マイク・タイソン

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マイク・タイソン
基本情報
本名 マイケル・ジェラルド・タイソン
通称 アイアンマイク
マイティーマイク
キッド・ダイナマイト
階級 ヘビー級
国籍 アメリカ合衆国
誕生日 1966年6月30日(43歳)
出身地 アメリカ合衆国ニューヨーク州
ニューヨーク市ブルックリン区
ベッドフォード・スタイベサント地区
スタイル オーソドックス(ピーカブー)
プロボクシング戦績
総試合数 58
勝ち 50
KO勝ち 44
敗け 6
無効試合 2
  

“マイク”マイケル・ジェラルド・タイソンMichael Gerard "Mike" Tyson、男性、1966年6月30日 - )は、1980年代後半から1990年代にかけてパウンド・フォー・パウンド最強の称号を欲しいままにした、歴史にその名を残すスーパーボクサー。アメリカ合衆国の元プロボクサー。身長180cm(諸説あるが、慈恵医大で測定したところ180cmだった。ただ実際には、170cmを少し超える程度だったのではないかと言われている)、リーチ180cm。周囲50cm超の首を誇る。顔と両腕、そして腹部に刺青を彫っている。絵柄は毛沢東(右腕)、アーサー・アッシュ(左腕)、チェ・ゲバラ(左脇腹)。

ヘビー級としては小柄ながら桁外れのパンチ力と驚異的なスピード、急所を正確にコンビネーションで打ち抜く高度なオフェンス技術、そして相手のパンチをガードのみに頼らず、そのほとんどを空に切らせる鉄壁のディフェンス技術を武器に次々に大男たちをマットに沈め、モハメド・アリなき後のヘビー級の停滞期を打ち破りパウンド・フォー・パウンドの頂点に君臨した。現役時代のみならず、長いボクシングの歴史の中においても、最盛期のタイソンはモハメド・アリと並んで最強ボクサーの有力な候補である。

フロイド・パターソンと同門下であり、ともに小柄であることや、グローブを噛むような独特のピーカブースタイルなど、両者には共通点が非常に多い。

目次

[編集] 来歴

[編集] 青年時代

1966年6月30日アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサント地区に生まれる。タイソンが幼い頃、一家はイーストニューヨークなどブルックリン区内、そしてブルックリン区近隣のフォート・グリース等を転々としていたが、タイソンが7歳の時に当時のアメリカ合衆国の中でも最悪のゲットーと呼ばれていたブルックリン区ブラウンズヴィルに落ち着き、タイソンはそこで育つことになる。幼少の頃はその内向的な性格(現在でもその独特の甘えたようなイントネーションにその名残がうかがえる。スポーツジャーナリストの二宮清純はタイソンへの取材を通じてタイソンに対し自閉症児の様な印象を受けたと語っている。実際、タイソンは自閉症ではないが躁うつ病と診断されており、長期に渡り抗鬱剤を服用していた)や、大きな近眼鏡を着用していた事が近所の不良少年達に嘲笑され虐めの対象となる。だが、大事にしていたペットのを年上の不良グループの少年たちに虐殺され、我を忘れてその不良達を殴り倒した事から自身の強さに気付き、徐々に荒んだ生活へ進む。9歳から12歳の間に51回も逮捕され、ついにニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監。そこで更生プログラムの一環として行われていたボクシングと出会う。その後、少年院のボクシング担当教官だったボビー・スチュワートにより才能を見出され、繋がりのあった名トレーナー、カス・ダマトに伝わり、ダマトがタイソンの才能に驚愕し身元引受人となったため少年院を出所後、ダマトの下にてボクシングの英才教育を受ける事になる。

