カルナック神殿

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カルナック神殿
Karnak-Hypostyle3.jpg
アメン大神殿の大列柱室
遺跡
種類 神殿 (Temple) 複合体
所在地 エジプトの旗 エジプトルクソール県
カルナックルクソール近郊)
ノモス 上エジプト、第4(州)
ヒエログリフ名
i p
t
Y1V st st st t
O49
祭神 アメンムトモンチュ
アメン大神殿
着工 第18王朝時代[1][2]
増改築 ギリシア・ローマ時代[1]
アレクサンドロス3世まで[2]
カルナック神殿平面図 (標記: 英語)
* モンチュの神域 - Precinct of Montu
* アメン=ラーの神域 - Precinct of Amen-Re
* ムトの神域 - Precinct of Mut

カルナック神殿(カルナックしんでん、アラビア語: معبد الكرنك‎ 、英語: Karnak Temple、Temple of Karnak 、またはカルナック神殿複合体英語: Karnak Temple Complex)は、古代エジプトの神殿複合体であり、カルナク (Karnak 〈 /kɑːr.næk/[3]〉) とも記される[4]エジプトの首都カイロからナイル川を南におよそ670キロメートルさかのぼった[5]東岸に位置し[1]新王国時代(紀元前1550-1069年頃[6])に繁栄した古代の首都テーベ(古名ワセト[7]、現在のルクソールとその近辺)に建てられた[8]。その巨大都市テーベの一部であるカルナック複合体の名は、近隣にあって一部を取り囲む、ルクソールの北およそ3キロメートルにある現代の村、エル=カルナックより名付けられている[9]。西岸には歴代の王が眠る王家の谷や貴族の墓、ハトシェプスト女王葬祭殿などがある。歴代の王が寄進して増改築を重ね拡張された巨大な複合体であり[10]、中心はアメン神(アモン[11]、アムン、アメン=ラー、アムン=ラー[12])に捧げられたアメン大神殿(アメン=ラーの神域)となっている[9]

概要[編集]

アメン大神殿複合体(1914年)

カルナック神殿複合体は、荒廃した神殿、祠堂、塔門(パイロン、Pylon)およびその他の建造物の膨大な構成からなる、1平方キロメートル(100ヘクタール)以上におよぶ広大な古代宗教遺跡である[4]。複合体は泥レンガの周壁に囲まれた3つの主要部分からなり[4]、現在のところ、その中で最大のアメン大神殿が唯一、一般に公開されている。ここがほとんどの訪問者が見学する唯一の箇所であるので、カルナック神殿は、アメン大神殿のみにしばしば解される。他の2つの構成要素であるムト(ムゥト[13])の神域やモンチュ(モント、モントゥ[14]、メントゥ[13])の神域は非公開となっている。ムトの神域は非常に古く、地と創造の神に捧げられたが、いまだ復元されていない。また、いくつかの小神殿や聖所が、アメン大神殿やムトの神域に付随してある。

複合体の建造は、中王国時代[4](紀元前2055-1650年頃[6])のセンウセルト1世英語版(紀元前1965-1920年頃[6])の統治中には始まり、残存する新王国時代からの建造物のほとんどがプトレマイオス朝の時代(紀元前332-32年[6])まで継続された。カルナック周辺は古代エジプトにおいてイペト=スゥト(Ipet-sut[4] 「諸々のなかで選り抜きの場所」)であり[9]、アメン神をその頂点とする第18王朝(紀元前1550-1295年頃[6])のテーベ三柱神 (Theban Triad) 崇拝の中心地であった。

歴史[編集]

カルナック複合体の歴史は、大部分がテーベおよび文化におけるその役割の変化の歴史である。宗教的な中心地は、地域とさまざまな時代に変わった統一文化の一般的首都の設立により変化した。都市テーベは、中王国時代の第11王朝(紀元前2055-1985年頃[6])以前に目立った重要性があったようには見えず、また当地のそれ以前の神殿建築は比較的小さく、その祠堂はテーベの初期の神々である地母神ムトやモンチュに捧げられていた。その初期の建造物は侵略者により破壊された。神殿域で発見された最古の遺物は、第11王朝による小さな八面神殿であり、アメンについて記されている。アメンは長くテーベ地方の守護神であった。アメンは雄羊鵞鳥(がちょう)と同一視された[15]。アメンの名は隠すという動詞の imen に由来し[11]、エジプト語の意味は、「隠れた」あるいは「隠れた神」である[16]

アメン大神殿における主な建設工事は、テーベが統一された古代エジプトの首都になった第18王朝のうちに行われた。新しい建設が第19王朝(紀元前1295-1186年頃[6])のセティ1世(紀元前1294-1279年頃[6])やラムセス2世(紀元前1279-1213年頃[6])のもとで着工されたが、列柱室の建設もまた第18王朝の間に始まったとも考えられる。

