鈴木みのる

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鈴木 みのる
Minoru Sukuzi.jpg
プロフィール
リングネーム 鈴木 みのる
鈴木 実
本名 鈴木 実
ニックネーム 世界一性格の悪い男
「風」
ハマの喧嘩屋
カミソリファイター
性悪王者
身長 178cm
体重 102kg
誕生日 1968年6月17日(43歳)
出身地 神奈川県横浜市西区
所属 パンクラスMISSION
スポーツ歴 レスリング
トレーナー ビル・ロビンソン
カール・ゴッチ
藤原喜明
デビュー 1988年6月23日
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鈴木 みのる(すずき みのる、本名・旧リングネーム鈴木 実/読み同じ、1968年6月17日 - )は、日本プロレスラー神奈川県横浜市出身。パンクラスMISSION所属。

目次

[編集] ファイトスタイル

プロレスラーながら、相手の技をよけることを得意(信条)としている。だがこれは総合格闘技のように短時間で相手を倒すためや試合の組み立てを無視した行為ではなく、本人なりの緩急の付け方や観客の盛り上げ方である。小橋建太とのGHCヘビー級選手権でも、序盤は小橋選手の打撃をかわし続けたが、試合中盤以降はしっかりと受けている。

とにかく試合前・試合中・試合後全てで卓越した話術・レスリング技術を用い相手をおちょくり続ける根っからのヒールを演じている。

[編集] 来歴

[編集] 新日本・UWF時代

横浜高等学校時代はレスリング部に所属[1]国体2位という実績を残して新日本プロレスに入門。

1988年飯塚孝之戦でデビュー。翌1989年3月には、デビューから1年という一介の若手にもかかわらず、アントニオ猪木と対戦する機会を与えられ、新日本プロレスから期待されていた存在であったが、当時隆盛を極めていた新生UWFへ移籍。

同年5月には田村潔司のデビュー戦の相手を務め、新生UWF初白星。その後、高田延彦前田日明といった大物とのシングルが実現した。特に安生洋二との対戦は常に白熱したものとなった。11月には骨折した船木誠勝の代打として東京ドーム大会「U-COSMOS」で、モーリス・スミス異種格闘技戦で対戦。5ラウンドでKO負けを喫するが、周囲から絶賛を浴びる(ただしみのるは後に、「実はビビっていた」と述懐している。周囲が手放しで褒める中、そんなみのるの内心を見抜いていたのは前田ただ一人であった)。この試合がみのるの格闘技人生において大きなターニングポイントとなった。その後にスミスに雪辱を果たし注目される。

1990年末から1991年初頭にかけてUWF分裂騒動が起き、みのるは盟友・船木らとプロフェッショナルレスリング藤原組へ参加。1990年4月1日、SWSとの提携で行われた神戸ワールド記念ホール大会におけるアポロ菅原戦は、アポロ菅原サイドがプロレスの定義を越えるセメント行為を仕掛け[2]、それに対してみのるがリング上で激怒し泥試合に、結局菅原がリングを降りて試合放棄、鈴木の勝ちとアナウンスされる[3]

1991年7月、東京ベイNKホール大会における佐野直喜戦は、佐野がみのるのスタイルに適応したこともあり大きな反響を呼んだ(30分時間切れ 引き分け)。

1992年10月の東京ドーム大会では、ソウルオリンピックレスリング金メダリスト:ゴベリシビリ・ダビッドと対戦、裸絞めで勝利。

藤原組はカール・ゴッチを顧問として据えており、ゴッチが直接指導することもあったため、ゴッチに傾倒したのもこの時期である。アメリカ人選手がゴッチのレクチャーを受けた際、「痛い、これじゃ鈴木じゃないか」とクレームをつけると、「私が鈴木であり、鈴木が私なのだ!」と返答したこともあるなど、ゴッチもまたみのるに大きな期待を寄せた。

[編集] パンクラス時代

1993年1月に船木と共に藤原組を離脱、同年8月パンクラスを旗揚げ。11月の神戸大会ではモーリス・スミスとキックボクシング・ルールで対戦、KO負けを喫するも、1994年5月に行われた武道館大会のリベンジマッチでは腕ひしぎ十字固めで勝利し、U-COSMOSから5年越しの雪辱を果たした。

