小泉八雲

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小泉 八雲
Lafcadio Hearn portrait.jpg
小泉八雲(1889年頃)
誕生 パトリック・ラフカディオ・ハーン
1850年6月27日
ギリシャの旗 ギリシャ(当時はイギリス領)、レフカダ島
死没

1904年9月26日(満54歳没)
東京府豊多摩郡大久保村西大久保

(東京都新宿区大久保)
墓地 雑司ヶ谷霊園
職業 小説家
随筆家
民俗学者ほか
国籍 イギリスの旗 イギリス
日本の旗 日本
活動期間 1894年 - 1904年
代表作 骨董
怪談
配偶者 マティ・フォリー(1875年 - 1877年
小泉セツ(1891年 - 1904年
子供 小泉一雄(長男)
稲垣巌(次男)
小泉清(三男)
親族 小泉凡(曾孫)
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小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年明治37年)9月26日)は、ギリシャ出身の新聞記者(探訪記者)、紀行文作家随筆家小説家日本研究家東洋西洋の両方に生きたとも言われる[1]

出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn) 。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランド守護聖人聖パトリックに因んだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。

ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの[2]。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。HearnもしくはO'Hearnはアイルランド南部では比較的多い姓である。

1896年明治29年)に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗る[3]。「八雲」は、一時期島根県松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされる[4]

経歴[編集]

1850年、当時はイギリス領であったレフカダ島1864年にギリシャに編入)にて、イギリス軍医であったアイルランド人の父チャールス・ブッシュ・ハーンと、レフカダ島と同じイオニア諸島にあるキティラ島出身のギリシャ人の母ローザ・カシマティのもとに出生。生地レフカダ島からラフカディオというミドルネームが付いた。

父はアイルランド出身でプロテスタント・アングロ・アイリッシュである。イギリス軍の軍医少佐としてレフカダ島 (Lefkada) の町リュカディアに駐在中、キティラ島(イタリア語読みではセリゴ島)の裕福なギリシャ人名士の娘であるローザ・カシマティと結婚した。

1852年、両親とともに父の家があるダブリン移住し、幼少時代を同地で過ごす。

父が西インドに赴任中の1854年、精神を病んだ母がギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナン(家はレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート交差点)に厳格なカトリック文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになった。

フランスイギリスで教育を受けた後、1859年に渡米。得意のフランス語を活かし、20代前半からジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評を博す。

1890年(明治23年)、アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日。来日後に契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年結婚。

松江熊本神戸東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺した。日本では『雨月物語』『今昔物語』などに題材を採った再話文学で知られる。

1904年(明治37年)に狭心症で死去。満54歳没。彼が松江時代に居住していた住居は、1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。

ドナルド・キーンイザベラ・バードアーネスト・フェノロサヴェンセスラウ・デ・モラエスブルーノ・タウトアンドレ・マルロー等とならび、著名な日本日本文化紹介者の一人であり、日本人にとっても祖国の文化を顧る際の重要なよすがとなっている。

年譜[編集]

  • 1850年 - レフカダ島にて誕生。
  • 1852年 - ダブリンに移住。
  • 1854年 - 精神を病んだ母がギリシャのキティラ島へ帰国。
  • 1856年 - 父母が離婚し、父は再婚。
  • 1863年 - アショウ・カレッジに入学。フランス神学校に移るも帰国し、セント・カスバーツ校入学。
  • 1865年 - 寄宿学校で回転ブランコで遊んでいる最中にロープの結び目が左目に当たって怪我をし、隻眼となる(以後左目の色が右目とは異なって見えるようになり左を向いた写真ポーズを取るようになる)。
  • 1866年 - 父が西インドから帰国途中に病死。大叔母は破産した。
  • 1867年 - セント・カスバーツ校退学、ロンドンに行く。
  • 1869年 - リヴァプールからアメリカ合衆国ニューヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く。
  • 1872年 - トレード・リスト紙の副主筆。
  • 1874年 - インクワイアラー社に入社。マティ・フォリーと結婚[5]オハイオ州では当時違法だった黒人との結婚で、正式な届け出が受理された形跡はない[6]。結婚式は最初に頼んだ牧師から拒絶され、次に依頼した黒人牧師が司式した[5]
  • 1875年 - マティとの結婚も一因となり、インクワイアラー社を退社[7]
  • 1876年 - インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社。
  • 1877年 - 離婚、シンシナティの公害による目への悪影響を避け、ニューオーリンズへ行く。
  • 1879年 - アイテム社の編集助手。食堂「不景気屋」を経営するも失敗。
  • 1882年 - アイテム社退社、タイムズ・デモクラット社の文芸部長になる。この時期の彼の主な記事はニューオーリンズのクレオール文化、ブードゥー教など。
  • 1884年 - ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で大日本帝国農商務省服部一三に会う。
  • 1887年 - 1889年 - フランス領西インド諸島マルティニーク島に旅行。
  • 1890年 - ネリー・ブライと世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカでのハーンの公式伝記の著者)から旅行の帰国報告を受けた際に、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞き、ハーンが生涯を通し憧れ続けた美女でもあり、かつ年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの発言に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意する。
  • 1891年
    • 1月 - 中学教頭西田千太郎のすすめで、松江の士族小泉湊の娘・小泉セツ(1868年2月4日 - 1932年2月18日)と結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(1940年、国の史跡に指定)。
    • 11月、熊本市第五高等学校熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師となる。長男・一雄誕生。熊本転居当時の家は保存会が解体修理を行い、小泉八雲熊本旧宅として復原され、熊本市指定の文化財とされた。
  • 1894年 - 神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
  • 1896年 - 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。日本に帰化し「小泉八雲」と名乗る。秋に牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居する(1902年の春まで在住)。
雑司ヶ谷霊園の墓

