当するとされる賞に異例の若さで選ばれている(考古学者で選ばれるのは90歳前後が通例とのこと)。早稲田大学名誉教授。
  • 2011年 サイバー大学学長を退任。客員教授に就任。

[編集] 著書

[編集] 編集・翻訳・監修

[編集] 翻訳

[編集] 監修

  • 『ヒエログリフを書こう!』(2000年6月、Philip Ardagh著、翔泳社ISBN 488135888X
  • 『図説 ヒエログリフ事典』(2001年7月、Maria Carmela Betro著、創元社 ISBN 4422202316
  • 『ミイラ事典』(2004年7月、ジェームズ・パトナム著、あすなろ書房ISBN 4751523104
  • 『図説 大ピラミッドのすべて』(2004年9月、Kevin Jackson他著、創元社、ISBN 4422202286

[編集] テレビ出演


[編集] CM出演

[編集] その他

[編集] 脚注

  1. ^ 吉村作治『HOW TO 大冒険 脱出プランから秘境走破術まで』(主婦と生活社・21世紀ブックス、1974年)の裏表紙の著者略歴には、自身を「元アラブゲリラ隊員」と記している。その時の模様については同書「アラブゲリラに潜入する(ヨルダン)」(p.24-26)に詳しい。ゲリラとしての体験として「訓練を終えて、イスラエル国境に近い山の中に入り、実戦の場に立たされると」(p.25)と軍事訓練を受けて戦場に出た旨記載されている。しかし「結局、ぼくは七か月ぐらいで、アラブゲリラのもとを去った」(p.26)としゲリラとしての経歴が長期に及ぶものではないことも記している。
  2. ^ ダイドー祭りドットコム(吉村作治が観た!日本の祭り)
  3. ^日本経済新聞2012年1月28日夕刊
  4. ^ 読売新聞 2010年5月28日
  5. ^ 2006年12月30日 産経新聞iza「非認定大学の博士号 吉村作治学長も取得」に記事と本人のインタビュー、他。

[編集] 外部リンク

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