1995年5月のNKホール大会ではケン・シャムロックを破り、第2代キング・オブ・パンクラシストとなった。しかし、同時期に台頭してきたブラジリアン柔術の技術を導入しようと試行錯誤を試みる船木を「ツキハギだらけ」と公然と批判。この時期から船木に対する反感を露にするなど、盟友・船木とソリが合わなくなっていた。

同年9月の日本武道館大会では、バス・ルッテンを相手にキング・オブ・パンクラシスト初防衛戦を行うが、フロントチョークスリーパーで敗退王座から転落。

1996年1月、ルッテンが負傷により王座を返上し、空位になったキング・オブ・パンクラス王座の暫定王者決定戦をフランク・シャムロックと行うが敗退する。以降、首の負傷(ヘルニア)が原因で連敗を重ね、6月にはデビュー半年の近藤有己にまで敗退。船木からは「もう両雄ではない」と見切りをつけられてしまう。同年10月より長期欠場した。

1997年5月にジョエル・サトゥン戦で復帰。続くジャグジット・シン戦は、21秒で勝利したが、7月には負傷が再発し再び欠場。以後、山宮恵一郎や、冨宅飛駈などに敗北。この頃のみのるは、リングスとパンクラスとのトラブルの発端を生み出し、リングスのCEOで、当時エースとしても活動をしていた前田に挑発されたり(みのるは黙殺)、当時シュートボクシングに在籍していた村浜武洋に「(言動が)ダサい」とインタビューで発言され、当時蜜月だったフリーライター・安田拡了経由で村浜に圧力をかけるなど、トゲトゲしい言動が目立っていた。

ほぼ1年の欠場を経て、1999年に唯一行われたパンクラス公式戦である菊田早苗戦はなす術なく敗北。

2000年9月のデニス・ケイン戦では、試合中に腰痛が再発しギブアップ負け。

その後は「キャッチレスリング」という組み技限定ルールとエキシビションを中心に活動。2002年6月にはDEEP2001に出場し、ルチャドールエル・ソラールと対戦するが、試合中のアクシデントで(金的蹴りを食らい)反則勝ち。

DEEP2001で愛弟子である窪田幸生に勝利した元リングスの坂田亘に「横浜の大将」とリング上で挑発されたり、パンクラスのリング上で猛威を奮っていたGRABAKA郷野聡寛に「美濃輪とやるのは早い」と発言したことに対してリング上で「目をさましてくださーい!」と皮肉混じりにアピールされた。

指導者としても「柔術が嫌いだから」という個人的な理由で「出稽古禁止」などのルールを設け、ますますパンクラスとその他の総合格闘技団体との技術的なギャップを広げる原因を作ったことから、引退していた船木にも「鈴木を切った方がいい」と言われてしまう。

2002年、パンクラスのリングで獣神サンダー・ライガーと対決し勝利する。本来はライガーではなく、新日本時代前座で激闘を繰り広げてきた佐々木健介と対決する予定だったが、同年9月に健介が負傷し、試合出場が不可能に。さらに健介は新日本フロント陣と対立し、結局退団してしまう。健介戦が流れ「もうやめようかなぁ」と思っていたみのるに、ライガーが「俺じゃダメか?マスク脱いででもやる」と強烈にアピール。鈴木は心を打たれたと後に語っている。また、負けたライガーの評価がむしろ上がったことに、「対相手」だけではなく「対客」というスタンスもあるプロレスに再び興味を持った。

[編集] プロレスへの再復帰

ライガー戦を最後に、パンクラスを含めて総合格闘技の試合は行っていない(エキシビション・マッチ=非公式試合は有)。この頃にはハイブリッド・ボディと決別し、プロレスラーらしい脂が乗った体型に変化していた。なお、本文中で名前が挙がった選手のほか、セーム・シュルトガイ・メッツァーらとの対戦経験がある。

現所属であるパンクラスのプロレス部門「パンクラスMISSION」を立ち上げ、2003年6月13日、日本武道館での成瀬昌由戦より古巣の新日本マットに参戦。2004年にはIWGPヘビー級王座を懸けて健介と対戦した。

2004年4月25日、プロレスリング・ノア日本武道館大会に、IWGPタッグ王座のパートナー高山善廣のセコンドとして初登場。同年7月10日に行われた東京ドーム大会で初参戦を果たし、2005年1月8日の武道館大会では、小橋建太とGHCヘビー級タイトルマッチを行う。敗戦後、不敵な笑みを浮かべながら「おもしれえ」と何度も呟き、以後2005年4月からノアに継続参戦する。

