週刊プロレス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
週刊プロレス(しゅうかんプロレス)は、ベースボール・マガジン社が発行する週刊のプロレス専門雑誌。一般に「週プロ」と呼ばれる。
目次 |
[編集] 概要
1955年8月にベースボールマガジンの増刊号「増刊プロレス」として創刊。以降、月刊誌「ベースボールマガジン・プロレス」として発行、1957年1月からは「月刊プロレス&ボクシング」と名を変えた。その後「月刊プロレス」を経て、1983年7月に週刊化(週刊化創刊号の表紙モデルは初代タイガーマスク)。プロレス専門雑誌の中では一番の老舗。週刊の初代編集長は杉山頴男(現・出版プロデューサー)。現在発売されている、日本唯一のプロレス専門週刊誌である。
[編集] 特徴
[編集] 山本編集長時代
ターザン山本(またはビートたかし)こと山本隆司2代目編集長時代は、週刊プロレスの黄金期ともいえる。 地上波テレビメディアがついていなかった第二次UWFの旗揚げに際し、「密航せよ!」(地方の会場へ足を運ぶこと)と誌面から煽ったり、みちのくプロレスを好意的に取り上げることでブームを演出したりと、それまでテレビ局が主導で作り上げてきた日本のプロレス界を、活字メディア主導に変えることに成功し、1980年代後半から1990年代前半のプロレスブームを巻き起こす原動力となった。雑誌の部数としても、単一競技を扱うスポーツ専門誌としては異例の公称40万部を獲得した。リング上で繰り広げられる試合(客観的事実)より観客の思い入れ(主観)を重視するという独特の編集方針は従来のプロレスマスコミのそれとは一線を画し、読者に好評をもって迎えられた。
しかし、大部数を誇る誌面を通じてプロレス界に圧力をかけるがごとき山本・「週刊プロレス」の行動は軋轢も生んだ。一例をあげると、山本指揮下の週刊プロレスは新日本プロレスを一方的に持ち上げて全日本プロレスへの非難を繰り返した挙げ句、全日本プロレス&ジャパンプロレスから取材拒否を受けている[1]。全日本プロレス社長ジャイアント馬場との関係が改善すると同誌は手のひら返しで全日本プロレスの全面的な賞賛に転じ、この流れを引き継いで、全日本プロレスから多くの選手を引き抜いた新興団体SWSへの批判記事を執拗に掲載。SWSから取材拒否を受けると、誌面を通じ「SWSに関する一切の情報の掲載を控える」と通告。こうした圧力がSWS活動停止の一因となったと考える者も少なくない[2]。
当時の同誌は「現状打破のオピニオンリーダー」を雑誌のコピーとして掲げ、表向きはファン本位の誌面を謳ったが、同誌の報道姿勢は、当時のファンの間からも常に賛否両論がつきまとっていた。漫画家のいしかわじゅんは、こうした「週刊プロレス」の方針を「記事が偏向ぎみで、正しいジャーナリズムやマスコミの姿勢とは思えない」と自身の作品で批判している[3]。これ以外にも、いしかわも関係していた週刊プレイボーイのコラム欄が同誌を槍玉にあげたり、北野誠と竹内義和が「SPA!」で持っていた連載企画「なにわ通信」で前田日明を迎えての対談が行われた際、山本編集長末期の編集姿勢について「(山本に)公開討論を申し込みましょう」という話が持ちあがったこともある。また漫画家の小林よしのりは、初期の「ゴーマニズム宣言」のなかで、やはり当時の山本の姿勢を批判している。
こうした批判は高まりをみせ、1996年、同誌は、新日本プロレス、WAR、UWFインターナショナルなどの団体から連合して取材拒否を突き付けられ、販売部数を著しく減じることとなった[4]。この責任を取る形で、山本はベースボール・マガジン社を退社した。
