ジャンボ鶴田

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ジャンボ鶴田
ジャンボ鶴田の画像
プロフィール
リングネーム 鶴田 友美
ジャンボ鶴田
本名 鶴田 友美
ニックネーム 若大将
怪物
完全無欠のエース
身長 196cm
体重 127kg(全盛時)
誕生日 1951年3月25日
死亡日 2000年5月13日(満49歳没)
出身地 山梨県東山梨郡
所属 全日本プロレス
スポーツ歴 バスケットボール
レスリング
トレーナー ジャイアント馬場
ドリー・ファンク・ジュニア
テリー・ファンク
ルー・テーズ
デビュー 1973年3月24日
引退 1999年3月6日
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ジャンボ 鶴田(ジャンボ つるた、1951年3月25日 - 2000年5月13日)は、日本プロレスラー。本名・旧リングネーム:鶴田 友美(つるた ともみ)。三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)。

人物概要[編集]

ミュンヘンオリンピックレスリンググレコローマンスタイル最重量級代表を経て全日本プロレスリング入り、ジャイアント馬場後継の次の時代の大型エースとして期待され順調に成長し、1980年代、トップレスラーとして活躍したが、B型肝炎を発症したことにより第一線を退く。その後、桐蔭横浜大学中央大学慶應義塾大学で非常勤講師を務めるなど、教育者としても活躍した。

山梨県東山梨郡牧丘町(現山梨市)出身。山梨県立日川高等学校を経て、中央大学を卒業。血液型O型。ニックネームは「若大将」のち「怪物」「完全無欠のエース」。座右の銘である「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」は、プロレスの師であるジャイアント馬場から継承したもの。

オリンピック出場時の選手名簿には、身長194cm、体重112kgとある。

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

広大なブドウ農園を営む家に生まれる。生まれた頃は体が小さく、女の子のようだからという理由で「友美」と名付けられた[1]

中央大学法学部政治学科[2]1年生の頃までは、バスケットボールの選手であった。だが、バスケットボールではプロ選手になれないことや、日本のバスケットボールの実力では、予選に勝ってオリンピックに出場することができないということで、バスケットボール部を退部したということになっている。

選手層の薄いレスリングであればオリンピックに出場しやすいと考え、大学のレスリング部に入部を申し込むが、「一つのスポーツをやりとおすことのできない奴は何をやってもダメ」との理由で一旦は断られる。この時断った側の一人に関川哲夫(ミスター・ポーゴ)がいるが、彼の語るところによると鶴田の格闘技への思いは本物だったということで反省しているようである(ミルホンネット「ある極悪レスラーの懺悔」より)。そこで、自衛隊のレスリング道場で練習を始め、わずか1年半足らずで全日本選手権フリー・グレコローマン両種目とも2連覇(1971年1972年)するほどの選手となった。大学3年次にレスリング部から逆に入部を勧められ、4年次に石井庄八笹原正三池田三男渡辺長武中田茂男ら金メダリストを輩出した名門中央大学レスリング部へ入部した。レスリング日本代表にも選ばれ、当初の目的通り1972年のミュンヘンオリンピックに出場する(グレコローマンスタイル100kg以上級)。

レスリングでの実績により、ジャイアント馬場からプロレスにスカウトされる。プロレスに対する偏見や評価などを考え葛藤したが、1972年9月16日、父親の死をきっかけに自分自身で人生に挑戦しようと思ったことと、大学の監督・先輩・マスコミなどからのアドバイス、日本レスリング界のドン八田一朗の「プロが栄えればアマも栄える」の言葉に励まされプロ入りを決意した。

全日本プロレス入団[編集]

大学在籍時の1972年10月31日、全日本プロレス(以下、全日)への入団表明の際、「僕のようなでっかい体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かなぁと思って。尊敬する馬場さんの会社を選びました」と発言。これが「プロレスに就職します」と報道される。デビュー当初は、本名・鶴田友美リングネームに用いていた。ニックネームは「若大将」。

入団してすぐにザ・ファンクスドリー・ファンク・ジュニアテリー・ファンクのファンク兄弟)のジムへ修行に行き、スタン・ハンセンボブ・バックランドらと共にトレーニングへ励む。特にハンセンとは気が合ったようで、ハンセンは鶴田を「トミー」の愛称で呼び、鶴田が日本から持ち込んだインスタントラーメンを分け合って食べる程の仲だった(ハンセンはその味に感動し、鶴田に黙って勝手に食べていたという話も残っている)[3][4]。ザ・ファンクスの父、ドリー・ファンク・シニアはトレーニングに参加した鶴田を見て「この男はレスラーになるための下地はとっくに出来ている。あとは経験を積むだけだ」と評した。ハンセンは「身体は細いのに自分より何キロも重いベンチプレスを上げていた」と当時の鶴田のパワーを語っている。

1973年3月24日、テキサス州アマリロにてエル・タピア戦でプロデビュー。同年5月20日には、師であるドリー・ファンク・ジュニアの保持するNWA世界ヘビー級王座に挑戦するという異例の大抜擢を受けるなど、当地で約150戦を消化。

凱旋帰国後の同年10月6日、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビュー(フォール勝ち)。3日後の10月9日、蔵前国技館でのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ選手権試合の馬場のパートナーに選ばれる。この抜擢については試合前に「たかが半年、150試合のアメリカ修行で一体どれだけ成長出来るというんだ。プロはそんなに甘いものじゃない」と全日内外、さらにメディアからも猛批判が上がったが、アメリカに渡り鶴田の成長ぶりをその目で確認していた馬場は「まあまあ、とにかく試合を見て判断してくれ」と自信たっぷりに答えている[3]。 60分3本勝負の1本目ではテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドピンフォールを奪い大器の片鱗を見せ(結果は1-1の引き分け)、すぐに馬場に次ぐ全日本プロレスNo.2の地位につく。

