ペドロ・モラレス
| ペドロ・モラレス | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | ペドロ・モラレス |
| ニックネーム | ラテンの魔豹 |
| 身長 | 178cm |
| 体重 | 110kg(全盛時) |
| 誕生日 | 1942年10月22日(70歳) |
| 出身地 | |
| デビュー | 1959年 |
| 引退 | 1987年 |
ペドロ・モラレス(Pedro Morales、1942年10月22日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。プエルトリコ・クレブラ島の出身だが、少年期に家族と共にニューヨーク・ブルックリンに移住。主にWWWF(現WWE)で活躍した。ニックネームは「ラテンの魔豹」。
ドロップキックの名手として知られ、日本では彼がジャイアント馬場にこの技を教え32文ロケット砲が誕生した、というエピソードでも有名[1]。1970年代を代表する選手の一人である。
目次 |
来歴 [編集]
1959年に東海岸地区でデビュー。ドロップキックを得意としていたように、若い頃は華麗な空中殺法の使い手としてならした。WWWFには1964年、バディ・ロジャース対ブルーノ・サンマルチノ戦の行われた旗揚げ戦から参加。その後、彼のスター性に目をつけたフレッド・ブラッシーに連れられてブラッシーのホームリングだったロサンゼルスのWWAに移籍。同団体のスター選手となり、1965年3月12日にザ・デストロイヤーからWWA世界ヘビー級王座を奪取[2]。WWA世界タッグ王座も1966年6月から1967年12月にかけて、ブラッシー&バディ・オースチンなどのチームを破り通算6回に渡って獲得した[3]。
1971年、サンマルチノに替わる新しいニューヨークの主役として、ビンス・マクマホン・シニアによりWWWFに呼び戻される。同年2月8日、マディソン・スクエア・ガーデンでイワン・コロフを下しWWWF世界ヘビー級王座を獲得[4]。サンマルチノと同様、同郷の移民(米国内の200万人を越えるプエルトリコ系移民の50%以上はニューヨーク在住といわれる)からの熱狂的な支持を集めた。1972年9月30日には、サンマルチノを挑戦者にシェイ・スタジアムで防衛戦を行った(深夜23時以降の興行を禁止する州条例により、75分時間切れ引き分け)。その後も防衛戦を続け長期政権を築いたが、1973年12月1日、スタン・ステイジャックに敗れ王座から陥落した。
1974年にWWWFを離れ、NWAのサンフランシスコ地区やフロリダ地区で活躍。フロリダでは因縁のイワン・コロフやパット・パターソン、ディック・スレーターらを抗争相手に南部ヘビー級王座やTV王座を争った[5][6]。黒人レスラーのロッキー・ジョンソンとの有色人種コンビでも人気を博し、1977年9月にコロフ&パターソン、1978年1月にコロフ&ミスター・サイトーを破りフロリダ・タッグ王座を2度獲得している[7]。
1980年よりWWFに戻り、8月9日の『ショーダウン・アット・シェイ』ではWWF王者ボブ・バックランドと組んでワイルド・サモアンズからWWFタッグ王座を奪取[8]。同年12月8日にはケン・パテラを下しIC王座にも戴冠[9]。WWE王座、IC王座、タッグ王座をすべて制覇した最初の選手となった。IC王座は1981年6月20日にドン・ムラコに敗れ一時陥落するも、11月23日に奪還に成功、以降1983年1月22日に再びムラコに奪われるまで、長期間に渡って保持した[9]。
IC王座陥落後はプエルトリコに凱旋し、カルロス・コロンの主宰するWWCにて活動。1983年4月30日にはコロンとのコンビでメディックス(ホセ・エストラーダ&ジョニー・ロッズ)を破り、WWC世界タッグ王座を獲得[10]。シングルでは同年6月25日にバディ・ランデル、1984年3月23日にスウィート・ダディ・シキから北米ヘビー級王座を奪取している[11]。
1985年、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下となったWWFに復帰。ニューヨーク、カリフォルニア、フロリダなど、かつての主戦場を中心に全米サーキットへ参加した。7万人を超える大観衆を動員した1986年8月28日の『ザ・ビッグ・イベント』では、1970年代のドリームマッチだったハーリー・レイスとの対戦が実現している[12]。1987年の引退後は、WWFのスペイン語放送のカラー・コメンテーターも務めた。1995年には長年の功績をたたえ、WWF殿堂に迎えられた。
日本では1966年3月、日本プロレスに初来日し『第8回ワールドリーグ戦』に出場。ウイルバー・スナイダーと優勝戦進出を競った。1974年5月には全日本プロレスの『MSGシリーズ』に参戦し、ジャイアント馬場とPWFヘビー級王座・MSG杯を争ったが敗退。1976年以降は新日本プロレスとWWWFとの提携路線に乗って新日本に登場し、アントニオ猪木とのNWFヘビー級王座戦や坂口征二との新日本版ワールドリーグ戦優勝戦などを戦っている。ワールドリーグ戦ではキラー・カール・クラップを相手に流血戦も演じた。
得意技 [編集]
- モラレス・ロック
- ペドロ・スペシャル
- ダイビング・フットスタンプ
- アトミック・ボムズ・アウェイ(ダイビング・ニー・ドロップ)
- ドロップキック
獲得タイトル [編集]
- WWA(ロサンゼルス版)
- WWA世界ヘビー級王座:2回
- WWA世界タッグ王座:6回(w / ルイス・ヘルナンデス、マーク・ルーイン、リッキー・ロメロ×2、ビクター・リベラ、トニー・パリシ)
- WWWF US王座:1回
- WWWF世界ヘビー級王座:1回
- WWFタッグ王座:1回(w / ボブ・バックランド)
- WWFインターコンチネンタル王座:2回
- WWE Hall of Fame (プレゼンターはサビオ・ベガ)
- NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):1回(w / パット・パターソン)
- NWA北米ヘビー級王座(ハワイ版):3回
- NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回
- NWAフロリダTV王座:1回
- NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ロッキー・ジョンソン)
- WWC北米ヘビー級王座:2回
- WWC世界タッグ王座:1回(w / カルロス・コロン)
etc.
エピソード [編集]
- WWAロサンゼルス時代の1964年末、アメリカ遠征中だったジャイアント馬場にドロップキックをコーチしたとされている[13]。
- タレントの明石家さんまは大好きだったレスラーとしてモラレスの名を挙げており、『さんまのまんま』にジャイアント馬場がゲスト出演した際、さんまは馬場に、幼い頃に馬場対モラレスのシングルマッチを見に大阪府立体育会館に行ったエピソードを語っている。
脚注 [編集]
- ^ 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P15(2002年、日本スポーツ出版社)
- ^ “WWA World Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月1日閲覧。
- ^ “WWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月1日閲覧。
- ^ “History of the WWE Championship”. WWE.com. 2012年4月1日閲覧。
- ^ “NWA Southern Heavyweight Title History: Florida version”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月1日閲覧。
- ^ “NWA Florida Television Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月1日閲覧。
- ^ “NWA Florida Florida Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月1日閲覧。
- ^ “History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2012年4月1日閲覧。
- ^ a b “History of the WWE Intercontinental Championship”. WWE.com. 2012年4月1日閲覧。
- ^ “WWC World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月1日閲覧。
- ^ “WWC North American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月1日閲覧。
- ^ “The Big Event 20 years later”. SLAM! Wrestling: August 28, 2006. 2012年4月1日閲覧。
- ^ 『THE WRESTLER BEST 1000』P33(1996年、日本スポーツ出版社)
外部リンク [編集]
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