馳浩

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日本の旗衆議院議員 馳 浩
生年月日 1961年5月5日(53歳)
出身地 日本の旗 富山県小矢部市
出身校 専修大学
学位・資格 文学士
高校教員免許(国語科・書道科)
漢字検定 2級
前職 プロレスラー
所属委員会 文部科学委員会
世襲
選出選挙区 石川1区
当選回数 5回(参1回)
所属党派 自由民主党町村派
党役職 国会対策副委員長
石川県連会長
金沢支部顧問
石川県第一選挙区支部長
会館部屋番号 衆議院第1議員会館812号室
ウェブサイト 衆議院議員「はせ浩」のオフィシャルサイト
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馳 浩(はせ ひろし、本名:同じ、旧姓:川辺1961年5月5日 - )は、日本政治家、元プロレスラー自由民主党所属の衆議院議員(5期)、自民党石川県連会長。元参議院議員(1期)。

身長183cm、血液型A型。富山県小矢部市生まれ、石川県金沢市育ち。妻は女優高見恭子。1度離婚しており、先妻はサンボの元選手であるビクトル古賀の娘。

第3代PWF会長。

略歴[編集]

人物[編集]

  • 富山県小矢部市津沢地区の南部にあり、古刹・安居寺に近い興法寺(こうぼうじ)集落の農家の三男として生まれたが、小学3年時に石川県金沢市の親戚の養子となった。
  • 生来の相撲好きということで、中2の時に友人等10名を募り正式に相撲部を設立。まわし姿で町内をランニングし、夢は卯辰山相撲場の土俵に立って闘うことでもあった。しかし高校進学と同時にレスリング部に入ったので夢は実現しなかった。また、中学時代は町の剣道場にも通っていた。
  • 憧れの対象に影響されることが多く、相撲は地元出身の第54代横綱輪島大士、プロレスはジャイアント馬場、文学は中学時代国語担当の女性教師に影響されたことがきっかけ。
  • 体育会の学生ではあるが、運動ばかりでなく学問に憧れを持っていたといわれる。学生時代は古典文学の全集を片端から読破し、レスリング部の合宿時には必ず1冊の古典を持参していたという。当時の専大レスリングの監督は元衆議院議員松浪健四郎だった。
  • 古典に対しての愛着が強く、海外遠征の際には『源氏物語』の原典版を持ち歩き心の支えとしていたという。受験雑誌『蛍雪時代』に古典講座の連載を持ち、それをまとめて『「古典」簡単じゃないか』という本を出版している。
  • 自らの出身大学である専修大学のレスリング部の監督でもあり、有望な選手を全日本プロレス健介officeに練習生として送りたいと話している。
  • 2003年の文部科学大臣政務官就任まで、神奈川大学で講義を受け持ったこともある。
  • 「プロレスとは芸術である」を持論としており、技のフォームの形に対するこだわりは強い。1990年代半ば、投げっ放しジャーマンが乱発され始めた時も「ジャーマン・スープレックスはブリッジした時のフォームが美しいのに、投げっ放しジャーマンはそれを壊している」と批判。しかし本人は投げっ放しジャーマンを時々使用していた。
  • 馳がとある試合のセコンドについていた際、激しくかつ執拗にリングを叩きながら、その試合でレフェリーをしていたタイガー服部に対して野次を飛ばしていた。すると堪忍袋の緒が切れた服部がリングサイドにいた馳に対し、トップロープを掴んだ体勢で2本目と3本目のロープの間から(現在[いつ?]で言う顔面ウォッシュの要領で)体重を乗せて放った蹴りが横っ面を直撃した。馳はかなり足にきていた様子でその一部始終はTV中継されている。
  • プロレスラー現役時代には非常に女性にモテてスチュワーデスの電話番号を聞き出すのは100%の確率であったという。そのプレイボーイぶりをトークショーで語るなどリング外でもサービス精神旺盛であった。
  • 今後[いつ?]三沢光晴が会長を務めていたグローバル・レスリング連盟の発展に一役買うことを公言している。
  • 下ネタが好きな方で、座右の銘は「腰振り合うも他生の縁」「親しき中にも前戯あり」と雑誌で公表した。また、トークショーにおいて「腹上死が理想」と公言したこともある。
  • 武藤からは全日本プロレスの黒幕と呼ばれており、本人は「相談役などのまともな肩書きが欲しい」と語っている、現在[いつ?]はPWF会長という肩書きである。
  • 説得力のない技を嫌っており、藤波辰爾ドラゴンスリーパーを嫌うが、自身の得意技ジャイアントスイングの説得力も微妙という。
  • ももいろクローバーZのファンである。全日本プロレス『2011 プロレスLOVE in 両国 vol.13』をPWF会長として観戦した際に、同グループがゲストとして行ったパフォーマンスに感銘を受けたことがきっかけ。2013年に馳の地元金沢で同グループのライブが行われた際には、自費でチケットを購入し観に行った[3]

