全日本プロレス

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全日本プロ・レスリング株式会社
ALL JAPAN PRO-WRESTLING CO.,LTD.
種類 株式会社
略称 全日本プロレス(AJPW)
本社所在地 日本の旗 日本
104-0042
東京都中央区入船1丁目7-9
リベラ入船5F
設立 1972年(昭和47年)10月22日
業種 サービス業
事業内容 プロレスリングの興行および関連企画の運営
代表者 オーナー兼代表取締役社長武藤敬司
資本金 9,000万円
従業員数 約30名
関係する人物 ジャイアント馬場(創業者)
馬場元子
大熊元司
マシオ駒
サムソン・クツワダ
百田光雄
百田義浩
百田敬子
フリッツ・フォン・エリック
ドリー・ファンク・シニア
ブルーノ・サンマルチノ
外部リンク http://www.all-japan.co.jp/
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全日本プロ・レスリング株式会社(ぜんにほんプロ・レスリング)、通称全日本プロレス(ぜんにほんプロレス)は、1972年(昭和47年)に設立されたプロレス団体。略して全日(ぜんにち)、全日本(ぜんにほん)と呼ばれる。

事務所は過去に東京都港区六本木や日本武道館と近距離にある東京都千代田区九段北にあったが、2013年2月8日より、東京都中央区入船に移転した[1]

道場、合宿所は神奈川県横浜市青葉区にある。

長らく「王道プロレス」を標榜としていた。現在は「パッケージプロレス」を看板として掲げている。旗揚げ戦は1972年(昭和47年)10月22日東京の日大講堂で行われ、旗揚げ前夜祭が町田市体育館で行われている。

目次

歴代代表者 [編集]

  • 初代:ジャイアント馬場 - 松根社長時は会長職を務めた。
  • 第2代:松根光雄(1982年1月 - 1989年3月) - 当時日本テレビ運動部長時代に、日本プロレスの放映を打ち切りにした。
  • 第3代:ジャイアント馬場(1989年4月 - 1999年1月) - 馬場が現役のまま死去したため、その後3か月間は三沢が代理を務めた。
  • 第4代:三沢光晴(1999年5月 - 2000年6月)
  • 第5代:馬場元子(2000年7月 - 2002年9月)
    • 取締役:川田利明、渕正信、馬場幸子
  • 第6代:武藤敬司(2002年10月 -2011年6月 ) - 2004年5月に地方興行の不振から、人員を削減。2005年から新体制になっている。
    • 取締役(2004年まで):川田利明、渕正信、和田京平、三橋祐輔、青木謙治(新日本から移籍)、高橋英樹(新日本から移籍)、渡辺秀幸(新日本から移籍)
    • 取締役(2011年6月まで):内田雅之、カズ・ハヤシ
  • 第7代:内田雅之(2011年6月 - ) - 2011年6月7日、武藤敬司の辞任を受け、昇格。
    • 取締役副社長(2013年2月 - ):三阪輝(スピードパートナーズより出向)
    • 取締役(2011年6月 - 2013年2月):武藤敬司、カズ・ハヤシ (2013年3月 - ):武藤敬司

選手会 [編集]

歴史 [編集]

日本プロレスに所属していたジャイアント馬場中心に結成。常にアントニオ猪木率いる新日本プロレス異種格闘技路線と比較されつつも、一貫して「王道の純プロレス」を実践してきた。

旗揚げまでの経緯 [編集]

1971年(昭和46年)12月、アントニオ猪木が「経営改善」の名の下にクーデターを画策したとして、日本プロレスを追放されたが、その余波が日本プロレスのテレビ中継に波及することとなった。当時日本テレビNETテレビ(現:テレビ朝日)の二局放映体制であった(経緯は日本プロレス#BIの時代を参照のこと)。NET側の看板選手であった猪木を日本プロレスの内部事情で失ったことで、NETはこれまで日本テレビとの関係からNETの中継に出場できなかった馬場の出場を強硬に要求。協議の結果、日本プロレス幹部は日本テレビとの取り決めを破り馬場のNETの中継への出場を解禁した。このため、日本テレビは「契約不履行」を理由に日本プロレス中継の打ち切りを決定。極秘裏に報復手段に近い形で日本テレビに関係が近かった馬場に接触。馬場もまた独立へ向けて準備を進める形となった。