評価についての論争[編集]

東京帝国大学名誉教師となった日本研究者でハーンとも交友があったバジル・ホール・チェンバレンは、ハーンは幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅したとした。

ハーン研究者でもある比較文学者の平川祐弘はチェンバレンの説に反対して、ハーンは日本を愛し暖かい心で日本を描いたとした。しかしやはり比較文学者の太田雄三はこれに対し、『B・H・チェンバレン』(リブロポート)や『ラフカディオ・ハーン』(岩波新書)の書中で反論した。また、『神々の国の首都』を書いたハーンが、明治期天皇制を日本古来のものと勘違いしたと指摘する者もいる(福間良明『辺境に写る日本』)。

また、平川・太田と同じ研究室(東大大学院・比較文学比較文化)出身の小谷野敦は著書『東大駒場学派物語』において、近年のハーン肯定論者の多くが同研究室の関係者であることを指摘している。

平川も『ラフカディオ・ハーン』(ミネルヴァ書房)で、ハーンの筆致に一部誇張があったことを認めているが、現代の日本での支持は高い。三島由紀夫等も、川端康成との書簡の中でしばしば、引用している。

1904年の著作『Japan-An Attempt at Interpretation』は、太平洋戦争中、アメリカの対日本心理戦に重要な役割を果たしたとされる。当時のアメリカ軍准将であり、ダグラス・マッカーサーの軍事書記官・心理戦のチーフであったボナー・フェラーズ英語版は、当時のアメリカが利用できる、日本人の心理を理解するための最高の本であったと述べたという[8]

エピソード[編集]

  • 16歳のときに怪我で左眼を失明して隻眼となって以降、白濁した左目を嫌悪し、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっている。
  • アメリカで新聞記者をしていたとき、「オールド・セミコロン(古風な句読点)」というニックネームをつけられたことがある[9]。句読点一つであっても一切手を加えさせないというほど自分の文章にこだわりを持っていたことを指している。
  • 英語教師としては、よく学生に作文をさせた。優秀な学生には賞品として、自腹で用意した英語の本をプレゼントしていた。
  • アメリカ在住中に勤勉が習い性になり、日本では学校教育の傍ら14年間に13冊の本を書いた[10]
  • 日本名「八雲」については「音読みにするとハウンになる」こととの関連を指摘されることが多い。この説は古くからあったようで、教え子の田部隆次は早稲田大学の委嘱で書いた伝記「小泉八雲〜ラフカディオ・ヘルン〜」の中でわざわざ「八雲はハウンに通じるという考えは少しもなかった」と明記している。
  • 教え子の浅野和三郎第一次大本事件の陳弁書でハーンの印象を回想している[11]

