リングス

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株式会社リングス
RINGS Co.,Ltd.
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 日本の旗 日本
150-0043
東京都渋谷区道玄坂1-22-7
道玄坂ピア5階
業種 サービス業
事業内容 総合格闘技興行
代表者 CEO 前田日明
関係する人物 前田日明(創業者)
外部リンク リングス公式サイト
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リングスRINGS)は、日本総合格闘技団体。正式名称はファイティング・ネットワーク・リングス。キャッチコピーは「世界最強の男はリングスが決める」。

旗揚げ当初はプロレス団体で、2002年2月15日に活動を停止したが、2008年3月に旗揚げされたTHE OUTSIDERの主催を機に再始動。2012年3月9日に総合格闘技団体として完全復活を果たした。

歴史[編集]

旗揚げ[編集]

UWFの解散により、所属選手はUWFインターナショナルプロフェッショナルレスリング藤原組に分かれ、前田はたった1人でリングスを立ち上げることになる。衛星放送局WOWOWは開局当初、UWF中継をソフトの目玉とする予定であったが、ネームバリューのある前田をバックアップすることになり、リングスと放映契約を締結。そのおかげで他派に比較するとリングスの資金は潤沢であった。

1991年3月14日、赤坂プリンスホテルにてリングスの設立を発表。前田はエース兼リングスCEOに就任した。

旗揚げにあたり前田は「ネットワーク構想」を打ち立てた。全世界に道場を設立し選手を育成、日本で戦わせて、自国で興行をする。1991年設立のリングス・オランダを皮切りに活動停止までに10ヶ国に上った。

ネットワーク構築により、外人選手の招聘に困ることはなかったが、エースであった当団体のCEO・前田日明以外の日本人選手は慢性的に不足していた。(原因として試合の質を高く維持しようと受験生に求めたプロテスト合格とデビュー基準があまりに厳しすぎて合格者無しや下積み中に脱走者が続出した。)この窮地を救ったのが、空手団体の正道会館との提携である。提携していた1991年から1993年まで人気空手家の佐竹雅昭を筆頭に正道会館勢がリングスマットで活躍した。この提携は新生UWFからリングスまでの間に築き上げた興行ノウハウを正道会館に吸収させることとなり、後に正道会館が母体となって立ち上げたK-1が誕生する一因ともなっている。

リングスの元社員で、格闘技関係のブッカーや他団体・競技の運営者として活躍している人物としては、上原譲、若林太郎、内田統子、川崎浩市(ブッカーK)などがいる。

前田日明の引退、活動停止[編集]

人気団体として定着していたリングスだったが、1999年2月21日にエースの前田日明が現役を引退したことで興行で苦戦が続き、リングス無差別級王者で、リングスとの専属契約中であったギルバート・アイブルはじめ、国内外の人気選手・スタッフが、相次いで当時話題を集めていたPRIDEへ引き抜かれ、または移籍するなど離脱する(この点について前田は、桁違いのファイトマネーを提示されればどんな選手でも動くと述懐している。一方、PRIDEの榊原信行代表は、引き抜きではないと主張していたが間違いなく引き抜きである)。危機が続く中、2002年にWOWOWがアメリカの元祖総合格闘技とも言えるUFCと新規に契約し、リングス中継を終了。リングスも活動停止となった。

なお以上の経緯で、日本国内では活動を停止したリングスだが、リトアニアなど海外ではリングス・ネットワークの手により大会は継続され、日本国内でもリングス出身スタッフが運営する「リングスKOKルール」を採用した格闘技イベントZSTが開催されるなど、リングスの系譜は受け継がれている。

なお、世界的なリングス・ネットワークを越える構想と組織化は、未だどこの団体・興行も実現していない。

復活へ[編集]

リングス活動停止後、前田は総合格闘技興行「HERO'S」のスーパーバイザーを務めたが、HERO'S終了後、リングス復活へ向けて動き出した。

2008年よりリングス主催のアマチュア大会「THE OUTSIDER」を旗揚げ。以降定期的に大会を開いている。

2010年4月3日の「THE OUTSIDER 第11戦」において、前田は10月11日の横浜文化体育館にてリングス復活第1弾大会を開催すると宣言した[1]。THE OUTSIDERとZST・在日米軍の対抗戦として行なわれたこの大会は正式な復活大会とはならなかったが、リングス復活への足がかりとなった。また、大会前にTHE OUTSIDERの常連である吉永啓之輔とプロ契約を交わした。

