いしかわじゅん

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

画像:Logo serie manga.png
ウィキポータル
漫画作品日本
漫画家日本
漫画原作者
漫画雑誌
カテゴリ
漫画作品
漫画 - 漫画家
プロジェクト
漫画作品 - 漫画家
漫画雑誌

いしかわじゅん(本名:石川潤、1951年2月15日 - )は、日本の男性漫画家小説家漫画評論家

父親は元愛知県県議会議員(民社党)。母方の祖父は、庭師で、茶道と華道の師範もしていたという。

漫画家の藤臣柊子は元妻。いしかわは藤臣と離婚後、編集者の妻と再婚している。また、藤臣との結婚のさらに前の妻との間に娘がいて、シカゴの美大に行っているという。

目次

人物・経歴

愛知県豊田市出身。愛知県立豊田西高等学校明治大学商学部卒(在学中に漫画研究会に所属。先輩として三学年上にかわぐちかいじ、二学年上にほんまりうがいた。また、山田詠美も漫研の後輩で、すでにプロになっていたいしかわは、当時は漫画家志望だった彼女を、高取英編集長の『漫画エロジェニカ』に紹介して漫画家デビューさせた)。

大学卒業後、1975年、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)に入社し豊田市に帰る。生産管理部に配属されるが、翌年2月に退社。再度上京して、吉祥寺に住む。同年8月に漫画家としてデビューする。

知的なギャグ漫画と、叙情的な恋愛漫画、業界物漫画などを得意とする。また、漫画評論、エッセイ、小説なども発表している。

NHK-BS2で不定期放送中の『BSマンガ夜話』レギュラーメンバー。近年は、この番組への出演と、パソコン・エッセイ『だってサルなんだもん』で、もっともよく知られている。

アシスタント出身の漫画家に原律子片山まさゆきはだみちとし若林健次中村光信などがいる。なお、よく誤認されているが内田春菊の漫画家デビューの助けにはなっているがアシスタントではない。その経緯は、実録漫画「フロムK」に詳しい。

漫画家が多く住む、吉祥寺に学生時代の1972年から在住していて、仕事場も吉祥寺。若い時代は、伝説の飲み屋兼ライブハウス、「ぐわらん堂」の常連でもあり、高田渡らとも交際があった。また、国分寺の「ほんやら洞」にもしばしば通い、店長の中山ラビと親しくなった(なお、いしかわの作品『蘭丸ロック』の主人公のいきつけの店の店主は、中山がモデル)。

漫画家らしからぬ、社交的な性格であり、交友範囲は非常に広く、また「自分の気に入った新人漫画家を自宅に招く」などの癖があった。そこで知り合った、マディ上原原律子は結婚した(のち、離婚)。

プロレス好きとしても知られる。

また、沖縄が好きで、しばしば沖縄を訪れて、趣味のダイビングをしている。那覇に「支店」と称する、仕事場兼の別荘も所有している。

歯に衣着せぬ物言いが多いことでも知られ、かつて、いしかわと同じニューウェイブに属した漫画家の柴門ふみが、「心理的に高度な内容は活字でないと表せない」とエッセイにおいて発言した際、「それはあなた(柴門)の、漫画家としての力量の問題で、漫画を小説の下に置くような発言は許せない」と、痛烈に批判した。