その王朝のほぼすべてのファラオが神殿域に何かを追加した。ハトシェプスト(紀元前1473-1458年頃[6])は記念物を建造し、またヒクソスの占領中に国外の支配者により破壊されていた古代エジプトの偉大な女神ムトの元来の神域を再構築した。彼女はその時代、神殿入口に立つ世界で最大級の1対のオベリスクを持っていた。その1本は依然としてその場に立つ世界で最も高い、残存する古代オベリスクである[17]。もう1本は2つに折れて倒壊した。その敷地における女王のもう1つの事業としてのカルナックの赤い祠堂 (Chapelle Rouge) は、聖舟(バーク)祠堂として意図され[18]、当初は彼女の2本のオベリスクの間に建っていたとも考えられる。女王はその後ファラオとして彼女の16年目を祝して、さらに2本のオベリスクの建設を命じた。そのオベリスクの1つは建設中に壊れ、その結果、第3のものがそれに置き換えるために構築された。

アスワンにある採石現場には放置されたオベリスクが今も残っている。未完のオベリスク英語版として知られ、おそらく新王国時代[19]トトメス3世 (紀元前1479-1425年頃[6])のころのものといわれ[20]、それはオベリスクがどのように切り出されたのかをはっきりと示している[21]

アメン大神殿の構成において最後の大きな変化は、第1塔門および神域全体を取り囲む大規模な周壁の追加であり、ともに末期王朝時代(紀元前747-332年[6])、第30王朝(紀元前380-343年[6])のネクタネボ1世(紀元前380-362年[6])によって構築された。

西暦323年、コンスタンティヌス1世キリスト教徒の信仰を認め、また356年にはコンスタンティウス2世が帝国全体にわたって異教の神殿の閉鎖を命じた。カルナックはこの時代、大部分が放棄され、キリスト教会が廃墟のなかに設けられた。このうち最も有名な例は、トトメス3世祝祭殿英語版の中央ホールの再利用であり、そこには聖人が描かれた装飾やコプト語の碑文が今もなお見られる。

アメン大神殿[編集]

ピネジェム1世の巨像

アメン大神殿は、神殿複合体の神域内のうち最大であり、テーベ三柱神(アメン、ムト、コンス)の最高神であるアメンに捧げられている。高さ10.5メートルのピネジェム1世英語版の彫像など、いくつかの巨大な像がある。すべての列柱を含め、この神殿のための砂岩は、ナイル川の南上流およそ160キロメートル(100マイル)離れたジェベル・エル=シルシラ (Gebel el-Silsila) から搬送された[22]。さらに高さ約29.5メートル、重さ323トンとなる最大級のオベリスクの1つが立っている[23]

アメン大神殿平面図 (標記: 英語)

全体の構成は、およそ東西および南北に延びる2本の軸をもっており、その中心軸となる東西の主軸上は[1]、6つの塔門(パイロン)で仕切られている[8]。神域の周壁は約500メートル四方であり[8]、東西540メートル、南北の西辺600メートル、東辺500メートルとなる[2][13]。中王国時代、第12王朝(紀元前1985-1795年頃[6])のセンウセルト1世から、主として新王国時代、第18王朝アメンホテプ1世(紀元前1525-1504年頃[6])、トトメス1世(紀元前1504-1492年頃[6])、第19王朝セティ1世ラムセス2世など、そしてローマ支配の時代(紀元前30-紀元後395年)にわたって増改築され、歴代の王が増築部分を拡張していった[4]

第1塔門から東西の中心軸を進むと、第2塔門と第3塔門の間に巨大な列柱室がある。第3塔門から南側に向けて、アメン大神殿の主軸線とほとんど直角にもう1本となる南北軸が、第7塔門から第10塔門にわたって延びており[24]、その軸線はさらに南のムトの神域に向かっている[4]。第7塔門の前となる[24]、2つの軸線の交差する南側には聖池がある[4]

この副神殿として建設されたルクソール神殿[24]、南に2キロメートルほど離れた位置にあり[25]スフィンクスが両側に並ぶスフィンクス参道により通じている[24]。毎年氾濫季(アケト[25])の第2月の11日間(第20王朝 〈紀元前1184-1069年頃[6]〉のラムセス3世英語版〈紀元前1184-1153年頃[6]〉のころには約1か月にわたって続けられるようになった[25])のオペト祭英語版において、アメン神は、ムトコンスの他の三柱の神体とともに聖舟にのせられ[25]、カルナックのアメン大神殿から南のルクソール神殿に運ばれた[24][26]

東西軸の構成[編集]

アメン大神殿の第1塔門
アメン大神殿の大列柱室

主な神殿が東西軸上に配置され、埠頭(現在は干上がりナイル川から数百メートルある)を経由して入場する。

ナイル川埠頭(カルト・テラス) - Nile Quay (Cult Terrace)

