テッド・デビアス
| テッド・デビアス | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | テッド・デビアス |
| 本名 | セオドア・マーヴィン・デビアス |
| ニックネーム | ザ・ミリオンダラー・マン 鋼鉄男 Trillionaire Ted Teddy Bear |
| 身長 | 195cm |
| 体重 | 120kg(全盛時) |
| 誕生日 | 1954年1月18日(59歳) |
| 出身地 | ネブラスカ州オマハ |
| 所属 | WWE |
| スポーツ歴 | アメリカンフットボール |
| トレーナー | ドリー・ファンク・ジュニア テリー・ファンク |
| デビュー | 1974年 |
テッド・デビアス[1](Ted DiBiase、本名:Theodore Marvin DiBiase Sr. 、1954年1月18日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ネブラスカ州オマハ出身。
WWF(現・WWE)ではミリオンダラー・マン(The Million Dollar Man)のニックネームで活躍した。ウエスト・テキサス州立大学の出身で、ザ・ファンクス、ブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセンの後輩にあたる。
目次 |
来歴 [編集]
デビュー前後 [編集]
往年の名レスラーで鋼鉄男(アイアンマン)の異名をとった "アイアン" マイク・デビアスを父に持つが母の連れ子であるため血縁関係はない。15歳の時に心臓発作で父を亡くし、その後はアリゾナ州の祖父母のもとに預けられる。高校卒業後はテキサス州のウエスト・テキサス州立大学に進学してアメリカンフットボール部に所属しつつ(同期にティト・サンタナ、タリー・ブランチャード[2])、ザ・ファンクスのもとでトレーニングを受け、大学中退後の1974年にプロレスラーとしてデビュー。
以降、ザ・ファンクスが主宰するアマリロ地区(NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ)、セントラル・ステーツ地区、ミッドサウス地区などで活躍。ミッドサウスのNWAトライステート(後のMSWA)では、1976年4月にディック・マードックと組んでボブ・スローター&バック・ロブレイからUSタッグ王座を奪取し[3]、12月にはザ・ブルートを破り同地区認定の北米ヘビー級王座を獲得した[4]。
1979年、ニューヨークのWWFに短期間参戦し、当時保持していた北米ヘビー級王座をパット・パターソンに奪われている。これがインターコンチネンタル王座と改名され現在に至っている(北米ヘビー級王座は同年11月にパターソンを破った坂口征二が第3代の王者となり、以降は新日本プロレスが管理)[5]。その実力で早くから注目され、1978年2月にディック・スレーター、1980年11月にケン・パテラを破り、NWA世界ヘビー級王座の登竜門といわれたミズーリ・ヘビー級王座を2度獲得[6]。一時期はリック・フレアーと並び「次期NWA王者最有力候補」とも呼ばれた。
全日本プロレスでの活躍 [編集]
1976年8月に全日本プロレスにファンク一家の一員として初来日を果たし、以降も技巧派レスラーとして参戦を続ける。しかし1981年末のスタン・ハンセン全日本移籍の報復措置として新日本プロレスから誘われ、キラー・カーンの仲介で契約寸前まで行くも、団体間で紳士協定が結ばれ移籍は白紙撤回された。
1985年に新日本に移籍したブルーザー・ブロディに代わりスタン・ハンセンのパートナーとなり、PWF世界タッグ王座を獲得、さらには同年の世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝を果たす。1983年には天龍源一郎との決定戦を制し、アントニオ猪木・坂口征二・高千穂明久・ジャンボ鶴田と受け継がれたUNヘビー級王座を獲得した[7]。
南部地区での活躍 [編集]
全日本プロレスの常連外国人選手となっていた1980年代、アメリカではビル・ワット主宰のMSWAやジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングなどの南部エリアを主戦場としていた。
MSWAでは1980年1月にマイク・ジョージを破り、NWAトライステートから管理権が移行した北米ヘビー級王座を再び獲得。以降、1981年11月にポール・オーンドーフ、1982年6月にジャンクヤード・ドッグ、1985年1月にブラッド・アームストロングを下し、同王座には通算4回(トライステート版を含めると5回)戴冠した[4]。タッグではハーキュリーズ・ヘルナンデスやスティーブ・ウィリアムスをパートナーに、1984年12月から1985年5月にかけて、ロックンロール・エクスプレスとミッドサウス・タッグ王座を争っている[8]。
