ジャイアント馬場
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| ジャイアント馬場 | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | ジャイアント馬場 馬場正平 グレート・ババ etc. |
| 本名 | 馬場正平 |
| ニックネーム | 東洋の巨人 世界の巨人 御大 |
| 身長 | 209cm |
| 体重 | 135kg |
| 誕生日 | 1938年1月23日 |
| 死亡日 | 1999年1月31日(満61歳没) |
| 出身地 | 新潟県三条市 |
| スポーツ歴 | プロ野球 |
| トレーナー | 力道山 グレート東郷 フレッド・アトキンス |
| デビュー | 1960年9月30日 |
| 引退 | 1999年5月2日 |
| 馬場正平 |
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| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1955年 |
| 初出場 | 1955年 |
| 最終出場 | 1960年 |
| 経歴 | |
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| ■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 | |
ジャイアント馬場(ジャイアントばば、本名:馬場 正平(ばば しょうへい)、1938年1月23日 - 1999年1月31日)は、新潟県三条市出身のプロレスラー。全日本プロレス元代表取締役社長・会長、NWA第一副会長。
プロレスラーに転向する以前は、読売ジャイアンツのプロ野球選手であった(そのため、日本プロレスのエース時代、TV中継でアナウンサーが意図的に「ジャイアンツ馬場」と呼んでいた事がある)。
目次 |
[編集] プロファイル
第49・55・57代NWA世界ヘビー級王者(日本人としては初の世界タイトル奪取)。全日本プロレス創立者。血液型O型。身長209cm(読売ジャイアンツ時代の発表は203cm)、体重135kg(全盛期は145kg)。リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークの大プロモーターであったビンス・マクマホン・シニアが「ババ・ザ・ジャイアント」と命名したことに由来する。1999年1月31日、生涯現役のまま逝去した(逝去後に引退セレモニーが執り行われた)。
日本のプロレス界では力道山、アントニオ猪木と並ぶビッグネーム。日本プロレス史上最大の巨体を持ちながらも、その物腰の柔らかさからCMやテレビ番組などでも人気を博す。
[編集] 略歴
- 新潟県の三条実業高校野球部出身。在学中の1955年にスカウトされ、中退してプロ野球・読売ジャイアンツに投手として入団する。背番号は59。新潟県第1号のプロ野球選手だったということもあり、将来を嘱望されていた。長嶋茂雄とは、「馬場ちゃん」と呼ばれるほどの親友であり(プロ入りは馬場のほうが先だが、年齢は長嶋のほうが上)、長嶋がジャイアンツに入団して初めてキャッチボールをした相手は馬場である。
- 1959年オフ、二軍では最優秀投手を取るほどだったのにもかかわらず、巨人を自由契約になり(一軍での通算成績は3試合0勝1敗、防御率1.29。唯一責任投手となった1敗は杉下茂の200勝達成試合でのもの)、1960年、大洋ホエールズの練習生としてキャンプに参加した際、採用内定は出ていたものの、宿舎の風呂場で転倒して左ひじ軟骨を傷め、野球を断念し、現役を引退。
- 1960年4月には日本プロレス(日プロ)に入団、力道山の元に弟子入り。力道山からは特別可愛がられる。新弟子の中で唯一給料を貰い、アパートから道場に通っていた。同年9月30日デビュー。その後何度かアメリカに渡り、数々のタイトルに挑戦する。アメリカ時代のリング名は、当初は本名の馬場正平(ショーヘイ・ババ)であったが、「フランケンシュタイン・ババ」、「ビッグ・ババ」、「ババ・ザ・ジャイアント」など様々なリングネームがあった。アメリカではプロモーターの指導に従ったことで、大舞台での試合も多く、当時は大変な知名度があったとされる(その為、『日本人として初めてアメリカで成功したレスラー』と言われている)。アメリカでの師匠は、フレッド・アトキンス(後にタイガー・ジェット・シンもアトキンスの指導を受けている)。1964年2月にはNWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、WWA(フレッド・ブラッシー)の三大世界王者に連続挑戦するという、全米に数十のテリトリーが存在していた当時としては破天荒の偉業を成し遂げている。
- 1963年力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国。その際、マネージャーだったグレート東郷から、高額の年俸を保障するのでアメリカに定住するように勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。それ以外にも、アメリカでの生活で、売れっ子だったレスラーが怪我をして試合が出来なくなり、何の保障もないまま生活苦に陥る姿も見ているので、いくら高額の年俸を稼いでも、自分も同じようになった時の事を考えて断ったという理由もあった。
- 1965年頃には既に日プロのエースとなり、インターナショナル・ヘビー級王座を獲得。アントニオ猪木とのいわゆるBI砲タッグでインターナショナル・タッグ王座を獲得するなど華々しい活躍を見せた。
- 1972年に日本テレビの後押しで全日本プロレスを旗揚げ。社長になって以降は練習が不足がちになったためか、筋肉が徐々に落ち、動きが鈍くなっていった。やせた体でゆっくり動く様をよく物まねされるようになる。
- 1974年、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座をアジア人として初めて獲得。1979年と1980年にもハーリー・レイスを破って獲得している。
- 1980年、ザ・シークを相手に通算3000試合目を達成。デビューから丸20年目だった。