2005年6月18日には、シングル戦以来お互いに興味を持った丸藤正道と共に、スコーピオダグ・ウィリアムス組が持つGHCタッグ王座に挑戦し奪取する。その後は丸藤を正パートナーとして、「ベルトには興味が無いが、ベルトで面白いことをする」と宣言し、イギリスでの防衛戦を成功させた。しかし、10月28日に挑戦者として迎えた森嶋猛モハメド・ヨネ組に奪取されてしまう。なおヨネとはその後シングルマッチを行い、ヨネに関しては「歯ごたえがある。またやってみたい」という発言し、ある程度実力は認めているようだが、森嶋に関しては「暗い」と発言。

ノア所属の秋山準との初対戦で秋山を締め落とし失神に追い込んで以降、みのるは「世界一性格の悪い男」、秋山は「NOAH一性格の悪い男」とそれぞれ称され、キャラもかぶっていることからお互いに舌戦を繰り広げ、試合が組まれればえげつなく攻め立てる関係へと発展していた。

[編集] 全日本プロレス参戦

2006年には佐々木健介20周年自主興行に参戦。全日本プロレス所属選手の不甲斐なさに吼え、それでも絡んでこない全日本に罵声を浴びせたが、怪我欠場中である本間朋晃が反応したことで全日本参戦へのきっかけを作り上げ、同年3月全日本大田区体育館大会で、チャンピオン・カーニバル参戦に向け全日本内外の選手が続々と名乗り出る中、疾風のごとき速さでリングに現れ、当時の三冠王者小島聡を背後からスリーパーで奇襲し、衝撃的な全日本参戦表明を行い、2006年4月以降は全日本を主戦場とした。全日本では東京愚連隊NOSAWA論外が勝手に『みのる軍団』を名乗ったりと、嫌々そうな顔をするものの、実は楽しんでいる姿も見られる。なお、みのるは「NOSAWAはパシリだ」と言っており、論外が『みのる軍団』と言うたびに「『鈴木みのるwith東京愚連隊』だ」と修正している。

同年6月23日にはメカマミーと戦う(ウルティモ・ドラゴン主催興行)。当初は記者会見などで「メカ」という存在を否定していたが、試合の終盤にセコンドから奪ったペットボトルの水でショートさせ、スリーパーで「機能停止」させた。

9月3日の全日本札幌メディアパーク・スピカ大会で太陽ケアを破り、三冠ヘビー級王座を奪取(第35代)。

12月12日のリアルジャパンプロレス後楽園大会では、初代タイガーマスクとシングルで対戦し勝利。

2007年1月4日の新日本東京ドーム大会で永田裕志とシングルマッチ(三冠統一ヘビー級王座防衛戦)を行い、スリーパーホールドで勝利。2月17日、全日本両国国技館大会で小島聡を破り、三冠王者として3度目の防衛を果たした。

3月からのチャンピオン・カーニバルを、「三冠王座時期挑戦者決定戦」などと揶揄し(自身が当時三冠王座だったため)出場拒否をしたが、TAJIRIの挑発を受け一転して出場を宣言。小島・川田利明RO'Z・TAJIRIと戦ったが、1勝2敗1引き分けという、不本意な戦績で幕を閉じた。

12月24日には、ZERO1-MAXに初参戦。

2008年1月26日の大阪大会を最後に全日本を離脱したという噂が流れていたが、3月1日の両国大会ではテレビ解説者として登場。試合後、チャンピオン・カーニバルへの参戦を表明し、結果は西村修ジョー・ドーリングに敗れたものの、優勝者でもある諏訪魔、そして健介から初勝利を収めるなど充実した戦いぶりを見せつけた。

2008年4月13日、ハッスル30レイザーラモンRGと対戦。右足をわざと痛めているふりをしてRGが武藤敬司の技を出してくるが、シャイニングウィザードを繰り出そうとした瞬間に立ち上がり「痛くねーよバーカ」とRGを罠にかからせ、RGが頭を下げた瞬間を狙ってゴッチ式パイルドライバーで完全に沈めた。

