リングス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ファイティングネットワーク・リングス(Fighting Network RINGS)は、前田日明が1991年5月11日に旗揚げし、2002年2月15日に活動停止したプロレス・総合格闘技団体。キャッチコピーは「世界最強の男はリングスが決める」。
2008年3月に旗揚げされたTHE OUTSIDERを主催。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 旗揚げ
新生UWFの解散により、所属選手は藤原組、UWFインターナショナルに分かれ、前田日明はたった1人でリングスを立ち上げることになる。衛星放送局WOWOWは開局当初、UWF中継をソフトの目玉とする予定であったが、ネームバリューのある前田をバックアップすることになり、リングスと放映契約を締結。そのおかげで他派に比較するとリングスの資金は潤沢であった。
1991年3月14日、赤坂プリンスホテルにてリングスの設立を発表。前田はエース兼リングスCEOに就任した。
旗揚げにあたり前田は「ネットワーク構想」を打ち立てた。全世界に道場を設立し選手を育成、日本で戦わせて、自国で興行をする。1991年設立のリングス・オランダを皮切りに活動停止までに10ヶ国に上った。この構想の実現はWOWOWによる支援があったればこそである。
ネットワーク構築により、外人選手の招聘に困ることはなかったが、エースの前田日明以外の日本人選手は慢性的に不足していた。この窮地を救ったのが、空手団体の正道会館との提携である。提携していた1991年から1993年まで人気空手家の佐竹雅昭を筆頭に正道会館勢がリングスマットで活躍した。この提携は新生UWFからリングスまでの間に築き上げた興行ノウハウを正道会館に吸収させることとなり、後に正道会館が母体となって立ち上げたK-1が誕生する一因ともなっている。
当時WOWOWのアナウンサーであった髙柳謙一の実況も人気を博していた[要出典]。
リングスの元社員で、格闘技関係のブッカーや他団体・競技の運営者として活躍している人物としては、上原譲、若林太郎、内田統子、川崎浩市などがいる。
[編集] 前田の引退・活動停止
人気団体として定着していたリングスだったが、1999年2月21日にエースの前田日明が現役を引退したことで興行で苦戦が続き、リングス無差別級王者で、リングスとの専属契約中であったギルバート・アイブルはじめ、国内外の人気選手・スタッフが、相次いで当時話題を集めていたPRIDEへ引き抜かれ、または移籍するなど離脱する(この点について前田は、桁違いのファイトマネーを提示されればどんな選手でも動くと述懐している。一方、PRIDEの榊原代表は、引き抜きではないと主張していたが間違いなく引き抜きである)。危機が続く中、2002年にWOWOWがアメリカの元祖総合格闘技とも言えるUFCと新規に契約し、リングス中継を終了。リングスも活動停止となった。
日本国内では活動を停止したリングスだが、リトアニアなど海外ではリングス・ネットワークの手により大会は継続され、日本国内でもリングス出身スタッフが運営する「リングスKoKルール」を採用した格闘技イベントZSTが開催されるなど、リングスの系譜は受け継がれている。
なお、世界的なリングス・ネットワークを越える構想と組織化は、未だどこの団体・興行も実現していない。
[編集] ルール
初期のリングスではUWFルールを踏襲していた。グローブなし、ロープエスケープあり、顔面パンチ禁止(掌底はOK)、グラウンドでの打撃は禁止。1エスケープで1ロストポイント、1ダウンで2ロストポイント。10ロストポイント、タップアウト、ダウン後10カウントで敗北。
その後UFCの登場により、バーリトゥードが話題を集めていった。前田はバーリトゥードには否定的であったが、PRIDE、修斗、パンクラスなどが追随する中で、リングスも対応を迫られ、リングス後期にはバーリトゥードから危険な要素を省いた「KoKルール」と呼ばれる独特のルールが採用された。
[編集] いわゆる“フェイク”の存在と真剣勝負移行に関する当事者証言
ルール面以外に、いわゆる勝敗を事前に決めたり、意図的に勝利を譲るなどのいわゆる“フェイク”(出来試合)と真剣勝負の混在については、外部の論評以外にいくつか内部の証言がある。
クリス・ドールマンは「1976年のアントニオ猪木」(柳澤健、文芸春秋)の中で著者のインタビューに答え「ヤマモトは強くは無いけど、いいキャラクターを持っている。闘う心があるんだ。彼はライジングスターで私は50歳に近かった。私が勝ったら悪いだろう?だからレッグロックに敗れることにしたんだ」(P.153)と証言している。
また、逆に1999年以降の「KOKトーナメント」にマネージャーとして選手を送り込んだ米国のモンテ・コックスはkamipro 105号で「たしかに当時、リングスはアメリカの格闘技関係者の中ではあまり評判が良くなかったし、私自身、「なぜ、プロレス団体に協力するんだ!?」なんて言われたさ。でも、私が選手を送り始めたのは『KING OF KINGS』(KOK)というトーナメントだった。この大会を開くに当たってリングスは、全試合完全リアルファイトを約束してくれた。だから私も協力することにしたんだよ。(略)そして実際、『KING OF KINGS』は間違いなくリアルファイトだったよ」と証言している。