20代の中頃までは若い女性の親衛隊もいたほどの人気であった。ファンからの公募により、1973年10月27日にリングネームをジャンボ鶴田と改名。日本でも日本航空ジャンボジェット機が就航し、一般にもその名称が浸透し始めた時期であり、師匠である馬場と同様にスケールの大きなプロレスを期待されての命名であった[3]。尚、鶴田は「投票の途中経過でジャンボ鶴田がダントツで1位だったので、もうその時点で『ジャンボ鶴田に決まりだな』と思った」そうである[4]

1970年代中盤:ライバル達との出世争い[編集]

1970年代中盤は、復活したUNヘビー級王座決定戦でジャック・ブリスコを破り初めてのシングルタイトルを獲得し、タイガー戸口(キム・ドク)との抗争や、ラッシャー木村とのエース対決、喧嘩番長ディック・スレータージャーマン・スープレックスで破ってのチャンピオン・カーニバル初優勝など、徐々に実績を上げていく。1977年8月25日に行われたミル・マスカラスとの雨中田園コロシアム決戦を含め、東京スポーツ主催のプロレス大賞において3年連続年間最高試合賞(ベストバウト)を受賞(他の2試合は1976年3月28日に蔵前国技館で行われたUNヘビー級選手権試合のジャンボ鶴田vsラッシャー木村戦と、1978年1月20日に北海道帯広市総合体育館で行われたNWA世界ヘビー級選手権試合のハーリー・レイスvsジャンボ鶴田戦)。

この時期の鶴田の代名詞は、UNヘビー級王座と背後に星を刻んだレスリングタイツ。必殺技は4種類のスープレックス、特にジャーマン・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキックミサイルキック)を大一番で用いている。このころの好敵手にビル・ロビンソンハーリー・レイスアブドーラ・ザ・ブッチャーらがいる。

1980年代前半:世界の鶴田へ[編集]

1980年代前半は、NWA世界ヘビー級王座(当時世界三大王座(NWAAWAWWF)のうちのひとつ)に対してあと一歩でタイトルを取り逃がす歯がゆい試合を続けたため「善戦マン」と呼ばれていたが、1982年のNWA戦からタイツも黒を基調としたエースらしいものに変更し「善戦マン」からの脱却を心がけた。この当時の鶴田について上田馬之助は「ジャンボはなぁ…あれだけ恵まれた体格をして、才能、瞬発力、運動神経を全て高い次元で持っているのに……ジャンボには何かこう、ガツーンと来るものがないんだよね。全日どころか日本マット界のエースになれる素材なのに。藤波もそうだけど、デビュー当時からの『爽やかお兄チャン』のイメージを、いまだに捨て切れてないというか。まぁ、最近はトランクスを黒に変えて、自分の中の何かを変えようと必死になっているのは分かるけどね」と語っていた[5]

また、この年の秋に来日していたルー・テーズに、必殺のバックドロップのコツを教えてもらっている。

1983年4月、若手レスラーの登竜門と言われたトーナメント大会ルー・テーズ杯の特別レフェリーとして再度全日に登場したテーズから、バックドロップフライング・ボディシザース・ドロップを今度は本格的なマンツーマン特訓で伝授される。このとき「今の(コーチ料)は100万ドルだな」というテーズの言葉に「世界チャンピオンになったら払います」と答えた逸話が残されている。(翌年鶴田はAWA世界王者に就いたが、テーズに本当に100万ドルを払ったかどうかは不明である。ちなみに当時のレートで100万ドルは2億円以上になる)

6月8日にはNWA王者リック・フレアーに挑戦し、三本勝負を1-0で時間切れ勝ちはするものの、「三本勝負の場合、二本勝たなければ王座の移動はしない」というルール規定により、世界奪取はならなかった。しかし、フレアーとのNWA戦では1981年の1-2での敗北や1982年のダブルフォールでの引き分け(この試合は一本勝負)に比べるともっとも善戦しており、AWA王座を奪取するまでの間「鶴田が世界に一番近づいた日」と呼ばれていた。フレアーからは30年の時を経て「日本人でベストな選手を3人挙げるとしたら、ツルタ、テンルームタ[6] とのコメントがある。

この後UNヘビー級王座を返上。8月31日蔵前国技館において、力道山以来の日本プロレス界の至宝インターナショナル・ヘビー級王座ブルーザー・ブロディから奪取、第14代王者となる。試合後、ロッカールームでジャイアント馬場から「よくやった、今日からお前がエースだ」と祝福され、公式に全日のエースの座を襲名する。

年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では馬場との師弟コンビを解散、天龍との鶴龍コンビで参加するが、ミラクルパワーコンビに次ぐ準優勝に終わる。この年、インター・ヘビー級王座獲得の功績が認められ、プロレス大賞の最優秀選手賞(MVP)を、同世代を表す「鶴藤長天」の中で初受賞。そして鶴龍コンビはこの年から新設された最優秀タッグチーム賞の初受賞チームとなった。