たゞ見る身材五尺ばかりの小丈夫、身に灰色のセビロをつけ、折襟のフランネルの襯衣に、細き黒きネクタイを無造作に結びつけたり。顔は銅色、鼻はやゝ高く狭く、薄き口髭ありて愛くるしく緊まれる唇辺を半ば蔽ひ、顎やゝ尖り、額やゝ広く、黒褐色の濃き頭髪には少しく白を混へたり。されど最も不思議なるは其眼なり。右も左を度を過ぎて広く開き、高く突き出で、而して其左眼には白き膜かゝりてギロギロと動く時は一種の怪気なきにしもあらず。されど曇らぬ右眼は寧ろやさしき色を帯びたり。』『やがて胸のポケットより虫眼鏡様の一近眼鏡をとり出て、之をその明きたる一眼に当てゝ、やゝさびしく、やゝ羞色あり、されど甚だなつかしき微笑を唇辺に浮べつゝ、余等の顔を一瞥されし時は、事の意外に一種滑稽の感を起さゞるを得ざりき。突如その唇よりは朗かなれど鋭くはあらぬ音声迸り出でぬ。英文学史の講義は始まれる也。出づる言葉に露よどみたる所なく、洵に整然として珠玉をなし、既にして興動き、熱加はり、滔々として数千語、身辺風を生じ、坐右幽玄の別乾坤を現出するに及びて、余等は全然その魔力の為めに魅せられぬ。爾来三年の間余は一回としてその講義に列するを以て最大の愉快と思はざるはなかりき。(原文まま)[12]

  • 英文学者から宗教家、心霊研究家へと転身した浅野は「自分は二十余年前の当時を回顧して見ると、小泉師の講堂丈にはモ一度入つて聴講したいやうな気分がする」と回顧する[13]。『英文学史』の中ではハーンについて「其真実の籍は米国にもあらず、又日本にもああらずして、美文の世界に在り」と記した[13]
  • 内ヶ崎作三郎(衆議院副議長)は田部隆次著『小泉八雲』に序文「小泉八雲先生を懐ふ」を寄せ、この中で「されど先生の清く澄んだ歌ふがごとき声がかすかに微笑を湛ゆる口辺より洩るるを聞く時は、その事自身が一種の魔力であった」と述べて浅野と同じく“魔力”の表現を使った[14]
  • 西田幾太郎も田部のハーン伝記序文で「ヘルン氏は万象の背後に心霊の活動を見るといふ様な一種深い神秘思想を抱いた文学者であつた。かれは我々の単純なる感覚や感情の奥に過去幾千年来の生の脈搏を感じたのみならず、肉体的表現の一々の上にも祖先以来幾世の霊の活動を見た。(中略)氏の眼には、この世界は固定せる物体の世界ではない、過去の過去から未来の未来に亙る霊的進化の世界である。」と述べ、ハーンの神秘主義を指摘している[15]
  • 田部隆次の弟・田部重治は兄からハーンの逸話を聞き、「英文学界そぞろ歩き」(『英語青年』1967年9月号)として発表した[13]。それによれば、ハーンは学生に題名を与えて感想・随筆の懸賞を行い、受賞者には文学全集を与えた[13]。田部、浅野、大谷正信戸沢正保達が受賞したという[13]
  • 東京帝国大学では学生の信望が厚く、解任のときは激しい留任運動が起きた。川田順は「ヘルン先生のいない文科で学ぶことはない」といって法科に転科した。後年この話の真偽を尋ねられた川田はそれが事実であると答え、後任の夏目漱石についても「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」と言った。
  • 私生活では三男一女をもうけ、長男にはアメリカで教育を受けさせたいと考え自ら熱心に英語を教えていた。
  • 非常に筆まめであり、避暑で自宅を離れている間、あとに残った妻セツに毎日書き送った手紙が数多く残されている。ハーンは日本語がわからず妻は英語がわからないため、それらは夫妻の間だけで通じる特殊な仮名言葉で書かれている。
  • 妻セツは日本語が読めない夫のリクエストに応じて日本の民話・伝説を語り聞かせるため、普段からそれらの資料収集に努めた。彼女以外の家族・使用人・近隣住民、また旅先で出会った人々の話を題材にした作品も多い。
  • 著作の原稿料にはこだわっていたが貯蓄にまったく関心がなく、亡くなった当時小泉家には遺産となるものがほとんど残っていなかった。当時小泉家には妻の親類縁者が多く同居しており、著述業と英語教師としての収入はほぼ全額彼らの生活費に充てられていた。
  • もともと強度の近視であったが、さらに晩年は右目の視力も衰え、高さが98センチもある机を使用して紙を目に近づけランプの光を明るくして執筆を行った。
  • コオロギの一種クサヒバリの鳴き声の美しさを讃えた。
  • 八雲生誕の、ギリシャレフカダ島の詩人公園には、日本の松江と新宿から贈られた八雲の像がある。
  • 八雲の縁で、レフカダ(出生の地)と新宿区(終焉の地)、ニューオーリンズ市と松江市がそれぞれ姉妹都市になっている[16]
  • 熊本では、家(第二旧居)から人力車で現在の子飼商店街を通り抜けて旧制五校に通っていた。これにちなんで、第二旧居から子飼商店街の入口までは、「八雲通り」と名づけられた[17]