1972年(昭和47年)7月29日、馬場は日本プロレスの退団、新団体設立を表明した。日本テレビのバックアップを受ける形で馬場は渡米してサーキットを行い、その上でフリッツ・フォン・エリックドリー・ファンク・シニアブルーノ・サンマルチノなどの有力者に接触し協力を要請し、豪華外国人レスラーの招聘に成功した。日本側陣営も「親・馬場派」ともいえる大熊元司マシオ駒(マシオ駒)、サムソン・クツワダらを確保した。この中でも日本プロレスの若手選手であった百田光雄、リングアナウンサーとして百田義浩に加え、役員として力道山未亡人の百田敬子も旗揚げに参加したことで「力道山(百田)家のお墨付き」を得ることにも成功した[注釈 1]。さらには手薄な日本人陣営をカバーするために国際プロレス吉原功社長との会談でサンダー杉山を獲得、当時若手選手であったデビル紫鶴見五郎らが参戦し、国際プロレスとの協調路線をしばらく維持した。馬場ら全日本勢も協力の見返りとしてしばしば、国際プロレスの興行に参戦している。

馬場は将来の投資として、旗揚げ直後にミュンヘンオリンピックレスリング代表であった鶴田友美(後のジャンボ鶴田)を獲得。渡米修行から1年後の国内デビュー以降タイトルに頻繁に挑戦させるなど、将来のエース候補として英才教育を施した。また、ザ・デストロイヤーが手薄な日本人陣営に助っ人として加わり、1979年(昭和54年)まで約6年半にわたり定着参戦。馬場に次ぐ看板選手として初期の全日本の興行活動に貢献した。

翌1973年4月に日本プロレスが崩壊、最後まで日本プロレスに残留した大木金太郎ら9選手の日プロ残党は「力道山家預かり」となることが発表された。その過程で日本テレビや力道山家の意向などもあり、大木ら9選手は全日本へ合流する形となったが、馬場は当初、大木らの受け入れには難色を示していたとされている。そのため、馬場はマッチメイクなどで「旗揚げからの所属(子飼い)組」と「日プロからの合流組」との間で扱いに格差を付けていた[注釈 2]。この扱いに対して上田馬之助松岡巌鉄が反発して10月に退団[注釈 3]、次いで大木も翌1974年1月のシリーズを無断欠場し全日本から一時撤退した。

ジャイアント馬場〜ジャンボ鶴田の時代 [編集]

初期
馬場が培ったアメリカ(主にNWA)での人脈を生かし、幾多のスター外国人選手を招聘して人気を得た。力道山時代の「日本人レスラー対外国人レスラー」の系譜を受け継いだものだといえる。当時は新日本プロレスの格闘技路線と比較され、動きが緩やかな印象を与えた全日本のプロレスは一段低く見られがちな風潮もあった。現在では、WWEに代表されるアメリカンプロレスの源流を日本に紹介したこと、レスラーの高度な駆け引き、プロレス特有の「受けの美学」を見せたことなどが再評価の対象となっている。この時期に、ジャンボ鶴田天龍源一郎大仁田厚らを輩出する。またブッチャーシークに代表される流血戦も多く、大仁田のFMWグレート小鹿大日本プロレスなどのインディー団体のデスマッチ路線の源流を作った、とする意見もある。
中期
1981年(昭和56年)に新日本プロレスからスタン・ハンセンを引き抜く。その後、馬場が高年齢を理由にタイトル戦線から退いた後には、「明るく、楽しく、そして激しく」を掲げ、日本人選手の対戦が主軸となった。その他、中継権を持っていた日本テレビと関連が特に深い時期であり、日本テレビの役員だった松根光雄が出向の形で全日本の社長ポストに就いていた(馬場は会長ポスト、後に社長に就任)ほか、大八木賢一(後に全日本専務、現在はノア専務)など、多くの日本テレビ関係者が出向で全日本に在籍した。天龍を中心に「見る者にも、痛みの伝わるプロレス」が繰り広げられた。1984年(昭和59年)には、新日本プロレスを離脱した長州力ジャパンプロレスの選手らが参戦したが、その後にジャパンプロレスが分裂し長州力らが新日本プロレスに戻ったのをきっかけに、天龍は阿修羅・原と「天龍革命」を起こし、鶴田、ハンセン、ブルーザー・ブロディらとタイトル争いを演じている。
他方、1987年(昭和62年)にはハル薗田が、新婚旅行を兼ねて南アフリカへ試合のために向かう途上、航空機の墜落事故に遭遇し、不慮の死を遂げた。薗田は31歳という、これから脂の乗ってゆく年代のレスラーであるだけに期待されており、またマシオ駒亡き後の若手に対するコーチ役を務めていたことから組織としても小さくない痛手となった。
後期
1988年(昭和63年)、長く待望されていた三つのヘビー級王座の統一が図られるが、決定戦のたびに引き分けや不透明決着に終わる(王座戦の決着としてはありふれた手段だった)。最初の統一戦から約1年が経過した1989年平成元年)4月16日、後楽園ホール大会におけるメインイベントの鶴田対ハンセン戦も反則裁定に終わり、ついに激怒したファンが暴動寸前にまで陥る。3冠統一は2日後鶴田により成されたが、この事件がきっかけとなって、全日本の試合からあからさまなリングアウト・反則裁定が排除され、技による完全決着がつけられるようになる。これが、後の鶴田対超世代軍・四天王の激戦を呼ぶ伏線となった。
1990年(平成2年)、天龍をはじめとする多くのレスラーがSWSに移籍し、存続が危惧される。だがジャンボ鶴田に、2代目タイガーマスクとして活躍していた三沢光晴率いる「超世代軍」が挑む構図が生まれ、新たなブームを引き起こして再生。鶴田率いる正規軍と超世代軍、外国人レスラーの戦いが主軸となった。