4月20日の後楽園大会では、スランプ状態で悩める太陽ケアを独特の熱い言葉で説得し、緊急合体。「もう一度この団体のてっぺんに行く」と宣言し、NOSAWA論外・MAZADATAKEMURAと共に「GURENTAI」を結成した。

6月17日の後楽園ホールで、鈴木みのるデビュー20周年興行「風になれ」が開催された。、みのるのレスラー人生において、最重要人物とも言えるモーリス・スミスとのエキシビションマッチや、友人である後輩・高山との2度目のシングルマッチなどが行われた。

2009年8月30日の全日両国大会で、プロレス復帰した船木とタッグマッチで対戦(パートナーは鈴木が蝶野正洋、船木が武藤敬司)、9月26日横浜文化体育館大会ではシングルで対戦し、感情むき出しで船木に突っかかり、最後はみのるが制止に入ったレフェリーを突き飛ばし反則負けを取られる。

2010年3月22日に両国大会では「金網マッチ」で、船木と再戦したがレフェリーストップによるKO負けを喫した。

同年4月11日、チャンピオンカーニバル決勝で船木を破り、大会史上3人目の連覇を達成した(対船木戦初勝利)。

同年5月2日、愛知県大会で浜亮太を破り第42代三冠ヘビー級王者となる。

2011年1月4日のレッスルキングダムで因縁の相手である永田裕志と対戦するも敗北。

同年3月21日にプロレスリング・ノアの杉浦貴が、GHCヘビー級選手権10度目の防衛戦の試合後バックステージインタビューで次期挑戦者に鈴木を逆指名。しかしそのインタビュー内の、3月11日に発生した東日本大震災の被災者に対する杉浦のコメントに文句を付ける(後述「チャリティー興行」の項も、参照)。3月27日NOAH 東京・ディファ有明大会の6人タッグマッチで対戦し、杉浦をパイルドライバーで撃破した直後に約4分近くに渡って杉浦にマイク越しに自分の「プロレス感」をぶつけた[4]。このマイクによって一時は逆指名を拒否したかと思われたが4月16日、NOAH後楽園ホール大会に来場、杉浦の試合後にマイクを取りあらためてみのるから挑戦表明。その後正式にGHCヘビー級選手権への次期挑戦者に決定。みのる自身はバックステージインタビューで「(一連の行動について)言いたくない」と言及を避け、18日付けで更新された公式ブログには、「(一連の行動について)今何かを話しても」と、あえて曖昧なコメントを公開した。5月8日の、NOAH有明コロシアム大会でのGHCヘビー級選手権試合は、杉浦に敗れるも、試合後リング上で握手を交わし遺恨を清算。バックステージでのインタビューの最後に「スッキリした。」とコメントし、杉浦との「繊細な抗争」は、ひとまず終結する。

5月3日、新日本博多大会に突如出現し、小島聡を襲撃。この直前に「小島軍(仮)」を涅槃したTAKAみちのくと事前に結託しており[5]、同軍団を「鈴木軍(仮)」と改名し新日本に参戦すると宣言。

6月、全日本プロレスとの常時出場契約が満了。19日の両国国技館大会で、渕正信とのシングルマッチで対戦。試合後「新しい実がついたら(選手が育ったら)収穫に来てやる」とコメントを残し全日本に一時別れを告げる。

[編集] そしてまた、新日本プロレスへ~2011年現在

5月の福岡における「小島軍(仮)クーデター事件」後、「鈴木軍(仮)」のボスとしての初の試合が、6月18日の大阪府立体育館大会で行われ、みのるは元WWEファイター:ランス・アーチャーと組み、真壁刀義、小島聡組と対戦。みのるが小島からフォールを奪い勝利を収め、新日本への侵略の第1歩を幸先よく踏み出した。

6月25日、2回目の自主興行「PAILEDRIVER charity project カウント2.9 ~さあ、ここから~」を開催。みのるは里村明衣子と組み、高山善廣、栗原あゆみ組とのミクストタッグマッチで試合をした他、無期限謹慎中だったNOSAWA論外をリングに上げ(NOSAWA1人で、KIKUZAWA、高山、みのるの3人と続けてシングルマッチを行う「3人掛け」をその場で組み)、NOSAWAのプロレス界復帰の後押しを行なった。

8月、2005年以来(6年ぶり)となるG1クライマックスに出場。最終日までにトップタイの勝ち点で日程を消化し、予選リーグ最終日中邑真輔と決勝進出をかけた直接対決に挑むも、最後は中邑のボマイェを食らい敗北した。