[編集] 主なスタッフ
[編集] レフェリー
[編集] 広報
[編集] リング・アナウンサー
[編集] 公式記録員
[編集] 審議委員
[編集] メディカルアドバイザー
[編集] リングス・ジャパン
選手団体としてのリングス・ジャパンに所属したのは、当初は前田日明とUWFインターナショナルから移籍した長井満也の2人だけであった。その後、1992年に山本宜久、成瀬昌由、1994年に坂田亘、高阪剛らがデビュー。さらに田村潔司、金原弘光、山本健一(現・山本喧一)などがUインターから移籍。横浜市に構えられた前田道場で練習に励み、徐々に陣容を整えていった。
既に選手としての盛りを過ぎていた前田日明に代わり、後継者として期待された生え抜きの山本は伸び悩み、移籍組の田村が強豪外国人選手がひしめく中を日本人エースとして重責を担った。さらに田村が離脱した末期は、金原が「リングス最後のエース」と呼ばれ孤軍奮闘した。
[編集] 所属していた選手
[編集] リングスに所属していた海外選手
[編集] リングス・ロシア
- ウラジミール・パコージン - 代表
- ヴォルク・ハン
- アンドレイ・コピィロフ
- ニコライ・ズーエフ
- イリューヒン・ミーシャ
- エメリヤーエンコ・ヒョードル
- バロージャ・クレメンチェフ
- セルゲイ・ハリトーノフ 注:日本ではロシアン・トップ・チーム所属という肩書きであるが、本国ではリングス・ロシアに所属。
- ヴォルク・アターエフ
- ラバザノフ・アフメッド
- コーチキン・ユーリ
- ユーリ・ベキシェフ
- ウラジミール・クラブチュック
- セルゲイ・スーセロフ
- レフ・バルカーラ 注:アブダビコンバットで優勝したカリーム・バルコロフと同一人物
2005年8月20日、ニコライ・ズーエフが中心となり、「リングス・エカテリンブルグ」が旗揚げされ、ハリトーノフ、アターエフ、ミーシャ、ラバザノフ、コーチキンが参加。日本からは前田が招待され、金原、高阪が参戦した。
[編集] リングス・グルジア
- アルティミシュビリ・ノダリ - 代表
- ビターゼ・タリエル
- ビターゼ・アミラン(ビターゼ・タリエルの実弟)
- グロム・ザザ
- グロム・コバ(グロム・ザザの実弟)
- ダヴィド・ハハレイシヴィリ
- ブザリアシビリ・ラマジ
- シュトルム・コバ
- ゴキテゼ・バクーリ
- ツハダゼ・ザオール
- ゲオルギー・カンダラッキー
- テッド・チェンギス(テンギズ・テドラゼ)
- シーラ・フビチャ
- ティグル・レバニ
- アンドレイ・トゥルマニーゼ
- サルサニア・ズーラブ
- ガルダバ・ゲオルギ
[編集] リングス・オランダ
- クリス・ドールマン - 代表
- ハンス・ナイマン
- ディック・フライ
- ヘルマン・レンティング
- ヴァレンタイン・オーフレイム
- アリスター・オーフレイム
- ギルバート・アイブル
- ウィリー・ピータース
- ヨープ・カステル
- ボブ・シュクライバー
- ピーター・ウラ
- バート・コップスJr
- ウィリー・ウィリヘルム
- サンドラ・トンハウザー
- ピーター・ダイクマン
- エリック・エデレンボス
- ピーター・スミット
- トム・フォン・マウリック
- ルディ・イウォルド
- デニス・ラーフェン
- サンドラ・マック・キリアン
- フレッド・オーストロン
- リカルド・フィエート
[編集] リングス・オーストラリア
- クリストファー・ヘイズマン
- ケリー・ジェイコブ
- サム・ネスト
[編集] リングス・USA
[編集] リングス・イギリス
[編集] リングス・ブラジル
[編集] リングス・リトアニア
詳しくは、リトアニア・ブシドー協会参照。
[編集] リングス・ブルガリア
- ニコラ・ザハリエフ - 代表
- ボリス・ジュリアスコフ
- ゲオルギー・トンコフ
- ソテル・ゴチェフ
- ディミータ・ペトコフ
[編集] 外部団体
[編集] 正道会館
- 正道会館との交流は、後に正道会館が主催するK-1への影響を与えたとも言われる。
[編集] 備考
アメリカ合衆国のチーム・クエストに所属するランディ・クートゥア、ダン・ヘンダーソン、ブラジルのブラジリアン・トップチームに所属するアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、ヒカルド・アローナ、オランダのドージョー・チャクリキに在籍したピーター・アーツらの初来日はリングスである。また、リングス・ロシアやリングス・オランダなどしっかりとした組織があり海外でも大会を開いている。海外ではすでに活躍していたが日本ではまだ無名であった彼らを招聘し、日本での活躍の活路を開いた。 「世界最強はRINGSが決める」のキャッチコピー通り、エメリヤーエンコ・ヒョードルは誰もが認める世界最強の男になった。
FEGが行っていた総合格闘技興行「HERO'S」は、当初ビッグマウスとの協賛で行われており、当時ビッグマウス・ラウドのスーパーバイザーであった前田日明もスーパーバイザーとして就任。FEGが複数契約したヒース・ヒーリングがリングス・USA、ラモン・デッカーがリングス・オランダ、キム・ミンスがリングス・コリア、アラン・カラエフがリングス・ロシア、イアン・シャファーがリングス・オーストラリアの所属を名乗っている。
[編集] 外部リンク
|
||||||||||||||


