ビル・ワット
| ビル・ワット | |
|---|---|
WWE殿堂入り式典(2009年)
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| プロフィール | |
| リングネーム | カウボーイ・ビル・ワット |
| 本名 | ウィリアム・ワッツ |
| ニックネーム | 南部の荒馬 |
| 身長 | 193cm |
| 体重 | 135kg(全盛時) |
| 誕生日 | 1939年5月5日(74歳) |
| 出身地 | オクラホマ州オクラホマシティ |
| スポーツ歴 | アメリカンフットボール |
| デビュー | 1962年 |
| 引退 | 1986年 |
ビル・ワット("Cowboy" Bill Watts、本名:William Watts、1939年5月5日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、プロモーター。オクラホマ州オクラホマシティ出身。正しくは「ビル・ワッツ」と発音するが、本項では日本のプロレス史における慣例的な表記に準ずる。
1960年代後半から1970年代を全盛期に、カウボーイ・スタイルの大型ファイターとして活躍。オクラホマ・スタンピードの第一人者でもある。1979年よりミッドサウス地区(ルイジアナ、ミシシッピ、アーカンソー、オクラホマ)に自身の団体MSWA(後にUWF)を設立、大プロモーターとして一時代を築いた[1]。
目次 |
来歴 [編集]
1960年代 [編集]
オクラホマ州立大学ではアメリカンフットボール選手として活躍し、卒業後の1961年にAFLのヒューストン・オイラーズに入団[2]。続いてNFLのミネソタ・バイキングスに在籍するが[2]、大学の先輩のダニー・ホッジに誘われ1962年秋にプロレスラーとしてデビュー[1]。翌1963年5月にはNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得し[3]、1964年にはルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した[1]。
1964年の下期よりニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場。当初はベビーフェイスとしてブルーノ・サンマルチノのパートナーを務めた[4]。しかしすぐにヒールターンし、翌1965年はマディソン・スクエア・ガーデンの定期戦にてサンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に1月25日・2月22日・3月29日・5月17日の4カ月連続で挑戦[5]。タッグではゴリラ・モンスーンと組んで同年4月8日にジン・キニスキーとワルドー・フォン・エリックのチームからWWWF USタッグ王座を奪取している[6]。
その後、サンフランシスコ地区を経て1967年9月に日本プロレスに初来日。10月6日、ターザン・タイラーとのコンビでジャイアント馬場&吉村道明からインターナショナル・タッグ王座を奪取する[7]。10月31日に大阪府立体育会館で馬場&アントニオ猪木に敗れ短命王者に終わったが、BI砲が誕生したメモリアル・マッチの敵役を務めたことで、日本のプロレスファンにとっては印象深い存在となった[1][8]。
トライステート [編集]
1960年代末より、プロモーターのレロイ・マクガークが牛耳る地元オクラホマのNWAトライステート・プロモーションに参戦。以降、オクラホマとアーカンソーおよび深南部のルイジアナやミシシッピをサーキット・エリアとする同地区において、1970年代全般に渡ってエース・レスラー兼ブッカーを務めた。
看板タイトルであるNWA北米ヘビー級王座には、1970年4月にザ・スポイラー、1971年10月にダスティ・ローデス、1972年7月にジョン・クイン、1975年11月にキラー・カール・コックス、1977年6月にスタン・ハンセンを破り、通算5回に渡って載冠した(MSWA新設後の1979年12月にも、同王座の改称版であるミッドサウス北米ヘビー級王座をマイク・ジョージから奪取している。ワットにとっては、これがレスラーとしては最後のタイトル載冠となった)[9]。
この間、フロリダをはじめジョージアやアラバマなどのディープサウスにも参戦[10]。トライステートでは絶対的なベビーフェイスだったが、他地区ではヒールとして活躍した。1974年1月には国際プロレスに来日、ストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に連続挑戦している。
MSWA [編集]
長年に渡ってトライステート地区のブッカーを務めてきたワットだが、1979年にボスのレロイ・マクガークと衝突[1]。NWAを脱退し、ルイジアナの興行権を買収してミッドサウス・エリアに独立団体MSWA(Mid-South Wrestling Association)を新設する。ミシシッピとアーカンソーもテリトリーに加え、トライステートのほとんどの選手がMSWAにスライド移籍するなど、事実上マクガークのプロモーションを乗っ取った形となった。
マクガークはタルサを中心に興行を続けていたものの苦戦し[11]、1982年にはオクラホマの興行権をワットに譲渡。これにより旧トライステートを完全に吸収合併したワットは、テキサスのプロモーターだったポール・ボーシュとも手を組んでヒューストンにも進出。興行の拠点としてニューオーリンズのルイジアナ・スーパードームで定期的にビッグイベントを開催するなど、活動の規模をさらに拡大した(NWA加盟団体ではなくなったものの、後にNWA世界王者リック・フレアーを招聘しており、その手腕はNWAの主流派にも注目されていた)。
1984年、WWFのビンス・マクマホンが全米侵攻をスタートし、各地のプロモーションは軒並み大打撃を受けることになる。しかし、トライステート時代から築いてきたミッドサウスにおける強固なマーケット基盤のもと、AWAやNWA傘下ではない独立テリトリーとして独自の活動を続けてきたMSWAは、WWFに屈することはなかった[12]。