同月下旬、6月のチャリティー興行終了直後に発言した「被災地でプロレス興行を開催し(試合を見てもらい)、被災者に勇気を与えたい」という公約を実行に移す。事前の予告は一切なし。マスコミには非公開。という形で興行が極秘に行われ、後日みのるの公式ブログで、宮城県気仙沼で試合(興行)を開催したと報告された[6]

10月22日 - 11月6日、ランスとのタッグでG1タッグリーグ出場。11月6日の優勝決勝戦で、ジャイアント・バーナードカール・アンダーソン組を破り、同リーグ優勝。この試合の結果を受け、バーナード、アンダーソン組側がIWGPタッグ王座を賭けた再戦を要求し、同月12日、ランスとのタッグでIWGPタッグ選手権試合に挑んだが、ランスがフォールを奪われ敗北。試合後、みのるとバーナードがやり合いになり、12月にシングルの対戦が決まる。

11月17日、金原弘光のデビュー20周年記念興行に出場。「U-SPIRITSルール」[7]で金原と対戦し、勝利した。

[編集] 人物

  • プロレスに再進出してからはヘアスタイルを頻繁に変えるようになり、凝った剃り込みが入っている。常連である横浜の美容室の美容師を「おらが村のカリスマ美容師」と呼び、大きな大会の前にはヘアスタイルを変えている、ちなみにそれ以前のヘアスタイルはリーゼントか坊主だった。
  • 普段は黒のショートタイツに黒のリングシューズといういでたちであるが、パンクラス時代から現在に至るまで、ここ一番の大舞台では白のショートタイツを着用する(近年では先述のパンクラスでのライガー戦、ノアでの秋山戦、全日本での武藤戦など)。
    • 白のショートタイツについては、一時期は本人も「願掛け」のように縋り、本人いわく「わけのわからない試合でも着用していた」が、高橋和生に、「昔は特別な時にしか履いていなかったものを、特別ではない時も履いているのはカッコ悪いですよ」と指摘されていたことを語っている[8]
  • 2005年7月18日のノア東京ドーム大会に息子を連れてきたり、「息子に自慢するから」とノアの5周年記念パーティでネブ博士と写真を撮ったりしている。
  • 2007年1月には、全日本沖縄大会に参戦するため沖縄を訪れたが、その際に与那原警察署で一日署長を務めた。しかし東京スポーツに「みのる逮捕」なる見出しが載っていた。
  • 中村あゆみの大ファンであり、入場テーマ曲は中村あゆみに直接製作を依頼したオリジナル曲『風になれ』である[9]。会場ではリング・インする瞬間にくる「かっぜにぃなれー♪」の部分で大合唱が起こるようになってきている。2006年5月21日に参戦した、全日本後楽園ホール大会からは、ニューバージョンの『風になれ Rough-Mix』を使用している。後述のデビュー20周年興行のメインイベントでは、中村の生演奏をバックに入場した。
    • 一部のビッグマッチなどでは、稀に2番の歌詞でリングインすることがある。2007年東京ドーム大会で永田と対戦したときも2番のサビでリングインしたが、解説を務めた高山が実況アナウンサーから「今日の試合はどう御覧になりますか?」と聞かれたときに「それよりもさぁ、2番の歌詞って『駆けて行け』なんだね」と呑気に答えていた。
  • 最近は役者としてテレビドラマや映画に出演するようになってきたが、“役者・鈴木みのる”について本人は『週刊プロレス』2008年4月16日号掲載の連載コラム「鈴木みのるの独り言」にて、「大根役者だな〜」とダメ出ししている[10]
  • 趣味に釣りがある。東京スポーツのインタビュー[11]によれば、元々実家が海に近いことから子供時代は兄弟でよく釣りに出ていたとのことだが、本格的に趣味としてのめりこみ始めたのは「28歳の時にパンクラスで大きなケガをして、ついでに離婚もして(笑)。一人で家でボーっとしていたら友達から誘われて」とのこと。同インタビューでは「引退したら釣り船屋か釣具屋をやろうかな。たぶん一生続けていくだろうな」とも語っている。なお、テレビ東京系列の釣り番組『釣り・ロマンを求めて』にパンクラスMISSIONの後輩佐藤光留と共に出演したことがある。
  • 漫画『ONE PIECE』のファンだと公言しており、ジャンプの巻末コメントでは作者の尾田栄一郎から親交があることも明かされている。

