キラー・コワルスキー

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キラー・コワルスキー
プロフィール
リングネーム キラー・コワルスキー
ジ・エクスキューショナー
本名 ウラデック・コワルスキー
(ウォルター・コワルスキー)
ニックネーム 殺人狂
身長 198cm
体重 120kg(全盛時)
誕生日 1926年10月13日
死亡日 2008年8月30日(満81歳没)
出身地 カナダの旗 カナダ
オンタリオ州ウィンザー
トレーナー ルー・テーズ
デビュー 1947年
引退 1977年
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キラー・コワルスキーKiller Kowalski1926年10月13日 - 2008年8月30日)は、ポーランド系カナダ人のプロレスラーカナダオンタリオ州ウィンザー出身。本名はウラデック・コワルスキーWladek Kowalski) 、通称ウォルター・コワルスキーWalter Kowalski)。

"殺人狂"、"殺人鬼"、"死神"、"墓場の使者"、"さまよえる亡霊"、"世紀の殺し屋"、"地獄の大統領"など数々の異名を持つ大ヒールとして知られている。

来歴[編集]

1947年1944年説も強い)のデビューから1977年の引退までに、主にアメリカのプロレス団体NWAAWA、WWWF(現・WWE)で活躍した。

顔もヒールとして迫力十分で、2メートル級の長身に加え、正統派のレスリングから反則技までこなすテクニックという、ヒールとして必要な要素すべてを兼ね備えた名選手であった。1959年、トップロープからのニー・ドロップユーコン・エリックの左耳をそぎ落とすという事件が起こった(実際はコワルスキーのリングシューズのひもが耳に引っ掛かっての事故)。この耳そぎ事件でエリックはショックで自殺した、との伝説も語られたが、実際は妻の不貞によって精神的に悩まされた為で、エリックはコワルスキーを憎んではいなかったという。この事件から全米中に名前が轟くことになった。その後も、数人の選手を病院送りにしている。

日本へは日本プロレスに3回来日し、1963年の第5回ワールドリーグ戦では決勝で力道山と対戦したほか、開幕戦でジャイアント馬場の凱旋帰国第一戦の相手を務め、時間切れ引き分けの熱闘を演じた。第10回大会では馬場と決勝で対戦したほかアントニオ猪木とも対戦している。1971年には第2回NWAタッグ・リーグ戦に参戦し、パイルドライバーで2人の選手を死亡させたとされていたキラー・バディ・オースチンとの「キラー・コンビ」で好成績を収めている。全日本プロレスにも2回参戦しており、1975年の第3回チャンピオン・カーニバルにも出場。同じくチャンピオン・カーニバルに出場したジン・キニスキーブルーノ・サンマルチノと組んでインターナショナル・タッグ王座にも2度挑戦している(王者チームは馬場&ジャンボ鶴田)。

キャリア末期にはニューヨーク覆面レスラージ・エクスキューショナー1号The Executioner #1)を名乗り、2号のビッグ・ジョン・スタッドとのタッグチーム「ジ・エクスキューショナーズ」として1976年5月11日にWWWF世界タッグ王座を獲得している[1]

引退後はマサチューセッツ州セイラムレスリング・スクールを開校し、2003年9月に年齢的な問題もあり閉鎖するまで、トレーナーとして活動した。主なスクール輩出選手は、トリプルHチャイナペリー・サターンクリス・ノウィンスキージャイアント・バーナードケニー・ダイクストラジョナサン・カーティスらである。

2008年8月30日心不全のため81歳で死去。

得意技[編集]

獲得タイトル[編集]

エピソード[編集]

  • ブルーザー・ブロディが尊敬したレスラーとしても知られており、彼のキングコング・ニー・ドロップはコワルスキーから影響を受けた技である。ちなみに両者は1976年WWWFを共にサーキットしており、マディソン・スクエア・ガーデンにてアンドレ・ザ・ジャイアントと6人タッグマッチで対戦したこともある(1976年10月25日、エクスキューショナーズ&ブロディvsアンドレ&チーフ・ジェイ・ストロンボー&ビリー・ホワイト・ウルフ[2]
  • 耳そぎ事件でユーコン・エリックのちぎれた耳を見たトラウマから肉が食べられなくなり、以後徹底した菜食主義者になったというエピソードが語られていた時期がある。これは梶原一騎が創作したものであり、実際には耳そぎ事件以前から菜食主義だった。本人はただ健康のためだと語っている。引退後、この話の真偽について尋ねられたコワルスキーは「何だいその話は? 最高に面白いな」と爆笑していたという。なお梶原は『ジャイアント台風』『プロレススーパースター列伝』などの作品で虚実取り混ぜた筆致で鬼気迫る大ヒールとしてのコワルスキーを描いている。
  • アントニオ猪木がキラー・コワルスキーの筋肉に憧れていたことを、村松友視との対談で語っていたことがある[3]
  • 全米でも指折りのヒールとして活躍していたが、普段は人一倍他人に気を遣う繊細な人柄だったと伝えられている。耳そぎ事件の直後、事故とはいえユーコン・エリックに重傷を負わせてしまったショックから「俺は取り返しがつかないことをしてしまった」とひどく落ち込んでいた。それを知ったユーコン本人から「あれはアクシデントだ。俺は気にしちゃいない。だからお前も気にするな」と誰よりも先に慰めの声をかけられ、ショックから立ち直ることができたという。
  • レスラー生活晩年は髪が薄くなってカツラを着用していた。ヘッドロックは御法度であり、同じくカツラ着用のブルーノ・サンマルチノとの試合は両者まったくヘッドロックを使わずに行われたという。
  • またある時、「カツラが取れると困る」とマスクを被り、リングネームはそのままで覆面レスラーとして試合をしたことがある(弟子格のビッグ・ジョン・スタッドもリングネームはそのままで覆面を被ったことがある)。梶原一騎はこの事実を『プロレススーパースター列伝』のリック・フレアー編で、フリッツ・フォン・エリックがコワルスキーを覆面の刺客としてフレアーと戦わせるエピソードに取り入れている。

脚注[編集]

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  1. ^ WWWF World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月31日閲覧。
  2. ^ WWE Yearly Results 1976”. The History of WWE. 2010年5月31日閲覧。
  3. ^ 村松友視著 『ダーティヒロイズム宣言』より

外部リンク[編集]