- 記者から後に知らされ、「最初から分かっていれば、まともな相手を選んでいた」とコメント。そのせいか、1981年には「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」を開催。バーン・ガニアとの間で自身の保持するPWFヘビー級王座とガニアの保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行う。結果は3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛。
- 1984年、ハンセン・ブロディ組のツープラトン・パイルドライバーで首を痛めて次の試合を欠場、デビュー以来3000試合以上続いた連続無欠場記録がストップ。
- 1985年、スタン・ハンセンに敗北し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退く。以後は社長業やタレント業に比重を移しながらも前座としてリングに上がり続けた。
- 最後にリングに上がった1998年12月5日までで、通算5769試合を行った。
- 1999年1月31日、東京医大病院にて、大腸癌(上行結腸腺癌)の肝転移による肝不全により死去、61歳没。妻・元子の意向により外部には命が危ないことを一切漏らしておらず、最期を看取ったのも妻の馬場元子、姪の馬場幸子(全日本取締役)、実姉のほか、運転手の和田京平と秘書の仲田龍のだけであった。このことは、当時役員だったジャンボ鶴田やエースでマッチメイカーの三沢光晴、全日本の重鎮だったジョー樋口にさえ知らせていない。戒名は「顕峰院法正日剛大居士」。4月17日に日本武道館でファン葬が催され、3万8000人が参加した。
- 同年5月2日東京ドーム興行にて「引退記念試合」を行う。(過去の馬場選手の名シーンを集めたビデオ上映による)
[編集] 得意技
恵まれた体躯を生かし、主に、相手のロープの反動を利用したカウンターキックである「十六文キック」をはじめ、「空手チョップ」「河津落とし」「ココナッツクラッシュ」など、長身からの落差と重力、相手の力や体重を利用した技を得意技とした。
- 十六文キック
- ジャイアント馬場の代名詞的な技。ロープに振った相手が反動で返ってくるところにカウンターで蹴りを叩き込む。時には自ら走りこんで蹴りを当てていくこともあった。全盛期は見た目も威力も必殺技としての説得力を十分に兼ね備えていた。しかし、実際に足のサイズは16文もなかったらしい。語呂の良さから十六文にしたという説と、アメリカで購入した靴のサイズ表記が16となっていたためという説がある。左足で蹴るのはプロ野球時代の名残だが、若い頃は右足で蹴ることもあった。坂口征二やジャンボ鶴田とのコンビでは肩を組んでダブルのカウンターキックをよく出していた。アメリカ修業時代のタッグマッチで、パートナーに「お前もキックだ」と言われた際、反射的に左足で蹴ったのが技のきっかけとのこと。
- 32文人間ロケット砲
- 若手時代に使っていた技。ほかのレスラーも使うポピュラーな技、いわゆるドロップキックなのだが、馬場の巨体から繰り出されるこの技は、迫力・破壊力ともほかのレスラーのそれらの技とは一線を画している。日本人プロレスラーとしては、ズバ抜けて巨体であった馬場限定の称され方。
- 河津掛け→河津落とし
- もともとは相撲の技で、相手の投げを堪える「河津掛け」が原型。力道山がルー・テーズのバックドロップ対策として披露したが、馬場は自分の片足を相手の片足に掛け、跳ね上げながら相手の首を抱えて後方に反って倒す技に昇華させた。
- 脳天唐竹割り
- 馬場の師匠でもあった力道山が得意としていた空手チョップの応用技。相手の頭部に垂直に振り下ろす。馬場が遠征中に泊まった旅館で、鴨居に頭をぶつけた時の激しい痛みから技を閃き、力道山に「敵の脳天に手刀を放とうと思うんですが」と相談したところ、「危険な技だ。相手が死んでしまうぞ」と制止されたエピソードがある。最初に脳天チョップを出したのはディック・ザ・ブルーザー戦で、初対戦でブルーザーのタフガイぶりにあきれ果てた馬場が「ブルーザーならまあ死なんだろう」と解禁したという。手刀を叩きつける際に、まれに相手の頭部あるいは額を割り、流血させるほどの威力があり、相手の耳に落とす「耳そぎチョップ」という応用もある。これもまた馬場限定の称され方。子供たちの遊びで往年耳にする事があった、俗に言う「馬場チョップ」とはこの技の事である。
- 股割き
- 主に若手の頃に多用されていた関節技。相手の両足を掴み、股を強引に開かせることによって痛みを与える、単純明快な技。デビュー戦もこの技で勝利した(相手は田中米太郎)。
- ランニングネックブリーカードロップ
- ジャイアント馬場自身が考案し、日本人として初めて披露した技。若き日、ライバルであったドリー・ファンク・ジュニアに対して初めて披露した。ロープに振った相手が反動で返ってくるところに、自らも走りこんで首に腕を掛けそのままマットに叩きつける。破壊力は抜群で、ジャック・ブリスコやハーリー・レイスとのNWA世界ヘビーを初めとしてこの技で多くのタイトルを奪取している。まさに、ここ一番の切り札である。
- ココナッツクラッシュ(ヤシの実割り)
- ヘッドロックのような体勢で相手の頭を抱え込み、膝に叩きつけながら前方に倒す大技。元投手だけに足が高く上がり見栄えがする。「この技が出ると調子がいいんです」というテレビ解説はお約束。
- アトミックドロップ
- いわゆる尾てい骨砕き。全盛時によく使っていた技で、日本人レスラーでは坂口征二と並ぶ名手。巨体ゆえに見栄えがし、威力も絶大であった。
- アームブリーカードロップ
- 相手の手首を掴みながら腕にまたがり、そのまま全体重をかけてマットに相手ごと落とす技。かつて上田馬之助とのシングルマッチにてこの技を連発し(6発打っている)、レフェリーストップに追い込んだ事がある。
- サーフボードストレッチ
- 相手の背後から仕掛ける。相手の両腕を掴み、背中の方で引っ張り上げて痛めつける。足が長いだけによく効いた。
- コブラツイスト
- 馬場の隠れた必殺技。2mを超す長身の為に威力は抜群で、アメリカ遠征中によく使っていた。猪木の得意技だったが、馬場のコブラツイストに対抗するために猪木が卍固めを使い始めたという。1985年のPWF戦でタイガー・ジェット・シンからギブアップを取るなど晩年まで使い続けた。
- ドリル・ア・ホール・パイルドライバー
- 相手の頭を自分の股にはさみ、逆さまに持ち上げてそのまま脳天をリングにたたきつける。馬場は当時のレスラーの中で、この技をもっともバランスよく美しく決めることができる一人であった。長身の馬場が使えば威力は絶大である。
- ジャイアント・ニードロップ
- 倒れている相手にトップロープから膝を落とす。全盛期のフィニッシュ技として好んで用いられた。