三沢光晴ら四天王の時代 [編集]

三沢光晴

1992年(平成4年)、鶴田が病気のため、一線から退くと、戦いは四天王プロレスと呼ばれる形へ発展した。危険度の高い技を次々と繰り出すスタイル(詳細は四天王プロレスおよび王道プロレスを参照とのこと)は先鋭化し続け、三沢・川田戦などはテレビ解説をしていた馬場に「高度すぎて俺には解説できない」と言わしめるほどだった。この時期に空前絶後の利益をおさめ、年間7回の日本武道館大会を中心に経営的な成功を勝ち取る。武道館大会は1990年代全般で、プレイガイド発売即チケット完売となるほどの人気で、1998年(平成10年)には、東京ドームで初興行を開催。「王道プロレス」のキャッチコピーが浸透した。

馬場夫人との軋轢〜三沢以下選手26名が離脱へ
1999年(平成11年)に馬場が死去、5月7日三沢光晴が社長に就任する。馬場存命中には行わなかったビッグマッチでの大胆なカード編成を試みた。また、三沢、仲田龍らは、新日本プロレスなどで行われていた花道やレーザー光線などを使った華やかな演出を提案し続けた。しかし、伝統の保持を第一優先と主張する、馬場夫人である馬場元子との軋轢が生じ、社長を解任された。その結果、馬場元子とジャイアント馬場の姪・馬場幸子、渕正信を除く全役員が辞任した。社長解任後、三沢を含めた26名のレスラー(練習生・杉浦貴含む)と大半の職員が全日本プロレスを離脱し(経緯については三沢光晴を参照のこと)、三沢らはプロレスリング・ノアを旗揚げした。その後、日本テレビ全日本プロレス中継を終了し、所持していた全日本プロレス株も手放す。放送枠は『コロッセオ』を経て『プロレスリング・ノア中継』に切り替えた。
残留者による活動〜武藤敬司参戦
一方、全日本プロレスに残留したのは、渕、川田利明和田京平レフェリー、木原文人リングアナ、広報担当社員一人、そして馬場元子の6名となった。川田は後に、馬場死去後は全日本には実際にはフリーの立場として上がっていて、専属契約はしていないことを告白しているが、上記通り2004年までは全日本の役員に名を連ねていた。その他は留学という形での参戦だったマウナケア・モスマン(現・太陽ケア)、当時は元参院議員として衆院選活動中でプロレス復帰も流動的な馳浩のみだった。2000年(平成12年)に新装となったディファ有明で最初に興行を行ったのは、全日本である。
その後は天龍源一郎の復帰、フリーランス、他団体所属、ジャイアント馬場時代からの常連外国人レスラーの参加により運営を維持していた。また、この時期に川田と渕が新日本プロレスの興行に出場した。翌年の東京ドーム大会で武藤敬司が全日本に初登場。太陽ケアに勝利した後、共闘してBATTを結成。その後、新日本所属選手としては初となる三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座を獲得、年末のタッグリーグ戦を制するなど、2001年(平成13年)の日本武道館大会のメインをすべて武藤が務めることになる。

武藤敬司の時代 [編集]

新日本プロレスを退団した武藤、小島聡ケンドー・カシン、WWF(現WWE)から移籍したカズ・ハヤシ2002年(平成14年)2月26日に入団。同年9月30日には武藤が社長に就任した。ちなみに、武藤は当時付き人だった棚橋弘至も誘ったが、断られた。