作品

漫画

  • 『ドラゴン・ブギ』 1979年9月 奇想天外社
  • 『憂国』 1980年3月10日 けいせい出版
  • 『蘭丸ロック』(1)(2) 1980年11月、12月 大都社
  • 『かんぱりソーダ』 1981年2月 朝日ソノラマ
  • 『約束の地』 1981年8月 講談社
  • 『至福の街』 1981年11月 奇想天外社
  • 『スキャンダル通信』 1982年2月 講談社
  • 『ぱわふる探検隊』 1982年2月 双葉社
  • 『テクノ・シャポー』 1982年10月 双葉社
  • 『スキャンダル倶楽部』 1983年2月 講談社
  • 『それゆけ!山道山』 1983年3月 実業之日本社
  • 『ちゃんどら』 1983年4月 双葉社
  • 『ドドンパ主義』 1983年6月 立風書房
  • 『メンカー』 1983年7月 立風書房
  • 『スーパー八宝菜』 1983年11月 徳間書店
  • 『さあこい!山道山』 1983年12月 徳間書店
  • 『アンバランス街』 1983年12月 竹書房
  • 『あかねちゃんスペシャル』 1984年1月 徳間書店
  • 『猿丸ラスタマン』 1984年3月 双葉社
  • 『キリコ特急』(1)~(5) 1984年8月~1986年9月 少年画報社
  • 『なんだかみゆきちゃん』 1984年9月 徳間書店
  • 『寒い朝』 1984年12月 双葉社
  • 『うえぽん』(1)(2)(3) 1985年8月~1988年12月 白泉社
  • 『アトミック街』(1)(2) 1985年9月~1986年2月 秋田書店
  • 『PUNK DRAGON』 1985年11月 JICC出版局
  • 『至福の街』 1985年12月 双葉社
  • 『僕達のサヨナラ・感電タウン』 1986年8月19日 双葉社
  • 『スノウ外伝』 1987年3月 白泉社
  • 『アドリブ白書』 1987年9月 白泉社
  • 『続アドリブ白書』 1987年10月 白泉社
  • 『ちゃんどらの逆襲』 1987年11月 双葉社
  • 『東京でサヨナラ』 1988年7月 河出書房新社
  • 『ドラゴン式』 1988年11月 双葉社
  • 『続ドラゴン式』 1988年12月 双葉社
  • フロムK』(1)(2) 1989年8月,9月 双葉社
  • 『東京物語』(1)~(10) 1989年12月~1993年11月 集英社
  • 『約束の地・憂国』 1990年11月 新潮社
  • 『パンクドラゴン大全』(1)~(3) 1991年7月~1992年3月 双葉社
  • 『薔薇の木に薔薇の花咲く』(1) 1991年12月 光文社
  • 『父(パパ)のタマシイ』 1994年5月 ぶんか社
  • 『イエローカードに気をつけろ!』(1) 1995年3月22日 集英社
  • 『THE ADLIB REPORT』英語版 1995年9月 (株)ディーエイチシー
  • 『薔薇の木に薔薇の花咲く』(1)~(3) 2000年4月30日 扶桑社文庫

小説

大森望は『吉祥寺探偵局』の文庫版の解説を書き、小説家としてのいしかわじゅんを、高く評価した。
  • 吉祥寺探偵局』 1987年2月 講談社
  • 『東京で会おう(文庫)』 1991年7月 角川書店
  • 『ロンドンで会おう(文庫)』 1991年9月 角川書店
  • 『瓶詰めの街』 1994年3月 角川書店

コラム・評論

  • プロレス大好き!』 1983年1月 広済堂出版
  • 『吉祥寺気分』 1986年7月 双葉社
  • 『ガールフレンズ』 1987年1月 CBS・ソニー出版
  • 『だってサルなんだもん』(1)~(8) 1994年11月~2001年6月 アスペクト(アスキー)
  • 『漫画の時間』 1995年11月 晶文社
  • 『漫画の時間』韓国語版 1997年4月
  • 『鉄槌!』 2000年9月 角川書店
  • 『秘密の手帖』 2002年5月 角川書店(のちに『業界の濃い人』に改題)
  • 『だサル―コンピューター魔道篇』 2002年9月 アスキー
  • 『いしかわ式』2004年3月 アスキー
  • 『いしかわ世界紀行』 2005年9月 毎日新聞社
  • 『漫画ノート』 2008年1月 バジリコ
  • 『秘密の本棚―漫画と、漫画の周辺』 2009年5月 小学館クリエイティブ