現代の入口は、古代のカルト・テラス(またはトリビューン、tribune)の末端にあたり、その結果としてほとんどの訪問者がこの重要な特徴を見逃している。テラスに刻み込まれた(多くは現在侵食されて消えているが)総称してナイル・レベル・テキスト (Nile Level Texts) として知られるものは、第3中間期(紀元前1069-747年頃[6])の歴代の王のための浸水計測器である。カルト・テラスは、多くの場合、桟橋や埠頭であると誤解されているが、他の例として、例えばデイル・エル=メディーナ (Deir el-Medina, Deir al-Madinah) にあるハトホル神殿のものは、水に接しておらず、それは崇拝像の表現のために造られていた。

スフィンクス参道の1つ
スフィンクス参道

埠頭より第1塔門に通じる[27]。当初、埠頭は第2塔門への入口にスフィンクス参道を通してつながっていたが、第1塔門が構築されたときに、それらの雄羊の頭をもつスフィンクスは前庭の両脇に移された。

第1塔門 - First Pylon

現在のこの塔門の建設は第30王朝に始まるが、すべては完成しなかった[1]。塔門の幅は113メートルで高さ43メートル[5]、厚さは15メートル。塔門の内(東[2])側に積み重ねられた多くの泥レンガがあり[1]、それらは塔門がどのように構築されたかについての手掛かりを示している。

前庭(第1中庭) - Great Forecourt

第22王朝(紀元前945-715年頃[6])における元の第1塔門および前庭の建築物は、いくつかのより古い建造物を取り込んでおり、それから元来のスフィンクス参道が移されたことが分かる[28]。第2塔門前の左側には、神官(第21王朝アメン大司祭[29])ピネジェムの像が立つ[5]。この巨像の足元にはラムセス2世の王女の彫像が見られ、元来、第19王朝のラムセス2世のものであったが、後のピネジェムが自身の名前を刻んだ[30]

ラムセス3世神殿、正面入口
ラムセス3世神殿 - Ramesses III Temple

前庭の南側に、ラムセス3世英語版によって建造された小神殿がある[28]。神殿内部の碑文には、アメン=ラーに見られながら、王が捕虜を虐殺するのを示している。

第2塔門(西側より)
第2塔門 - Second Pylon

この塔門は、ホルエムヘブ(紀元前1323-1295年頃[6])の統治末期に着工され、一部に装飾が施された。ホルエムヘブは、塔門の内部を彼の以前にあった記念建造物であるツタンカーメン(トゥトアンクアメン、紀元前1336-1327年頃[6])やアイ(紀元前1327-1323年頃[6])の神殿に加え、特にアメンホテプ4世(アクエンアテン、紀元前1352-1336年頃[6])の記念建造物から砂岩ブロック(タラタート、Talatat)を解体し再利用した数千のブロックで埋め尽くした[31]

ラムセス1世 (紀元前1295-1294年頃[6])は、塔門にあるホルエムヘブのレリーフや碑文を侵害し、それらに彼自身のものを加えた。これらはその後ラムセス2世により奪われた。塔門の東(背)面は、セティ1世のもとで新たに築かれた大列柱室の西壁になり、彼がその列柱室を構築するとき、そこに彼の父ラムセス1世の肖像を消さなければならないことの埋め合わせとして、亡きラムセス1世を讃えるいくつかの肖像が加えられた。第2塔門の最上部は末期王朝に崩壊し、その後プトレマイオス朝時代に修復された。

中: 前庭、右: 大列柱室(19世紀)
大列柱室 - Great Hypostyle Hall

幅102メートル、奥行き53メートルにおよび[32]、5,406平方メートル[33](0.5ヘクタール余)となる大列柱室の区域には[4]、16列に配置された134本の巨大な円柱がある。これらの円柱のうちの122本は高さ約15メートルの未開花式パピルス柱であり、また中央の12本は開花式パピルス柱で[32]、高さが21メートルあって[31]、直径は3メートル以上ある。

ここはセティ1世によって装飾が始められ、ラムセス2世により完成した[34]。列柱室の北側は隆起した浮き彫りで装飾されており、セティ1世の取り組んだものであった。彼は死ぬ直前に列柱室の南側の装飾を始めたが、この部分はほとんど息子であるラムセス2世によって完成した。ラムセスの装飾は当初浮き彫りであったがすぐに沈み彫りへと変更し、その後の列柱室の南側にある彼の浮き彫り装飾は、そこにあるセティのわずかなレリーフに加わり、沈み彫りに切り替わった。彼は隆起した浮き彫りとして北翼棟にセティ1世のレリーフを残した。ラムセスはまた列柱室の他の場所において父のレリーフのほとんどを尊重しながらも、列柱室の東西の主軸沿いおよび南北の列柱通路の北側部分に沿ってセティの名を彼自らのものに変更した。

