SWS

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SWS(エスダブリューエス、メガネスーパー・ワールド・スポーツ、1990年 - 1992年)は、メガネスーパーがスポンサーとなり、天龍源一郎を核に全日本プロレス新日本プロレスなどから選手を集めて作られたプロレス団体である。団体のシンボルマークは恐竜。

目次

[編集] 概要

豊富な資金を元に既存プロレス団体から選手を引き抜くなど、「黒船」としてプロレス界に激震を引き起こした。それまでのプロレス団体とは違い、選手にかなりの高給を支払っていたことでも知られる。特にトップの天龍は、当時トップクラスのプロ野球選手並みの年俸だったとも言われる。

旗揚げ戦は、1990年9月29日、天龍の出身地である福井県福井市体育館にて『越前闘会始』のタイトルでプレ旗揚げ戦が行われ、同年10月9日10月10日の2日間、神奈川県横浜アリーナにて『闘会始'90』のタイトルで正式な旗揚げ戦が行われた。旗揚げ戦はテレビ中継され、木村匡也がラジオのDJ口調で実況した。1991年3月から1992年3月までWOWOWが月1回のペースで放映した。

相撲にちなんだ部屋別制度を採用、この部屋同士の対抗戦をカード編成の主体とした。部屋として、天龍源一郎率いる"レボリューション"、若松市政率いる"道場「檄」"、ジョージ高野率いる"パライストラ"の3つが置かれた。

しかし、その部屋別制度が派閥争いを招き、事実上の単独エースである天龍率いるレボリューションと、それ以外の部屋とで主導権争いが生じた。他にも、北尾光司の八百長発言などトラブルが続き、さらには興行の不振など、さまざまな問題から短期間で崩壊を迎えてしまう。

崩壊後は、引き続きメガネスーパーが一定期間スポンサーとなることを条件に、天龍を中心とした"レボリューション"所属選手主体のWARと、反天龍派の"道場「檄」""パライストラ"所属選手主体のNOWの2つに分立した。

団体としては短期間で崩壊してしまったが、低料金での道場マッチの開催や、WWF(現WWE)との提携でWWFのスター選手を招聘するなど、その存在意義は大きかったと思われる。

[編集] 他団体への影響

当時ジャンボ鶴田と並ぶ2枚看板の天龍をはじめ、中堅選手を多く引き抜かれた全日本プロレスは、一時崩壊の噂も流れた。しかし、残留した三沢光晴川田利明と鶴田との抗争を軸に据え、残った選手の奮闘などもあって勢いを盛り返した。

新日本プロレスからも選手が引き抜かれたが、過去の経緯からこの手の事に慣れていた新日本フロントは早急な慰留工作を行い、主力級の選手はほぼ残留している。SWSは、天龍、武藤敬司の2本柱を狙っていたという説もある。この2本柱は、全日本プロレスにおける2002年川田利明の長期負傷欠場で、一時的に実現した。

UWFについては、SWS設立の前年(1989年)に東京ドーム大会(U-COSMOS)のメインスポンサーを務めるなど友好な関係であったこともあって選手引き抜きは行なわなかったが、その縁からSWSはUWF選手の出場をはかる。のち藤原喜明の貸し出しが発表されたが、それがUWF内部に選手とフロントの関係悪化を招き、第2次UWF崩壊・UWF分裂の遠因を作ってしまうことになった。大手の新日本や全日本はともかく、「信者」と呼ばれる熱狂的なファンが多かったUWFにまで手を出したことによる反発の大きさは、SWSにとっても予想だにしなかったに違いない。

[編集] 「週刊プロレス」との軋轢

SWS創立当時、これを批判的な論調で取り上げたのが、山本隆司が編集長を務めていた「週刊プロレス」である。様々な面でプロレス団体と媒体が持ちつ持たれつの関係であるという業界の慣習に反し、「週刊プロレス」は、SWS設立と天龍移籍に際して「プロレスは金であると言うことがはっきりした」と表紙に掲載するなど、設立時から批判的な論陣を張り、『SWS=悪』というイメージをプロレスファンに植え付けてしまい、SWSとの間に軋轢が生じた。

継続的な批判とともに、「週刊プロレス」の掲載されたSWS東京ドーム大会の広告(天龍源一郎の顔に、文字が被さった広告が掲載された)によるトラブルを契機に、SWSが「週刊プロレス」に対して取材拒否。これに対して、「週刊プロレス」は黒地の表紙に『2月15日の午後、SWS代表取締役田中八郎より取材拒否を意味した通告書が本誌・週プロに対し速達で届きました。』と表紙に大書して完全に決裂。この取材拒否はSWS崩壊後、さらには後続団体のWAR創立当初まで続くことになった(天龍個人は団体崩壊後もしばらくの間取材拒否が続いた)。