同誌は、新日本プロレスから取材拒否を通告されてしばらく後「『謎の増刊号』を発行する」と発表している。そして世に出た増刊号は、1996年4月開催の新日本の東京ドーム大会を扱った「観戦記」だった。表紙も含めて試合の写真を一切使わず(写真は東京ドームを見上げる山本の写真1枚のみ)、文章だけで構成されたもの。公式に取材活動が出来ないための苦肉の策として、山本を除く記者全員で、一般の客としてチケットを買って会場に潜入し、取材行為を行ったものであった。
[編集] 山本退社後
山本退社後、編集長に就任した濱部良典は、専門誌としての建て直しを図るとし、その結果、次第に山本色は払拭され、記事のアクの強さは抜けていった。この時代においては、浜部自らの筆による、かつて浜部が演劇に打ち込んでいた時代と長州力の全盛時を重ね合わせた私小説的なコラムが異彩を放っていた。
編集長は浜部、佐藤正行、本多誠と代わり、本多の異動後は半年間、長久保由治編集長でクッションを置いて、2007年4月から佐久間一彦が就任している。
[編集] 週刊ゴングとの因縁
ライバル誌だった「週刊ゴング」(2007年3月休刊)と紙面で舌戦を繰り返したことがある。特に1996年の新日本取材拒否の頃には「ゴングの記事など小学生にも書ける」という一般読者からの投稿をそのまま掲載したり(インターネット上の議論では、そもそもそのような投稿が本当にあったのかと話題にされた)、ゴング誌が取材を行わないで記事を書いているかのように匂わせるコラムが掲載されて、ゴング誌側の厳しい反論を呼ぶこととなった。また同時期には、長州力の週プロに対する批判意見をゴング誌がそのまま掲載した事(週プロ側曰く「ゴングは選手に喋らせた事をそのまま掲載するだけで、掲載後の言葉の責任をとらない。自分達の手は決して汚そうとしない」)に端を発し、両誌面で激しいやりとりが行われた。ちなみに当時新日本プロレスでファイナルマッチを行なった馳浩が、近い将来全日本プロレス移籍の意思がある事を初めて記事にしたのは週プロ(当時の佐藤正行記者、現在は週刊ベースボール編集長)であるが、10年以上経ってもゴング誌側は「このスクープはゴングが初めて記事にした」と譲らなかった。[要出典]
[編集] 夢の懸け橋
1995年4月2日、ベースボール・マガジン社主催のオールスター戦『夢の懸け橋』が東京ドームで行われた。
メジャー・インディー・UWF系・女子プロレスから全13団体が参加。ただし「各団体の純潔メンバーでのカードを提供する」といったコンセプトのもと、各団体間の交流戦は一切行われなかった。全13団体の選手が一堂に会す豪華さと、当時他団体と交流を断っていた全日本プロレスが他団体と同じ興行に参加するといったプレミア性が重なり、会場には6万人の観衆が詰めかけた。試合の他には大木金太郎の引退セレモニーも行われた。(なお公に出ている記録の類は、週刊プロレスによる増刊号のみである。試合結果はこちらを参照されたい。[1][2])
だが、ベースボール・マガジン社を除くと、本興行を記事として報じたのは週刊ファイトのみであった[5]。主催者であるBBM社が全ての発表を週刊プロレスのスクープ記事という形でのみ行い、「他紙誌を排除した私的な大会」との印象を他マスコミに与えたことが興行の黙殺に繋がったといわれている[6]。この件について、当時のゴングの編集者は「一マスコミの興行の私物化以外に、それに伴う脅迫(出場しないと紙面での扱いを制限される等)のような概念が各団体にあったため、その独裁的な影響力などにも警鐘を鳴らすため」という意の懐述をしている。かねてから批判的なところからは「『戦後50年を問う』というコンセプトなのに馬場も猪木もいない。こんな大会をやった意味は何なのか」という意見も出た。