プロレスラーとして[編集]

馳 浩
プロフィール
リングネーム 馳 浩
ヒロ・ハセ
ベトコン・エクスプレス2号
本名 馳 浩
ニックネーム 北斗の流星
戦う国会議員
戦う愛の伝道師
戦うベーヤン
戦う国語教師
身長 183cm
体重 105kg
誕生日 1961年5月5日(53歳)
出身地 富山県小矢部市
スポーツ歴 レスリング
トレーナー ミスター・ヒト
ジャイアント馬場
アントニオ猪木
長州力
デビュー 1986年2月28日
引退 2006年8月27日
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エピソード[編集]

ジャパンプロレス時代[編集]

  • 1984年のロサンゼルスオリンピック代表という実績の下、鳴り物入りで1985年に大学の先輩長州力ジャパンプロレスに入団。オリンピック出場という華々しい実績を持ち、契約金を要求せず高校教師時代と同額の月給保証のみで入団したために馳は特別待遇とされ、通常の新入りが体験する辛い下積み生活を味わうことはなかった。同時期、辛い下積み生活に耐えていた佐々木健介は、特別扱いされている馳を見て、かなり含むところがあった、と後に当時の心情を告白している。尚、トレードマークだった口髭は長州力より「顔にしまりがないから髭でも生やせ」と言われ、生やしたという。
  • 1986年2月28日プエルトリコ・カグアス・シティーアリーナにて対ミゲル・ペレス・ジュニア戦でデビュー。
  • 若手時代、ミスター・ヒトのブッキングでカナダカルガリー地区(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)に武者修行のため遠征していたことがあり、新倉史祐と組み「ベトコン・エクスプレス」として活動していた(当時のリングネームは「ベトコン・エクスプレス2号」)。当時のライバルはオーエン・ハート

新日本プロレス所属時代[編集]

