ビンス・マクマホン
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| ビンス・マクマホン | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | Mr.マクマホン |
| 本名 | ビンセント・ケネディ・マクマホン |
| ニックネーム | 悪のオーナー |
| 身長 | 188cm |
| 体重 | 112kg |
| 誕生日 | 1945年8月24日(63歳) |
| 出身地 | ノースカロライナ州パインハースト |
| 所属 | WWE |
ビンス・マクマホン(Vince McMahon、1945年8月24日 - )は、アメリカ合衆国のプロレス団体WWEの代表取締役会長で、プロモーター、プロレスラー、レフェリー。
目次 |
[編集] 人物
本名はビンセント・ケネディ・マクマホン(Vincent Kennedy McMahon)だが、ビンス・マクマホンとしてよく知られている。かつては名前の後に「Jr」が付いたビンス・マクマホン・ジュニアであった(この事については後述する)。ノースカロライナ州パインハースト生まれ。英語での発音はマクマーンとする方が近い。通称「悪のオーナー(Evil Owner)」。
WWEでは実況アナウンサーなど、レスラーではない人物がしばしばリングに上がり試合をする(あるいはさせられる)が、彼らが素人であるのとは対照的にマクマホンはレスラー並の長身と年齢不相応にビルトアップされた肉体の持ち主であり、自らが選手としてリングに上がることもある。基本的にはリング上でレスラーを引き立てることを原則としており、真っ向勝負でレスラー相手に勝利する事はまずない。しかし、リング上で尻丸出しで打ち負かされる、おもちゃのピストルを向けられて失禁するなど、時折レスラー以上の存在感を発揮することもある。後述するアメフトリーグ「XFL」の失敗など、あまり触れられたくない事由も積極的に活用している。また、団体の最高権力者としてレスラーや観客を見下した演説を行い、時には「Mr. McMahon's Kiss My Ass Club(キス・マイ・アス・クラブ 日本語版の字幕では「ビンスのケツにキスする会」)」と称して、従わないレスラーに屈辱的な姿勢を強要し、観客を煽ることもある。それでも従わないレスラーには、「You're Fired!(キサマはクビだ!)」の名台詞が待っている。
レスラー活動を盛んに行っている時期はヒールとして、コミッショナー活動のみの時期はベビーフェイスとして番組に登場することが多い。 彼の指揮のもとにWWEが急成長したため、MBA課程の会社分析において、有能な経営者の一例として議論の対象となることもある。
[編集] 経歴
父はニューヨーク地区のプロモーターだったビンセント・ジェームズ・マクマホン(ビンス・マクマホン・シニア)であるが、両親が早くに離婚したため少年時代は母ヴィッキー・アスキューの下で過ごす。初めて父の名前と顔を知ったのは12歳の時だったという。
1968年に東カロライナ大学経営学部を卒業後、プロレス団体WWWF(後のWWF、現WWE)の親会社の社長だった父ビンス・シニアにレスリング・ビジネスを学び、リングアナやインタビュアー、あるいは実況解説としてテレビ画面に登場し始める。
1982年6月、父からWWFの親会社キャピタル・レスリング・コーポレーションの株式を分割契約で買い取って社長となり、新たに興行会社タイタン・スポーツを設立。譲渡ではなく買い取りという形を取ったのは前述のような経緯から父親との仲があまり良くなかったからだといわれる。
1984年からはハルク・ホーガンとの二人三脚でWWFの全米進出を開始(詳しくはWWEの項を参照)、WWFを世界最大のプロレス団体に育て上げる。
長年試合の実況を務めて社長としての顔を隠していたが、1998年以降のストーンコールド・スティーブ・オースチンとの抗争を機にWWEのオーナー(チェアマン)としてリングに立ってマイクパフォーマンスを見せるようになり、遂には自らが選手としてリングに上がるようになる(もともとはレスラー志望だったが、父親に反対され実現しなかった経緯がある)。このオースチンとの抗争がWWEの発展を決定付けたといっても過言ではない。
以降も自らの派閥コーポレートを結成するなど団体のトップヒールとして活躍。これは当時Monday Night Warの最中で、絶対にWCWに引き抜かれない存在が自分自身だけだったという状況から生まれた苦肉の策でもあった。1999年にはトリプルHを破りWWF王座まで獲得した。
2001年、ライバル団体であったWCWとECWを買収して自身の長年の夢でもあった全米マット界の制圧を成し遂げる。また同年のWrestleMania X-sevenでは実の息子であるシェインと対戦した。