- ジャイアント・ギロチンドロップ
- 同じく全盛期のフィニッシュ技。倒れている相手めがけて膝裏を落とす。
上記の他、巨体に似合わず器用な部分も持ち合わせ、脇固めなど寝技やジャイアント・バックブリーカー、スロートクロー(タイガー・ジェット・シンのコブラクローに酷似)などの「拷問技」も得意とした。4の字固め、サイドスープレックス、スモールパッケージホールドなど意外な技も使っているほか、1965年頃にはジャーマン・スープレックスやパワースラムを使ったこともある。晩年は流行技やライバル・弟子の得意技をまねて用いることも多く、およそ馬場の技は外見上なんら変わりがなくとも冠に「ジャイアント」と付いて独自の必殺技としてファン・マスコミに認識された。「ジャイアントラリアット」「ジャイアントDDT」などはその典型例である。また、スタン・ハンセンとのタッグ時のみ限定で、十六文キックとウエスタン・ラリアートを組み合わせた「ジャイアント・コンビネーション(後述)」も披露した。アンドレ・ザ・ジャイアントと組んだ時は十六文からアンドレのエルボードロップ、ラッシャー木村と組んだ場合は十六文と木村のラッシングラリアットというコンビネーションになった。
- ジャイアント・コンビネーション・A
- ハンセンが相手をハンマースルーし、そこに馬場が十六文キックを叩き込む。その後、馬場が弱った相手を再度ハンマースルーし、そこにハンセンがウエスタン・ラリアートを叩き込む。
- ジャイアント・コンビネーション・B
- ハンセンが相手をハンマースルーし、そこに馬場が十六文キックを叩き込む。その後、弱った相手が振り返った瞬間に、ハンセンがウエスタン・ラリアートを叩き込む。Aよりも、技の回避が難しい。
[編集] 主な戦績
- 1960年9月30日、田中米太郎とのシングル戦でデビュー、股さきで勝利。
- 1961年5月25日、猪木寛至(後のアントニオ猪木)と初対決、フルネルソンで勝利。
- 1964年5月29日、豊登とタッグを組み、ジン・キニスキー、C・ハリケーンと対戦し勝利。アジアタッグ選手権王者に就く(初のタイトル奪取)。
- 1965年11月24日、ディック・ザ・ブルーザーと対戦し勝利。インターナショナル・ヘビー級王座を獲得。
- 1966年11月5日、吉村道明と組んでフリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシス組を破りインターナショナル・タッグ王座を奪取。
- 1967年10月31日、アントニオ猪木と組み、T・タイラー、B・ワット組と対戦し勝利。インターナショナル・タッグ選手権を奪回。(BI砲初タイトル)
- 1968年6月27日、ボボ・ブラジルを三十二文ドロップキック三連発で破り、2日前に奪われたインターナショナル王座を奪還。
- 1971年12月7日、アントニオ猪木とタッグを組んでの最後のタイトル戦。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク組に敗れる。
- 1973年2月27日、ボボ・ブラジルを破り世界ヘビー級争覇戦8勝2引き分けの成績で初代PWF世界ヘビー級王者(後に「世界」を外してPWFヘビー級王座に改称)に認定される。
- 1973年10月9日、ジャンボ鶴田との初タッグ。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク組の持つインターナショナル・タッグ王座に挑戦したが、引き分けて奪取ならず。
- 1974年12月2日、ジャック・ブリスコと対戦。60分3本勝負、2-1でブリスコを下し、NWA世界ヘビー級王座を獲得。日本人選手初。
- 1979年10月31日、ハーリー・レイスと対戦。60分1本勝負、1-0でレイスを下し、NWA世界ヘビー級王座に再度就く。
- 1980年9月4日、ハーリー・レイスと対戦。60分1本勝負、1-0でレイスを下し、NWA世界ヘビー級王座に三度就く。
- 1985年7月30日スタン・ハンセンと対戦。0-1でハンセンに敗れPWFヘビー級王座から陥落。これを最後にタイトル争いの第一線から撤退。
- 1990年4月13日アンドレ・ザ・ジャイアントとの大巨人コンビが実現。東京ドームでの日米レスリングサミットでザ・デモリッションズを破る。
- 1994年3月5日「夢のカード」と題して、長年のライバルスタン・ハンセンとタッグを組み、三沢光晴・小橋健太組と対戦。10年ぶりに日本武道館でのメインイベントに登場。三沢にフォールを喫するも、大きな感動をファンに与えた。
- 1998年12月5日、日本武道館でラッシャー木村、百田光雄と組んで渕正信、永源遙、菊池毅組と対戦。これが現役最後の試合となった。
[編集] 獲得タイトル
- NWA世界ヘビー級王座…第49代(防衛1回)、第55代(防衛1回)、第57代(防衛0回)
- インターナショナル・ヘビー級王座…第3代(防衛21回)、第5代(防衛18回)、第7代(防衛10回)
- PWFヘビー級王座…初代(防衛38回)、第5代(防衛15回)、第7代(防衛3回)、第9代(防衛3回)
- アジアヘビー級王座…第6代王者。大木金太郎から奪取したが、1度も防衛戦を行わずに返上。
- インターナショナル・タッグ王座…12度獲得。
- アジアタッグ王座…3度獲得。
- NWA世界タッグ(デトロイト版)…1度獲得。
- 歴代は不明(防衛0回)…パートナーはジャンボ鶴田。1度も防衛を行わずにタイトルを返上した。
- チャンピオン・カーニバル…7度優勝。
- 1973年、1974年、1975年、1977年、1978年、1981年、1982年。
[編集] 人物・エピソード
[編集] 性格
基本的におおらかな性格で、小さなころは非常に親孝行で、人との間に角を立てるのが本当に嫌だったという。
野球をしていた当初、一度スパイクシューズを履かずにストッキングのまま練習に出てきてひどく叱られたことがあったが、一向に戻ってスパイクを履こうとはしなかった。巨大なスパイクの中に猫が子供を産んでしまったというのがその理由であった。
契約には厳しいことで知られ、ジャパンプロレスとして参戦していた長州力が契約途中で離脱した際には断固たる措置を取ったという。しかし、天龍源一郎がメガネスーパー社から新団体旗揚げの話を持ち掛けられ全日本の契約終了後にSWSへ移籍した際、(当時団体の移籍は非常識とされていた為)憤慨していたジャンボ鶴田に対して「なぁ、人は裏切るより裏切られた方がまだいいだろう」と優しく諭したのも有名である。これは天龍と馬場の間に十分な話し合いが持たれていた結果であるが、他の契約期間が終了していない全日勢が何人もSWSへ流れていった際には「話が違う」と激怒した。