まずはアマチュアボクシングでキャリアをスタートし13歳の時に初試合を行った。そして 数年間キャリアを積んでいきその間にジュニア・オリンピックのタイトル等を獲得。その後ロサンゼルスオリンピックへの参加を狙うがオリンピック出場を確実視されながらも国内予選の最終選考会の決勝戦でダウンを奪いながらも判定負けを喫し、オリンピックへの参加は叶わなかった。タイソンのようにポイントではなくノックアウトを狙うファイタースタイルの選手はポイントゲームであるアマチュアボクシングには合わない面もある(最終選考会決勝戦でタイソンを破ったヘンリー・ティルマンはロサンゼルスオリンピックでは金メダルを獲得。その後1990年にプロで再戦しタイソンが1RKO勝ちを収めている)。

タイソンのアマチュアでの通算成績は記録に残っている中では52戦47勝5敗。ただし、USアマチュアボクシング連盟の管理下にない非公式の試合も多く戦っているため、正確な戦績は不明。

[編集] プロボクサー時代

1988年、左はプロモーターのEbby Thust

1985年3月6日に18歳でプロデビューし、ヘクター・メルセデスに1RTKO勝ちで初戦を白星で飾る。この年、11連勝を飾った直後トレーナーのカス・ダマトが死去。その後、通算28連勝し1986年11月22日、29戦目にしてトレバー・バービックに2RTKO勝利し、WBC世界ヘビー級王座を獲得。史上最年少(20歳5か月)で世界ヘビー級王者となる。翌年、1987年3月7日にはジェームス・スミスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級タイトルを獲得。さらに同年8月、トニー・タッカーに判定勝ちしてIBF世界ヘビー級タイトルを獲得して3団体統一に成功。1988年2月に、元ファッションモデルで女優のロビン・ギブンスと結婚。しかし、すぐに離婚した。通算9度の防衛に成功することになるが、1988年に行われたマイケル・スピンクス戦後、カス・ダマトがその生前、絶対に組んではいけないと言っていたドン・キングにプロモートを受けるようになってからは精彩を欠くようになる。一般的にこの1988年までがタイソンの絶頂期と言われている。この年の前半、ボクシングを始めた頃からの後援者であったビル・ケイトンと共にタイソンのマネージメントを担当し、そしてダマト以外では最もタイソンから信頼されていたジム・ジェイコブスが白血病により突然死去。その頃からドン・キングがタイソンの獲得を狙いタイソンの妻であったロビン・ギブンスに頻繁に接触し取り入ったため、タイソンのチームに亀裂が入り始める。そして年の後半、ダマトの死後からそのボクシング理論を引き継いでタイソンに教えていたケビン・ルーニーを突然解雇。そして、マネージャーのビル・ケイトンも解雇し、ダマトが残したチームはバラバラとなる。その後、タイソンはドン・キングとの契約を正式に結ぶことになる。家族同然だったルーニーはボクシングのトレーナーとしてだけでなく、タイソンのモラルや私生活の監視役でもあった。新しいチーム態勢ではタイソンの周囲に金目当ての「イエスマン」ばかりが集まり、タイソンの私生活は急激に乱れる。離婚騒動、自殺未遂、訴訟沙汰、交通事故、放蕩、練習不足、度重なった試合の延期・・・タイソンの周辺が急におかしくなりリング外でのトラブルの話題が増えていく。

案の定、プロ入り以来初めての長期ブランクを経た1989年フランク・ブルーノ戦では、別人のような緩慢で雑なボクシングを披露した。このブルーノ戦はそれでも勝ったがまともにカウンターを貰い初めてグラつく姿も見せている。タイソンの兄弟子ホセ・トーレスはこの試合を見て「カスが教えたものは何もかも失われていた。左右への動き、コンビネーション、タイミング、忍耐、最も基本的な左ジャブ・・・。そして、カス・ダマトと深い繋がりのあったコーナーマン達もそこにはいなかった・・・」というコメントを残している。次戦のカール・ウイリアムス戦では、わずか1Rのフック一発で試合が決したため目立たなかったが、その動きにかつての切れはなく、生放送では解説の浜田剛史がタイソンのボクシングに首を傾げるような発言をしている。次戦、タイソンは試合を急にキャンセル(ドノバン・ラドックとの防衛戦が決定していた)するなど相変わらずゴタゴタが続き、1990年2月11日に日本東京ドームジェームス・ダグラスに10ラウンドKO負けしてタイトルを失う。これがタイソンのプロキャリアにおける初黒星だった。さらにタイソンの転落は続く。1991年にディズィリー・ワシントンをホテルの一室でレイプしたとして1992年に刑務所へと収監された(この事件に関してケビン・ルーニーはタイソンがハメられたと見解を出している。[1])。