外壁には、北にセティ1世、南にラムセス2世の戦いの場面が描かれている[35]。これらの場面は実際の戦闘を示さないとも考えられるが、同じような儀式の目的であった可能性がある。ラムセス2世の南壁に隣接して、彼の治世21年にヒッタイトと調印した平和条約の文が含まれる別の壁がある。

大列柱室と第3塔門
第3塔門 - Third Pylon

ハトホル列柱室の壁を通り抜けると、ほとんど崩壊した横軸の部屋が、再建されたアメンホテプ3世 (紀元前1390-1352年頃[6])の第3塔門に平行してある。かなり崩壊しているが、古代において非常に壮麗なものであり、その部分はファラオのアメンホテプ3世によって黄金で一様に覆われていた。前庭はファラオの治世後期に加えられ、次いで新しいファラオが神アメン=ラーの崇拝を拒んだ宗教革命によって計画が放棄される前に、アメンホテプ4世により未完成であった勝利の場面が部分的に装飾された。

第3塔門を建設する際、アメンホテプは、自分が統治する以前に建てられた小さな門など、多くのより古い記念建造物を解体した[36]。彼はこれら記念建造物からの何百ものブロックで塔門内部を満たすよう埋め込んだ。これらは20世紀前半にエジプト学者によって修復され、現在、カルナックの野外博物館にあるセンウセルト1世の白い祠堂[37] (White Chapel) や女王ハトシェプストの赤い祠堂 (Chapelle Rouge) を含む、いくつかの失われた記念建造物の修復に結びついた[31]

塔門のレリーフは、その後さらに自身の肖像を挿入したツタンカーメンにより修復された。これらは次いで後のホルエムヘブによって消された。ツタンカーメンの消された肖像は長くアメンホテプ4世のものであろうと考えられ、おそらくアメンホテプ4世とアメンホテプ3世とのあいだの摂政の証拠であろうとされたが、現在、ほとんどの学者はこれを否定している[38]

トトメス1世とハトシェプストのオベリスク
ハトシェプストのオベリスク先端部
オベリスク

狭い広間には、いくつかのオベリスクがあり、第3塔門と第4塔門の間に立つ1本はトトメス1世にさかのぼるもので[39]、高さ19.5メートル[17]、重さは約150トンとされる。ちょうどこの先の第4塔門と第5塔門の間にある女王ハトシェプストのオベリスクは[39]、高さ29.56メートルである[17]。後の王は、この地上からの眺めを遮り、その周囲に壁を築いた。ハトシェプストのもう1本の折れたオベリスクは、聖池の近くに置かれ[39]、その先端部には腰掛けた神アメンの前に座るハトシェプストの描画がある[27]

第4塔門 - Forth Pylon

第4塔門および第5塔門は、トトメス1世により築かれた[34]。トトメス1世は、第4塔門と第5塔門を結ぶ周壁を建造し、それは今もなおその場に立っている神殿の最も古い部分より構成される。

第6塔門

第6塔門はトトメス3世によって築かれ、王が彼の貢ぎ物を記録した広間へとつながる。 塔門はさらにアメンホテプ4世により破壊された後、ツタンカーメンによって修復されたアメン神のいくつかの彫像が含まれる。これらの彫像画は、その後またツタンカーメンの修復した碑文を奪ったホルエムヘブによって再び刻まれた。

トトメス3世祝祭殿
トトメス3世祝祭殿 - Festival Hall of Thutmose III

主神殿複合体の東に建っている。至聖所と祝祭殿の間には広間があり、またここは後に解体される前には、本来の中王国の祠堂および神殿が位置した場所であったと考えられる。

祝祭殿(または Akh-menu 「諸々の記念建造物のうち最も壮麗なもの」[23])はそれ自体、神殿の東西の主軸に対して直角の軸線を持っている。もともとはトトメス3世の祝祭(セド祭英語版〈ヘブ=セド、Heb-Sed 「王の祝祭」〉[40])を執り行うために建造され、後に年に1度のオペト祭の一部として使われるようになった。この神殿において、神殿複合体の一部を築いた何人かの以前の王とともにトトメス3世を示すカルナック王名表英語版がある[41]。祝祭殿の壁にはトトメス3世の植物園英語版のレリーフなどもある[42]

南北軸の構成[編集]

第7塔門
第8塔門
第9塔門(2009年)
カシェット(カシェ、「隠し場」)の中庭(第1中庭) - Cachette Court (First Court)

第19王朝メルエンプタハ(紀元前1213-1203年頃[6])は、ルクソール神殿への行進ルートの始まるカシェットの中庭の壁面に、海の民に対する彼の勝利を記念した。