[編集] 主な得意技

UWFの流れを汲んだレスラーであることや、ヘビー級戦線では102kgと小柄であることもあり、基本的に大技を用いることはあまりなく、老獪なテクニックと相手をおちょくる動き、そしてピンポイントで決める投げ技で試合を組み立てていく。

関節技の多さ・正確性から、対戦型格闘ゲーム鉄拳シリーズのキャラクターである、みのると同じプロレスラー・キングのモーションキャプチャに参加。ゲーム内に「ベルウッド・スペシャルコンボ」という名称を残す(ちなみにベルウッドは、鈴木というみのるの苗字の英訳)。

本人曰く「大技ではなく必殺技。ハヤタ隊員がウルトラマンに変身していきなりスペシウム光線を出さないのは、怪獣を動けなくさせてからでないと避けられるから。あと視聴者につまらない印象を与えないため」と、ウルトラマンに例えて自分のファイトスタイルを語っている。

張り手
相手の頬を叩くだけの技。得意技としながらも「ビンタだけなら2歳児でも出来る」と本人は認めており、プロレスラーだからこそ出来る立派な技としてのビンタへ昇華させようとしている。緩急をつけ易いため、思い切り行くと見せかけて途中で止め軽く叩き相手をおちょくったり、掌底のようにフルスイングで打ち付けたりと大きな幅を持って使用している。2006年3月5日のGHCヘビー級選手権試合・秋山戦では、お互いに213発にも及ぶ張り手合戦を繰り広げた。
ドロップキック
鈴木のドロップキックは、しっかり足を揃えてキックするので形が綺麗。プロレス再復帰戦となった成瀬昌由戦でこの技を綺麗に決め、観客のどよめきを誘った。
ゴッチ式パイルドライバー
カール・ゴッチが使用していた、相手の股をクラッチしてのパイルドライバー。元々の「ゴッチ式」は、通常のパイルドライバーの体勢で股をクラッチするように持ち替えて落とすものだが、みのるの場合は最初から股をクラッチしたまま持ち上げて落としている(アマチュアレスリングの「がぶり」を切るクラッチの応用と本人が解説している)。
「ゴッチ式」とあるが、開発者はゴッチではなく、みのる本人であると週刊プロレスで述べている[12]
クロスアームパイルドライバー
2004年、佐々木健介とのIWGP戦のために開発した秘密兵器。相手の腕を交差した状態でのパイルドライバー。太陽ケアとの三冠王座戦でも使用した。
スリーパーホールド(裸絞め、チョークスリーパー)
後ろから相手の首をねちっこく締め上げる。基本的にこの時のみのるは舌を出し、相手や観客を挑発する表情をしながら絞めていることが多い。格下相手にはこれで失神を奪い勝利を決める。
逆落とし
スタンディング・スリーパーホールドの状態から後方へクルっと首を絞めながら払い腰の要領でマットに叩きつけるコンパクトながらも危険な投げ技。投げた後、そのままスリーパーホールドをかけ続けてギブアップを奪う場合が多い。たまに、投げた後フォールにいくこともある。
卍固め
新日本系レスラーが多用するお馴染みの技。みのるはこの技をセカンドロープ上やトップコーナーなど、様々な場所で繰り出す。例によって相手を締め上げている間は良く舌を出していることが多い。
腕ひしぎ十字固め
パンクラス時代から得意としている技。グラウンド・飛びつき式・技の切り返し等、バリエーションは多い。
逆片エビ固め
若手時代からの得意技のひとつ。2005年3月13日 対中嶋勝彦戦の決まり手。
脇固め
一番の使い手でもある師匠・藤原喜明から勝利を奪った事もあり、(2006年3月22日 ビッグマウスラウド 後楽園ホール シングルマッチ)、他の関節技同様に相手を挑発しながら極める事が多い。
アキレス腱固め
若手時代より長年使用し続けている技。新生UWF時代には、師匠・藤原喜明に「決め方」について試合中(1989年6月、愛知体育館でのシングルマッチ)直接「決め返される」形で「ダメ出し」された事もある。プロレス回帰後は、エプロン等を利用しロープ越しに決める「ぶら下がり式(タランチュラ式)」等バリエーションも多彩に。
ジェット・ブーツ(フロント・ジェット)
プロレス回帰後使用し始めた技、ハーフダウン状態の相手に向かって走り込む、もしくはロープに飛んで勢いをつけて繰り出す顔面狙いのスライディングキック。