辞めていった日本人選手を二度と全日本マットに上げることはしなかったが、その弟子はリングに上げた(冬木弘道の弟子の、邪道、外道等)。師匠の事で弟子が巻き添えになる事はマット界ではよくあることだが、馬場は若い芽を摘むようなことは一切せず、師匠の事とは別の事と割り切って、その弟子達をリングに上げた。その点は特に馬場の人柄が表れている。
英語の能力は日本人レスラーでは随一だった。アメリカのレスリング・シーンに多大な影響力を持ったのも英語が良く出来たからだと言われている。
「シュート(真剣勝負・ガチンコ)を超えたもの、それがプロレス」という名言を残した(後に弟子の三沢が小川直也とタッグで対戦し(三沢、力皇vs小川、村上和成)、完全に小川、村上を子供扱いとしてこの名言を体現したような象徴的な試合となった)。他団体が格闘技路線を進めていた頃の全日本プロレスのキャッチコピー「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」や「プロレスとは『プロレス』である」といった名言は、馬場本人のコメントではなく馬場夫妻と数十年に渡ってプライベート含めて親交があった元『週刊プロレス』編集長のターザン山本が考え出したものであるが、馬場がこのコピーを大変気に入っていたことは事実である。
食事作法や礼儀作法、服装などに厳しく、後輩や弟子たちにも徹底的に叩き込んだ。1990年代、全日本の選手たちが決してシャツをズボンから出さなかったことは、馬場の教えが徹底されていたからであり、現在でもお付きだった和田京平や仲田龍、泉田純至らは「エリ付きのシャツでないといけない」という馬場の教えを守り、普段からTシャツではなくポロシャツを着ている。選手の茶髪も長い間許されなかったと言う。馬場自身はジーンズも嫌いで、持ってはいたが「あれは作業着だ」と言っていた。
プロレスラーが技を一般人にかけることを非常に嫌っていた。TBSのラジオ番組にゲスト出演していたとき、パーソナリティの松下賢次に何かプロレス技をかけて欲しい、というリスナーからのFAXがあった。馬場は「素人さんにプロレスの技をかけることは、絶対してはいけないこと」と語っている。しかし本人の意思に反し、2007年、アサヒ飲料『WONDA』のCMにおいて、桑田佳祐に対し技を繰り出すプロレスラーとして生前の馬場の映像が合成で使われた。
特大スパイクに住み着いた猫を追い払えなかったエピソードや、喧嘩もろくにした事がないのでプロレス入り当初は困惑したというような話が多くある為か、ジャイアント馬場には紳士的な印象が強く残っているが、自伝にはレスラーの中では喧嘩早い方ではないとはいえ、数多くの武勇伝が記されている(ただしあくまでもリング上での話である)。
[編集] 嗜好
歴史小説が好きな読書家で、年間200冊以上の本を読み、柴田錬三郎、司馬遼太郎のファンだった。他にも絵画などを趣味に持つ。「引退したら(当時別荘を持っていた)ハワイで絵を描く生活がしたい」と語っていたが、それが現実になることはなかった。『水戸黄門』の大ファンで、欠かさず見ていたという。アイドルとして人気絶頂だった松田聖子に初めて会った時、「テレビは『水戸黄門』しか見ないから知らない」と言ったという話や、初代水戸黄門役の東野英治郎と初めて面会した時は、直立不動の姿勢となり、思わず頭を下げてしまったと回想している。また、初代風車の弥七役の中谷一郎と会った時には「おう、弥七」と声をかけ、うっかり八兵衛役の高橋元太郎と会った際にも「八兵衛」と声をかけたと言う。本編だけを見るため、役者の名前を知らなかったのだ。『水戸黄門』に忍者などのキャラクターが出るようになると「突飛な事はやらない方がいい」と苦言を呈していた。東野時代のような典型的な勧善懲悪ものを好んだ。また、逆に高倉健に会った時にはファンの人かと思い「はい、どうも」と座ったまま握手をした。
ハワイを非常に気に入っていて、オフはよくハワイの別荘で過ごしていた。ハワイマット界にもかかわりが深く、全日本プロレスのタイトル認定機関であるPWFの初代会長ロード・ブレアースはハワイのプロモーターであった。日本プロレス時代の人生設計では、「38歳で日本のプロレス界からは引退し、その後はハワイに引っ越して気楽な隠居暮らしに入る」というつもりだったという。
キャピトル東急ホテルを東京ヒルトン時代から定宿としていたことはよく知られており、馬場~三沢時代の全日本プロレスの記者会見は殆どキャピトル東急で行われた。また馬場は、関東での大会の後はキャピトル東急のコーヒーハウスである「オリガミ」で食事をしていた。お付きの和田や仲田、番記者の小佐野景浩らはこの「オリガミ」で馬場から食事作法を学んだという(週刊ゴングの増刊号にて、キャピトル東急ホテルの閉館により閉店となる直前のオリガミにて、鈴木みのるが「馬場さんの味を食す」という特集を組んだほど、ジャイアント馬場=キャピトル東急というイメージがプロレス界では定着している)。
大変健康に気を遣うと言われているが、後楽園ホールのロビーでも常に葉巻を吹かしていた。また1990年の骨折入院までは大変な健啖家で、酒に強く(曰く「いくら飲んでも酔わないので酒は面白くない」)大の甘党であったが(あずきの缶詰を常に携帯しており、食事の締めとして餅に付けて食べるのが好きだった)、この事が糖尿病の遠因になった。骨折後は足腰の鍛錬により専心するようになり、毎日恵比寿の自宅から(マンションのエレベーターも使わなかった)六本木にあった全日本プロレスの本社までウォーキングするのが日課だった。若手時代は汗っかきだったが、糖尿病を患って以降は汗をかかない体質になってしまい、以来サウナ好きでもあった。
甘いもの、特にあんこが好きと述べていた。テレビ番組「ニュースステーション」の企画である「最後の晩餐」でも人生最後に食べたいものを大福と答えている。
[編集] 金銭感覚
負傷のためプロ野球選手の道を断念せざるをえなかったが、プロレスチャンピオンになって年収が3億円を超えたと話す(給料袋が縦に立ったという)。当時のプロ野球界の最高峰であった巨人の「ON(長嶋茂雄や王貞治)が『年俸3千万円、4千万円』などといっていたのを見て、おかしくて笑いが出てしまった」という逸話を晩年に語っていた。ただし、経営者として節税出来たことから、新聞で発表される長者番付の馬場の順位は下位であった。本人のコメントによるとアメリカ時代には1試合で5、6百万稼いでいた。