なお、WARは、以前から同日同時刻に東京ドームと隣接する後楽園ホールでの興行を行う事が決定していたため、「夢の架け橋」への参加要請を拒否。自らの興行を決行し、こちらも超満員の観客を集めた。週刊ゴングは「反『夢の懸け橋』」を謳って同大会をバックアップ。(主催、共催としなかったのは、夢の架け橋に対して「マスコミが興行をすること自体が問題である」と当初から公言していたため)反ターザン山本の急先鋒(もしくはゴング寄り)とされた長州力の出場も相まって、さながら反週プロ大会の様相を呈していたという。週刊ゴングは、この大会に参加した長州の反山本的な発言を巻頭で掲載。長州はそのなかで「俺は(プロレスマスコミは)東スポ一本でいいと思っている」と語っている。
このように、『夢の架け橋』の成功は、反動として、週刊プロレスへの大きな反発を生んだ。新日本プロレスを始めとする複数の団体が、週刊プロレスを取材拒否したのは(前述)、その翌年のことである。
近年になって山本は『夢の懸け橋』について「僕ではなくむしろ、当時の週プロの勢いに目をつけた、ベースボール・マガジン社の事業部の主導だった」と語っている。
[編集] 脚注
- ^ この際には、記者がチケットを買って、一般の客として会場に潜入して取材活動を行ったり、読者から観戦記を募集するなどの対応策をとっている
- ^ SWSから分かれた団体のひとつだったWARは、同誌への取材拒否の姿勢も引き継いだが、新日本との対抗戦を始めるや、同誌が新日本との兼ね合いを理由に低姿勢にまわったため、同誌の取材を解禁している。
- ^ この批判に対し、週刊プロレス記者の鈴木健が懐疑的な文章を書いたところ、会場内でいしかわに顎を掴んで凄まれるという事件が発生。山本は誌面で「何故本誌の記者に手を出したのか?」といしかわに問いかけた。いしかわは、会場内で偶然出くわしたので手を出したという事実は他所で認めたものの、山本の問いに対しては回答せず、あくまで「問題の根源は君たちにある」という態度をとった。いしかわから「卑怯者の君たちへ答える」と題した批判の文章を突き付けられた山本もまた「いしかわじゅんの文章など本誌に掲載する価値がない」と論理的回答を示さず、一方的に論争を終結してしまう。いしかわは「反論出来なかったのだから、僕の主張は認められた」と勝利宣言を行い、その後も粘着するかのごとく同誌への批判を止めなかった。
- ^ 当初はリングスも取材拒否に加わる予定だったが、取りやめている。だが前田日明が当時の同誌の記者を名指しで批判するなど、決して良い関係ではなかった。
- ^ 東京スポーツの場合、報道はしたものの、写真を一切使わず最小限の記事と試合結果のみを載せただけ。事前情報も一切報じなかった。
- ^ なお、1979年、同様の大会である「プロレス夢のオールスター戦」が東京スポーツ新聞社主催で開催されているが、この際には記者発表から試合当日まで全ての発表が、オープンに記者会見で行われている。2005年、週刊ゴングは「インディーサミット」を主催しているが、やはり同誌は記者会見をオープンにしている。
[編集] 関連項目
- 有田哲平(くりぃむしちゅー) - 毎週週刊プロレスを購読していることで知られる。同誌インタビューで、現在も発売日前夜のコンビニにて買い続けていると公言。
- 仁志敏久(横浜ベイスターズ) - こちらも毎週週刊プロレスを購読していることで知られている。
- 竹内義和 - 毎週自宅に送られてくるという。
- 竹内宏介 - 対抗雑誌「週刊ゴング」の編集長、日本スポーツ出版社社長というイメージが強いが、日本スポーツ移籍前は「月刊プロレス&ボクシング」の編集長を務めた。
- 市瀬英俊 - 元記者。週刊ベースボールを経てフリーのスポーツライターに。
- 小島和宏- 元記者。2008年には週プロ在籍時代の回想記「ぼくの週プロ青春記」を発表している。
- ラジプロ! - HBCラジオの番組。週刊プロレス全面協力。
- ボクシングマガジン - 「月刊プロレス&ボクシング」の流れを汲むボクシング専門誌。