アメンホテプ2世像など900体以上の彫像が、この広い中庭の下に埋められ、20世紀初頭の1903年に発見された[43]。これらはおそらくプトレマイオス朝時代に、再建や建設のため複合体の空き地のうちの1つに埋められた。

第7塔門

トトメス3世により築かれたもので、その中庭の側壁は後のラムセス2世に次ぐ息子メルエンプタハによって建造された[44]

第8塔門 - Eighth Pylon

ハトシェプストにより建造されたもので[45]、第7塔門が通常、一般に入場できる区域の終わりとなる。

第9塔門 - Ninth Pylon

この塔門はホルエムヘブにより構築(あるいは少なくとも完成)された[45]。内部は空洞で、階段を経由して、その最上部に向かうことが認められる。

アメンホテプ2世神殿 - Temple of Amenhotep II(平面図ではIIIとなっている)

アメンホテプ2世セド祭殿[4](または祝祭殿)は、第9塔門と第10塔門の間の中庭の東壁に復元されている[45]

第10塔門 - Tenth Pylon

ここもやはり、ホルエムヘブが主な建築資材としてアメンホテプ4世の神殿より解体されたタラタートを使用して、この最後の塔門を構築した[45]。ホルエムヘブの名のもと、裏側の通路の周りに4つの記録がある。

他の構造物[編集]

聖池

複合体内の外側境内には、一般に公開されているその他いくつかの建造物がある。

聖池 - Sacred Lake

第18王朝のトトメス3世が奉献したとされるが[46]、120×77メートルにおよぶ現在の聖池は[47]第25王朝(紀元前747-656年[6])時代に造成されたものであり、11段の階段をもつ[48]。聖池は神殿の儀式を行なう前に、神官たちが自身を清める場所であった[49]

プタハ(プタハとハトホル)神殿 - Temple of Ptah & Hathor

この小神殿は、アメン主神殿の北、神域壁のすぐ内側にある[50]。建物は中王国初期の神殿の場所に、トトメス3世によって建てられた。建造物はその後プトレマイオス朝により拡張された[50]

ラムセス2世神殿 - Temple of Ramesses II

この神殿は、主神殿複合体の東に位置し、東西軸上に置かれている。神殿はラムセス2世の統治中に建設された。

タハルカ神殿 - Temple of Taharka

タハルカ英語版の礼拝堂とも呼ばれる神殿は、聖池の北西角に位置し、地下には太陽神が毎夜、地下を旅して、再びスカラベとして復活する描画がある[44]

コンス神殿 - Khons Temple

アメン大神殿の南西に位置するこの神殿は、ほぼ完全な新王国の神殿の例であり[45]、以前の神殿(建設はハリス・パピルス〈Harris Papyrus〉に言及されているものと見られる)の場所に、ラムセス3世によって建設された。またその後、多くの統治者により装飾されていった[45]

コンス神殿の記念門
プトレマイオス3世エウエルゲテスの門 - Gateway of Ptolemy III Euergetes

プトレマイオス3世(紀元前246-221年[6])によるこのコンス神殿の記念門は、バブ・エル=アマラの名でも知られ、そこから羊の頭をもつスフィンクス参道がルクソール神殿に向かって延び、またムトの神域にも通じる[51]

オペト神殿 - Opet Temple

プトレマイオス8世(紀元前170-116年[6])によって主に構築された女神オペト(出産を助けるカバの神)の神殿が、コンス神殿に隣接してあり、後にアウグストゥスなど何人かの統治者が装飾を加えた[50]

野外博物館 - Open Air Museum

初期の建造物を再使用したいくつかの塔門がその中核となる。複合体の北西の隅にある野外博物館には、初期の建造物のうちのいくつかが再建されており、それらのうちハトシェプストの赤い祠堂英語版(聖舟祠堂[18])や、センウセルト1世の白い祠堂英語版[37](聖舟安置小堂[52])など注目に値する。

ムトの神域[編集]

ムトの神域図(19世紀)

アメン大神殿の南に位置するこの神域は、東西250メートル南北の西辺300メートル、東辺400メートルで[13]、およそ10万平方メートル(10ヘクタール)を占め、第18王朝のテーベ三柱神のうちアメン=ラーの妻とされるようになった地母神ムトに捧げられた。ムトはまた月神コンスの母ともされる[53]。その区域は、もともとイシェルウ (IsherwIsheru〈または Asher〉) として知られていた[54]。イシェルウは、神殿複合体のこの一部分である三日月形の池の名とされた[55]

ムト神域の女神セクメト

神域にはムトに関係するいくつかの小神殿があり、またそこには三日月形に造成された独特な聖池をもつ。この神殿は多くの部分が破壊され[56]、他の構造物に使用されていた。アメンホテプ3世が奉献した600体もの黒色花崗岩でできた女神セクメト(セフメト[57])の彫像が[56]、ムト神殿の中庭で発見された。セクメトはムトと同一視されていた[58]。その場所は最も古い部分であろうと考えられる。ここは一般には非公開となっている。