2003年からはかつての盟友ハルク・ホーガンとの現実と虚構の境目を越えた抗争を展開、WrestleMania XIXで行われた二人の対戦は非常に大きな注目を集めた。
一時期、番組に出演しなくなっていたが、2006年に息子のシェイン・マクマホンと組み、ヒール親子として活動を再開。すでに60歳を越えているにもかかわらず、20代から続けているというボディビルで鍛えられた肉体は全く衰えておらず、素人とは思えない過酷な流血戦を戦った。
2007年には、WrestleMania 23において、ビンスと同じく"You're fired!"を口癖にするドナルド・トランプとお互いの髪の毛を賭けた「バトル・オブ・ザ・ビリオネアーズ」を実施。ビンスの代理レスラー、ウマガが負けたため、その場で髪を刈られてしまった。4月には、息子シェインとウマガの手助けによってECW世界王座を獲得している。
その後、自分が何者かにリムジンを爆破され死亡するというアングルを行い、犯人探しのストーリーが始まるはずであったが、クリス・ベノワの死により中止となった。その後しばらく姿を現さなかったが、8月、ビンスに隠し子がいるという新たなストーリーが始まり、番組に復帰している。
WWE以外では、1992年にボディビル団体WBF、2001年にはNBCと共同でアメリカンフットボールリーグXFLを設立したが、いずれも経営不振によって一年で閉鎖された。
以前、WWFとして日本マット界を傘下に治めようと奮闘していたとき、ジャイアント馬場はNWA第一副会長として一喝したことがある。後に馬場は「マディソン・スクエア・ガーデンで世界王座に挑戦したときにほんの子供だったこんな小僧に翻弄されてたまるか」と自著「王道十六文」で述懐している。馬場にとってビンス・マクマホンといえば、自分をアメリカのトップレスラーにのし上げてくれたシニアであった。
日本マットとの関係では、アントニオ猪木VSモハメド・アリ戦で父親の密命を受けて目付役についていたという話がある。WWF社長就任後、父親の代から友好関係にあった新日本プロレスとは1985年に契約解消となる(巨額の契約金が一因といわれる)。
1990年、全日本プロレス・新日本プロレス合同の日米レスリングサミットや、SWSとの合同興行などを経て、念願の単独興行である「マニアツアー」を行うが、興行的に大失敗となり、日本への参入は途絶えることとなる。その後はWCWが新日本と提携していた関係から全日本と、外国人選手をトレードする程度の薄い協力関係を結んでいた(ベイダーやマイク・バートンはWWF経由で全日本に移籍してきた)。ジャイアント馬場の死の直前の1998年年末には、カナダに馬場を招待しており、馬場自身もWWFの視察を予定していたため、馬場の入院・急死がなければ一層の関係強化が予定されていたという説もあるが幻に終わった。2002年になり、再度の日本単独進出を果たす。
[編集] マクマホン・ファミリー
1968年にリンダ・エドワーズと結婚。1男2女をもうける。長男シェイン、長女ステファニーをもうける。シェインは元WWEタレントのマリッサ・マズゥーラと、ステファニーはWWE所属のレスラートリプルHと結婚した。複雑な家庭環境に育ったためか、TVショーでのパフォーマンスとビジネスに対するシビアな態度とは裏腹に、家族を非常に大切にする人柄が伝えられている。シェインに二人、ステファニーに二人、それぞれ子供が生まれており、四人の孫のおじいちゃんでもある。
[編集] タイトル履歴
- WWF/WWE
- WWF王座:1回
- ECW世界ヘビー級王座:1回
- 1999年ロイヤルランブル優勝
[編集] 入場テーマ
- No Chance in Hell
[編集] その他
前述したように、かつては自身の名前の最後にジュニアと付いていたが、父の死と時を同じくしてこの部分を削除している。彼はこの「ジュニア」という呼称が非常に嫌いであるらしく、WWEと契約した選手のリングネームからはことごとく「ジュニア」が削除されており、古くはボブ・オートン・ジュニア、ドリー・ファンク・ジュニア(ホス・ファンクに)、最近ではチャボ・ゲレロ・ジュニアやレイ・ミステリオ・ジュニアがその代表例である。
また下部組織ではジミー・スヌーカの息子ジミー・スヌーカ・ジュニアがデュース・シェイド(後にデュースとしてスマックダウンにデビュー)に変更している。その後2008年にジミー・スヌーカの息子である事を明かしてからもリングネームはシム・スヌーカとし、ジュニアはつけられていない。
団体内で頂点に立った黒人レスラーが非常に少ないことからインターネット上では「黒人に冷たい」と噂されていたが、ザ・ロック(サモア系だが父ロッキー・ジョンソンは黒人)やボビー・ラシュリーを熱心にプッシュして育て上げたため説得力に欠けている。