1984年、入場曲を「J」に変更。2月23日に蔵前国技館で、AWA王者ニック・ボックウィンクルに挑戦。「バックドロップ・ホールド」によって勝利し、当時日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座を獲得、念願の世界奪取を達成した。AWA王座獲得後、同王座をリック・マーテルに敗れるまで、前王者ニック・ボックウィンクルをはじめ、ブラックジャック・ランザビル・ロビンソンジム・ブランゼルグレッグ・ガニアブラックジャック・マリガンバロン・フォン・ラシクらを挑戦者に16回の防衛、日米2国間を往復しての世界ヘビー級王座防衛は、日本人初の快挙であった。この年、プロレス大賞のMVPを2連覇。

これらの活躍により同世代「鶴藤長天」の中では一段上の扱いとなり、実力的には馬場・猪木の後継者とされるものの、人気では維新革命の長州力や天龍の後塵を拝す。このレスラーとしての格と人気面のギャップは、「バックドロップは相手の受身の技量によって落とす角度を変えている」などという鶴田の発言に対し、ファンが「本気でやれ」「手加減するな、殺す気でやれ」という反応を見せ、さらに鶴田が「相手のレスラー生命を終わらせる、もしくは死に至らしめるのがいいレスラーだというのなら、僕は明日にでも会社(全日)に辞表を出す」と反論するなど、良くも悪くも「気は優しくて力持ち」的な鶴田のキャラクターや試合ぶりにファンが感情移入しにくい点に一因があった。

1980年代中盤:超獣コンビ、ロード・ウォリアーズ、ジャパンプロレス勢との闘い[編集]

「プロレス界のキングコング」と称されたブルーザー・ブロディやハンセン、ロード・ウォリアーズといった大型外人レスラーとの戦いがメインとなっていた1980年代中盤、大型の外人と戦っても見劣りしないレスリング技術は、後に全日に参戦した長州力、ブロディが新日本に移籍した後で対戦したアントニオ猪木らの戦いと比較される中で評価されるようになった。相手レスラーからの評価も高く、戦った選手のほとんどは鶴田の運動能力、身体的能力を絶賛している。

新日本プロレスのエースであり、1984年末から全日に参戦した長州力と、1985年11月4日に大阪でシングルマッチを行う。結果は、60分フルタイムドローで終わったが、試合後はロッカールームで全く動けなかった長州に対し、鶴田はシャワーを浴びて大阪市内へ飲みに出かけた、といった伝説を作る。また、鶴田は、この一戦はリング中央でどっしりと構え、自身の周りを長州が動き回るようにファイトすることを意識し引退後日本テレビのインタビューで「あれは僕の作戦勝ちでしょ」と語っている。これは馬場がエース候補生たちに必ず教えていた心構えであり、また、自分が格上のレスラーであると印象付けられる上にスタミナの消費も少ないという効果を狙ったものだった(ただし、当時、鶴田はバックステージでジャパンプロレス勢とのマッチメイクだと聞かされると、「今日はカラータイマーだから楽だな」と話していた、という逸話もある。これは、ジャパンプロレス勢が攻めばかりで、スタミナが極端にないことを揶揄したものである)。そのため、鶴田が王道プロレスを体現した試合として名高い。一方、長州は対戦前には鶴田を「ぬるま湯に浸かっている」「アイツはレスラーじゃない、ただのサラリーマン」と散々酷評していたが、対戦後は鶴田へ一目置くようになり、マスコミに対し「ボクシングのような判定制だったら(俺の)負けだったな」「彼には勝てないよ」と語った。以後、鶴田を評価する発言を度々行うようになる。この評価は鶴田戦後長年にわたり一貫しており、2012年10月5日の長州と高田延彦とのトークショーにおいても、「鶴田先輩は本当にすごい」と、新日・全日時代のキャラクターにとらわれず、アマレス時代の先輩である鶴田に対する敬意を素直に表現している[7]。長州とのこのシングル対決は1985年のプロレス大賞の年間最高試合(ベストバウト)に選出されている。

1980年代後半〜1992年:天龍同盟、超世代軍との闘い[編集]

鶴田が怪物レスラー、完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の超世代軍(のちの全日本プロレス四天王)との戦いであった。

1980年代後半以降は、一般的なプロレス技で仲野信市や天龍を失神させる、寺西勇アニマル浜口が全治数ヶ月の入院を余儀なくされる、といった怪物ぶりを発揮した。特に天龍は世界タッグ戦でバックドロップの3連発(後述)、1989年4月の三冠戦では後に「ジャンボ・リフト」と呼ばれる掟破りの超急角度の垂直落下型パワーボムと、2度失神させられている。

1988年6月には、谷津嘉章との五輪コンビでインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一、初代世界タッグ王者に就いた。同年8月30日、前日に龍原砲(天龍と阿修羅・原のコンビ)に王座を奪われ五輪コンビで挑戦者チームとして戦った一戦では、バックドロップを連続で食らいすでに意識がなく自力で立ち上がれない天龍の髪の毛を掴んで、無理やり引きずり起こし3発目のバックドロップで完全失神に追い込みかばう原ごとピンフォールし、王座を奪回した。

1989年4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠ヘビー級王者となる。これらの実力が認められた結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものとなり、1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会では敵地であるにもかかわらず、入場時に「ツルタ、オー!」コールが爆発するなど、全日のエースから日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在になっていた。

天龍が新天地を求めて全日を離脱した後、ライバルとして名乗りをあげたのは弟子の三沢光晴であった。1990年6月、三沢はシングルマッチで鶴田越えを果たすが、この試合は「丸め込み」合戦を制してのもので、真に鶴田越えを果たしたとは言い難いものだった(試合後、勝った三沢はリング上で倒れこんだままで、負けた鶴田はレフェリーに抗議している)。三沢は最初で最後の涙をリングで流し、観客が総立ちであった。三ヶ月後、三冠ヘビー級王座への挑戦権をかけて再度三沢と戦うが、今度は鶴田がジャンボラリアットからのバックドロップ・ホールドで三沢から完璧な3カウントを奪っている。