キャラクターデザイン

映画出演

漫画評論家としての概要

現在のいしかわの活動は漫画評論を中心とした文筆業が中心となっており、漫画家としての活動は影を潜めている。

野性時代』などでの小説執筆、『週刊宝石』での漫画評論など、彼の文筆業は余技として始まっている。『週刊漫画アクション』に(1987年より約2年間)連載されたエッセイ漫画「フロムK」の(業界内における)ヒットと前後して、いしかわに漫画批評やコラムの依頼が増えていき、漫画家としての活動は徐々に縮小していった。

1995年には、さまざまな雑誌に掲載された漫画評論を再構成した『漫画の時間』(晶文社)を上梓。それまでの小難しい漫画評論集とは違う読みやすい文体と100本近い作品を紹介したボリュームのある内容が評判を呼び漫画評論集としては異例のベストセラーを記録した。

そして、1996年にはNHK-BS2にてBSマンガ夜話がスタート。いしかわはパネラーの一人として出演、その辛口な批評に対しては賛否両論ある。また番組での不用意な発言が元で漫画家から抗議される事件もあった。

番組内でゲストの一条ゆかりに「元漫画家」と揶揄される(但し二人の仲が悪いわけではない)ほど、文筆活動が大半を占めるようになったいしかわであったが、本人には漫画家としての自覚は強く、あくまで漫画家として評論活動を行っているため、そのスタンスに批判が挙がることも多い(下記の『漫画家としての評価』に詳しい)。

2008年には『漫画の時間』の続編にあたる漫画評論集『漫画ノート』を上梓。

また、手塚治虫文化賞選考委員を第1回(1997年)から第12回(2008年)までつとめた。

漫画家としての評価

基本的にはギャグ漫画であり、ページ数の少ない埋め草的作品が多い。下ネタも好きである。初期の活躍は主として二流ないし三流劇画誌である。三流劇画ムーブメントの際には『劇画エロジェニカ』に「憂国」(金沢明子原理主義者がプロレタリア革命モドキを引き起こすが、最終局面で彼女の写真を初めて見て、落胆の余りに革命は混乱に陥る)を連載し、ギャグ漫画のスタイルのままにシリアスな長編を書いた。その流れの延長に『ヤングマガジン』というメジャー誌に連載した「約束の地」(なぜかそこいら中を耕したくなる「農夫病」の蔓延によって世界は美しい農地になる)がある。

三流劇画誌卒業後は漫画雑誌よりも一般週刊誌など活字媒体での活動(コラムや小説の挿絵描き含む)が主となった。結果、作品がいわゆる漫画読みの目に触れる機会はさらに減った。文筆業へのシフトが始まったのも掲載誌の人脈によるものである。

いしかわじゅんの漫画家としての評価は二分している為、先鋭的な作家として評価されていた時期をリアルタイムで知らない世代のような、漫画作品に対して低い評価を与えている人達から、自分の実力や作品の質を顧みずに、他者の傑作漫画やその作者を偉そうに批評してるという批判を多く向けられている。

これには現在多くの代表作が絶版になっていることや、時代の色が濃いギャグや題材が多いため、後の読者には理解されにくい作品が多いことも、漫画作品に対する評価が低くなる理由の一つと考えられる。また、いしかわが自身の「知性」に過剰に自信を持っているため、知的でない「大衆的な」漫画家や読者が存在することに対する、想像力が欠けているように見られることもも、反感をかっている理由と思われる。

また、業界物漫画『フロムK』は、本人は「エッセイ漫画の先駆」として自負があり、80年代の「エッセイ漫画」というジャンル誕生にあたって、夏目房之介まついなつき内田春菊さくらももこ西原理恵子らと共に大きな役割を果たした。