1本数万円(途中からは1本10ドルのカナダ産)の葉巻を愛用し、キャピトル東急ホテル内「オリガミ」で出される1個2500円のチーズバーガーを食べ、三沢に1個1万円のメロンを潰して作ったメロンジュースを振舞い、新婚旅行の費用をポケットマネーで出すなど、お金の使い振りは豪快なところがあったが、所属選手の年俸は新日本プロレスよりはるかに安かった。また、選手に対する契約に保険や負傷欠場時の給与補填などを制度として行わなかったため、馬場の死後の選手大量離脱の要因となった(馬場死後の新体制はそれを導入する方向だったが、オーナーである元子夫人が「馬場さんの時代にはなかった」と拒否した)。なお、その遺産は、渋谷税務署に8億7千万円と公示された。死後、永源遙は週刊プロレスのインタビューで「猪木さんは金を使うことが好きな人、馬場さんは金を使うことを忘れた人だった」と話している。また、猪木が参院議員に当選後に借金14億円と報道されたのを聞き、「俺との差は30億円ある」と言ったとザ・グレート・カブキが後に述懐している。
[編集] プロレスラーとの人間関係
力道山からは特別可愛がられた。これは馬場に「元巨人軍投手」という肩書きがあったことと、2mを超える身長に力道山が惚れ込んでおり「これはワシをも凌ぐスターになるかもしれん」と思ったからである。アントニオ猪木はいわば叩き上げであり、従順でなかった猪木を力道山はあまり好んでいなかったとされ、ちょっとしたミスで殴られたり蹴られたりが当たり前だった中、馬場は一度も殴られたことが無いというエピソードがある。また、馬場は入門当初から付き人を経験しておらず、すぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたなど完全な特別扱いであった。
新日本プロレスを旗揚げしてからの猪木の挑発には「何度もはらわたが煮えくり返る思いがした」と自伝に書いているが、猪木には基本的に「同じ釜の飯を食った男」という気持ちがあり、憎しみの感情はみられなかった(馬場が後期の猪木に一貫して持っていた感情は不信感だった)。猪木も同様で、表向きの発言と実際に馬場に会う時の態度は全くと言っていい程違っていた。馬場に対する猪木の言動の裏には、滅多に言い返さない馬場の性格を見越した上での、一種の甘えがあったともされる。
本当に馬場を憎んでいたのは上田馬之助で、日本プロレスの幹部の腐敗ぶりに愛想を付かして退団した馬場と、力道山の作り上げた日本プロレスに最後までこだわっていた上田の感情的なしこりは、日本プロレス崩壊後大木金太郎らと全日本プロレスに移籍する際、上田が仲介者の対等合併の言葉を本気にした事(実際は吸収合併だった)と、馬場が大木・上田ら移籍組を冷遇した(馬場曰く「全日本創立に奔走した仲間と、新日本とうちを両天秤に掛けたような元同僚を同格に扱う事は出来ない」という理由)ことで決定的になったという。日本プロレス崩壊の大きな原因の一つである「猪木追放事件」も、一般には「猪木・馬場らによるクーデター計画の存在を上田が上層部に密告した」ことが原因とされているが、上田は近年になって「実は最初に密告したのは馬場である」と語っており(詳しくは上田馬之助の項を参照のこと)、このことも上田と馬場の関係悪化に大きく影響していたと思われる。ただ、竹内宏介によると「上田が『猪木が会社乗っ取りと馬場の追い落としを企んでいる』と馬場に話して、それを馬場が上層部に話した」という。
プロレスのプロモーター(興行主)としても、NWAに加盟し第一副会長までのし上がったことで世界的に有名であった。ギャラの約束を必ず守り、大物選手はファーストクラスで来日させるなど丁重に扱ったことで外国人レスラー間の評判が高かった。無論当時は「名外国人を本場アメリカから呼ぶことに団体の意義・名誉のあった時代」であり、日本人レスラーへの給与形態などはやや違ったのである。ズル休みなどは大物外国人でも絶対できなかったという。また力が衰えてきてもそれなりのポジションで来日させ続けた。アブドーラ・ザ・ブッチャーやドリー・ファンク・ジュニアなどは1990年代中盤まで回数は減ったものの来日し続けている。
NWA副会長であり、WWWF(現WWE)発足の頃すでに大スターだったことから、ビンス・マクマホン・ジュニアも、馬場に対しては頭が上がらなかった。マクマホンがWWFとして日本マット界を傘下に治めようと奮闘していたとき、馬場はNWA第一副会長として一喝したことがある。後に馬場は「マディソン・スクエア・ガーデンで世界王座に挑戦したときにほんの子供だったこんな小僧に翻弄されてたまるか」と述懐している。
外人頂上決戦は、全日本ならではの名物メインであった。創立1年強の1974年1月には早くもジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、ドリー・ファンク・ジュニアとNWAの現・前・元王者を招聘し、日本陣営の馬場本人や鶴田、ザ・デストロイヤーと連日夢の顔合わせが展開された。またタッグマッチではザ・ファンクス対地上最凶悪コンビ、ファンクス対超獣コンビ、ハンセン、ジョニー・エース(もしくはダニー・スパイビー)組対殺人魚雷コンビのカードは出色で、猪木がメインとして絡む事の多かった新日本とは対照的に、マッチメイクにも柔軟性があった。1985年には、NWA王者リック・フレアー対AWA王者リック・マーテルという本場米国でもなかったNWA・AWA両世界王者のダブルタイトル戦も実現させた。
付き人だった大仁田厚を特別可愛がり、一時は本気で養子縁組を考えたこともある。大仁田が馬場の付き人をしていた頃、興行に馬場の赤いパンツを持って行くのを忘れたことがあった。困った大仁田は、同じ会場に赤いパンツを履く身長2mの外国人選手がいたため、この選手の控室に忍び込んでパンツを盗んだ。馬場はそのパンツで試合に勝ったものの、何かおかしいと気づき、「このパンツ俺の?」と大仁田に聞いた。大仁田は「外国人選手から借りてきました」とウソをついたが、馬場はこの嘘を即座に見破り「馬鹿野郎、貸すわけないだろ!」と怒鳴って張り手タイプの空手チョップを食らわせた。そして洗濯して返すようにと命じ、3日間口をきかなかったという。その後、別の興行で大仁田はまたしても馬場のスーツのズボンを忘れたが、素直に謝ったところ、馬場は何も言わず興業中の約1ヶ月間、スーツに赤ジャージのズボン姿で通した。
1987年11月、所属選手のハル園田(マジック・ドラゴン)が、全日本プロレスから派遣されて南アフリカ共和国のプロレス興行に参戦する際に、結婚したばかりの園田夫妻にポケットマネーを提供して、興業後の新婚旅行を奨めた。ところが、南アフリカに向かう飛行機がインド洋上で南アフリカ航空295便墜落事故によって墜落。ハル・園田とその夫人が事故死することとなった。馬場は生涯、園田の派遣と新婚旅行を奨めた事を悔やんでいたという。リング上で弔辞を読んでいる時に号泣した。