1991年1月19日、ハンセンを破り、三冠ヘビー級王者(第8代目)に返り咲く。この年は三沢、川田利明スティーブ・ウィリアムスが鶴田の三冠王座に挑戦するが、全て完勝といっていい内容で退けている。1月下旬の後楽園ホール大会では、川田から顔面へのステップキックを執拗に繰り出された直後、鶴田は目の色を変え、大迫力のエルボー(この段階で川田を戦意喪失させ半失神状態に追い込んだが鶴田の怒りは収まらず、無理矢理起こして次の攻撃を続けた)、顎へまともに入るジャンボ・キック、場外でのボディスラム、座面ではなくステンレス部分でのイス攻撃などを川田に繰り出した。タッグパートナーの渕正信が止めに入るものの、渕を突き飛ばし、解説の竹内宏介も言葉が出なくなるほど壮絶な攻撃であった。 和田京平によると、試合後の控え室では「何でボク、あんなにキレちゃったんだろう」と普段のジャンボ鶴田に戻っていたという。この時の鶴田について、和田京平は「あれはお客さんに見せるものじゃない。普段の余裕のジャンボを見せたかった」と自書で語っている。

また10月の大阪府立第二体育館での6人タッグ戦では、鶴田のエルボーが三沢光晴の鼻を直撃し、三沢が鼻骨を骨折してしまう。鼻を負傷しながらなおも試合を続ける三沢に、鶴田はその鼻に狙いを絞った攻撃を徹底する。鶴田は反旗後の三沢に、「あいつはもっと良い奴だと思っていた」という意味不明なコメントを残しているが、この試合後に「三沢はまだまだ良い奴じゃないよ」と語っており、自分が超世代軍の壁であることを自認していたとも言える。

この年の鶴田は全日本プロレス中継内の三沢との三冠戦後のインタビューで「一回でいいから、世界最強といわれるハルク・ホーガンと、負けてもいいから思いっきり闘いたい」と発言したことがある。当時ホーガンが所属するWWF(現WWE)と全日本とは全く団体間の交流はなく、しかも、全日は選手のスタンド・プレーに厳しかった。対戦したい相手として他に、前田日明藤波辰巳の名も挙げており、一時は新日本プロレスへの移籍を本気で考えた時期もあったという。ジャイアント馬場VSアントニオ猪木戦争に対しても、「全日本に閉鎖的な面もあると思うが、(馬場に偽の挑戦状を叩きつけた)猪木さんは今は良いけど、あと何年かすれば年齢でベストなファイトが出来なくなるのは確実だ。(猪木さんも)そういう状態で挑まれても納得出来ないでしょう?」と第三者として中立的なコメントを残している。(猪木が40歳を過ぎた頃にUWF前田日明が、そして1986年に第2回プロレス夢のオールスター戦の企画が上がった際に鶴田がシングル対決希望を表明したが、結局猪木は前田、鶴田の対戦要求に応じることはなかった)

1991年は7年ぶりにプロレス大賞のMVPを三度目の受賞。

最後のタイトルマッチとなったのは、1992年10月7日の世界タッグ選手権だった。田上と組み、殺人魚雷コンビことゴディ&ウィリアムス組の挑戦を受けた。この年は古傷の左足首の故障で1シリーズを全休したことに加え、1月にはハンセンに敗れて3冠ベルトを奪われる、チャンピオン・カーニバルで同ブロックとなった三沢の後塵を拝して優勝戦進出を逃す(結果的に三沢とは最後の対決となった試合で時間切れの引き分けに終わり、苦手のゴディにも引き分けていたため、三沢とは勝ち点1の差でカーニバル敗退)など、前年の怪物振りと比べると陰りも見えていた。だが、この年に急成長を見せていたパートナーの田上が体調万全ではない鶴田をカバーする大活躍を見せる。田上はこの年に開発した喉輪落としでゴディからフォールを奪い、王座の防衛に成功。田上の躍進を見届けた鶴田は、結果的に第一線を退くこととなった。

1992年入院以降:教授レスラーへの夢[編集]

1992年11月にB型肝炎を発症したことを告白、長期入院を余儀なくされた。元々鶴田がB型肝炎ウイルスキャリアであることは1985年8月の時点で判明しており、当時の主治医によるインターフェロン療法がうまくいかず症状を悪化させたため、と後に保子夫人が著書で述べている。

1993年の復帰後も、再発の危険性があるため、極端に負担のかかる第一線に立つことはなくなった。鶴田自身、その時の様子を「桶に片足を入れた状態」と評している。「一昔前なら棺桶に両足を入れていた(つまり、死んでいた)」とも発言している。

これでメインイベンターとしての鶴田の価値は消え去ったのだが、それでも馬場は鶴田の給料を下げることをしなかったという。入院中に読んだ雑誌に女子プロゴルファーの桝井映里が大学院に入学した記事があったことがきっかけとなり、教授レスラーへの道を目指す。1994年10月に筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻に合格し、遂には非常勤講師ながら大学教員となった。並行して大会場でのスポット出場という形で現役プロレスラーを継続する。ほとんどの試合は馬場と組んでの6人タッグであった。