[編集] タイトル歴

  • パンクラス
    • キング・オブ・パンクラシスト…第2代王者(防衛0回)
  • 新日本プロレス
    • IWGPタッグ王座…第46代王者(防衛4回)
      パートナーは高山善廣。5度目の防衛戦は高山が脳梗塞からの復帰のめどがたたず、王座を返上しなければならない危機となっていたが、高山がパートナーの座を佐々木健介に譲り、これを新日本側が認めたため、返上はなく(実際には高山&みのる組が一旦返上→鈴木&健介組が暫定王者、という扱いだったという説もある)、防衛戦が行うことができた。棚橋弘至&中邑真輔組との防衛戦はかなりの激戦になり、自らがフォールを取られて王座から陥落したが、試合後鈴木は「新日本でも骨のあるやつがいるじゃないか」と語った。
    • G1 TAG LEAGUE優勝(2011年)
      パートナーはランス・アーチャー
  • プロレスリング・ノア
  • 全日本プロレス
  • プロレス大賞
    • 2004年度プロレス大賞 技能賞、最優秀タッグチーム賞(&高山善廣)
    • 2006年度プロレス大賞 MVP
    • 2008年度プロレス大賞 最優秀タッグチーム賞(&太陽ケア)

[編集] 自主興行

[編集] 風になれ

2008年4月14日にFIGHTING TV サムライにて記者会見を発表し、その日の生放送番組『Sアリーナ」』にも出演し本人から詳細が語られた。

  • 大会名 : 風になれ 〜SUZUKI MINORU 20×2th Birthday Party〜
  • 開催日時 : 2008年6月17日
  • 開催場所 : 後楽園ホール
  • 観客 : 2,300人
  • 放送局 : FIGHTING TV サムライ
  • 主催 : 鈴木みのる20周年記念大会実行委員会

[編集] 試合内容

第1試合 タッグマッチ 30分1本勝負
獣神サンダー冨宅イガー
獣神サンダー・ライガー
10分37秒
アキレス腱固め
獣神サンダー菊イガー
獣神サンダーメカマミー
※レフェリー:獣神サンダー良イガー
第2試合 シングルマッチ 30分1本勝負
中嶋勝彦 7分37秒
ジャーマン・スープレックス・ホールド
佐藤光留
第3試合 エキシビションマッチ(5分1ラウンド)
鈴木みのる 時間切れ引き分け モーリス・スミス
第4試合 バトルロイヤル(14人参加)
マッスル坂井 25分57秒
冨宅の"泣いてブラザーを斬る"⇒体固め
"brother"YASSHI
-参加選手-
内藤哲也真田聖也太田一平KUSHIDA風香佐藤光留
蝶野三四郎ジャンボ菊荒谷日明男色ディーノ冨宅飛駈TAKEMURA
第5試合 6人タッグマッチ 30分1本勝負
NOSAWA論外
MAZADA
丸藤正道
21分41秒
超高校級ラ・マヒストラル
カズ・ハヤシ
ザ・グレート・サスケ
TAKAみちのく
第6試合 シングルマッチ 60分1本勝負
鈴木みのる 22分01秒
スリーパーホールド
高山善廣
※リングコール:中村あゆみ

[編集] パイルドライバー

試合カード発表前に前売券が完売してしまったため追加発売が決定する。
当初はスーパーヘイトMAZADAが参戦予定だったが、在籍していたVOODOO-MURDERSのリーダー・TARUの暴行事件による、全日本からの無期限出場停止処分を受け、こちらも出場取り消しとなる。
  • 大会名 : PILEDRIVER charity project カウント2.9 ~さあ、ここから~
  • 開催日時 : 2011年6月25日
  • 開催場所 : 新宿フェイス
  • 観客 : 超満員札止め。(前売・追加・当日立見、完売。)
  • 主催 : パイルドライバー チャリティープロジェクト実行委員会
  • 興行収益は、2011年7月7日付けのみのるの公式ブログ[13]で、日本赤十字社の「東北地方太平洋沖地震宛」に募金したと公表した(チケット売上、グッズ売上、義援金プロジェクトの売上などの、「総収入」から、会場費、その他の「必要経費」を引いた利益額)。