世界中のプロレス界を股にかけた大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントが最後に選んだリングは、天龍一派の大量離脱で黄昏時を迎えていた馬場全日本だった。二人がコンビを組んでいた頃「馬場とアンドレが天の川で流しソーメンを食べていた」などという伝説が流れた事もある。実際二人は、互いに並外れた巨体を持つ故の孤独を理解できたのか大変仲がよく、話し相手に困らないようにと、アンドレの若手時代からの親友であるマイティ井上を話し相手として帯同させ、アンドレ参戦時の外国人用移動バスの冷蔵庫には、アンドレ好みのワインが常に置かれていたという。
[編集] 芸能人との関係
彼の体の大きさはよく芸能人のネタにされた。
- ビートたけしには「巨人時代、ボールを投げようとしたら捕手の森の頭を叩いてしまった」「投げた瞬間にキャッチャーをまたいでしまうため、野球をやめた」「タクシーに乗ろうとしたら、左のドアから右のドアに出てしまい、乗れなかった」「車のサンルーフから頭を出して運転していた」「飛行機に乗る時は、両手を翼の中に入れて、腹這いになる」「ゴルフもショートコースはパターしか使わない。カップインしたボールを取り出そうとしたら、グリーンも一緒に持ち上がった」「一緒に飛行機のファーストクラスに乗った時、前の席に座っていた馬場さんがシートを180度倒したらオレの腹の部分に頭がのった」など。
- これらのネタは、学生時代に「ビートたけしのオールナイトニッポン」の熱心なリスナーであり投稿者でもあった、消しゴム版画家でエッセイストでもあったナンシー関が考えたとも言われる。本人も著書の中で、ジャイアント馬場の大きさについてのネタを考え出すといくらでも浮かぶと語っている。
- ダウンタウンの松本人志もカーナビで馬場の居場所が写るとネタにしたり、「ダウンタウンのごっつええ感じ」でも馬場をネタにしたコントがあった。
- 島田紳助もトークで時々馬場のネタを使うことがよくある。それで「クイズ紳助くん」では馬場を崇拝している円広志が怒るというパターンが何度もあった。
- ジャイアントコーンのCMで共演した酒井法子がデビュー当時使っていた「のりピー語」で「馬場ピー」は「大きい」を意味していた。CM撮影時に一口かじったアイスを、スタッフが「処分しますので」と引き取ったが、馬場は「勿体ないよ」と言うと、最後まで食べたというエピソードがあり、酒井法子は「身長だけでなく、心も大きい人でした」と語っている。また、第12回アメリカ横断ウルトラクイズの第4チェックポイントで「馬場ピー」の意味について出題され、この回の準優勝者となる解答者が、「汚い。」と珍解答をしてしまい、司会者の福留功男が「馬場さんが怒るよ」と説教した挙句、その後はその解答者のニックネームにもなってしまった。
女優の水野久美は同郷で上京前からの友人。馬場にとって水野はマドンナで、上京後、互いに下積み時代だった頃も馬場は水野の引っ越しを手伝ったりした。
シンガーソングライター松山千春とも親交があった。自ら出していた月刊誌にジャイアント馬場との対談を発表したこともある。松山は馬場の逝去後、1999年8月に「Champ never die」という曲を発表、馬場に捧げている。
2006年8月NHK教育テレビ知るを楽しむ私のこだわり人物伝で、4週にわたり香山リカがジャイアント馬場について語った。香山は少女時代、馬場に抱き上げてもらったことがある。
B'zのシングル曲『ギリギリchop』は、プロレスファンである稲葉浩志が馬場の死に哀悼の意を込めてタイトルを付けたとライブのMCで語っている。
亡くなる約2ヶ月前に「徹子の部屋」へ2週にわたり出演したが、奇しくもこれが一般視聴者にプロレスについての最後のメッセージの場となった。馬場は受けの説明等を行い、この時初めてテレビで歌も歌った。また弟子(ハル園田)の飛行機事故死がきっかけで飛行機が怖いとコメントして、黒柳徹子にスクワットのやり方を教えた。黒柳はこれがきっかけで今でも毎日スクワットをしている(黒柳は「スクワットは馬場さんの遺言」と語っている)。
[編集] SHOW by ショーバイ!!でのキャラクター
1988年から1996年まで放送された日本テレビ系クイズ番組「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」に出演、様々な珍解答で視聴者の笑いを誘った。同番組の初代司会者であった逸見政孝とのやりとりは秀逸だった。「何を作っているのでしょうか?クイズ」で、終了5秒前にボタンを押したはいいが、正解が「ボクシンググローブ」であるところを「赤ベコ」と答え、逸見を始めとする出演者全員を悶絶させたこともある。逸見はこの馬場の発言で笑い転げてしまい、しばらく起き上がれなかった。
特番では、代表者になるもののボタンを押さず、業を煮やして高田純次がボタンを押したこともあった。さらに、その時の正解は「トゥーシューズ」だったために高田がバレリーナを真似て正解を伝えたが、本人は「オッパイにあてるやつ」と答えてしまい周りを悶絶させたこともあった。
とにかく早押しボタンを押さないことで有名で、早押しボタンのすぐそばにコーヒーを置いていたため、隣に座っていた川合俊一に「馬場さん、早押しボタンの上にコーヒーを置いたら押せないでしょ」と突っ込まれていた。サブ司会の渡辺正行に「押す意志無いじゃないですか」と突っ込まれた。
同番組の特番では、パネラー席の早押しボタンが付くかのテストが行われたが、馬場は思いっ切りデスクを叩き、パネラー席を破壊してしまったことがある。山城新伍は、「(演出として)スタッフと相談して、馬場さんに内緒でデスクボードに細工をして落ちやすくしていたが、馬場さんはそれを察していて、知らんふりしてボードを叩き落してくれた」と語っている。またこのとき山城新伍は、どさくさに紛れて問題の答えを見るというカンニングをしていた。
山城は逸見の追悼スペシャルにて、逸見が胃ガンの闘病生活に入ることを告白してから、逸見の早期回復を祈って願を懸けるために、馬場は大好きな葉巻を断ったエピソードも紹介し、馬場の人柄を讃えた。逸見が亡くなってから、自らのトレードマークだった葉巻を口にすることは生涯無かった。
野沢直子からはこの番組限定で「ジャイヤント」と呼ばれていた。
四択問題ではフリップに十字の線を引いて四分割し、正解と思われる場所に円を付けていた。正解が違うとこっそりフリップの向きを変えて正解であるかのように見せていた(当然無効であり、逸見らに「不正解ですから」と突っ込まれていた)。