  • 1987年のジャパンプロレスの面々が新日本マットに登場した際に日本デビュー。日本デビュー戦は小林邦昭IWGPジュニアヘビー級王座に挑戦し、勝利する。デビュー戦の戴冠は史上初で現在[いつ?]においても唯一の例。だが、試合中にスリーパーホールドで落とされたにもかかわらず不自然な勝利をあげたことを含め、このあからさまな特別待遇は当時の新日本ファンに反感を買い、クリーンなファイトスタイルにもかかわらず人気はなかなか上がらなかった。
  • バラエティー色を強くした『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』にスタジオゲストで出演した際、司会の山田邦子が流血したレスラーの様子を見て「血ってすぐ止まるものなんですか?」と聞いたとき、馳が「つまんない話 聞くなよ、止まるわけないだろ! あ?」と、立腹する内容と思えない質問に対し、突然 激怒した。
  • 日本テレビ『全日本プロレス中継』のミニコーナー「プロレスニュース」で、かなりコミカルにプロレス情報を伝えていた福澤朗に対して「あのアナウンサー、ふざけすぎだよ! 会ったらブン殴ってやる!」と雑誌でコメント[要出典]し、その翌週のプロレスニュースでは福澤が「他団体のレスラーにも賛否両論・プロレスニュース」と言う一幕もあった。1997年1月2日における馳の全日デビュー戦(第一試合、対志賀賢太郎)の実況は福澤が担当した。
  • キャリア後半以降から着用した黄色いパンツは星稜高校のスクールカラーによる。
  • リングインの定番ムーブでコーナーマットに昇り、自分の着ていたイラスト入りのTシャツを観客に投げ入れる(その際左右を見渡し、相手を定め指を差すのが定番)。
  • 佐々木健介が海外武者修行から帰国後、暫くしてから両者は唯一無二の同期タッグ「ハセケン」として闘魂三銃士スタイナー・ブラザーズらと名勝負を展開する。またこの時期の2人は新日本道場の鬼教官も兼務しており、当時新日本に入団した第三世代と呼ばれる永田裕志中西学天山広吉小島聡大谷晋二郎金本浩二高岩竜一らの指南役となり、一人前のレスラーとして育て上げた功績は大きい。しかしながら、オールドファンや先輩レスラーからは馳のコーチ就任から新日本らしさが失われたとして批判を浴びることもしばしばある。馳が全日本プロレスに移籍して以降、両者は長らくタッグを組むことがなかったが、2003年3月1日に行われたWJプロレス旗揚げ戦で7年ぶりに「ハセ・ケンタッグ」が復活した。
  • 秋山準を入団に際して不合格としたことにより長州力から「なんであんな良い奴取らないんだ?」と言われたことがある。また中西学のデビューに関しても、素材は素晴らしいがセンスが全く無い、不器用すぎるという理由で反対し続けた一人でもある。中西学のIWGP王者となった際も祝辞コメントで「おい中西、俺は昔から言ってるだろう?マスコミやお客さんにチヤホヤされていい気になるんじゃねぇぞ!」と叱咤激励をしていた。
  • 1993年には週刊プロレス誌上で「自分で週プロの記事を書く」と宣言したところ、当時の編集長だったターザン山本がこれに応じたことで、自身が書いた安田忠夫のデビュー戦の記事が週プロに掲載されたことがある。
  • 後藤達俊バックドロップを受け損なって一時心肺停止、臨死体験をしたことがある。幸い、リングドクターが来場していた大会であったため、一命を取り留めた。倒れた時は長州も「馳、死ぬな!!」と涙を流しながら必死で呼びかけた。現在[いつ?]でもその後遺症により時折、目の焦点が定まらなくなることがあるという。またこの事件を契機に常設リングドクターの設置、新日本所属レスラーの定期検診が定着した。この一件後、馳は、失神・タンカ退場劇を多く見せるようになった。なお馳は目覚めたとき「綺麗な虹を見てたんだ」と言ったため、その後も後藤から「また虹を見せたろか」とネタにされていた。
  • 1990年代以降、実質的な現場監督としてブックを担当し「新日本プロレスの頭脳」と評される。
  • 佐々木健介いわく「血が出やすい体質」と言い、度々試合において額からおびただしい量の大出血を起こしている。
  • 新日本プロレス退団の理由には、馳にはそのつもりはないのに長州が勝手に引退を発表したことで生じた軋轢があった。
  • 決定的なのは新日本の上層部(社長周辺)の都合によるもので、当選間もない馳に対して無理な日程を組み試合を行い体力的にも限界を感じさせる試合内容にしたことによるものである。

全日本プロレス所属時代[編集]

  • 清和会国会議員兼全日本プロレス所属のプロレスラーであり、プロレス興行には主に国会のない期間に参加していたが、政治で大臣政務官副大臣など、徐々に要職につき始めるとその機会が減っていき、2005年9月11日の衆議院選挙の当選と同時にプロレスラーとしての現役引退を表明(理由として靱帯断裂もある)した。
  • 引退興行については武藤敬司が「全日で馳さんの引退興行を行いたい、新日では行わせたくない」と周辺に漏らしていた。また、2006年1月の武藤社長就任3周年記念パーティに馳が参加し、自ら「引退興行は本年中に全日本で行って欲しい」と嘆願、同年7月23日の地元金沢の興行を馳浩引退記念興行とし、8月27日の両国国技館大会で引退試合を行った。なお、7月23日の金沢大会はもともと挨拶だけの予定だったが、本来出場予定の佐々木健介が左眼窩底骨折で出場できなくなり、急遽代役として出場することとなった。
  • 2006年8月27日、馳のプロレス引退試合を森喜朗が観戦したが、対戦相手のVOODOO-MURDERS"brother"YASSHIが「おい、そこの森! お腹の中、何か詰まってるな? お金か? このカス野郎!」と森に罵声を浴びせた上、森の失政を批判し唾を掛けた。さらに、場外乱闘に乗じてTARUが森を挑発したため、森もパイプ椅子を持って身構えるという事態が発生した。このとき観客から森コールが起こったものの、森のSPがTARUに抗議しつつ森を止めたため、憲政史上初となる総理大臣経験者のプロレス参戦は実現しなかった。試合後、記者団に対して森は「椅子? パフォーマンスだよ」と苦笑いで語ったが、YASSHIに話が及ぶと「客に対して失礼だ」と激怒した。その後、馳は電話にもかかわらず森に土下座して謝罪したという。ただ、森は元々プロレス好きであり、YASSHIに対する一連の発言もパフォーマンスの可能性もある。なお、この大会では初代文部科学大臣だった同じ派閥の町村信孝も来場し、森の横で観戦していたが、この試合中の顛末をにこやかに見ていた。
  • 引退セレモニーの花束贈呈順が元内閣総理大臣の森喜朗、文部科学大臣の町村信孝、オーラスがミスター・ヒトだった。馳は「元総理、文部科学大臣を前座にして何でミスターヒトが大トリなんだ!? 俺にも立場がある」
  • プロレスからの引退発表こそしたが、総理大臣としてSPを連れてリングに上がるのが夢だと話しており、今後[いつ?]も体を鍛え続けるようである。
  • フジテレビのクイズ番組『クイズ$ミリオネア』で、著名人としては初めて全問正解し、最高賞金の1,000万円を獲得した。収録時に司会者のみのもんたから渡される小切手をそのまま換金出来ると思っていたがそうではなく、後日銀行振込で賞金が入っていたという。
  • 全日本プロレス移籍間も無い頃は特別扱いしないという馬場らの意向からか前座からのスタートであり、それほど格の違わない相手であっても勝利すると大金星と揶揄されることもあった。
  • 全日本プロレス時代では、移籍から2000年までに当時の五強(三沢光晴、川田利明、小橋健太、田上明、秋山準)の5人全員とシングルマッチで対戦している。