家族・親族[編集]

系譜[編集]

小泉家
『列士録』によれば、初代の小泉弥右衛門は「本国近江(現在の滋賀県)、生国因幡(現在の鳥取県)」のだった。はじめ、讃岐丸亀藩四万五千石の藩主である山崎治頼に仕えて家老を務めていた。しかし明暦3年(1657年)、山崎治頼が嗣子なくして没して除封となり、代わってかつての松江城の主・京極忠高の甥にして養子の高和が入封するに及んで、弥右衛門は丸亀を去って江戸(現在の東京)に出た。翌年の万治元年(1658年)、弥右衛門は、江戸で出雲松平家の祖である松平直政に召抱えられ、初めは使番(つかいばん)、後に二十名の徒(足軽)を統率する者頭(ものがしら)を務めた。その後、小泉家は二代目弥右衛門が五十人の士分の侍を統率する番頭(ばんがしら)を務めて以来、代々セツの父・八代目弥右衛門に至るまで、一定期間者頭ないしそれに準じた役職を務めた後、番頭(ばんがしら)に進んでおり、また、嫡子には家督相続と同時に組外(くみはずれ)という格式が与えられている。この格式は、直接ほかの侍の采配下に入らないことを意味し、『雲藩職制』の編者が「一国中の貴族」と表現した上士に限って与えられた待遇だった。ただし家禄は、一雄や田部隆次が記した五百石は誤りと見做すべきで、『代々御給帳』・『列士録』・『旧藩事蹟』等古文書は一致して300石だったことを示している。小泉八雲・セツ夫妻の孫に小泉時(エッセイスト、2009年7月8日死去)、小泉閏、稲垣明男、種市八重子、佐々木京子、曾孫に小泉凡(学者、島根県立島根女子短期大学准教授)がいる。
(前代略)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千家俊秀
(76代出雲国造
千家俊信
 
 
 
 
 
 
尊之
(77代出雲国造)
 
 
 
 
 
小泉真種
 
乙部次郎兵衛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尊孫
(78代出雲国造)
塩見増右衛門
 
 
 
 
 
小泉岩苔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尊澄
(79代出雲国造)
チエ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尊福
(80代出雲国造)
尊紀
(81代出雲国造)
セツ
 
 
 
小泉八雲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(後代略)

記念館・資料館など[編集]

作品[編集]

Category:小泉八雲も参照のこと。

来日以前の著作[編集]

  • 飛花落葉集 (Stray Leaves from Strange Literature) 1884年
  • ゴンボ・ゼーブ ("Gombo Zhèbes") 1885年
  • クレオール料理 (La Cuisine Creole: A Collection of Culinary Recipes) 1885年
  • 中国怪談集 (Some Chinese Ghosts) 1887年
  • チータ (Chita: A Memory of Last Island) 1889年
  • ユーマ (Youma, the Story of a West-Indian Slave) 1890年
  • 仏領西インドの二年間 (Two Years in the French West Indies) 1890年

来日後の著作[編集]

ちりめん本[編集]

長谷川武次郎が刊行した日本昔噺シリーズ (Japanese Fairy Tale) のうち、5作品が八雲によるもの。

  • 猫を描いた少年 (The boy who drew cats) 1898年
  • 化け蜘蛛 (The goblin spider) 1899年
  • 団子をなくしたお婆さん (The old woman who lost her dumpling) 1902年
  • ちんちん小袴 (Chin Chin Kobakama) 1903年
  • 若返りの泉 (The Fountain of Youth) 1922年