後に、この軋轢については、メガネスーパーへの対抗策を検討した馬場・坂口・山本の三者会談で、山本が(強引な引き抜きに批判的であったこともあって)否定的なスタンスをとると決意したことに端を発するもので、「もし、旗揚げ前に当時SWS設立に動いていた若松市政(将軍KYワカマツ)が、設立に関して社長の田中八郎を含めて相談してくれていたら、いわゆる金にあかせた大量引き抜き劇は生じさせないようにアドバイスできたし、結果としてバッシングをすることもなかったのではないか」と山本は著書に記している(この件に関しては小佐野景浩も後に「あの時山本さんを上手く組み入れることが出来たら、SWSもまた違ったのではないか」と言った趣旨の発言をしている)。ただ、取材拒否後、SWS崩壊前の時点で山本と田中は個人的に和解しており、やはりメガネスーパーの後ろ盾で設立された藤原組に関しては、取材拒否されていない。

一方、「週刊プロレス」のライバル誌である「週刊ゴング」は、全日本時代の"天龍番"であった小佐野が編集長だったこともあってか、崩壊までSWSの記事を掲載している。

なお、2000年ベースボール・マガジン社が発行した「週刊プロレス スペシャル3」には田中本人へのインタビューが巻頭記事として掲載されている(田中曰く、取材に応じたのは「プロレス界をやめるときに正式な挨拶をしていなかったから、こういった形で挨拶が出来れば」との事である)。

[編集] その他

  • 上田馬之助は、SWSが失敗した原因として、「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを食らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。
  • SWSは一プロレス団体に思われがちだが、正確にはメガネスーパーによるスポーツ事業を扱う会社であり、その内の「プロフェッショナル・レスリング事業部」という一部門が、プロレス団体としての機能を持っていた(他にゴルフ事業部があったもよう)。プロレス団体としての活動を停止後も、SWSは会社組織としてはしばらく残り、ただひとり会社に残留したドン荒川は、「SWS所属」を名乗って活動していた。
  • テレビ中継に関しては、プレ旗揚げ戦「越前闘会始」を、地元の福井放送のみで後日放映したのが最初である。同様の形で1990年11月に行われた「浜松闘会始」も地元局のみで後日放映されたが、当初予定されていた静岡第一テレビではなく、テレビ静岡で放映された。
前述した旗揚げ戦の中継は、2日にわたった大会を編集して、テレビ東京の「日曜ビッグスペシャル」の枠で放映したもの。前出の木村匡也のほか、杉浦滋男四家秀治が実況を務めた(杉浦は団体後期の中継でも実況を担当)。なお、番組内で付けられていた木村匡也の肩書きは「SWS専属アナウンサー」だった。
1991年3月30日からはWOWOWで放送開始。(実況:伊津野亮 解説:菊池孝、牧元一、林家しん平)。第1回目は1991年3月30日の「レッスルフェストイン東京ドーム」大会を生中継で放送した。その後は月1回・120分枠または90分枠の録画中継が行われたが、1992年3月28日「昇龍激闘」3.18新潟大会の放送をもってWOWOWでの放送を終了した。さらに後にはテレビ東京と契約し(実質的に復帰)、「激闘SWSプロレス」のタイトルでやはり月1回・60分枠の中継(概ね月曜深夜)が開始された。「激闘SWSプロレス」は、当時、団体そのもののスポンサーになって間もない西松建設が、番組を単独で提供したが、放送枠内で必ず1回は、メガネスーパーのCMを流していた。
  • またテレビだけでなく、ラジオ局の文化放送でも、週1回の30分枠で、SWSの情報番組があった。試合の実況中継(もちろんラジオ向けで音声のみ)も交えた珍しいスタイルだった(SWS崩壊後はWARNOW両方とも中継した)。
  • Vジャンプの創刊号(増刊号時代での創刊号)にて、SWSを舞台にしたプロレス漫画『闘竜王(ティラノ)ザウラー』(画:黒田ひろし)が掲載された。恐竜をモチーフにしたコスチュームに身を包んだ青年が、SWS崩壊を狙う悪の団体と戦うというストーリーで、タイガーマスクのようにタイアップし、現実とリンクするかと思われたが、創刊号での掲載後、不定期に2話が掲載された後、終了している。

[編集] 所属していた選手

レボリューション

道場「檄」

パライストラ

フリー

[編集] 関連項目

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