ラムセス2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
アブ・シンベルにあるラムセス2世の像

ラムセス2世(ラムセス2せい、Ramesses IIラムセス大王(ラムセスだいおう)、紀元前1314頃 - 紀元前1224年、または紀元前1302頃 - 紀元前1212年)は、古代エジプト第19王朝ファラオ(在位:紀元前1290 - 紀元前1224年、または紀元前1279 - 紀元前1212年)。

その治世において、エジプトはリビアヌビアパレスチナに勢力を伸張し、繁栄した。

ラムセ2世ラメセス2世とも表記される。ラムセスという名は、ラーによって生まれたという意味の「ラー・メス・シス」のギリシア語読みである。

生涯[編集]

年代には諸説あるが、24歳で即位し、66年間統治し、90歳で没したとされる。その間、第1王妃ネフェルタリのほか、何人もの王妃や側室との間に、賢者として名高いカエムワセト、後継者となるメルエンプタハをはじめ非常に多くの子(111人の息子と69人の娘)を儲け、娘の中には父親であるラムセス2世と親子婚を行った者もいたと伝えられる。もっとも、この大半は養子であり王の息子の称号を与えられただけだという説もある。しかし、非常に大柄であり専用の強弓は王その人以外誰も引くことができなかったと言われる優れた戦士であった王が多くの子を残さなかったとは考えにくく、やはり彼らは王の実子であると考える者もいる。即位名はウセルマアトラーである。

治世の前半期はヒッタイトとパレスチナで勢力を争った。治世第5年の紀元前1286年、総勢2万の兵を率いてカデシュの戦い親征し、ヒッタイト王ムワタリと戦った。エジプトはカデシュの戦いでは偽情報に踊らされた結果有力な軍団を壊滅させられるなど苦戦しつつも、ラムセス2世の武勇によって勝利を収めたが、ヒッタイト勢力をパレスチナから駆逐するには到らなかった。両者ともに相手を退けるに到らず、長年戦争を続けたのち、ラムセス2世の第21年(紀元前1269年)、エジプトとヒッタイトは平和条約(en:Egyptian–Hittite peace treaty)を結んで休戦し、ラムセス2世はヒッタイト王女を王妃に迎えた。これは世界史で最初の平和条約と呼ばれる。条約文はヒッタイトの首都ボガズキョイの粘土板やエジプトの神殿の壁面でも発見された。またカデシュの戦いにおけるラムセス2世の勝利の喧伝は、エジプト軍の軍制改革の妨げとなり後に災いを残すことになる。ラムセス2世はこの戦いの栄光を自賛するため宮廷書記ペンタウルに詩を作らせ、カルナク神殿からアブ・シンベルに至までの大神殿の壁に詩を彫らせた。

ラムセス2世はまた、ナイル第1滝を越えてヌビアに遠征した。ラムセス2世は戦勝の記念碑を多く築き、現在もっとも記念碑の多く残るファラオとなっている。ヌビアは後にエジプトに同化され、本家エジプトの衰退を救う形で王朝を立てることになる。

カイサリアエウセビウスなどキリスト教教会史家の間には、ラムセス2世を『出エジプト記』に登場するユダヤ人奴隷から解放するようにモーセが要求したファラオと同一視する者がある(次代のファラオのメルエンプタハとする説もある)。

ラムセス2世は、紀元前1290年に首都をテーベからベル・ラメセス(ナイル川のデルタ地帯の東)に遷都した。また、テーベ、ルクソール、カルナクの神殿を整備した。テーベには葬祭用の巨大な「永遠の城」ラメセウスを建てさせた。そして、ヌビア(現スーダン)にも多くの記念建造物を建てさせている。

ラムセス2世はアブ・シンベル神殿を造営した。これはアスワン・ハイ・ダムの建設に伴って移転され、これを機に世界遺産の制度が制定された。現在アブ・シンベル神殿は世界遺産に登録されている。他にも「カルナック神殿」や「ラムセス2世葬祭殿(ラムセウム)」等多数の建造物を残している。

ミイラ[編集]

ラムセス2世のミイラ

ラムセス2世のミイラは1881年に発見され、現在はカイロエジプト考古学博物館に収められている。身長は183cmもあり、当時はおろか現代に於いてもかなりの長身であることがわかる(古代エジプトの成人男性の平均身長は160~165cmであった)。また、調査によって生前関節炎を患っていたものの、死亡推定年齢が88~92歳とかなりの長命であったことも突き止められている(古代エジプト人の平均寿命は35~40歳であった)。生前のラムセス2世の健康状態が高齢に達してなお、極めて優れていたかも理解できる。また、ミイラに残っている頭髪から髪の色は黒色であると推定されている。

なお、ラムセス2世のミイラはテーベ大司祭パネジュウム2世の家族墓で見つかったが、過去2回埋め直されている。

今なお生けるファラオ[編集]

20世紀後半になって、ラムセス2世のミイラは劣化防止措置を受けるためフランスへ出国し、儀仗兵が捧げ銃を行う国王への礼をもって迎えられた(ミイラの皮膚組織にカビの1種が発生したため、調査を兼ねてカビの除去を行う必要があった)。この時には生きているエジプト人の扱いでパスポートも支給され、職業の欄には「ファラオ」と記入されていたというエピソードも伝わっており、偉大なるファラオへ寄せるエジプト人の敬意の深さがうかがえる。

孫娘イシスネフェルトの墓[編集]

2009年3月4日吉村作治率いる早稲田大学サイバー大学合同古代エジプト調査隊は、エジプトの首都カイロ南方にあるアブ・シール南丘陵遺跡において、ラムセス2世の孫娘であるイシスネフェルトの墓を発見したと発表した。第4王子カエムワセトにはイシスネフェルトという名の一人娘がいたことは判明していたが、丘陵の地下で発見された埋葬室の中に石灰岩製の石棺があり、「イシスネフェルト」という名前が書かれていたことなどから、孫娘と判断した[1]

だが考古最高評議会は墓の建築様式や、そもそも古代エジプトにはイシスネフェルトという名前の女性が多かったという理由などから否定的な見方を示していると伝えられており、石棺の中にあった3体のミイラの正体解明については今後の研究が待たれる[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b “三千年前の「高貴な女性」の墓、早大チームがエジプトで発掘”. AFP. (2009年3月4日). http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2577965/3877065 2011年2月15日閲覧。 

関連項目[編集]

先代:
セティ1世
古代エジプト王
138代
前1279年 - 前1212年
次代:
メルエンプタハ