脱「王道プロレス」から「パッケージプロレス」の浸透
武藤の社長就任直後は、三沢社長時代と同様に株式譲渡が無く、再びオーナーとサラリーマン社長という形での軋轢が生じた。その後、和田京平と渕正信の生え抜き役員が武藤側に回り、和田・渕・川田の三名連名で武藤への株式譲渡懇願書を馬場元子に提出。武藤には無償で株式が譲渡され、馬場元子はオーナーを退き、事務所を六本木から移転。シリーズ興行の定番タイトルだった「ジャイアント・シリーズ」などを変更、WWEでエージェントを行っているジョニー・エースとの繋がりで、ジャマールらWWEを解雇されたレスラーが多く参戦し、全日の伝統である「日本人レスラー対外国人レスラー」を受け継ぎつつ、「明るく、楽しく、激しく、新しい」プロレスをメインコンセプトに、馬場全日本のカラーだった「王道プロレス」に代わる「パッケージプロレス」を提唱、実践していることが武藤全日本の特徴である。
通常の興行は、橋本真也が率いるZERO-ONEとの対抗戦後、TAKAみちのく率いるRO&Dが参戦。その後、TARU率いるVOODOO-MURDERS佐々木健介中嶋勝彦健介office)や、鈴木みのるNOSAWA論外MAZADATAKEMURA、再び全日本リングに参戦している高山善廣に太陽ケアを加えたGURENTAIの定期参戦、元大阪プロレスの菊タローK-1かららの参戦により、新たなファン層の獲得にも成功した。
特別興行では、2002年(平成14年)6月9日にA BATHING APEとのコラボレーションによる「BAPE STA!!PRO-WRESTLING」をZEPP TOKYOで開催。普段は見られない覆面レスラーが多数登場した。好評につき2003年(平成15年)、2004年(平成16年)にはツアーで開催。2008年(平成20年)12月23日に4年ぶりに開催した。また石井和義率いる株式会社ケイ・ワンと協賛で、2002年(平成14年)11月17日横浜アリーナでプロレス版「Dynamite!」として「WRESTLE-1」を開催、第2弾は2003年(平成15年)1月19日に東京ドームで行われた。武藤は「WRESTLE-1」の世界を「ファンタジーファイト」と表現した。なお、この興行の模様をフジテレビが地上波で放送した。ただし、それは「ボブ・サップのプロレスエンターテインメントショー」と銘打たれ、プロレス中継というよりは、当時人気だったボブ・サップを中心としたバラエティ番組として放送された。また、ファン感謝デーや近年、毎年6月10日に開催される「武藤祭」は非常に好評で、芸能人を使ったF-1タッグ選手権試合など、ファンに楽しんでもらえることを中心に構成されている。武藤が司会を務める番組「武藤敬司☆SHOW」で対談した船木誠勝らが興行に関わったり、夏目ナナ吉沢明歩などAV女優によるコラボ興行が行われた。2008年(平成20年)からは毎年、台湾で特別興行を行っている。
また、江崎グリコ・プロダクトマネージャーで、全日本プロレス・コンディショニングコーチの桑原弘樹と武藤本人、ゴールドジム協力によるプロレスラー流のトレーニング方法やサプリメントなどの栄養学を参加者に公開する「武藤塾」を毎年開催しており、年に一度、新人オーディションを開催して見事に合格して入団した選手がいる。近年、多くの選手やスタッフがブログを始めており、試合だけでなくプライベートやイベントの情報も公開している。
日本武道館撤退、地上波TV中継の獲得
かつては全日本プロレスの主要大会と言えば日本武道館大会だったが、資金の関係で2004年(平成16年)2月22日を最後に撤退した。その後は代々木第二体育館に加えて、年1 - 2回、両国国技館でのスペシャル興行「プロレスLOVE in 両国」としてプロレス界では初の試みとなる、複数の企業から出資金を募り一つのイベントを作り上げる製作委員会方式で開催されている。この大会にも協力してもらうサンリオとは業務提携を結んでいる。
2004年(平成16年)4月にはテレビ東京で約4年ぶりとなるテレビ中継番組『プロレスLOVE 〜夜のシャイニング・インパクト〜』が開始された。2005年(平成17年)3月以降は両国大会のみ放映。2007年(平成19年)4月6日より『全日本プロレス マザー』がGAORAからの映像提供による放送で千葉テレビで開始。その後、岐阜、京都、神奈川で放送されている。また、地上波以外での全国規模の中継ではGAORAが毎週1回・土曜日更新(生中継や再放映有り)で録画中継している他、FIGHTING TV サムライでも随時中継している。GAORAの中継においてはFIGHTING TV サムライの協力を取り付けている。
VOODOO-MURDERSの不祥事と武藤の辞任
2011年5月29日の大会にてスーパーヘイトが試合後に嘔吐・昏倒したため病院に搬送され、「急性硬膜下血腫」の診断を受けて緊急手術が行われた。5月31日にVOODOO-MURDERSのリーダー・TARUが、試合当日にビジネス上での口論からヘイトを数発殴打した事を自ら会社に申告した。これに伴い6月1日、TARUの無期限出場自粛を発表すると共に、TARUがスーパーヘイトを殴打したとき控え室に居た河野真幸MAZADAの無期限出場停止処分とVOODOO-MURDERSの解散も発表された。[注釈 4]
6月7日、一連の事件の責任を取り、武藤敬司が社長を辞任し(選手・取締役としては留任)、内田雅之取締役が第7代社長に就任した。
同月、全日本プロレスの名物レフェリーとして知られていた和田京平が契約を打ち切られ退団。武藤社長が早急に謝罪会見を開かなかった事を批判したところ、「会社への裏切り」と見なされ武藤から退団するよう求められたという。