最終回スペシャルも自身の試合が終わってからその足でスタジオへ駆け付けた。馬場の名場面特集も組まれた。
[編集] ものまね
当初は、タレントなどにものまねされることに対し不快感を示していたが、徐々にそういったおふざけを容認するようになり、そのキャラクターや風貌から、多くのバラエティ番組やCMに起用されることとなる。また、全日本プロレスでの自らを主役とした、ギャグタッチのアニメビデオをリリースされるまでに至った。
早くから馬場をものまねのレパートリーにしていた関根勤には、初対面の際「ぼくはアッポーなんて言ってないよ」と文句を言ったが、「指で汗をぬぐい大きく息をつく動作なんです」と実演して見せたところ「それは似てる」と、それ以来関根に本人公認のお墨付きを与えたというエピソードもある。また、「笑っていいとも!」に出演したとき、突然関根にババチョップを打ち込むと、関根は機転を利かせて馬場のものまねで膝をついた。
[編集] 新人時代
馬場自身が「私は力道山に一度も殴られた事が無い」と発言しているのは有名だが、それは理不尽な暴力を受けた事は無いという意味で、自伝によると力道山から空手チョップの手ほどきを受けた際、皮膚を鍛える為に特殊な農具で手を何度も思い切り叩かれたという。叩かれている間力道山に「どうだ痛いか」と聞かれたが、「痛くないと言えば余計に力を加えるし、痛いと言えばそのうち痛くなくなると言って叩くのをやめないので、黙って耐えるしかなかった」と述懐している(練習をサボったのが見つかれば額を叩いて出血させるのが力道山のシゴキだった)。
力道山には弟子に酒の一気飲みを強要する癖もあったのだが、馬場も例外では無く、殆ど酔わないのをいい事に何度も大量に飲まされたという(馬場自身は酒嫌いだった)。実際、師匠である力道山はスポンサーの前で「プロレスラーの頑強さ」を見せることをしていた。デビュー前の馬場は、スポンサーの前で力道山に「ジョニ黒」を一気飲みさせられ、目の前に「火花が散った」という。一息ついた馬場が水を飲もうとしたところ、チェイサーに差し出されたのは「ビール」だったという。
野球上がりで腕が細かったため(当時のピッチャーは腕を痛めるといけないという理由で腕立て伏せもしなかった)、巡業で津軽海峡を渡る際、青函連絡船で力道山の指示でいつも到着するまでバーベルを持たされていた。馬場は北海道に行くたびにあの時の事を思い出すと語っていた。
練習生の中で馬場が唯一給料を貰っていたのは、プロ野球ファンであった力道山が元巨人軍投手の馬場のプライドに配慮した為と思われる。「練習生はジムに住み込み、基本的にノーギャラ」というのを知らなかった馬場は、力道山に「(給料は)幾らですか?」と単刀直入に聞き、「巨人時代は幾ら貰ってたんだ?」「5万です」「よし5万だ」で話はまとまった。もっとも、翌月には「試合もしてねえのに5万は高すぎる。3万だ」と値切られた。
若手時代の海外遠征では、プロモーターの意志に従い、アメリカの都心でも着流しに草履という格好で通した。このことが多くのタイトルマッチを行うことが出来、アメリカで大きな成功を収めることが出来た要因でもある。しかしまだ有名になる前、テキサス州の田舎街のレストランにその格好で入ろうとした際、店の用心棒から「東洋人のくるところじゃない」と一喝され、足元にピストルで射撃されたこともあるという。
アメリカで嫌気がさしていた馬場の心を癒したのは、当時アメリカで大ヒットしていた、坂本九の「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」だった。馬場は飲み屋に出かけると、ジュークボックスの中に唯一入っていた日本の楽曲「SUKIYAKI」を流していたという。またニューヨークには、当時珍しかった日本人が営業しているカレー屋があり、馬場はそこを訪れては、カレーをご馳走になったり、店主と遊びに行ったりしていたという。
修行時代のヒンズースクワットで、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説も残っている(これに負けじと、アントニオ猪木も一緒にスクワットをし、汗の水溜りが出来たという)。当時は脚力も強く、逆エビ固めをかけようとする相手レスラーを、膝を伸ばす力だけで跳ね返した。
新人時代には、アントニオ猪木と16回対戦したが、馬場の16勝0敗。また、馬場は、猪木との戦歴を自ら話そうとはしなかった(決まり手は猪木よりも身長が高いことを利用したフルネルソンが多い)。アメリカ武者修行時代に築いた人脈により多くのレスラーの招聘をし、タイトルマッチを日本で行った。
[編集] 闘病生活と、その死
1998年12月初頭、馬場は地方巡業先で、微熱が下がらないなど体調不良を訴えた。結果、巡業先での試合出場を取りやめ、秘書の仲田と共に帰郷。病院で検査を受けた結果、精密検査を勧められ、年末恒例の海外旅行をキャンセルした(この年は、例年訪れていた別荘のあるハワイではなく、WWF社長のビンス・マクマホン・ジュニアの招待でカナダを訪れ、WWFの大会を視察することになっていた)。
しかし精密検査の結果、大腸癌の末期で、他の臓器にも転移が見られることが判明。このことは以後しばらく、元子夫人にしか知らされておらず、看病をしていた仲田や和田京平らにも告げられなかった。馬場には告知されることは無かった。手術を行ったが手遅れの状態で、年明けには集中治療室に入り、意識も次第に無くなっていったという。
マスコミやファンには病名を一切公表せず、「風邪の悪化」としていた。全日本プロレス中継では「ジャイアント馬場順調に回復、脅威の生命力」と報じられていた。鶴田や三沢、ジョー樋口ら、全日本の主要役員が病院に見舞いに訪ねたことは何度もあるが、元子夫人の意向で「感染するといけないから」と、面会をかたくなに拒んでいた。
1月29日、既に意識が無くなった馬場の余命があと数時間しか無いことが主治医から元子夫人に告げられる。ここで初めて、看病を続けていた和田と仲田に病名が伝えられた(二人とも、薄々病名は感づいていたという)。わずかな延命措置を取るか、そのまま死を迎えるかの判断が迫られたが、馬場は病院の特別室から集中治療室に移された頃、「特別室に帰りたい」と望んでいたこともあり、仲田の提案で、集中治療室から特別室に馬場を移し、延命措置を取りやめた。馬場はそこから2日間生き続けたが、1月31日、帰らぬ人となった。