その後もリングスはTHE OUTSIDERトップ選手と順次プロ契約を結んでいる[2]

2011年6月20日の記者会見で、2012年3月に後楽園ホールでリングスとしてのプロ興行を開催して再始動すると発表した[3]。新生リングスにはTHE OUTSIDER出身プロおよびZSTの選手を中心に他団体やフリーにも参戦を呼びかける一方、THE OUTSIDERはリングスのアマチュア部門として継続する。

リングス再始動に先立ち、2012年1月22日に選抜大会「バトルジェネシス」も復活させることも発表[4]。さらに2011年11月23日のZSTにて新リングスルールが採用される。再始動を目前に控え、リングスと同時期に活動を停止した日本コマンドサンボ連盟の復活も発表された。

第2次リングス[編集]

2012年3月9日、旗揚げ戦が行なわれ、メインイベントにはキックボクサーとしてK-1などで活躍した小比類巻太信が出場した[5]

2012年12月の横浜文化体育館大会ではヴォルク・ハンの引退試合が行なわれた。

第1次ルール[編集]

最初期のリングスではUWFルールを踏襲していた。グローブなし、ロープエスケープあり、顔面パンチ禁止(掌底はOK)、グラウンドでの打撃は禁止。1エスケープで1ロストポイント、3ロストポイントで1ダウン。5ダウン、15ロストポイント、タップアウト、ダウン後10カウントで敗北。そして時代の変遷にともない、以下のポイントルールに厳格化していった。

  • 3ロストポイント→2ロストポイント→1ロストポイントで1ダウン
  • 15ロストポイント→10ロストポイント→5ロストポイント→3ロストポイントで敗北
  • 5ダウン→3ダウンで敗北

その後UFCの登場により、バーリトゥードが話題を集めていった。前田はバーリトゥードには否定的であったが、PRIDE、修斗パンクラスなどが追随する中で、リングスも対応を迫られ、リングス後期にはバーリトゥードから危険な要素を省いた「KOKルール」と呼ばれる独特のルールが採用された。

第2次ルール[編集]

2012年の再旗揚げでは新リングスルールが採用され、パウンド可となった。

かつてはグラウンドでの顔面パンチ(パウンド)を禁じた「KoKルール」を採用していたリングスだが、再開に際し採用されるリングスルールはパウンドを認めたものとなる。

しかしリングス前田代表は「総合を見ていて選手たちのダメージが大きかったり、壊れ方が早いのが気に掛かる。総合のルールはまだまだ問題があるし、大会主催者は選手の引退後の生活を奪わないよう配慮しないといけない」と話し、踏みつけやサッカーボールキックは禁止。「総合を時代のあだ花にしたくない。スポーツの一つのジャンルとして定着させたい。バイオレンスではなく選手のスピリットや技能を見せるものとしてやっていく」と危険な攻撃を禁止にする[6]

第2次リングス参戦選手[編集]

バンタム級

フェザー級

ライト級

ウェルター級

ミドル級

ライトヘビー級

第2次リングス開催履歴[編集]

大会名 開催年月日 会場 開催地 入場者数
RINGS/THE OUTSIDER 合同大会 〜ヴォルク・ハン引退記念興行〜 2012年12月16日 横浜文化体育館 日本の旗 神奈川県横浜市
RINGS vol.2〜CONQUISITO 探索〜 2012年9月23日 後楽園ホール 日本の旗 東京都文京区
RINGS 〜reincarnation 再臨〜 2012年3月9日 後楽園ホール 日本の旗 東京都文京区

THE OUTSIDERプロ契約選手[編集]

THE OUTSIDER旗揚げ後にリングスとプロ契約した選手。

階級、王座[編集]

詳しくは「リングス王者一覧」を参照。

階級 重量区分 歴代 王者
ヘビー級 93kg以上 空位
ライトヘビー級 93kg以下 空位
ミドル級 83.9kg以下 空位
ウェルター級 77.1kg以下 空位
ライト級 70.3kg以下 空位
フェザー級 65.8kg以下 空位
バンタム級 61.2kg以下 空位