神域はエジプトの統治における第18王朝からギリシア・ローマ時代まで使用、追加あるいは改良された。1世紀には、ムトの神域は使用されることが確実に減り、ムト崇拝が終わると、複合体の役割も終わった。その後の時代において、その神域はずっと放置されていた。今日、その神域は平らにされ、実際に高さ1メートル以上のものはもう何も立っていない。何百もの女神セクメトの彫像がその場所の中央部全面にわたって散在している。

ムト神域の構成[編集]

主な構造物には、三日月形の聖池、ラムセス3世の後の神殿、ムト神殿、およびコンス・パ=ケレド神殿がある。さらに、そこには多くのより小さな構造物や祠堂だけでなく、ネクタネボ2世英語版(紀元前360-343年[6])の神殿、ハトシェプストトトメス3世の聖舟休息所、アメン=カムテフの聖所が周壁のすぐ外側に位置する[4]。カムテフ(Kamutef 「自らの母親の雄牛」)は[59]、ムトのもう1つの姿とされるハトホルの子となる太陽神である。後の神話において、カムテフはムトの相手役となり、夫ともされている。

正面入口から羊の頭をもつスフィンクスの参道が北におよそ400メートル延びており、アメン大神殿の第10塔門へと直接つながる。この参道は修復中である。また、入口から始まるもう1つのスフィンクス参道は250メートル西において、アメン大神殿のプトレマイオス3世エウエルゲテスの門とルクソール神殿を結ぶ延長3キロメートルのスフィンクス参道に達し合流する。

モンチュの神域[編集]

モンチュの神域

複合体のこの部分は、テーベの軍神モンチュに捧げられている[13]。神域はアメン大神殿の北に位置し、規模はかなり小さく[56]、その神域は150メートル四方であり[13]、およそ2万平方メートル(2ヘクタール)におよぶ。ほとんどの記念建造物は、あまりよく保存されていない[13]。一般には非公開である。

モンチュ神域の構成[編集]

モンチュの神域の主な構造物は、モンチュ神殿、ハルパラー神殿、マアト神殿、聖池、プトレマイオス3世エウエルゲテスプトレマイオス4世フィロパトル(紀元前221-205年[6])による記念門で[56]、それらはアメン大神殿内より容易に見られる最も目につく建造物である。この記念門は、バブ・エル=アブド (Bab el'Adb) とも呼ばれている[56]。この大きな記念碑的扉口は、都市のさらに北にあるメダムード英語版(古名マドゥ、カルナック神殿の北東5キロメートル[60])のモンチュの領域につながる通路に至る羨道 (dromos) および埠頭に先だって置かれていた。この門を抜けると、一方は第25王朝時代より始まる列柱で装飾された大きな中庭に至る。南には一連の扉口が、アメン大神殿の北側の部分に隣接したアメン神崇拝 (Divine Adoratrice of Amun) の保管庫の連なる構内に開かれていた。構内は泥レンガで築かれ、第30王朝のネクタネボにより修復された。

モンチュ神殿 - Temple of Montu

この神殿は、塔門、中庭、それに柱で満たされた室内をもつエジプト神殿の伝統的要素より構成されていた。神殿遺跡は、中王国時代の第11王朝[52]より続く聖域を建て直し、それをアメンに捧げた第18王朝のアメンホテプ3世の統治時代にさかのぼる。ラムセス2世が、前庭とそこに直立した2本のオベリスクを加えたことで、神殿の規模は増大した。構台をもつ広い中庭は、アメンホテプ1世治世の建造物の特徴である中庭に広がる多柱式建築に面している。至聖所の構成としては、礼拝の多様な保管室の役目を果たす4本の柱をもつ部屋と、神による神殿の前には聖舟の部屋が面するように造られていた。近隣のメダムードには、もう1つのモンチュ神殿 (Temple of Montu) があった。

マアト神殿 - Temple of Ma'at

マアトの神殿は、第20王朝末期にラムセス9世英語版(紀元前1126-1108年[6])のもと、王家の墓の盗掘が裁かれたその中庭が広く知られる。

ハルパラー神殿 - Temple of Harpre

ハルパラー神殿は、エジプト第29王朝英語版(紀元前399-380年[6])のハコル(紀元前393-380年[6])のもとで大部分が構築された。

アメンホテプ4世の神殿[編集]

この地域にあったアメンホテプ4世(アクエンアテン)が建造した神殿(アテン神殿[13])は、中心的複合体であるアメン大神殿の東、周壁の外側に位置していた[61]。その神殿は、アメンホテプ4世の統治前にエジプトを支配していた有力な神官を圧倒しようとした建造者アメンホテプの死後、直ちに破壊された。それはまさしく徹底的に取り壊されており、その完全な範囲や構成は現在のところ明らかでない。アメンホテプ4世が死ぬとすぐに神殿の神官は彼らの強権の地位に復帰し、数ある彼の存在の記録を破壊することに尽力した。