6年の懲役刑を言い渡されたが3年間服役後の1995年に仮釈放され、翌年の1996年3月16日、フランク・ブルーノを3RKOで破り、WBC世界ヘビー級タイトルを再度獲得し世界王者へと復権する。なお、服役中にイスラム教に改宗し、マリク・アブドゥル・アシスという名を持った。同年9月、ブルース・セルドンを1ラウンドTKOで破り、WBA世界ヘビー級タイトルも獲得。再び統一王者になったが、11月にイベンダー・ホリフィールドに11ラウンドTKOで敗れ、タイトルを失う。翌年6月28日に行われた再戦ではホリフィールドのWBA世界ヘビー級王座に挑戦するが、有名な耳噛み事件(雑誌等で世紀の噛み付きとも称する)を起こし3R終了時に失格負けとなった。この反則行為により一年間のライセンス停止処分を受ける。

1999年に復帰するも年に一試合程度と試合間隔が極端に開くようになる。2002年6月8日にレノックス・ルイスの持つWBCIBF、IBO世界ヘビー級王座に挑戦。結果は8RKO負け。2003年6月、暴行容疑で再度逮捕。2004年4月15日、K-1の試合出場契約を結ぶ。日本国内でのプロモート契約であるが、薬物犯罪者は日本に入国できないため、実現は不可能である。2004年7月30日、復帰戦となるノンタイトルマッチで1ラウンド中盤で靭帯断裂。その怪我が響き、ダニー・ウィリアムズに4ラウンドKO負け。2004年12月、器物損壊容疑で逮捕。2005年6月12日、前回の試合で傷めた膝を手術し復帰。無名のケビン・マクブライドを相手に戦うも、年齢から来る体力の衰え、そして膝の怪我の影響からか動きに精彩を欠き、6ラウンド終了後棄権しTKO負け。試合後のリング上でのインタビューで 「もうこれ以上、ボクシングを侮辱したくない」 と、引退を示唆した。正式な引退発表しなかったが、結局はこれが最後の試合となり、1985年のプロデビューから2005年まで丸20年のプロキャリアに終止符を打った。

2008年、カンヌ国際映画祭にて

[編集] 引退後〜現在

2006年12月29日、自動車でナイトクラブから帰宅する途中にパトカーと遭遇。衝突しかけた折りに取り調べを受けた際、飲酒運転およびコカイン使用所持(再犯)が発覚されたことにより逮捕された。2007年11月19日、禁固1日と執行猶予3年の判決。

2008年5月16日、ジェームズ・トバック監督によるドキュメンタリー“Tyson”が第61回カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映された。同日行われた記者会見では、タイソン本人が作品の題材となった自らの人生について語った。