そして1999年、馬場が死去した直後に引退・全日本取締役辞任会見をキャピトル東急ホテルで行う。この後に「全盛期に前田日明と戦ってみたかった。藤波君が度々対戦要求を出してきたが、マスコミの前のポーズだけで実際の交渉は一切なかった。僕はそれが大嫌いだった」とコメントしたことも話題になった。後日、鶴田は藤波に「失礼な発言をしてしまい申し訳ない」と、FAXで謝罪した。

ただし、鶴田は1990年代のある番組の中で(ファンサービスもあったにせよ)「今年の夢は藤波選手と闘うことです」と発言していた。1987年1月4日、東京スポーツ主催のプロレス大賞授賞式の席上でも、「今年は藤波選手と闘って最高試合賞を取りたい」とコメントしており、週刊ゴングによる鶴藤長天キャンペーンのきっかけの一つとなっていた。

引退、闘病、死去[編集]

引退記者会見を行った後、1999年3月6日に日本武道館にて引退セレモニーが行われ、スポーツ生理学の客員教授格としてオレゴン州ポートランド州立大学に赴任することを明らかにした。なお、勤務先であった桐蔭横浜大学のサイトには「客員研究員として」[8]とある。鶴田がアメリカへ向かう際、成田空港に見送りに来たのは三沢、仲田龍、大八木賢一専務のたった三人であったが、仲田の著書によれば、鶴田サイドと馬場元子オーナーとの間には既に距離があり、見送りに行けない空気を振り切って来たとのことである。これが鶴田と三沢の最後の対面となったが、その際鶴田は「何かあったらすぐに言って来いよ。俺はミチャワくん(鶴田が三沢を呼ぶ際の愛称)の味方だから、それだけは忘れないでくれ」と告げたと言われる。

この前後よりB型肝炎は肝硬変を経て、肝臓癌へ転化かつ重篤な状態へ進行していた。鶴田は第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断。日本では親族間の生体肝移植しか認められておらず、親族で唯一血液型が合致した実兄がドナー候補となるも最終的に移植条件に合致しなかったため、日本での移植が不可能となり、海外での脳死肝移植に望みを賭けた。オーストラリアで臓器提供を待っていたところ、2000年春になりフィリピンマニラでドナー出現の報を聞き、かの地へ急行・手術。ところが肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生、治療の甲斐なく5月13日17時(現地時間では16時)に死去した。奇しくもこの日は、16年前にAWA世界ヘビー級王座から陥落した日であった。49歳没。戒名は「空大勝院光岳常照居士」。和田京平の著書によると、「鶴田は元々血を流すと止まりにくい体質であった」と記されている。

没後[編集]

鶴田の死から1ヶ月後の6月13日、かつて鶴田の付き人を務めていた三沢光晴が全日本プロレスを退団し、その三日後の記者会見で新団体(プロレスリング・ノア)の旗揚げを正式発表した。これに伴い全日本の選手が大量離脱したことに対して、彼らが全日本で冷遇されていたことを知らぬ保子夫人は「ジャンボ鶴田・お別れの会」にて「夫は三沢くんを支持したと思う。でも、三沢くんに全日本を潰す権利は無い」と話したが、真相を知った後に自身のWebサイトで「三沢くんたちの気持ちがやっと分かった」「(馬場)元子さんは許せない」と語った。

鶴田の突然の死は各方面で大々的に報道され、2000年11月26日には『知ってるつもり?!』(日本テレビ系)で「ジャンボ鶴田、家族の絆と衝撃死の真相」と題した追悼番組が放送された[9]

人物・評価[編集]

  • 現役時代からフォークシンガーとしてレコードを発売したり、ファンの前でギター片手に歌ったこともある。井上陽水の「傘がない」をテレビで披露したこともある(ただし付き添った川田曰く「アンコールはなかったね」とのこと)。
  • 中央大学へはバスケットのスポーツ推薦でなく、一般入試を受け合格したとされている[4]。しかし鎌田誠[10](中大レスリング部およびミュンヘンオリンピックレスリング代表の同期)やミスター・ポーゴ(中大同級生)は「鶴田はバスケット特待生だった」と明言している。自著の受験指南書『ジャンボ鶴田の受験は格闘技だ』では、大学院入試の経験については詳細であるが、大学受験に関しては具体的に語られていない。
  • レスラー時代はバラエティ番組へも出演しており、プロレス好きの三宅裕司の番組やさんまのまんまにも出演した。また日野自動車トラック井関農機コンバイン「太郎」シリーズのCMにも出演経験有。
  • 虫が大の苦手。セミはおろか、毛虫なんかもっての他(夫人談)
  • 家宝は坂本龍馬の像で、プロレスで得たトロフィーなどは無造作に押入れへ保管したり、欲しがる人にあげていたと言う。
  • 後輩であっても「君」付けで呼び、先輩風を吹かせたり、無理を言ったりすることもなかったという[11]。リングを降りるとマイペースを貫き、若手選手と飲食店で同席しても特におごることは無く、コンビニの袋を抱えて宿泊宿へ戻るなど、プライベートでは鶴田友美として過ごした[11]。この「使い分け」は外人選手に対しても同様であったため、テリー・ファンクも1983年の一度目の引退のあと「馬場の次のボスは鶴田ではなく天龍だ」と語っていた。天龍はプロレス転身当初鶴田から気のよさそうな挨拶を受け、後年「ジャンボのおかげでプロレス界にスッと入っていけた。もしあの時、元関取でもプロレスではそうはいかないぞ!みたいなムードを感じていたらその後のプロレスへの取り組み方は変わってしまっていたかもしれない。」と振り返っている。
  • 「ナチュラルな強さ」と言われることが多い。付き人であった三沢光晴も「鶴田さんが筋力トレーニングをしているところを見たことがない。おそらく自分の好きなテニスやバスケットボールを楽しみながら必要な筋肉を付けていたのだと思う」と著書の中で述べている[11]
  • ブルーザー・ブロディが鶴田を特別にライバル視していたように、鶴田もまたブロディをライバル視していた。全日本プロレス中継のスペシャル番組「ジャンボ鶴田と5人のライバル」ではスタン・ハンセン三沢光晴天龍源一郎ニック・ボックウィンクル、ブロディの中で、「一番のライバルは?」との問いに「日本人では天龍、外人ではブロディですね」と答えて、「ライバルというよりは彼に対しては『ブロディのようになりたい』という憧れのような感情もあった」と告白している。
  • アマチュアレスリングでは鶴田よりも身長が13センチ低い[12][13]小柄な磯貝頼秀に一度も勝利することができなかったなど、国内において無敵の選手であったとは言い難い面もある。なお五輪など国際戦では外国人選手に全敗している