スピードパートナーズ社へ売却 [編集]

2012年11月1日に、株式会社スピードパートナーズの社長白石伸生が全日本プロレスの株式を100%取得しオーナーになる。資本金1億円で全日本プロレス、全日本システムズの2つの会社を設立し、新しいスタートを切った[3]

若手レスラーの育成「七番勝負」シリーズ [編集]

  • 馬場→三沢が中心だった時代、若手選手に一流レスラーとの対戦で更なる実力を発揮してもらうという育成の狙いからベテランレスラーを相手にした「七番勝負」シリーズが展開され、「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」、2代目タイガーマスク(三沢)の「猛虎七番勝負」等を開催した。上述2名の他、小橋建太(当時・小橋健太)・秋山準らもこのシリーズを経験し、スターダムを駆け上がった。このシリーズは後に三沢が主催したプロレスリング・ノアでも行われた。武藤が社長に就いてからも本間朋晃や諏訪魔(当時・諏訪間幸平)が挑戦している。宮本和志は本間をパートナーにタッグマッチで挑戦。天龍源一郎は2003年(平成15年)に若手レスラーを鍛える目的のシングル七番勝負を行った。

シリーズ興行名の変更 [編集]

馬場全日本から定着だったシリーズ興行名が武藤全日本になってから一部で変更されている。単発興行(プロレスLOVEなど)は除く。
正月と10月に開催される設立記念興行の「ジャイアント・シリーズ」はジャイアント馬場に、「シャイニング・シリーズ」は武藤の必殺技であるシャイニングウィザードにそれぞれなぞらえている。
  • 1月「新春ジャイアント・シリーズ」→「新春シャイニング・シリーズ」
  • 2月 - 3月「エキサイト・シリーズ」
  • 3月 - 4月「チャンピオン・カーニバル」「ホールドアウト・ツアー」
  • 5月 - 6月「スーパーパワー・シリーズ」→「ライズアップ・ツアー」、「グローイング・アップ」
  • 7月 - 9月「サマーアクション・シリーズ(パート1・パート2)」→「サマーアクション・シリーズ」、「サマー・インパクト」、「フラッシング・ツアー」
  • 10月「ジャイアント・シリーズ」→「シャイニング・シリーズ」、「アニバーサリー・ツアー」
  • 11月 - 12月「世界最強タッグ決定リーグ戦」

他団体との交流 [編集]

旗揚げ〜2002年まで [編集]

全日本プロレス旗揚げ当時、日本プロレスはまだ健在で、参加選手が足りないこともあり、国際プロレスの協力を仰いだ。その後も1970年代末まで国際プロレスとは交流を持ち、1977年から1978年にかけては、対抗戦形式のシリーズも開催された[4]

ライバルである新日本プロレスとの交流はほとんど行われず、わずかに東京スポーツ主催の「プロレス夢のオールスター戦」があるだけだった。その後、新日本から離れた長州力ジャパンプロレスと提携して交流を持つも、ジャパンプロレス崩壊後は独立姿勢を打ち出す。その後、坂口征二が新日本の社長となったことから交流が復活し、1990年(平成2年)2月の新日本プロレス東京ドーム大会への選手派遣、「日米レスリングサミット」(全日本、新日本、WWF共催)などの交流があったものの、天龍らの離脱と長州の新日本復帰により、その後は途絶えた。