[編集] 日本の格闘技団体等との関係

  • タイソンのネームバリューは格闘技団体にとっては最高のターゲットである。アントニオ猪木が最初に、後にK-1、さらにはPRIDEが頻繁にタイソン招聘をぶち上げている。現在ではさすがに旬を過ぎた感を否めないが、当時は、全盛期でないにしろ、タイソンをリングに上げるということは途方も無い夢であり、実現すればそのインパクトは計り知れないものであったと考えられる。何度か構想がぶち上げられたが、実際問題、金銭面で、タイソンの収入と日本プロレス界が出せる金額にあまりにも開きがあり実現することはなかった(他の要素もあり)。
  • 2003年8月15日、K-1 WORLD GP 2003 in LAS VEGASではボブ・サップキモとの試合後に「Tyson, you're next!!(タイソン、次はお前だ!)」とリングサイドで観戦していたタイソンを挑発すると、タイソンが「Sign the contract big boy.(契約書にサインしな、デカい坊や)」と返答したことからサップとの対戦が行われるのでは?と格闘技ファンの期待を煽ったが、結局現在に至るまで実現していない。過去の犯罪歴による入国不可問題(日本国または日本国以外の国の法令に違反して1年以上の懲役もしくは禁固またはこれらの相当する刑に処せられたことのある者は日本に入国不可)などが絡み、いまだ実現に至ってない。しかし、上述のコカイン使用所持の罪により、ついにタイソンを招聘する格闘技団体はなくなってしまった。

[編集] 逸話

  • かつて日本テレビ系で放送されていた『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』にゲストとして出演したことがある。その際、解答者として出演していたタイソンファンの安部譲二がタイソンにミリオンスロットのボタンを押してもらったが、使い勝手のわからないタイソンはボタンをおもいっきり押してしまったため、スロットが壊れて得点が表示される画面が消えてしまった。
  • ストリートファイターII』に登場しているマイク・バイソン(MIKE BISON, M.BISON)は彼がモデルとなっているが、海外版では肖像権の影響で名前のみバルログ(BALROG)に変更されている。
  • 無類の女好きであり、多いときには一晩で24人もの女性と寝たという。トレバー・バービック戦やジェームス・スミス戦では淋病治療中の中での試合だった。結果的にこの女好きな性格が災いし(本人はいまだに無罪を主張しているものの)レイプの訴えを起こされ有罪を宣告されている。この事件以外にも多くの女性から何度もセクハラ等で訴えを起こされている(女性の狂言であったと発覚したケースも多い)。
  • 余りにパンチ力が強かったためアマチュア時代からスパーリングの相手に苦労しており、15歳時には週給1000ドルを支払って当時の世界ヘビー級王者ラリー・ホームズのスパーリングパートナー達を雇っていた。(雇う際、スパーリングパートナーから出された条件としてタイソンは20オンスの大きなグローブを着用しスパーリングパートナーは通常の14オンスのグローブを着用というものがあった。そして、週給1000ドルという金はカス・ダマトの後援者であったビル・ケイトンジム・ジェイコブスが負担していた)
  • ダマトは速い速度で相手との距離を詰める生粋のファイタータイプを育成することを得意としたが、このタイプがなじむ一番の条件は小柄であることだった。本人もこれを十分承知しており、タイソンが一番背が伸びる時期だった頃に背中に25kgの錘をつけさせて毎日ジョギングさせたという。
  • 兄弟子のホセ・トーレスによればタイソンはカス・ダマトと初めて会った12歳時に身長は5フィート7インチ(約170cm)・体重は186ポンド(約84kg)あり筋肉の塊だったという。
  • カス・ダマトは12歳のタイソンの練習を初めて見せられた際、そのリング上でのパフォーマンスにタイソンがまだ12歳である事に信じられない様子だったという。ダマトの友人でもあった作家ピート・ハミルはその後、13歳のタイソンを初めて見た時の印象をこう語っている。「信じられないようなパンチ力だったよ。それにあのスピード。正にダイヤモンドの原石だった。でもマイクには拭い去れない影みたいなものが感じられた。いつも悲しそうにしてるんだ。話し掛けても、決してこちらの目を見ようとしない。」
  • クラウチングでアゴをひたすらにガードする、ピーカブースタイルと、本来防御技術であるウィービングを能動的に使い、肩のフェイントで攻撃的に使うのが特徴と、ファンの間では言われた。