馬場の最期に立ち会ったのは、元子夫人や馬場の家族のほかには、秘書の仲田龍と運転手の和田京平しかいない。和田と仲田は、当時若手選手だった志賀賢太郎や丸藤正道、橋誠らに電話をかけ、「社長が退院してくるから、マンションで待機していてくれ」と、馬場の死を隠して呼び出している。これも元子夫人の意向である。そのまま恵比寿の自宅マンションで、鶴田や三沢ら全日本の関係者が集まり、密葬となったが、その頃、隠していたはずの馬場の死がマスコミに漏れ、マンション前には多くの報道陣が詰め掛けていた。和田京平の著書によると、病院関係者によるネット掲示板への書き込みが原因だという。
結果、馬場の死はマスコミによって大々的に報じられ、特別番組も多く組まれた。事実が漏れることを嫌がっていた元子夫人も、報道カメラに向かって一礼している。
生涯現役を貫いた馬場の業績を称え、1999年5月の東京ドーム大会(没後興行)は「ジャイアント馬場引退記念興行」と銘打たれた。「引退試合」にはスタン・ハンセンを先導にかつてのライバルや盟友が登場。マッチメイクはジャイアント馬場・ザ・デストロイヤー組vsブルーノ・サンマルチノ・ジン・キニスキーの時間無制限一本勝負。サンマルチノは「あなたは体だけでなく心もジャイアントだった」と称えた。またパートナーのデストロイヤーは日本語で「社長、本当にお疲れさまでした」と深々と頭を下げ、会場じゅうの涙を誘った。このとき、リング中央に置かれた愛用のシューズをデストロイヤーがつかんだ瞬間に「今、デストロイヤーと固く握手いたしました」と、平川健太郎アナウンサーがコメントした。
[編集] その他
馬場と言えば、五分刈りに近いスポーツ刈りのヘアスタイルがトレードマークだったが、1976年から1978年頃の一時期、髪を伸ばしていたこともある(アブドーラ・ザ・ブッチャーや大木金太郎による頭突き攻撃への防御策と言われたが、真偽は不明のまま)。この時、「パーマをかけている」と言われたが、実際は癖毛なのでそう見えるだけだったという。
1995年1月、元子夫人の明石の実家が阪神大震災の被害に遭い、和田・仲田らと家の片付けに向かったが、関西地区の被害を目の当たりにした馬場は、自費でガスコンロや生活用品を買い集め、関西地区に住んでいる全日本のファンクラブ「キングスロード」の会員の家の名簿を取り寄せ、一軒一軒に馬場自らが出向き、生活用品を差し入れて回ったという。
晩年に巨人のOB会に出席した時に、先輩の千葉茂に「おーい、馬場!」と手招きされた際、大喜びで後ろから抱きつき、馬場がおんぶされるような格好で甘えるという珍しい構図になった。目上から呼び捨てにされる機会がほとんど無くなり、久しぶりの事だったのでとても嬉しかったという。
プロレス興行では大会場での試合、地方での売り興行関係なく入場口近くの売店の椅子に座り、グッズを購入したファンにサインを書いていた。馬場の死後の全日本プロレスでは、馬場が座れるようにと、馬場が座っていた場所に椅子が置かれている。
もごもごしたしゃべり方や、こもった低音の声質に特徴がある。それがものまねのネタになりやすかった。故郷・新潟の風景を題材にした「砂山」を歌うのが好きで、くぐもった声からは意外だが馬場の歌はなかなか上手いという話もある。
元子夫人との間に子供はいない。馬場は巨人症(下垂体腫瘍肥大)であり、それが遺伝することを恐れて子作りをしなかったといわれている(実際には巨人症が遺伝することはほとんどない)。
巨人軍時代、下垂体腫瘍により視神経が圧迫されて視力障害を引き起こしたため、開頭手術をしたことがある。当時の技術では成功率が非常に低く、医者から「失明する可能性が高いので、見える内にマッサージ師の勉強をしておきなさい」と勧められた程だったが、手術は無事成功した。
ジャイアント馬場の代名詞「16文」(約38.4cm)は、日本に合う靴がほとんどなかったため、アメリカ遠征の際入手した靴にアメリカ規格の「16」(約34cm)とあるのを見たプロレスマスコミが16文と誤認して、そのまま定着したもの。一部では「16文ではなく16インチ(約40.6cm)」という更に誤った説もあった。
長州力らジャパンプロレス勢が全日本マットに参戦した当初、いわゆる「ハイスパート・レスリング」に対し、シャムネコのケンカと揶揄したが、しかし皮肉にも結果的にはそれまでアメリカン・プロレススタイルが主流であった全日本の試合内容に変革を起こす事となった。それは長州の全日本マット参戦前後のVTRを見ればスピードの違いがよくわかる。その後長州に呼応した天龍が長州離脱後の全日本マットで激しいプロレスを展開し、後の四天王プロレスのスタイルの礎を築く結果となった。
新日本の前田日明の長州顔面蹴り事件に馬場は「オレならクビにしない。プロレスは何でもありだから」とコメントしたという説もある。実際に全日本マットでは、天龍は輪島大士の顔面を、その数年後には天龍の弟子だった川田も三沢の顔面を容赦なく蹴っていた。
全日本を旗揚げした当初から年8回のシリーズと全国巡業をモットーとし最後の最後まで常設会場は持たなかった。アントニオ猪木率いる新日本が異種格闘技戦など斬新な企画を次々と打ち出しても、馬場は年8回のシリーズと全国巡業という型を淡々と続け、一貫としてそのスタイルを崩すことはしなかった。
[編集] 入場テーマ曲
- 馬場の代名詞とも言える楽曲であり、プロレスそのものをイメージさせる楽曲としても各局のテレビ番組などで多く使われている。1980年代中盤からは、大相撲からプロレスに転向し全日本に入団した輪島大士に譲り、王者の魂に変更した。
- 王者の魂(作曲:実川俊・TEmPA)
- 使い出したのが1982年頃(1980年代中期はビッグマッチ限定)で、その数年後には中継が深夜に移動したため、アントニオ猪木の「炎のファイター」(イノキ・ボンバイエ)に比べるとプロレスファン以外の知名度は低い。その為、「ジャイアント馬場=日本テレビスポーツのテーマ」というイメージが現在でも持たれている。
[編集] 書籍
[編集] 著書・関連著書
- 『プロレス入門』 小学館、1971年
- 『たまにはオレもエンターテイナー』 かんき出版、1983年
- 『ジャイアント馬場の16文が行く』 ダイナミックセラーズ、1983年
- 『個性豊かなリングガイたち』 ベースボール・マガジン社、1987年、ISBN 4-583-02566-1
- 『16文の熱闘人生』 東京新聞出版局、1994年、ISBN 4-8083-0485-6
- 『馬場伝説』 筑摩書房、1996年
- 『オレの人生・プロレス・旅』 ジャイアントサービス、1998年
- 『16文が行く』 ダイナミックセラーズ出版、1999年、ISBN 4-88493-279-X
- 『王道16文 完全版』 ジャイアントサービス、2000年
- 『ねぇねぇ馬場さん』