1985年、MSWAの人気に目をつけたテッド・ターナーとTBSにおけるプロレス番組の放送契約を締結。日曜の午後という時間帯ながら番組は高視聴率を上げ、ターナーとワットは1984年7月14日のブラック・サタデー以来WWFが時間枠を持っていた土曜夜の放送への移行に合意するが[13]、当時WWFに在籍していたジム・バーネットの仲介により、ビンス・マクマホンはNWAのジム・クロケット・ジュニアに土曜夜の時間枠を100万ドルで売却[14]。最終的にTBSはジム・クロケット・プロモーションズと契約を結んだ。
UWF [編集]
巨大ネットワークTBSのゴールデンタイムでの放映チャンスを失ったワットは、1986年3月に団体名をUWF(Universal Wrestling Federation)と改称し、WWFやNWAに対抗すべく全米進出を開始する。この団体には、フリッツ・フォン・エリックが主宰するWCCWの共同プロモーターであったケン・マンテルをはじめ、多くの新しいレスラー(ほとんどがWCCW出身)が参画した。腹心ジム・ロスの手腕により、西海岸のロサンゼルスから東部のフィラデルフィアまでマーケット規模の拡大に成功し[15]、MSWA新設以来セミリタイア状態だったワットも正式に引退してプロモート業に注力。4月にはスーパードームでNWAのジム・クロケット・プロモーションズとビッグイベントを共同開催した。スティングなどのスター候補も生まれ、UWFは一躍アメリカ・マット界の台風の目となる。
しかし、テリトリーを大幅に広げたことによる移動費等のコスト増に反し、全米サーキットは収益の上がらない状態が続いた。さらに、OPECの石油生産量拡大に伴いアメリカ南部各州の原油産業が停滞、ミッドサウス地区の経済も破綻し[16]、1987年には深刻な不況に直面した。相次ぐ銀行の倒産で融資も絶たれ、本拠地オクラホマでの観客動員も落ち込み、UWFは一転して危機的状況に追い込まれる[16]。莫大な損失を被ったワットは1987年4月9日、UWFを400万ドルでジム・クロケット・ジュニアに売却、プロレス界から撤退することになった(当初、ワットはビンス・マクマホンに売却を持ちかけたが、UWFが末期状態であることを見越したマクマホンに拒絶され、内部事情を知らないクロケットがワットに煽られる形で買収に応じたという)[16]。
WCW以降 [編集]
その後はマーケティング関連の仕事に就いていたが、1992年5月、WCWの副社長となってプロレス界に復帰。当時のWCWは前任社長ジム・ハードとの確執でリック・フレアーがWWFに移籍するなど苦境に陥っており、運営を立て直すべく親会社TBSからの要請を受けての就任だった[17]。同年8月には新日本プロレスのG1クライマックスにて行われたNWA世界ヘビー級王座決定トーナメントに立会人として来日、久々の日本マット登場も果たした。
しかし、息子エリック・ワッツの重用などで選手達の反発を買い、リック・ルードやスタイナー・ブラザーズ(リック&スコット・スタイナー)らトップスターが次々と離脱、視聴率はますます低下する[18]。さらに、副社長就任前に行われたインタビュー記事における人種差別発言がTBS幹部ハンク・アーロンに発覚、副社長辞任を余儀なくされ、1993年2月にWCWを退団した[19]。
1995年にはエリック・ワッツをWWFに斡旋、その際に本人も短期間ながらWWFに在籍していたともされている。以降は在住地のオクラホマ州タルサにてスポーツ専門ラジオ局の番組ホストなどをしていた[20]。2009年4月4日、プロレス界における功績を称え、WWE殿堂に迎えられている[21]。
エピソード [編集]
- 人種差別主義者として知られ、それがWCWからの失脚の要因ともなったが[19]、ミッドサウス地区でのブッカー / プロモーター時代は黒人ファンの動員を見込んでアーニー・ラッドやブッチ・リードなどの黒人選手を積極的に重用した(同年代のラッドとはプライベートでも親友であったという[22][23])。ビッグ・ダディ・リッターをジャンクヤード・ドッグに変身させ、1980年代を代表する黒人スターに仕立てたのもワットの才覚によるものであり[24]、WCW時代にロン・シモンズを黒人初のWCW(NWA)世界ヘビー級王者にしたのもワットの発案だった[23]。また、徹底した共和党支持者でもある。
- 父親を太平洋戦争で亡くしており、そのために日本人を嫌悪するようになったといわれる。1967年の日本プロレス来日時、黒板にチョークで自ら "Yankee, Go home!" と書き、それを日本人記者による嫌がらせだとして悪態をついたという[25]。ジャイアント馬場は、当初はワットもそれほど露骨に日本人を蔑視しておらず、同時期に来日した他の外国人レスラーにいろいろと吹き込まれたことが原因ではないかと発言している[26]。
- こうした背景があったからではないにせよ、一時は「次期NWA世界王者候補」と目され再来日が望まれたものの[1]、2度目の来日は1974年の国際プロレス参戦まで実現しなかった。当時はアメリカでレスラーとブッカーの二足の草鞋を履いて多忙だったこともあり、これが選手としては最後の来日となっている。
- 国際プロレスとはMSWA設立後にも接点を持ち、ジェイク・ロバーツ、マイク・ジョージ、レイ・キャンディらがMSWAから国際に来日している。阿修羅・原も1981年のアメリカ再修行でMSWAをサーキットしていた。UWF時代は、当時WWFとの提携を解消した新日本プロレスの外国人供給ルートのひとつとして、ジム・ドゥガンの再来日やスティーブ・ウィリアムスの初来日を実現させている。しかし、いずれも完全な業務提携を結んでいたわけではない。
- 日本人選手では、キラー・カーンやザ・グレート・カブキもMSWAに参戦している。1982年にはスーパードームでアンドレ・ザ・ジャイアント対カーンの遺恨試合が行われた。
得意技 [編集]
獲得タイトル [編集]
- トライステート / MSWA
- NWA北米ヘビー級王座:5回
- NWAブラスナックル王座:2回
- NWA USタッグ王座:5回(w / ジェリー・コザック、ビリー・レッド・ライオン、グレッグ・バレンタイン、ビル・ロビンソン、バック・ロブレイ)
- NWAルイジアナ・タッグ王座:1回(w / バック・ロブレイ)
- ミッドサウス北米ヘビー級王座:1回
- ミッドサウス・タッグ王座:1回(w / バック・ロブレイ)
- その他
- NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
- WWWF USタッグ王座:1回(w / ゴリラ・モンスーン)
- AWA USヘビー級王座(サンフランシスコ版):1回
- NWAインターナショナル・タッグ王座:1回(w / ターザン・タイラー)
- NWAガルフコースト・ヘビー級王座:1回
- NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
- NWAフロリダ・ヘビー級王座:2回
- NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回
MSWA / UWF参戦選手 [編集]
- スティング
- リック・スタイナー
- ビッグ・ババ・ロジャース
- ファビュラス・フリーバーズ
(マイケル・ヘイズ、テリー・ゴディ、バディ・ロバーツ) - ロックンロール・エクスプレス
(リッキー・モートン、ロバート・ギブソン) - ミッドナイト・エクスプレス
(ボビー・イートン、デニス・コンドリー) - シープハーダーズ
(ブッチ・ミラー、ルーク・ウィリアムス)
<スポット参戦>
<その他のタレント>
- ジム・ロス(アナウンサー)
- ジム・コルネット(マネージャー)
- スカンドル・アクバ(マネージャー)
- ミッシー・ハイアット(マネージャー)
脚注 [編集]
- ^ a b c d e f 『THE WRESTLER BEST 1000』P288(1996年、日本スポーツ出版社)
- ^ a b “Wrestler Profiles: Bill Watts”. Online World of Wrestling. 2009年8月24日閲覧。
- ^ “NWA Texas Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月16日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1964”. The History of WWE. 2010年5月16日閲覧。
- ^ “WWE Specific Arena Results: MSG 1963-1969”. The History of WWE. 2010年2月10日閲覧。
- ^ “WWWF United States Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2009年8月24日閲覧。
- ^ “NWA International Tag Team Title Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月28日閲覧。
- ^ 『スーパー・タッグ Now!(プロレスアルバム55)』P56(1985年、ベースボール・マガジン社)
- ^ “NWA North American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年2月10日閲覧。
- ^ “Wrestler: Bill Watts”. The Archives of Championship Wrestling from Florida. 2010年2月10日閲覧。
- ^ 『デラックス・プロレス 1983年4月号』P72-73(1983年、ベースボール・マガジン社)
- ^ ショーン・アセール、マイク・ムーニハム共著『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』P89(2004年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583037880)
- ^ 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』P91-96
- ^ アニマル・ウォリアー著、アンドリュー・ウィリアム・ライト協力『ロード・ウォリアーズ 破滅と絶頂』P121(2011年、東邦出版、ISBN 4809409511)
- ^ 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』P96
- ^ a b c 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』P97-98
- ^ 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』P145
- ^ 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』P146-149
- ^ a b 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』P149-151
- ^ “Cowboy Bill Watts talks”. J.R.'s Family Bar-B-Q. 2010年2月10日閲覧。
- ^ “WWE Hall of Fame to induct 'Cowboy Bill'”. Tulsa World. 2009年8月24日閲覧。
- ^ “Football, wrestling star Ernie "Big Cat" Ladd dies of cancer”. Mid-South Wrestling.com: March 13, 2007. 2010年5月16日閲覧。
- ^ a b リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』P347-348(2004年、エンターブレイン、ISBN 4757721536)
- ^ 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』P89-90
- ^ 『THE WRESTLER BEST100』P174(1981年、日本スポーツ出版社)
- ^ 『ジャイアント馬場の16文が行く』(1983年、ダイナミックセラーズ)
外部リンク [編集]
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