ジョージアではスティーブ・オルソノスキーらと組み、1981年1月と6月にマイケル・ヘイズとテリー・ゴディのファビュラス・フリーバーズからナショナル・タッグ王座を奪取[9]。シングルのナショナル・ヘビー級王座には、1983年11月にブレット・ウェイン(バズ・ソイヤーの実弟)、1984年7月にザ・スポイラーを破り、2度に渡って戴冠している[10]。
ミリオンダラー・マン [編集]
1987年、WWFに再登場。「急逝した父親の莫大な財産を受け継ぎ、一生遊んで暮らすこともできるが、暇を持て余しているので暇潰しにプロレスをやることにした」という、嫌味な金満ギミックのミリオンダラー・マンとしてヒールで活躍。その金満キャラゆえ、現在でも設定上「配管工の息子から成り上がった」 "アメリカン・ドリーム" ダスティ・ローデスを嫌悪している。なお、黒人ボディーガードとして従えていたマイク・ジョーンズのリングネーム "バージル" は、ダスティの本名でもある。
WWF世界ヘビー級王座こそ獲得できなかった(アンドレ・ザ・ジャイアントから金で買ったというストーリーがあったが、当然公認はされていない)ものの、ハルク・ホーガン、ランディ・サベージ、ジェイク・ロバーツらトップスターと長期間に渡って抗争。タッグでは、IRSことマイク・ロトンドとのマネー・インコーポレーテッドでWWF世界タッグ王座を3度奪取した[11]。
1994年からはマネージャーとしての活躍が主となり、ミリオンダラー・コーポレーションなるヒール軍団を組織してブレット・ハートやジ・アンダーテイカーと敵対。スティーブ・オースチンらが彼のもとで実力をつけ、後に団体を牽引するトップスターへと上り詰めている。この間、1990年4月1日の日米レスリングサミットではアルティメット・ウォリアーのWWF王座に挑戦して敗れている。WWFと提携していたSWSにも参戦した。
全日本プロレス復帰 [編集]
1993年、一時全日本プロレスに復帰。ハンセンとのコンビを復活させて世界タッグ王座を獲得。同年の最強タッグでもハンセンと組んで出場したが序盤で負傷帰国、ハンセン&ジャイアント馬場のタッグチーム実現の伏線となった。
引退 [編集]
1996年にWCWに移籍、nWoのマネージャーになるが首の故障が癒えず引退。引退後は宣教師に転身し、チャリティ活動を行いつつ、プロレスのリングにも時折登場する。2005年に2人の息子マイク・デビアス、テッド・デビアス・ジュニアがプロレスラーとしてデビュー、継父も含めて親子3代でプロレスラーとして活動することとなった(後に三男のブレット・デビアスもデビュー)。
現在は宣教師活動の一方、WWEでプロデュース業務を担当。2009年7月6日にはRAWのホストを務めた。2010年、WWE殿堂に迎えられている。
得意技 [編集]
- ミリオンダラー・ドリーム
- 変形のコブラクラッチ。「相手が100万ドルの夢を見るまで絞め上げる」がキャッチフレーズ。
- ミリオンダラー・バスター
- ミリオンダラー・ドリームを仕掛けたままでの河津落とし。
- フィストドロップ
- この技で動きを止めてからミリオンダラー・ドリームに移行するパターンが多かった。
- パワースラム
- 相手をロープに飛ばし、リバウンドで戻ってくるところをボディスラムの体勢でキャッチし、勢いのまま叩きつける荒技。デビアス自身が考案し、全日本プロレス時代のフィニッシュ・ホールドにしていた。
- スピニング・トーホールド
- ザ・ファンクスから直接指導され、全日時代は試合の流れを変えるのに多用していた。
- 足4の字固め
- 上記のスピニング・トーホールドを数回かけてから、この技に移行する事も多かった。パワースラムと共に、全日時代のフィニッシュである。
全日本プロレスに鋼鉄男2世として来日した頃はジャーマン・スープレックスもフィニッシュにしていたが、首の状態が悪くなってからは即封印している。ジャイアント馬場はデビアスの卓越した各種テクニックを非常に評価しており、TV解説で「懐の深いレスラー」と表現していた。
獲得タイトル [編集]
- NWA
- NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:2回(w / アルヴィン・スミス、メルセッド・ソリス)
- NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / ディック・マードック)
- NWA北米ヘビー級王座(トライステート版):1回
- NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:2回
- NWAミズーリ・ヘビー級王座:2回
- NWAナショナル・ヘビー級王座:2回
- NWAナショナル・タッグ王座:2回(w / スタン・フレイジャー、スティーブ・オルソノスキー)
- MSWA
- ミッドサウス北米ヘビー級王座:4回
- ミッドサウス・タッグ王座:4回(w / マット・ボーン、ミスター・オリンピア、ハーキュリーズ・ヘルナンデス、スティーブ・ウィリアムス)