主な得意技など[編集]

バックドロップ
この技自体は若手時代から使用していた技なのだが、当時は相手の股へ手を差し込んだ抱え式のバックドロップであった(馬場やドリーのバックドロップと同じ形)。しかし1982年の夏頃から反り投げ式のバックドロップ(現在でいう投げっぱなしジャーマンのようなスタイル)をフィニッシュに使用しはじめ、そして同年秋にバックドロップの祖であるルー・テーズから「ヘソで小さく弧を描くように投げろ」とアドバイスを受け、自分の頭を相手の脇下にいれ、相手の胴を両手でクラッチしてブリッジを効かせて投げるルー・テーズ型バックドロップに磨きをかけるようになる。1983年4月にルー・テーズ杯のためにテーズが再度全日を訪れた際には本格的なマンツーマン特訓も受け、以後はジャーマン・スープレックスに代わる鶴田の絶対的な切り札となる。
最初はつま先をマットにつけたまま素早く低く叩きつける低空高速型(渕正信蝶野正洋が使用しているタイプ)だったが、観客の見栄えを意識してか徐々につま先を流しながら高く持ち上げ落下させるスタイルに変化させていく。つま先をつけたまま低い体勢で素早く叩きつけるスタイルの低空高速型バックドロップは後のバックドロップ・ホールドへと昇華されていく。ニック・ボックウィンクルとのAWA世界ヘビー級戦でバックドロップ・ホールドでフォールしてベルトを奪取して以降、鶴田の代名詞と呼ばれるようになり、また、AWA世界王座奪取の決め手のなったことから「世界を獲ったバックドロップ」とも言われていた。身長2m、体重190kgの超肥満体型選手だったワンマン・ギャングも綺麗に投げてみせた事もある。
相手の受身の力量によって落とす角度を変えており、三沢光晴川田利明に対しては、とんでもない角度で落としていた。別名「岩石落とし」。
ジャンピング・ニー・バット
普段は相手の顔の横を狙って放つが、怒った場合は真正面に向かって放つことがある。一時期は「鶴田が相手をロープに振ったら90%この技」といわれた。決まった後は右手を高々と掲げ「オー!」と叫んでアピールする事がほとんど。現在では秋山準が鶴田から直接教わったことを明言して使用し、女子でも西田夏NEO)が習得し、仲村由佳NEO)・里歩我闘雲舞)へと伝承されている。バスケの経験から得た跳躍力を活かしている。
若手時代は「相手に考慮し」当たる瞬間体を横に向け太もものあたりを当てるようにしていたが、天龍との抗争からそのまま真っ直ぐ飛んで鋭角的な膝を顔面に叩き込むようになった。重要な一戦ではコーナーポスト最上段から放つダイビング式(ダイビング・ニー・アタックと呼ばれた)、ランニング式も使用し、スタン・ハンセンを失神させた事もある。
ダブルチョップ
ダブルハンマーとも。頭上から両手を揃えて相手の背中へ張り手の様に放つチョップ。超世代軍相手に放つことが多く、その威力と大きな音で場内がどよめくことも多かった。技自体は単純だが、相手に格の違いを見せ付ける色合いが強い打撃技である。
ドロップキック
新人時代に多用したが、キャリア中盤以降も印象的な場面でしばしば用いた。持ち前のバネを活かした打点の高さ、威力、タイミング、フォームの美しさ、どれも随一で若手時代は「日本人No.1のドロップキックの使い手」と評された。師匠ジャイアント馬場との初対決でこの技を繰り出した時には、あまりに高く飛び上がりすぎて足先が馬場の頭部(2m9cm)を越えてしまったこともある。
4種のスープレックス
ジャーマンダブルアームフロント、サイドの4種類のスープレックスを使いこなし、特にジャーマンのブリッジは真円を描くかのごとく美しかった。しかし、鶴田のジャーマン・スープレックスは1982年のリック・フレアーとのNWA戦を最後に封印される。表向きの理由は「恐ろしい威力を誇り危険であり調節も難しいため」であったが、和田京平レフェリー曰く「ハゲるのが嫌だから」であった。ただ、鶴田のジャーマン・スープレックスはスピードを落として持ち上げて一旦止めてから投げていく、現在でいう二段モーション式ジャーマンなので、結果相手は高角度からほぼ垂直に落下する危険なタイプのものであるのは確かで、第8回チャンピオン・カーニバルの決勝で仕掛けられたディック・スレーターが首を負傷してしまったのは有名。
なお、フロント・スープレックスをフィニッシュにしたレスラーは鶴田が初めてで[14]、(カール・ゴッチは『私は彼(鶴田)が騒がれる前からサルト(フロント)を使用していた』と主張しているが、ゴッチが試合でフロントを使用したという記録は少なくとも現時点では存在していない)[3]ジャック・ブリスコからUNヘビー級王座を奪取する決め手となったのはフロントだった。鶴田曰く「ジャーマンは1週間で習得出来たが、フロントは4週間かかった。4種類のスープレックスでは一番難しく、本当に受身の上手い選手にしか使わない」そうである[14]
サイド・スープレックスについては、長身の馬場を投げきる場面が印象的な映像として頻繁に流されている。
最もよく使われており得意としていたのはダブルアーム・スープレックスで、ジャンピングニー、ボストンクラブなどとともに、80年代前半は大試合で必ず見られるムーブのひとつであった。
ミサイルキック
倉持隆夫アナからはウルトラCドロップキック、もしくはジャンボ・ミサイルキックと呼ばれていた。1975年全日本に参戦したリッキー・ギブスンが公開、ドロップキックを得意技にしていた鶴田はこのミサイルキックを自分のものとした。ジャーマン・スープレックスと共に若手時代の鶴田のフィニッシュだった。スワンダイブ式が全盛の今と違い、2m近い巨体の鶴田が体を捻りながら蹴るミサイルキックの威力は高く、ミル・マスカラスリック・フレアーといった一流どころからも3カウントを奪っている。
ジャンボラリアット
スタン・ハンセンのような一撃必殺技とは行かないが、試合の要所でこの技を使用した。キャリアが中盤になるころから使い出した技。1984年のテリー・ゴディとの一騎打ちあたりから黒いアームサポーターをしごいて放つジャンボラリアットが誕生したと言われる。鶴田のラリアットの打ち方は特徴があり、通常は下から体ごと伸び上がりながらノドを突き上げる。ただし、菊地毅のような小柄のレスラーには肘を曲げて上から体重を乗せるような打ち方をした。いずれにせよ、鶴田の身長を上手く利用した打ち方であった。また、長州力のリキラリアット同様、使用した当初は腕を痛めたポーズをとっていた。