プロレス多団体時代を迎え、団体交流が盛んになってからも、全日本では団体交流を行わず、「鎖国」と呼ばれる独立姿勢を保つ。しかし、1990年代も末になるとメンバーが固定していることによるマンネリ化が著しく、ついに「門戸開放」と呼ばれる他団体交流策を打ち出す。ただし、これはあくまで「他団体の選手を全日本に招請する」方針であり、UWFインターナショナルみちのくプロレスFMW以外の団体については、全日本のレスラーが他団体に上がることはほとんど無かった。これらの団体からでも、誰もが出場できる訳ではなく、馬場がメジャー団体として使えると判断した技術力の高い選手(垣原賢人高山善廣新崎人生ハヤブサ邪道外道ら)だけが出場できた。また、全日本プロレスを脱退したレスラーの復帰は、裏切り者は許さないとする馬場の方針で行われなかった。

三沢が社長になってからはより積極的な団体交流を打ち出し、新日本の闘魂三銃士らとの対談がマスコミに掲載されるなどしたが、フロントとの対立であまり積極的な交流には至らず、三沢らが離脱した後は、選手の穴埋めを図るために、かつて全日本に在籍した天龍や旧WARの選手、武藤、蝶野正洋など新日本の選手、インディペンデントの選手が一気に参戦するようになった。

2003年以降 [編集]

武藤が社長就任直後から交流していた橋本真也が旗揚げしたZERO-ONEとの全面戦争が勃発。橋本が奪った三冠ベルトの奪還をねらう全日勢などの熱い戦いが繰り広げられた。その後、三冠王者になった川田は、シングルマッチを経験した橋本、小川直也とタッグを結成してハッスルに参戦。2004年(平成16年)にはハッスルのリングで三冠ヘビー級選手権試合が行われた。グレート・ムタ、小島、カズ・ハヤシもスポット参戦した。「KAIENTAI-DOJO」のTAKAみちのくも定期的に参戦。外国人軍団「RO&D」を引っ張っていた時期から、試合前に前説を行い、以後、他の選手が前説を行う形が定着している。 武藤がTNAとの業務提携のため単身渡米し、お互いの選手派遣、若手選手の交換留学などを実現させている。また、武藤自身が世界中のプロレス団体に参戦するなどして、気に入った選手に直接オファーを出したり、選手から参戦を直訴されることも多くなっている。

全日本を離脱した三沢が社長として旗揚げしたプロレスリング・ノアとは、お互いの方針から交流がなく絶縁とも言われたが、2004年(平成16年)7月には、武藤と三沢のタッグマッチが行われ、試合後に小島が三沢にシングルマッチでの対戦を直訴して、三沢が4年ぶりに古巣に参戦した。その後、10月の武藤敬司デビュー20周年記念興行では、武藤と三沢がタッグを組んだ。武藤の新日本脱退、全日本の社長就任でこの両者の対戦の可能性は絶望的と考えられていたため、注目された。2005年(平成17年)、フリー宣言した川田がノアに参戦して、プロレスリング・ノア 東京ドーム大会で三沢とシングルマッチを行ったが敗れている。8月、10月には「WRESTLE-1 GP」が開催。全日本からムタ、諏訪間幸平、ノアからは三沢、小川良成秋山準が参戦したが、両団体の選手が絡むことはなかった。2006年(平成18年)には、健介のデビュー20周年興行に全日本、ノアが協力。健介とのトークで出場した武藤と小島が、試合後に健介とタッグを結成した小橋建太とリング上で握手している。小島は小橋のことを今でも尊敬する人物の一人として挙げている。 2008年(平成20年)に、丸藤正道が参戦して、土方隆司を破って世界ジュニアヘビー級王者になると、近藤修司との試合では、年間最高試合賞を獲得した。2009年(平成21年)2月6日のカズ・ハヤシとの選手権試合では、興行史上初めてジュニアヘビー級の選手権試合がメインで行われた。その後、三沢が急逝。小島の呼びかけにより、小橋が古巣に参戦して対戦。その後、三沢追悼興行に武藤が参戦して田上とタッグを結成して小橋&高山組と対戦した。