リングス・ジャパン[編集]

選手団体としてのリングス・ジャパンに所属したのは当初は前田日明とUWFインターナショナルから移籍した長井満也の2人だけであった。その後、1992年に山本宜久成瀬昌由、1994年に坂田亘高阪剛らがデビュー。さらに1996年に田村潔司がUインターから移籍。Uインター解散後の1998年には金原弘光山本健一(現・山本喧一)が移籍し、横浜市に構えられた前田道場で練習に励み、徐々に陣容を整えていった。既に選手としての盛りを過ぎていた前田日明に代わり、後継者として期待された生え抜きの山本は伸び悩み、移籍組の田村が日本人エースとして重責を担った。さらに田村が離脱した末期は、金原が「リングス最後のエース」と呼ばれ孤軍奮闘した。

所属選手[編集]

所属外国人選手[編集]

リングス・ロシア[編集]

リングス・グルジア[編集]

リングス・オランダ[編集]

リングス・オーストラリア[編集]

リングス・USA[編集]

リングス・イギリス[編集]

リングス・ブラジル[編集]

リングス・リトアニア[編集]

リングス・ブルガリア[編集]

スタッフ[編集]

レフェリー[編集]

リングアナウンサー[編集]

審議委員[編集]

公式記録員[編集]

広報[編集]

メディカルアドバイザー[編集]

東京警察病院理学療法士。リングスの名物リングドクターとして、選手の相談、治療、リハビリ等にあたった。現在はNPO法人・格闘メディカル協会代表。

外部団体[編集]

正道会館[編集]

シュートボクシング協会[編集]

S.A.W.(サブミッション・アーツ・レスリング)[編集]

慧舟會[編集]

  • 西良典

いわゆる「フェイク」の存在と真剣勝負移行に関する当事者証言[編集]

ルール面以外に、いわゆる勝敗を事前に決めたり、意図的に勝利を譲るなどのいわゆる“フェイク”(出来試合)と真剣勝負の混在については、外部の論評以外にいくつか内部の証言がある。

クリス・ドールマンは「1976年のアントニオ猪木」(柳澤健、文藝春秋)の中で著者のインタビューに答え「ヤマモトは強くは無いけど、いいキャラクターを持っている。闘う心があるんだ。彼はライジングスターで私は50歳に近かった。私が勝ったら悪いだろう?だからレッグロックに敗れることにしたんだ」(P.153)と証言している。

また、逆に1999年以降の「KOKトーナメント」にマネージャーとして選手を送り込んだ米国のモンテ・コックスはkamipro 105号で「たしかに当時、リングスはアメリカの格闘技関係者の中ではあまり評判が良くなかったし、私自身、「なぜ、プロレス団体に協力するんだ!?」なんて言われたさ。でも、私が選手を送り始めたのは『KING OF KINGS』(KOK)というトーナメントだった。この大会を開くに当たってリングスは、全試合完全リアルファイトを約束してくれた。だから私も協力することにしたんだよ。(略)そして実際、『KING OF KINGS』は間違いなくリアルファイトだったよ」と証言している。

備考[編集]

アメリカ合衆国チーム・クエストに所属するランディ・クートゥアダン・ヘンダーソンブラジルブラジリアン・トップチームに所属するアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラヒカルド・アローナオランダドージョー・チャクリキに在籍したピーター・アーツらの初来日はリングスである。また、リングス・ロシアやリングス・オランダなどしっかりとした組織があり海外でも大会を開いている。海外ではすでに活躍していたが日本ではまだ無名であった彼らを招聘し、日本での活躍の活路を開いた。「世界最強はRINGSが決める」のキャッチコピー通り、エメリヤーエンコ・ヒョードルは誰もが認める世界最強の男になった。

K-1を主催するFEGが行っていた総合格闘技興行「HERO'S」は、当初ビッグマウスとの協賛で行なわれており、当時ビッグマウス・ラウドのスーパーバイザーであった前田日明もスーパーバイザーとして就任。FEGが複数契約したヒース・ヒーリングがリングス・USA、ラモン・デッカーがリングス・オランダ、キム・ミンスがリングス・コリア、アラン・カラエフがリングス・ロシア、イアン・シャファーがリングス・オーストラリアの所属を名乗っている。

脚注[編集]

外部リンク[編集]