その他[編集]

  • ジャパンプロレス時代にジャイアント馬場の教えを受け、新日本に移籍後はアントニオ猪木の教えを受けている。そのため、プロレス界では数少ない「ジャイアント馬場とアントニオ猪木の両方から教えを受けたレスラー」で、本人もそのことを誇りにしている。

獲得タイトル[編集]

新日本プロレス
WCW
  • WCWインターナショナル・ヘビー級王座

得意技[編集]

ノーザンライト・スープレックス
この技の開発者。別名北斗原爆固め。ネーミングはカルガリーにかけたもので、ブリッジの美しさは他に類を見ない。現在[いつ?]では数多くのレスラーが繋ぎ技として使用するがこの技の元祖である馳は頑なにフィニッシュとして使用するこだわりを見せる。相手の両腕をクラッチして受身を取りづらくさせるのが馳流、武藤にシャイニング・ウィザードの踏み台にされたことがある。
裏投げ
サンボ修行中に体得。馳によりプロレス界に持ち込まれた。相手の力量に応じて意図的に角度を調節しているが一流レスラーが相手となると正に扇を広げた様な形で頭から、時に垂直に叩き落とすこともあった。見た目は美しいが時に悲壮感が残る程の実際にかなり危険な技である。
ジャイアントスイング
レスラーの中でも随一の使い手であった。最高で60回転したことがあり、引退試合では自身の年齢と同じ45回転を達成した。
また、ジャイアントスイングを仕掛けた後腰を回すアピール(当時人気レスラーだったリック・ルードの定番ムーブを模したもの)をしたり、タッグマッチでは相手のパートナーから攻撃されたりするのが(主にラリアット)定番のムーブとなっている。
一回転する度に観客が回転数を数えるのが恒例となっている。
逆水平チョップ(馳チョップ)
馳が連続で逆水平チョップを繰り出すと必ず逆に返されてピンチになるのがお決まり。どんなに試合を有利に進めてもこの技が出た瞬間に逆襲されている。「イヨッ!」の掛け声と共に自身はのけ反りながら踏み込み、チョップを打たない方の手は打った方の手と水平を保つ打ち方は馳独特である。
鎌固め
フェイスクラッシャー
裏STF
1993年のG1 CLIMAX準決勝で初公開しSTFの本家である蝶野正洋からギブアップを奪った。準決勝の前日に飲み屋で飲んでいる時に思いついたという。
ダイビング・ダブルニー・ドロップ

入場テーマ曲[編集]

  • Two Hearts/John Parr: 新日本・全日本ではオリジナルからボーカル部分をカットしたヴァージョンが、WJ旗揚げ戦ではN.J.P UNITによるカバーヴァージョンが使用された。

政治家として[編集]

同郷で同派閥の森喜朗同様スポーツ・教育問題に関心があり、その関係の著作が多い。地元北陸の振興や森奥戦争についての著作もある。

児童虐待防止法への取り組み[編集]