フライング・ボディシザース・ドロップ(テーズ・プレス)
ジャンプして相手に飛びついて、馬乗りになるような状態で背中から叩きつける。1983年4月、ルー・テーズにバックドロップを習った際に一緒に教わったもの。そのままフォールの体勢になることも多いが、トップロープに自らの喉元を打ち付ける誤爆も多かった。また長身でジャンプ力のある鶴田が使うと勢い余ってヒップドロップの形で落下してしまうこともあった。技の説得力から使用回数の割にフィニッシュムーブとなることが多かった。
パワーボム
天龍源一郎との1989年4月20日大阪における三冠ヘビー級選手権で、喉笛へのチョップを何度も食らったために怒りで我を忘れた鶴田が、その天龍に対し放った技。のちに「ジャンボ・リフト」の別名がついたそのパワーボムは超急角度かつハイスピードなもので、頭から垂直に落とされた天龍は口から泡を吹いて失神。
直後に天龍の異変に気付いた鶴田が慌ててフォールし、試合を終わらせている。(実際には鶴田のミスであり、それまではパワーボムをほとんど使用してなかったために「加減が分からずやりすぎた(鶴田・談)」)
エルボー・バット
鶴田が大きな技へのつなぎ技、反撃の糸口として使うエルボー・バットはエルボー・スマッシュと、体を半回転させて打ち込む、今でいうローリング・エルボーの形に近いものが多かった。どちらもドリー・ファンク・ジュニアの得意技で、ファンクス道場での修業中にドリーから教えられたもの。
ショルダースルー
この技はほとんど相手の反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的なムーブである。相手の攻撃を「引き出す」ための動きだが、鶴田に比較的余裕のある状態で行われるため、やや不自然なものであることが多い。ブルーザー・ブロディとのシングル戦では、双方がショルダースルーに行こうとしては反撃で失敗する「ダブルお約束」的シーンが見られた。
タックル
この技も、ほとんど相手の反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的な動きである。コーナーに投げた相手に向かってタックルをかけるべく頭から突進するがキックを食らうかもしくは自爆。決まったことは数えるほどしかない。
場外でのヘッドロックから鉄柱攻撃
この技もまた、ほとんど反撃にあって失敗する。いわゆる「お約束」的な動きである。場外で相手をヘッドロックにかかえたまま相手の頭部を鉄柱に打ち当てるべく突進。頭を抜かれて自分が鉄柱に体当たりする。
キチンシンク
ロープに振り、戻ってきた相手の腹部に膝蹴りを入れる。2、3回ほど行うのが常だった。特に川田利明の受けっぷりは見事であった。見ている者に最も痛みを感じさせる技とも言われた。長州が全日に参戦していた直後から鶴田も使い始めた事から、長州に影響を受けたものと思われる。
拷問コブラツイスト
通常のコブラツイストと異なり、かけた相手の頬・側頭部を上から押さえつける。川田との拷問コブラ合戦は名場面の一つ。また、菊地毅はこの技を文字通り「押し潰される」ように受けた。
レッグ・ラリアット
ブルーザー・ブロディ用秘密兵器、という触れ込みで開発された。木村健吾の技とはまったく違い、ジャンピング・ニーバットが横に流れた形。膝ではなく、脛が相手の首にヒットする。見た目がほとんどジャンピング・ニー・バットと変わらないことからあまり評判が良くなかったのか、数回使っただけで封印された。
逆エビ固め(ボストンクラブ)
キャリア前半では、ジャンピング・ニーバットからスープレックスへのつなぎ技として多用していた。キャリア終盤時は体格差のある菊地毅へ決めた形が片仮名の「コ」に見えることから「コの字固め」とも呼ばれていた。馬場の「試合終了間際に攻めている方が強くみえる」という教えに沿って、残り時間が30秒を切ってから仕掛けることもよくあった。
ジャンボホイップ
アトミック・ドロップの要領で抱え上げ、前方へ放り投げる荒技。菊地毅が主な犠牲者。ホイップせずにそのままアトミック・ドロップに行くことも。
ランニング・ネックブリーカー・ドロップ
走りこんで相手の首に腕を掛けそのままマットに相手の後頭部を叩きつける。師匠馬場の必殺技であった。
延髄斬り
相手の延髄めがけてジャンプをしながらハイキックを入れる。天龍が多用していた技でもある。鶴田の場合は軸足を掴まれた状態から放つキャッチ式延髄斬りをここ一番で効果的に使っていた。
ビッグブーツ
相手レスラーに向かってフロントキックをぶちかます。福沢朗アナは十四文キック若林健治アナはジャンボ・キックと呼称していた。ライバルのブルーザー・ブロディが死去したことで折角威力のある技であるし、ファンがブロディを忘れることがない様にと使う様にした。事実、試合でヘビー級レスラーをも吹っ飛ばしていた。1989年4月20日の三冠へビー級選手権では、天龍をパワーボムで失神させる前に、この技で天龍の歯をへし折っている。また、馬場とのコンビではダブル・フロントキックをよく使っていた(実況では三十文キックとも呼ばれた)。
パイルドライバー
ドリル・ア・ホール式で、相手の頭を股間に挟み込んでリングへ脳天を叩きつける。技の妨害を受ける心配がない場合は挟み込んだ体勢で四方に身体を向けてアピールしてから落とすこともあった。また、ライバルのブロディのパイルドライバー同様何らかの工夫をしていたのか、決まった時の衝撃音が非常に大きかった。
痙攣
相手選手の攻撃を受けダウンした状態のとき(主にうつぶせの場合)ピクピクと痙攣するシーンも大一番ではよく見られた。似た技(?)で関節技をされている際に「足バタバタ」というのもある。「鶴田が痙攣してたり、足をバタバタさせている内はまだまだ余裕がある」というのは全日ファンの間では暗黙の認識だった。(鶴田が痙攣状態からそのままピンフォールを奪われたのは1988年3月のブロディとのインター・ヘビー級選手権くらいで、これらのムーブのあと何事もなかったかのように涼しい顔で反撃に出るのがほとんどだった)