[編集] 戦績

  • プロボクシング:58戦 50勝 44KO 6敗 2無効試合
日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1985年3月6日 1R 1:47 TKO ヘクター・メルセデス アメリカ合衆国 プロデビュー戦
2 1985年4月10日 1R TKO トレント・シングルトン アメリカ合衆国
3 1985年5月23日 4R KO ドナルド・ハルビン アメリカ合衆国
4 1985年6月20日 1R 0:39 KO リッキー・スペイン アメリカ合衆国
5 1985年7月11日 2R TKO ジョン・アンダーソン アメリカ合衆国
6 1985年7月19日 3R 2:04 KO ラリー・シムズ アメリカ合衆国
7 1985年8月15日 1R 1:05 KO ロレンゾ・キャナディ アメリカ合衆国
8 1985年9月5日 1R 0:39 KO マイケル・ジョンソン アメリカ合衆国
9 1985年10月9日 1R 1:28 TKO ドニー・ロング アメリカ合衆国
10 1985年10月25日 1R 0:37 TKO ロバート・コーリー アメリカ合衆国
11 1985年11月1日 1R 0:54 TKO スターリング・ベンジャミン アメリカ合衆国
12 1985年11月13日 1R 1:17 KO エディ・リチャードソン アメリカ合衆国
13 1985年11月22日 2R TKO コンロイ・ネルソン アメリカ合衆国
14 1985年12月16日 1R 1:19 TKO サミー・スカフ アメリカ合衆国
15 1985年12月27日 1R 0:50 TKO マーク・ヤング アメリカ合衆国
16 1986年1月11日 1R 2:16 TKO デビッド・ジャコ アメリカ合衆国
17 1986年1月24日 5R 0:46 TKO マイク・ジェームソン アメリカ合衆国
18 1986年2月16日 6R 1:19 TKO ジェシー・ファガーソン アメリカ合衆国
19 1986年3月10日 3R 2:39 KO スティーブ・ゾウスキー アメリカ合衆国
20 1986年5月3日 10R 判定3-0 ジェームス・ティリス アメリカ合衆国
21 1986年5月20日 10R 判定3-0 ミッチ・グリーン アメリカ合衆国
22 1986年6月13日 1R TKO レジー・グロス アメリカ合衆国
23 1986年6月28日 1R 2:03 KO ウィリアム・ホシー アメリカ合衆国
24 1986年7月11日 2R 1:43 KO ロレンゾ・ボイド アメリカ合衆国
25 1986年7月26日 1R 0:30 KO マービス・フレージャー アメリカ合衆国
26 1986年8月17日 10R TKO ホセ・リバルタ キューバ
27 1986年9月6日 2R 1:41 TKO アルフォンソ・ラトリフ アメリカ合衆国
28 1986年11月22日 2R 2:35 TKO トレバー・バービック カナダ WBC世界ヘビー級タイトルマッチ
29 1987年3月7日 12R 判定3-0 ジェームス・スミス アメリカ合衆国 WBC・WBA世界ヘビー級タイトルマッチ・WBC防衛1
30 1987年3月7日 6R 2:00 TKO ピンクロン・トーマス アメリカ合衆国 WBC防衛2・WBA防衛1
31 1987年8月1日 12R 判定3-0 トニー・タッカー アメリカ合衆国 WBC・WBA・IBF世界ヘビー級タイトルマッチ・WBC防衛3・WBA防衛2
32 1987年10月16日 7R 2:59 TKO タイレル・ビッグス アメリカ合衆国 WBC防衛4・WBA防衛3・IBF防衛1
33 1988年1月22日 4R 2:55 TKO ラリー・ホームズ アメリカ合衆国 WBC防衛5・WBA防衛4・IBF防衛2
34 1988年3月21日 2R 2:54 TKO トニー・タッブス アメリカ合衆国 WBC防衛6・WBA防衛5・IBF防衛3