- WWF / WWE
- WWF北米ヘビー級王座:1回
- WWF世界タッグ王座:3回(w / IRS)
- WWE Hall of Fame:2010年度
- 全日本プロレス
- UNヘビー級王座:1回
- 世界タッグ王座:1回(w / スタン・ハンセン)
- PWF世界タッグ王座:1回(w / スタン・ハンセン)
担当選手 [編集]
1994年にセミリタイアし、マネージャーとして以下の選手達を担当した(WWFでのデビアス本人のマネージャーは、バージルと仲間割れ後の1991年よりセンセーショナル・シェリー、1992年からはジミー・ハートが務めた)。
- WWF / ミリオンダラー・コーポレーション
- イーヴィル・アンダーテイカー
- ニコライ・ボルコフ
- IRS
- バンバン・ビガロ
- タタンカ
- キングコング・バンディ
- カマ
- 1-2-3キッド
- ヘンリー・O・ゴッドウィン
- サイコ・シッド
- "ザ・リングマスター" スティーブ・オースチン
- WCW
備考 [編集]
- スタン・ハンセンのパートナーとして
現役時代はその試合巧者ぶりが高く評価されており、とりわけスタン・ハンセンとのコンビは名タッグと言われている。ハンセンとのコンビ結成当初は前任のブルーザー・ブロディと比べられることもあったが、ブロディとは異なりデビアスが卓越したテクニシャンタイプであること、ハンセンを徹底的にサポートしてハンセンが闘いやすいように試合を作れたことが次第に認められていった。ジャイアント馬場は1993年にハンセン&デビアスがコンビ再結成を果たした第1戦目の試合のTV解説において「この2人は昔から素晴らしいコンビでしたよ」と絶賛していた。1985年のタッグリーグ戦優勝の際には、リング上でマイクを掴んだパートナーのハンセンから「Ted DiBiase is No.1!」という賞賛を受けている。
- ハルク・ホーガンとの関係
1987年にWWF移籍のニュースが日本に伝えられた際、日本のプロレスファンはWWF王者ハルク・ホーガンとの対戦を「新日・全日代理対決」として注目していた。なお、ホーガンのWWFにおけるMSGでのデビュー戦の相手はデビアスが務めている(1979年12月17日)[12]。WWFではホーガンのライバルとして抗争を繰り広げたが、WCWではnWoの「後援者」として短期間ながらホーガンと結託した。
脚注 [編集]
- ^ より原音に近いファミリーネームの表記は「ディビアーシ」。
- ^ “Tully Blanchard: The Most Dangerous of the Four Horsemen”. Associated Content. 2010年2月5日閲覧。
- ^ “NWA United States Tag Team Title History: Tri-State version”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月4日閲覧。
- ^ a b “NWA/MSWA North American Heavyweight Title History: Tri-State/Mid-South version”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月4日閲覧。
- ^ “WWF North American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。
- ^ “NWA Missouri Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2009年4月27日閲覧。
- ^ “NWA United National Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月27日閲覧。
- ^ “Mid-South Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月4日閲覧。
- ^ “NWA National Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月4日閲覧。
- ^ “NWA National Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月4日閲覧。
- ^ “History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2010年4月27日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1979”. The History of WWE. 2008年7月11日閲覧。
外部リンク [編集]
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