生涯[編集]

主なタイトル歴[編集]

入場テーマ[編集]

  • チャイニーズ・カンフー
  • ローリング・ドリーマー(作曲:川口真) - インストバージョンを使用。
  • T.T.バックドロップ(1983年8月31日・ブルーザー・ブロディ戦(リングアウト勝ちによりインターヘビー級奪取の試合)のみの限定使用)
  • J(作曲:鈴木宏昌、1983年12月から。1980年代前半とそれ以降でそれぞれ違うバージョンのものを使用していた)

レコード発売[編集]

  • ローリング・ドリーマー(1981年、作詞:喜多條忠 作曲:川口真)
  • 明日があるさ(1984年、作詞:山田孝雄 作曲:幸耕平
坂本九の『明日があるさ』とは全く別の楽曲

著作[編集]

関連書籍[編集]

CM[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『全日本プロレス中継スペシャル』「ジャンボ鶴田と5人のライバル」
  2. ^ 特別対談 ジャンボ鶴田-早川武彦 対談者略歴
  3. ^ a b c d 週刊ゴング別冊号 ジャンボ鶴田追悼号(2000年)
  4. ^ a b c ジャンボ鶴田・編 久堂一・著『熱き若武者の叫び―ジャンボ鶴田“青春マインド”』 (笠倉出版社)
  5. ^ 月刊ビッグレスラー 1982年10月号P114-119 『まだら狼上田馬之助のレスラーぶった斬り』(立風書房
  6. ^ 通算64回目!リック・フレアーがご機嫌来日
  7. ^ 長州力×高田延彦トークショー 2
  8. ^ 桐蔭横浜大学 - ポロニア No. 73:平成12年5月20日
  9. ^ 「ジャンボ鶴田、家族の絆と衝撃死の真相」 日本テレビ『知ってるつもり?!』
  10. ^ Gスピリッツ Vol.10(タツミムック) 19ページ
  11. ^ a b c 『船出―三沢光晴自伝』
  12. ^ Olympics at Sports-Reference.com Tomomi Tsuruta Height: 6'4" (194 cm)
  13. ^ Olympics at Sports-Reference.com Yorihide Isogai Height: 5'11" (181 cm)
  14. ^ a b 月刊デラックス・プロレス 1982年11月号・60P『マイ・フェバリット・ホールド』
  15. ^ 日本体育協会編『日本アマチュアスポ-ツ年鑑 1972年版』(帝国地方行政学会, 1972年)
  16. ^ 各年度優勝選手と日本代表選手成績(フリースタイル) 日本レスリング協会
  17. ^ 各年度優勝選手と日本代表選手成績(グレコローマン) 日本レスリング協会
  18. ^ 五輪日本代表選手 全成績(男女) 日本レスリング協会

関連項目[編集]

外部リンク[編集]