35 1988年6月27日 1R 1:31 KO マイケル・スピンクス アメリカ合衆国 WBC防衛7・WBA防衛6・IBF防衛4
36 1989年2月25日 5R 2:55 KO フランク・ブルーノ イギリス WBC防衛8・WBA防衛7・IBF防衛5
37 1989年7月21日 1R 1:33 TKO カール・ウィリアムス アメリカ合衆国 WBC防衛9・WBA防衛8・IBF防衛6
38 1990年2月11日 10R KO ジェームス・ダグラス アメリカ合衆国 WBC・WBA・IBF王座陥落
39 1990年6月16日 1R 2:47 KO ヘンリー・ティルマン アメリカ合衆国
40 1990年12月8日 1R 2:27 TKO アレックス・スチュワート アメリカ合衆国
41 1991年3月18日 7R 2:22 TKO ドノバン・ラドック アメリカ合衆国
42 1991年6月28日 12R 判定3-0 ドノバン・ラドック アメリカ合衆国
43 1995年8月19日 1R 失格 ピーター・マクニーリー アメリカ合衆国
44 1995年12月16日 3R 2:32 KO バスター・マシスJr アメリカ合衆国
45 1996年3月16日 3R 0:50 TKO フランク・ブルーノ イギリス WBC世界ヘビー級タイトルマッチ
46 1996年9月7日 1R 1:49 TKO ブルース・セルドン アメリカ合衆国 WBA世界ヘビー級タイトルマッチ・WBC防衛1
47 1996年11月7日 11R TKO イベンダー・ホリフィールド アメリカ合衆国 WBA王座陥落
48 1997年6月28日 3R 失格 イベンダー・ホリフィールド アメリカ合衆国 WBA世界ヘビー級タイトルマッチ
49 1999年1月16日 5R 2:59 KO フランソワ・ボタ 南アフリカ共和国
50 1999年10月23日 NC 1R 3:00 ノーコンテスト オーリン・ノリス アメリカ合衆国
51 2000年1月29日 2R 1:03 TKO ジュリアス・フランシス イギリス
52 2000年6月24日 1R 0:38 TKO ルー・サリバーゼ アメリカ合衆国
53 2000年10月20日 NC 2R ノーコンテスト アンドリュー・ゴロタ ポーランド ポーランド
54 2001年10月13日 7R TKO ブライアン・ニールセン デンマークの旗 デンマーク
55 2002年6月8日 8R 2:25 KO レノックス・ルイス イギリス WBC・IBF・IBO世界ヘビー級タイトルマッチ
56 2003年2月22日 1R 0:49 KO クリフォード・エティエンヌ アメリカ合衆国
57 2004年7月30日 4R 2:51 KO ダニー・ウィリアムズ イギリス
58 2005年6月11日 6R 3:00 TKO ケビン・マクブライド アイルランド


[編集] 獲得タイトル

  • 第12代WBC世界ヘビー級王座
  • 第34代WBA世界ヘビー級王座
  • 第4代IBF世界ヘビー級王座
  • 第19代WBC世界ヘビー級王座
  • 第42代WBA世界ヘビー級王座

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

前王者
トレバー・バービック
第12代WBC世界ヘビー級王者

1986年11月22日 - 1990年2月11日

次王者
ジェームス・ダグラス
前王者
ジェームス・スミス
第34代WBA世界ヘビー級王者

1987年3月7日 - 1990年2月11日

次王者
ジェームス・ダグラス
前王者
トニー・タッカー
第4代IBF世界ヘビー級王者

1987年8月1日 - 1990年2月11日

次王者
ジェームス・ダグラス
前王者
フランク・ブルーノ
第19代WBC世界ヘビー級王者

1996年3月16日 - 1996年9月24日(剥奪)

空位
次タイトル獲得者
レノックス・ルイス
前王者
ブルース・セルドン
第42代WBA世界ヘビー級王者

1996年9月7日 - 1996年11月9日

次王者
イベンダー・ホリフィールド