バロン・フォン・ラシク

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バロン・フォン・ラシク
プロフィール
リングネーム バロン・フォン・ラシク
ザ・バロン
ジム・ラシク
本名 ジェームズ・ドナルド・ラシク
ニックネーム ザ・クローマスター
妖獣
身長 191cm
体重 122kg(全盛時)
誕生日 1940年10月17日(74歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ネブラスカ州オマハ
スポーツ歴 レスリング
トレーナー バーン・ガニア
マッドドッグ・バション
デビュー 1966年
引退 1994年
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バロン・フォン・ラシクBaron Von Raschke1940年10月17日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーネブラスカ州オマハ出身。本名はジェームズ・ドナルド・ラシクJames Donald Raschke)。日本での異名妖獣

来歴[編集]

コロラド大学レスリングの名選手として活躍、数々のタイトルを獲得して1964年には東京オリンピックグレコローマンスタイルでアメリカ代表に選ばれたほどの実力者。五輪は怪我で辞退し、同じくレスリングの名選手だったAWAの総帥バーン・ガニアにスカウトされて1966年プロレス入り。当初はジム・ラシクのリングネームで正統派レスラーとして活動していた。

1967年マッドドッグ・バションの助言により、カナダモントリオールにてスキンヘッドナチギミックに変身し、バロン・フォン・ラシクを名乗ってヒールに転向[1][2]。同年11月にエドワード・カーペンティアからIWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取して脚光を浴びる[2][3]1970年3月にはディック・ザ・ブルーザーを破りインディアナポリス版のWWA世界ヘビー級王座を獲得した[4]

日本には1971年10月、AWAと提携していた国際プロレスに初来日。シングルではストロング小林IWA世界ヘビー級王座、タッグではダニー・リンチと組んでサンダー杉山&ラッシャー木村IWA世界タッグ王座に挑戦している。1972年3月の再来日では第4回IWAワールド・シリーズに参加し、リーグ戦で対戦したアンドレ・ザ・ジャイアントをレスリングテクニックで翻弄した。同年5月には小林のIWA王座に再挑戦している。

1975年12月、全日本プロレスジャイアント馬場が「アントニオ猪木新日本プロレスをも含めた他団体に広く門戸を開く」として開催したオープン選手権に国際プロレスが協力した関係でラシクも参戦する。この大会でラシクは馬場の開幕戦の相手に起用され、得意のブレーン・クローで健闘するも、馬場の十六文キックと三十二文ドロップキックの前に敗退(なお、馬場の最終戦の相手には同じく国際の常連外国人でオープン選手権に参加していたホースト・ホフマンが起用された)。これ以降ラシクは全日本プロレスに参戦することとなった。

1977年3月にはノースカロライナ州グリーンズボロで馬場のPWFヘビー級王座に、また同年5月には札幌ジャンボ鶴田UNヘビー級王座に挑戦している。1981年世界最強タッグ決定リーグ戦には「青銅の爪」キラー・カール・クラップとの「恐怖のクローコンビ」で参戦したが、両者とも明らかに全盛期を過ぎており、馬場&鶴田、ザ・ファンクスブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカハーリー・レイス&ラリー・ヘニングタイガー・ジェット・シン&上田馬之助ザ・シーク&マーク・ルーインといった強豪の中に入っては下位に甘んじるほかなかった。現役での来日はこれが最後となったが、ジャンボ鶴田がAWA世界ヘビー級王者としてアメリカで防衛戦を行った時にラシクも挑戦している。

アメリカではトップクラスのヒールであり、1970年代フレッド・ブラッシーマネージャーニューヨークWWWFを襲撃、1977年3月28日と4月25日のMSG定期戦にてブルーノ・サンマルチノWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦した[5]NWAの主要テリトリーでも活躍し、南部エリアではダスティ・ローデスと抗争を展開[6]アンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチも各地で組まれた[7]。タッグ・プレイヤーとしても才能を発揮し、主戦場のAWAではパワーファイターのスーパースター・ビリー・グラハム、ラフファイターのマッドドッグ・バション、技巧派のホースト・ホフマンなど、それぞれタイプの異なるパートナーとのチームで実績を残している。WCWの前身であるNWAミッドアトランティック地区ではポール・ジョーンズグレッグ・バレンタインとのコンビでNWA世界タッグ王座も獲得した[8]

1982年頃に古巣のAWAでベビーフェイスに転向し、クラッシャー・リソワスキーとベテラン・コンビを結成。1984年5月6日にケン・パテラ&ジェリー・ブラックウェルからAWA世界タッグ王座を奪取し、8月25日にロード・ウォリアーズに敗れるまで保持した[9]。ウォリアーズとはその後、ミッドアトランティック地区でも抗争。1988年にはWWFと短期間契約し、ザ・バロンの名前でパワーズ・オブ・ペイン(ザ・バーバリアン&ザ・ウォーロード)のマネージャーを務めた。

以降はAWAに戻り、1991年にAWAの活動が終了するまで単発的にリングに上がっていたが1994年に引退。近年もカリフォルニア・アレイ・クラブなどのOB会やイベントに時折顔を見せており[10]2010年4月17日にはTNAロックダウンのファンフェスタに、ドリー・ファンク・ジュニアボビー・ヒーナンと共にレジェンドとして出席した[11]

プライベートでは哲学書を読むなど読書家でもあり、博学で紳士的な一面も持ち合わせる[12]

得意技[編集]

獲得タイトル[編集]

シングルタイトル
タッグタイトル

etc.

脚注[編集]

  1. ^ Baron Von Raschke Interview Part Two”. Mid-Atlantic Wrestling Gateway. 2010年5月2日閲覧。
  2. ^ a b Wrestler Profiles: Baron Von Raschke”. Online World of Wrestling. 2010年5月2日閲覧。
  3. ^ IWA International Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月2日閲覧。
  4. ^ WWA World Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月28日閲覧。
  5. ^ WWE Specific Arena Results: MSG 1970-1979”. The History of WWE. 2010年5月2日閲覧。
  6. ^ Baron Von Raschke wins TV title!”. The Archives of Championship Wrestling from Florida. 2010年4月28日閲覧。
  7. ^ The History of Andre the Giant”. The Smart Marks.com. 2010年4月28日閲覧。
  8. ^ NWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月28日閲覧。
  9. ^ AWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月28日閲覧。
  10. ^ Mild to mean: Baron Von Raschke's tale”. SLAM! Wrestling: October 13, 2006. 2010年5月2日閲覧。
  11. ^ St Louis: Lockdown Fan InterAction Info”. TNA.com. 2010年5月2日閲覧。
  12. ^ 『THE WRESTLER BEST 1000』P53(1996年、日本スポーツ出版社

関連項目[編集]

外部リンク[編集]