アメンホテプ4世の神殿にある構造物は、エジプトのファラオであるアクエンアテンが、まだ自身をアメンホテプ4世と称していた治世の初めの4年間にかけて用いられたが、それらはアメンホテプ3世の統治末期に構築されて、彼の息子である将来のアクエンアテンによって完成されたとも考えられる[62]

位置・構成[編集]

アメン大神殿の境界の外側、東に構築され、その複合体の主神殿はゲム・パ・アテン[61] (Gm–p3–itn) と名付けられ、それは「太陽円盤は神アテンの地で見つかる」を意味する。その他には、フゥト・ベンベン[61] (Hwt–bnbn) 「ベンベン石の館[63]」、ルゥド・メヌ[61] (Rwd–mnw–n–itn–r–nḥḥ) 「永遠に頑丈な太陽円盤記念物」、テニ・メヌ[61] (Tni–mnw–n–itn–r–nḥḥ) 「永遠に高貴な太陽円盤記念物」と名付けられたものがある。

これらの建造物の遺構はほとんど残っておらず、それらはタラタート英語版のブロックを用いて手早く築かれ、そのため簡単に取り壊されて、後の構造物の核として再利用された。

ゲム・パ・アテンより復元されたタラタート
ゲム・パ・アテン - Gempaaten

ゲム・パ・アテンは天井がなく、その供物台は直射日光にさらされたようである。この建造物(もしくはそれに関連付けられる)には、赤色花崗岩や砂岩のアクエンアテンの彫像、赤色花崗岩の供物台、アテンの名前が刻まれたスフィンクスなどその他の彫像があった。 そこはかなりの大きさ(130×216メートル)であったが、その土台がほとんどなくなるほど完全に破壊された[64]。それは泥レンガの構内に建てられ、東に向き、おそらく西に入口があって、四角い柱とアメンホテプ4世(アクエンアテン)やネフェルティティの巨大な像 (colossal statues) に囲まれた広い中庭に通じていた[65]

フゥト・ベンベン - Hwt benben

カルナック神殿の東に建てられたフゥト・ベンベンすなわち「ベンベン石の館」は、太陽崇拝に捧げられ、ゲム・パ・アテンと密接に結びついていた[66]

ルゥド・メヌ - Rud-menu
テニ・メヌ - Teni-menu

テニ・メヌは、自国品や貯蔵室を保持したと見られ、王家の住居であったとも考えられるが、その用途を明確にする十分な構造は残っていない[62]