2003年(平成15年)以降、新日本プロレスとの交流を打ち出すことになるが、これが現在の武藤体制の誘因となっている。

2005年(平成17年)には新日本プロレスの提案により、全日本の三冠ヘビー級王座と新日本のIWGPヘビー級王座それぞれのベルトを賭けた、史上初のWタイトルマッチが両国国技館で行われ、小島聡が天山広吉を破り四冠統一王者になったが、5月に天山に敗れてIWGPヘビー級王座から転落。翌年には新日本プロレスG1 CLIMAX 2006に、5年ぶり7度目の出場をしたが、決勝で天山に敗れて準優勝に終わった。その後、小島と天山は共闘することになり、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では、2003年1月4日以来の「天コジタッグ」を復活させて優勝を果たした。

2007年(平成19年)1月4日の新日本プロレス東京ドーム興行に全面協力することを発表。IWGPヘビー級王座に太陽ケアが挑戦、また三冠ヘビー級王座に新日本の永田が挑戦するタイトルマッチが行われた(双方王座防衛)。また武藤・蝶野 vs 小島・天山という団体の垣根を越えた新旧世代の対決があり、試合後、およそ8年ぶりのタッグを結成して勝利した武藤と蝶野が、闘魂三銃士の同胞だった橋本真也の生前の姿がスクリーンに映されトレードマークだった白い鉢巻を掲げるセレモニーがあった。

2008年(平成20年)1月4日の東京ドーム大会で、グレート・ムタが参戦して後藤洋央紀と対戦。4月には武藤が中邑真輔に勝利してIWGPヘビー級王者になった。7月には欠場中の小島が、新日本のリングに参戦して天山を救出。「天コジタッグ」を復活する形になり、そのままG1に参戦を表明した。8月31日、全日本の興行で初めてIWGPヘビー級選手権試合を開催。王者である武藤がG1 CLIMAX2008優勝者の後藤洋央紀に勝利して防衛に成功。小島と天山はその後、新日本のG1タッグリーグ戦、全日本の世界最強タッグリーグ戦でダブル優勝を果たした。

10月に行われた蝶野のデビュー25周年記念試合で蝶野、武藤、小橋VS中西、小島、秋山のメジャー3団体による豪華なタッグマッチが実現した。

2008年頃からは女子プロレスラーの参戦も主に地方巡業で見られるようになっている。一方で同じく横浜に道場を置いていたNEO女子プロレスに小島が参戦した。

2008年以降、新日本・全日本・ノアの3団体でプロレスラーの共通ライセンスを発行する構想も浮上するなど良好な関係を築いていたが(詳細はプロレスラー#共通ライセンス構想を参照)、2010年6月に全日本が一方的に同構想から離脱したことに新日本・ノアが反発。全日本側は「ライセンス構想と選手の交流は別の話」「鎖国しているわけではないので来る者は拒まず」との姿勢を打ち出しているものの、以後新日本・ノアは態度を硬化させ、特にノアとの交流は一時完全に途絶えた[5]。一方で、関西を地盤とする準メジャー団体のDRAGON GATEとは2011年に、共通の放送局であるGAORAの開局記念番組として「スーパーファイト2011」を開くに至った。

ところが2011年3月に東北地方太平洋沖地震が発生した[注釈 5]ため、「被災者へのチャリティー目的などでメジャー団体が一致団結する必要がある」との認識から、新日本・ノアとの関係が改善。同年4月のチャンピオン・カーニバルに新日本から永田裕志、ノアから秋山準が参戦することが決定するなど、両団体との交流が復活した。

10月23日の両国大会にて、三冠ヘビー級王座プロレスリング・ノア秋山準世界タッグ王座はAAAのダーク・オズ&ダーク・クエルボ世界ジュニアヘビー級王座DDTプロレスリングケニー・オメガアジアタッグ王座大日本プロレス関本大介&岡林裕二へ、史上初めて4つのタイトル全てが同日に他団体へ流出した。

2012年7月1日に、ともに立ち上げ40周年を迎える新日本プロレスとの合同興行サマーナイトフィーバー in 両国 WE ARE PRO-WRESTLING LOVE!を両国国技館で開催した。

タイトルホルダー [編集]

全日本プロレスで行われるタイトルマッチやリーグ戦はすべてPWFが認定している。

PWFが認定する王座と保持者
タイトル 保持者 歴代 防衛回数 次期挑戦者
三冠ヘビー級王座 諏訪魔 第46代 秋山準
GAORA TV王座 真田聖也 初代 4
世界タッグ王座 秋山準
潮崎豪
第65代 諏訪間
ジョー・ドーリング
世界ジュニアヘビー級王座 金丸義信 第35代 2 大和ヒロシ
アジアタッグ王座 鈴木鼓太郎
青木篤志
第92代 1
F-1タッグ選手権 大森隆男
神奈月
第4代