[編集] 試合内容

第一試合 “楽”
×菊タロー
伊藤崇文
11分44秒
関空トルネード
くいしんぼう仮面
ランジェリー武藤
第二試合 “哀”
×佐藤光留 10分1秒
垂直落下式ブレーンバスター
真霜拳號
第三試合 “怒”
高木三四郎
×入江茂弘
(TKG48)
10分42秒
タイチクラッチ(仮)
TAKAみちのく
タイチ
(鈴木軍(仮))
第四試合 “喜”
KAI
日高郁人
15分22秒
スプラッシュ・プランチャ
HARASHIMA
藤田ミノル×
第五試合 “夢”
鈴木みのる
里村明衣子
18分3秒
デスバレーボム
高山善廣
栗原あゆみ×
緊急特別試合
KIKUZAWA 5分31秒
えびす落とし
NOSAWA論外×
高山善廣 2分12秒
ニーリフト
NOSAWA論外×
鈴木みのる 1分31秒
ゴッチ式パイルドライバー
NOSAWA論外×

[編集] メディア出演

[編集] 映画

[編集] テレビドラマ

  • ジョシデカ!-女子刑事-(2007年10月 - 12月、TBS) 溝之口吾郎役
  • シリーズ激動の昭和・3月10日東京大空襲/語られなかった33枚の真実(2008年3月10日、TBS) 憲兵役

[編集] ネットドラマ

  • ジョシデカ!-女子刑事- ウェビソード(2007年10月 - 12月) 主人公・溝之口吾郎役 ※スピンオフドラマとしてネット配信

[編集] バラエティー

[編集] アニメ

  • ONE PIECE(2007年12月23日、フジテレビ)風野みのる 役

[編集] 脚注

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  1. ^ この時期千葉県立成東高等学校レスリング部に所属していた永田裕志と対戦しており、二勝二敗の記録を残している
  2. ^ 参考文献週刊プロレス別冊2008夏季号 鈴木みのる 風になれ 〜SUZUKI MINORU 20×2th Birthday Party〜 P.59「神戸事件の夜、ミナミのスナックで…」(元週刊ファイト編集次長、波々伯部哲也による出筆)より
  3. ^ 船木がかつて担当していた「プロレス格闘技DX」のコラムによれば、当日の試合後、みのるは控え室で泣いていたという。またこの興行は、北尾光司がプロレス史上に残る「八百長野郎」事件を起こしたことでも知られている
  4. ^ 3月11日の「東日本大震災」で、みのるも含む全日本プロレスの選手が石巻への移動中のバス車内で被災しており、またみのるも「プロレスで(被災者にプロレスを見てもらって)勇気を与える」という考えを持っているため
  5. ^ みのるの公式ブログでは、「(TAKAが)面白いことやりましょうよ。」と、誘ってきたとコメント。
  6. ^ 鈴木みのるオフィシャルブログ「今日も明日も風まかせ~」Powered by Ameba 2011年8月25日更新ページ「気仙沼本吉町で、カウント2.9~さあ、ここから~」 2011年8月29日 閲覧
  7. ^ 「ダウン」もしくは「ロープエスケープ」毎に1ポイントをロストし、ロストポイントが5に達するとTKO負けとなるルール
  8. ^ 参考文献週刊プロレス別冊2008冬季号 新生UWF証言集 インタビュー P.75より
  9. ^ それ以前は同じく中村あゆみの楽曲「BROTHER」「太陽の光の中で」を使用していた。
  10. ^ 芸能活動はサンミュージックプロダクションが提携している。
  11. ^ 東京スポーツ2009年5月14日付「レスラー、格闘家のあんな話・こんな話 豪傑列伝」第4回
  12. ^ 同誌連載のコラム「鈴木みのるの独り言」や、2008年に出版された週刊プロレス別冊冬季号「新生UWF証言集」のインタビューなどでも発言している
  13. ^ 鈴木みのるオフィシャルブログ「今日も明日も風まかせ~」Powered by Ameba.7月7日更新ページ「義援金総額」

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

前王者
ケン・シャムロック
第2代パンクラス無差別級王者

1995年5月13日 - 1995年9月1日

次王者
バス・ルッテン
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