テニ・メヌの壁は、主となるカルナック神殿の第9塔門に再使用された。それらはその後特定され、大きなパズルのように組み直されて、一部がルクソール博物館英語版に展示されている。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 古代エジプト神殿大百科 (2002)、155頁
  2. ^ a b c d 図説 古代エジプト2 (1998)、19頁
  3. ^ Merriam-Webster's Collegiate Dictionary, Eleventh Edition. Merriam-Webster, 2007. p. 1550
  4. ^ a b c d e f g h i j k 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、130-132頁
  5. ^ a b c 古代エジプト 王・神・墓 (2002)、34頁
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、599-607頁
  7. ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、344頁
  8. ^ a b c 磯崎新の建築談義 #1 (2001)、79頁
  9. ^ a b c 古代エジプト神殿大百科 (2002)、154頁
  10. ^ 古代エジプト神殿大百科 (2002)、48-50頁
  11. ^ a b エジプトの神々事典 (1997)、24-27頁
  12. ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、42-44頁、101頁
  13. ^ a b c d e f g h 『古代文明と遺跡の謎』 自由国民社〈総解説〉、1998年、67-69頁。ISBN 4-426-64007-5
  14. ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、559頁
  15. ^ 古代エジプト神殿大百科 (2002)、83頁
  16. ^ Stewert, Desmond and editors of the Newsweek Book Division "The Pyramids and Sphinx" 1971 pp. 60-62
  17. ^ a b c 古代エジプト神殿大百科 (2002)、59頁
  18. ^ a b 古代エジプトを知る事典 (2005)、304頁
  19. ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、102頁
  20. ^ 図説 古代エジプト2 (1998)、114頁
  21. ^ Peter Tyson (1999年3月16日). “The Unfinished Obelisk”. NOVA online adventure. WGBH Educational Foundation. 2013年6月2日閲覧。
  22. ^ Time Life Lost Civilizations series: Ramses II: Magnificence on the Nile (1993) pp. 53–54
  23. ^ a b 古代エジプト神殿大百科 (2002)、159頁
  24. ^ a b c d e 磯崎新の建築談義 #1 (2001)、82頁
  25. ^ a b c d 古代エジプト神殿大百科 (2002)、171頁
  26. ^ 古代エジプト神殿大百科 (2002)、95頁
  27. ^ a b 神秘の都・テーベ (1982)、16-17頁
  28. ^ a b 古代エジプト神殿大百科 (2002)、155-156頁
  29. ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、48頁
  30. ^ 神秘の都・テーベ (1982)、22-23頁
  31. ^ a b c 古代エジプト神殿大百科 (2002)、157頁
  32. ^ a b 図説 古代エジプト2 (1998)、21頁
  33. ^ ベルナデッド・ムニュー 『ラムセス2世』 吉村作治監修、南條郁子・福田ゆき訳、創元社〈「知の再発見」双書81〉、1999年、44頁。ISBN 4-422-21141-2
  34. ^ a b 古代エジプト神殿大百科 (2002)、158頁
  35. ^ 神秘の都・テーベ (1982)、24頁、27-28頁
  36. ^ William J. Murnane, 'The Bark of Amun on the Third Pylon at Karnak.' Journal of the American Research Center in Egypt 16 (1979) 11-27
  37. ^ a b 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、288頁
  38. ^ Brand (1999) pp.113-34
  39. ^ a b c 図説 古代エジプト2 (1998)、22頁
  40. ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、278頁
  41. ^ 古代エジプトを知る事典 (2005)、51頁
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  43. ^ 古代エジプト神殿大百科 (2002)、64頁
  44. ^ a b 古代エジプト神殿大百科 (2002)、160頁
  45. ^ a b c d e f 古代エジプト神殿大百科 (2002)、161頁
  46. ^ 古代エジプト 王・神・墓 (2002)、38頁
  47. ^ 古代エジプト神殿大百科 (2002)、73頁
  48. ^ 古代エジプトを知る事典 (2005)、217頁
  49. ^ 古代エジプト神殿大百科 (2002)、72頁、160頁
  50. ^ a b c 古代エジプト神殿大百科 (2002)、162頁
  51. ^ 古代エジプト神殿大百科 (2002)、161-162頁
  52. ^ a b 図説 古代エジプト2 (1998)、27頁
  53. ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、196頁、535頁
  54. ^ Weigall, 1996, p.111
  55. ^ 古代エジプト神殿大百科 (2002)、268頁
  56. ^ a b c d e 古代エジプト神殿大百科 (2002)、163頁
  57. ^ 図説 エジプトの神々事典 (1997)、263-265頁
  58. ^ 図説 エジプトの神々事典 (1997)、121頁
  59. ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、126頁
  60. ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、540頁
  61. ^ a b c d e 古代エジプト神殿大百科 (2002)、164頁
  62. ^ a b Thomas, Susanna. Akhenaten and Tutankhamen: the religious revolution. p. 41. 
  63. ^ 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、12頁
  64. ^ Blyth, 2006, p.121
  65. ^ Blyth, 2006, pp.121-122
  66. ^ Blyth, 2006, p.123

参考文献[編集]

  • 磯崎新 『磯崎新の建築談義 #01 カルナック神殿[エジプト時代]』 六耀社2001年ISBN 4-89737-394-8
  • イアン・ショー&ポール・ニコルソン 『大英博物館 古代エジプト百科事典』 内田杉彦訳、原書房1997年ISBN 4-562-02922-6
  • リチャード・H・ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 内田杉彦訳、東洋書林2002年ISBN 4-88721-580-9
  • ステファヌ・ロッシーニ、リュト・シュマン=アンテルム 『図説 エジプトの神々事典』 矢島文夫、吉田春美訳、河出書房新社1997年ISBN 4-309-22303-6
  • 仁田三夫 『古代エジプト 王・神・墓』 河出書房新社2002年ISBN 4-309-22387-7
  • 仁田三夫 『図説 古代エジプト2:王家の谷と神々の遺産篇』 河出書房新社、1998年ISBN 978-4-309-72578-9
  • 『エジプト5000年をゆく(2) 神秘の都・テーベ』 吉村作治監修、日本テレビ放送網〈NTVスペシャル〉、1982年
  • 『古代エジプトを知る事典』 吉村作治編著、東京堂出版2005年ISBN 4-490-10662-9
  • Peter J. Brand, 'Secondary Restorations in the Post-Amarna Period.' Journal of the American Research Center in Egypt 36 (1999)
  • Blyth, Elizabeth (2006). Karnak: Evolution of a Temple. Oxford: Routledge. ISBN 0-415-40487-8. 
  • Weigall, A.E.P. (1996) [1910]. A Guide To The Antiquities of Upper Egypt. Senate Books. ISBN 0-09-185047-9. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯25度43分7秒 東経32度39分27秒 / 北緯25.71861度 東経32.65750度 / 25.71861; 32.65750