なお『フロムK』を執筆していたころは超能力を信じていて(現在の心境は不明)、超能力を信じないSF作家の川又千秋と論争になっていたという。

エピソード

吾妻ひでお

1970年代は、吾妻ひでおとファン層がかさなっており、作品内で吾妻ひでおと「抗争」があった。

いしかわは吾妻作品について「足の大きさは醜いと言ってもいいくらいだ」と書き(いしかわじゅんの人物は足がごく小さい)、吾妻は「月並みでない、臭くないギャグ」と評した。この一連の抗争を本気のものだと勘違いしていたファンもいたが、実際はお互いの漫画の中でエール交換をし合っていたというのが実状のようだ。この状況を手塚治虫が自作「七色いんこ」でパロディにしており、いしかわ扮するヒゲを生やしたPTA会長の女性が吾妻扮する校長先生とキスを交わし結婚するというエピソードを描き、コアな読者を爆笑させた。

いしかわと吾妻は高信太郎によって、「リトル・メジャー」(いしかわ)、「ビッグ・マイナー」(吾妻)と評された。

『漫画ノート』に収録されている、『失踪日記』発表後の吾妻ひでおへのインタビューで、自身も「デビュー10年目ごろに、ギャグ漫画を描き続けることに行き詰まり」、仕事を整理して、香港やロンドンを数ヶ月訪問、その後、1年半ほど仕事をしなかったと、語っている。

関川夏央と狩撫麻礼

また、漫画原作者の関川夏央狩撫麻礼とも、70年代から80年代にかけて交流があり、関川は「セキカワ教授」「山道山」「スノウ」など多数のキャラで、狩撫は「風博士」(元ネタは坂口安吾の作品のキャラクター)として、いしかわの漫画に登場していた。

だが、エッセイ漫画「フロムK」で、狩撫を「漫画業界のパーティでは(自分の漫画の)風博士の真似をする」「パーティでは、かならず途中で機嫌を悪くして帰ってしまう。パーティが嫌いなら最初から来なければいいのに」と描写したのが狩撫の意に沿わず、その返答として同じ雑誌掲載の「ボーダー」(狩撫が原作担当)に、いしかわと関川を揶揄した番外編(90話に相当するが単行本未収録)が描かれた。これが決め手となり、狩撫との友情は途絶えた。また、関川と狩撫も不和となったという。

ビッグホリデー裁判

いしかわが友人とスキー旅行に出かけたところ、乗っていった車が動かなくなってしまった。そこで、ビッグホリデー社のスキーバスで帰ることにしたところ、途中でトイレ休憩に降りた際、バスが彼等を置き去りにして出発していた。吹雪の中必死で、自力でそのバスに追いついたのだが、スキーバス側からはお詫びの言葉もなかった。

そのため、そのエピソードを、会社名まで明示して、当時連載していたエッセイ漫画「フロムK」に描いたところ、内容証明郵便ビッグホリデーから届き、謝罪するよう求められ、応じなかったため「名誉毀損」の裁判の被告人となった。 裁判の結果は勝訴したが、いしかわ側に得はなく、弁護士料200万円を費やしたのみであった。

この裁判の経緯は、いくつかの雑誌で連載したが、連載する雑誌がことごとく廃刊になるなどした後、ようやく刊行された著書『鉄槌!』に、まとめらている。

週刊プロレスとの論争

1990年にメガネスーパーが設立したプロレス団体SWSに対し、週刊プロレスは「金権プロレス」と揶揄し批判記事を展開していた。 それに対しいしかわは「記事が偏向ぎみで、正しいジャーナリズムやマスコミの姿勢とは思えない」と自身の作品で批判した。

この批判に対し、週プロの編集者であった鈴木健が誌面で反論すると、会場内でいしかわに顎を掴んで凄まれるという事件が起きた。 これにより、同誌面での論争に発展していくこととなる。 いしかわは週プロ誌面に「卑怯者の君たちへ答える」と題した文章を寄稿するも、当時の編集長であったターザン山本はこれに対し論理的な回答を示せず一方的に議論を終結、いしかわもそれ以上に深追いすることもなく、そのまま論争はフェードアウトしていく形となった。

またこの論争については、エンターブレインより刊行された『生前追悼ターザン山本!』にて、いしかわの口から詳しく語られている。

関連項目

外部リンク