森内閣下で立法された2000年の児童虐待の防止等に関する法律の制定、および2004年4月、2007年5月の改正に一貫して関わっている。特に、2007年5月の改正はねじれ国会の状況下与野党の対決色が強まる中での作業であった。馳は当選後6年間選挙を実施せず立法作業に集中出来た参議院の経験、人脈を活かし、超党派官僚・学識経験者を交えた勉強会を立ち上げ、積極的に議論を主導した。馳によれば先述した理由により議事が衆議院ほど政局に振り回されにくかったことや、この問題が元々政治的対立点になりにくかったこともあり、超党派での活動は順調であったと言う。また、2007年の同法改正には馳の他民主党の小宮山洋子による主導も大きな推進力になっており、『ねじれ国会方程式 児童虐待防止法改正の舞台裏』で収録された関係参院議員での対談ではお互いにその功績を称えている。また、委員会での議事は原則公開であり、後に同書に収録されている。

表現規制推進[編集]

  • 漫画・アニメ・ゲーム・映画を規制する青少年健全育成基本法案の担当者として、13年以上この法案に関わっている[4]
  • 国会で「青少年の健全育成の為に表現規制は憲法上許される」として青少年健全育成基本法案に賛同した[5]

違法ダウンロード刑事罰化[編集]

統一教会との関わり[編集]

その他[編集]

所属団体・議員連盟[編集]

家族・親族[編集]

系譜[編集]

永井家
永井家の始祖は1584年の長久手の合戦に武功を挙げた永井直勝の庶子・久右衛門正直である[9]。永井家系譜からは、文学者永井荷風、作家高見順、第1回衆議院議員永井松右衛門(12世)、外交官・ロンドン海軍軍縮会議全権永井松三(13世)、台湾総督府民政長官・神奈川県知事大島久満次(荷風の叔父)、福井県知事・名古屋市長・樞密顧問官阪本釤之助等の名士も輩出。また久一郎の妻(荷風の母)・恒の実家である鷲津家からは童謡歌手の小鳩くるみも輩出している。
 
 
鷲津蓉裳
 
(氏名不明)
 
(氏名不明)
 
小鳩くるみ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鷲津毅堂
 
 
 
永井荷風
 
永井永光
 
永井壮一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鷲津貞二郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永井久一郎
 
 
永井威三郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永井匡威
 
 
永井松右衛門
 
永井松三
 
永井邦夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西徳二郎
 
西竹一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西泰徳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
川村鉄太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
艶子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阪本瑞男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阪本釤之助
 
 
阪本越郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永井佐々吉
 
 
古井喜実
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ふく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
馳浩
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小野寺房子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高見恭子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高見順
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
由紀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秋子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大島成友
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大島久満次
 
杵屋五叟
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永井永光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永井銉次
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
永井頑頡
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

著作[編集]

  • 馳浩『君はまだプロレスを知らない』 PHP研究所 1994年3月(1996年2月文庫化)
  • 馳浩『君は何と闘っているのか』 PHP研究所 1994年5月
  • 馳浩『愛する人を守れますか』 PHP研究所 1995年1月
  • 馳浩『感じたら走りだせ』 北国新聞社出版局 1996年4月
  • 馳浩『「古典」簡単じゃないか』 PHP研究所 1996年4月
  • 馳浩『闘いのゴングが聞こえているか』 馳浩 日本文芸社 1998年3月
  • 馳浩『快刀乱筆』 北國新聞社 1999年3月
  • 馳浩『馳浩の聞楽に源氏物語』 旺文社 1999年9月
  • 馳浩[他]『黒幕』 きこ書房, 2002年5月
  • 馳浩「教育政策の変遷と政治家の役割」『政治家の役割』 ジェラルド・カーティス日本国際交流センター 2002年5月
  • 馳浩『国会赤裸々白書』 エンターブレイン 2002年7月
  • 馳浩[他]『元気の出る日本語』 扶桑社 2002年10月
  • 馳浩『馳浩のやさしい教育論』 長崎出版 2003年8月
  • 馳浩『森奥の呪縛』 北國新聞社 2006年1月
  • 馳浩、自然派マガジン山女『季節感、あふれる情景白山麓』 ヤマメエンターテイメント 2006年7月
  • 馳浩『ねじれ国会方程式 児童虐待防止法改正の舞台裏』 北國新聞社 2008年2月

論文[編集]

出演作[編集]

脚注[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]