F-1タッグ選手権の認定団体はPWFとなっているが、「Pacific Wrestling Funclub」の略である。

全日本プロレスが開催するリーグ戦と覇者
タイトル 覇者 年代
チャンピオン・カーニバル 秋山準 2013年度
世界最強タッグ決定リーグ戦 大森隆男
征矢学
2012年度
JUNIOR HYPER LEAGUE 大和ヒロシ 2012年度
JUNIOR HYPER TAG LEAGUE 鈴木鼓太郎
青木篤志
2013年度

現在の所属&参戦選手、スタッフ [編集]

ヘビー級 [編集]

GET WILD
SMOP

ジュニアヘビー級 [編集]

STACK OF ARMS [編集]

ジュニア・スターズ

Last Revolution [編集]

バーニング [編集]

他団体・フリー参戦選手 [編集]

出場限定レスラー [編集]

レフェリー [編集]

リングアナウンサー [編集]

リングドクター [編集]

トレーナー [編集]

コンディショニングコーチ [編集]

PWF会長 [編集]

フリー、他団体所属で参戦した主な日本人選手(武藤社長就任以降) [編集]

元・全日本プロレス所属選手 [編集]

新日本プロレス所属 [編集]

ZERO1所属 [編集]

DIAMOND RING所属 [編集]

パンクラスMISSION所属 [編集]

大日本プロレス所属 [編集]

プロレスリング・ノア所属 [編集]

女子 [編集]

その他 [編集]

過去の主な所属選手&スタッフ [編集]

故人 [編集]

引退(他団体で復帰した選手を除く) [編集]

他団体への移籍、フリー [編集]

下記以外は、FMWSWSプロレスリング・ノアを参照。

スタッフ [編集]

下記以外は、FMWSWSプロレスリング・ノアを参照。

役員 [編集]

PWF会長 [編集]

過去に存在したユニット、タッグチーム [編集]

旗揚げ〜三沢社長時代 [編集]

三沢離脱後〜現在 [編集]

主な歴代来日選手(全日本マット初来日順) [編集]

旗揚げ〜三沢社長時代 [編集]

三沢離脱後〜現在 [編集]

マスコットキャラクター [編集]

  • 武藤ベアー
武藤敬司と熊がモチーフのキャラクター。中野シロウ、西塚耕一、中原正博のplay set productsがデザイン。

テレビ放送 [編集]

アーカイブ放送 [編集]

マット・スポンサー [編集]

日本テレビで中継時のスポンサー [編集]

これらのスポンサーは第1期ゴールデンタイム時代(1979年まで)のもので、当時はメインイベントを中心に試合前に両選手やレフェリーに花束贈呈があり、その際リングアナの百田義浩、および中継の解説者やアナウンサーがこれらのスポンサーの名を呼ぶのが恒例だった。

脚注 [編集]

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注釈 [編集]

  1. ^ 旗揚げ直前に百田家から力道山所縁のチャンピオン・ベルトを贈与され、旗揚げ後しばらくはこのベルトの争奪戦が目玉カードとなった。このベルトは後にPWFヘビー級選手権のチャンピオン・ベルトとなる。
  2. ^ 当時のポスターに掲載されていたのが大木と高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)のみであった。
  3. ^ 上田、松岡は日本テレビとの3年契約が残っていたため、その間国内他団体に出場することができず、アメリカに活路を求める形となった[2]が、ほどなく上田と松岡の間にも亀裂が生じ、松岡はレスラー廃業に追い込まれた。
  4. ^ 後の調査で稔・河野・MAZADAは暴行に関わっていないことが明らかになったため、6月30日付けで出場停止処分は解除された。
  5. ^ 地震発生当日、全日本プロレスは宮城県石巻市石巻市総合体育館で興行を行う予定だったが、リング設営中に地震が発生し現地の出場選手と関係者が被災をしている。[6]

出典 [編集]

  1. ^ 事務所移転のお知らせ
  2. ^ 『プロレス醜聞100連発!!』140-141Pより
  3. ^ 全日買収!企業再生会社が新日に宣戦布告”. nikkansports.com (2013年2月26日). 2013年2月26日閲覧。
  4. ^ 『Gスピリッツ Vol.16』P74(2010年、辰巳出版ISBN 4777808017
  5. ^ 東京スポーツ・2011年3月6日付 28面
  6. ^ 全日本の石巻大会が中止、選手らは無事(デイリースポーツ、2011年3月11日)

関連書籍 [編集]

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]