著作集[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 平川祐弘 『小泉八雲とカミガミの世界』 文藝春秋、1988年、132頁。
  2. ^ 一般的には本人が「サギ」(heron)と発音が似ていたから気に入ったとされる。
  3. ^ 小泉八雲(こいずみ やくも)(文京区)
  4. ^ 『増補新版文学アルバム小泉八雲』 小泉時・小泉凡、恒文社、2008年、105頁。セツの養祖父・稲垣万右衛門が『古事記』にある日本最古の和歌からとって名付けた、とある。
  5. ^ a b 工藤美代子『夢の途上 ラフカディオ・ハーンの生涯【アメリカ編】』集英社、1997年、p.55
  6. ^ 工藤、1997年、p.35
  7. ^ 工藤、1997年、p.58
  8. ^ John W.Dower,Embracing Defeat,1999,page280-281、ジョン・ダワー、「敗北を抱きしめて」、岩波書店、2001年、下巻、8ページ
  9. ^ 『増補新版文学アルバム小泉八雲』 小泉時・小泉凡、恒文社、2008年、51頁。
  10. ^ 平川祐弘 『小泉八雲とカミガミの世界』 文藝春秋、1988年、126頁。
  11. ^ #神の罠22頁
  12. ^ #神の罠24-25頁
  13. ^ a b c d e #神の罠51-53頁
  14. ^ #神の罠21-22.26頁
  15. ^ #神の罠27頁
  16. ^ 姉妹提携情報 - 自治体国際化協会
  17. ^ 熊本日日新聞1998年5月25日夕刊8面、ガイド付きさるく / 熊本国際観光コンベンション協会
  18. ^ ハーンの"A Living God"を児童向けに翻訳・再構成したのが「稲むらの火」である。 稲むらの火 気象庁の地震・津波に関する広報資料の紹介

参考文献[編集]

親族による伝記[編集]

  • 小泉一雄『父小泉八雲』小山書店、1950年
  • 小泉節子 / 小泉一雄 『小泉八雲 思い出の記・父「八雲」を憶う』、恒文社、1976年2月。
  • 小泉時『ヘルンと私』恒文社、1990年
  • 小泉時・小泉凡編『文学アルバム小泉八雲』、恒文社、2000年4月。ISBN 4-7704-1016-6
  • 小泉凡『民俗学者・小泉八雲―日本時代の活動から』恒文社、1995年

その他[編集]

  • 梅本順子監修・解説『西洋人たちの語ったラフカディオ・ハーン: 初期英文伝記集成』復刻集成全4巻+別冊解説、エディション・シナプス、2008年12月。ISBN 978-4-86166-102-0
  • 太田雄三『ラフカディオ・ハーン―虚像と実像』(『岩波新書』新赤版336)、岩波書店、1994年5月。ISBN 4-00-430336-2
  • 工藤美代子『夢の途上 ラフカディオ・ハーンの生涯<アメリカ編>』、集英社、1997年2月。ISBN 4-08-774247-4 (ランダムハウス講談社文庫、2008年)
  • 工藤美代子『聖霊の島 ラフカディオ・ハーンの生涯<ヨーロッパ編>』、集英社、1999年10月。ISBN 4-08-774431-0 (ランダムハウス講談社文庫、2008年)
  • 工藤美代子『神々の国 ラフカディオ・ハーンの生涯<日本編>』、集英社、2003年4月。ISBN 4-08-774643-7 (ランダムハウス講談社文庫、2008年)
  • ジョナサン・コット(真崎義博訳)『さまよう魂―ラフカディオ・ハーンの遍歴』、文藝春秋、1994年3月。ISBN 4-16-348890-1
  • エリザベス・スティーブンスン / 遠田勝訳『評伝ラフカディオ・ハーン』恒文社、1984年
  • 田部隆次『小泉八雲』早稲田大学出版部、1914年
  • 西川盛雄 / アラン・ローゼン共編(平井呈一訳・小泉凡挿し絵)『対訳小泉八雲作品抄』、恒文社、1998年9月。ISBN 4-7704-0984-2
  • 平川祐弘『ラフカディオ・ハーン 植民地化・キリスト教化・文明開化』(<MINERVA歴史・文化ライブラリー3>)、ミネルヴァ書房、2004年3月。ISBN 4-623-04044-5
  • 牧野陽子『ラフカディオ・ハーン 異文化体験の果てに』(『中公新書』1056)1992年1月。ISBN 4-12-101056-6
  • 松本健一 『神の罠 浅野和三郎、近代知性の悲劇』 新潮社、1989年10月。ISBN 4-10-368402-x
  • 山田和夫「ハーンの太平洋横断と「雪女」」、『英米文学・英米文化試論:太平洋横断アメリカン・スタディーズの視座から』(成田興史編、晃学出版、2007、ISBN978-4-903742-02-1)所収 69-86
  • 平川祐弘監修『小泉八雲辞典』恒文社、2000、ISBN978-4-770410-24-5

関連項目[編集]

外部リンク[編集]