アルティメット・ウォリアー

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アルティメット・ウォリアー
アルティメット・ウォリアーの画像
プロフィール
リングネーム ザ・ウォリアー
アルティメット・ウォリアー
ディンゴ・ウォリアー
ブレード・ランナー・ロック
ジム "ジャスティス" ヘルウィッグ
本名 ウォリアー[1]
ニックネーム 超合金戦士
身長 192cm
体重 125kg
誕生日 1959年6月16日
死亡日 2014年4月8日(満54歳没)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
インディアナ州クローフォーズビル
スポーツ歴 ボディビル
トレーナー レッド・バスチェン
リック・ベースマン
デビュー 1985年
引退 2008年
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アルティメット・ウォリアーThe Ultimate Warrior)ことジム・ヘルウィッグJim Hellwig1959年6月16日 - 2014年4月8日)は、アメリカ合衆国プロレスラーインディアナ州クローフォーズビル出身。

1980年代後半から1990年代前半におけるWWFの看板スターの1人。屈強な肉体から超合金戦士の異名を持つ。レスリング技術の評価は低いものの、わずか数分で試合を決着させる力押し一辺倒のファイトスタイルなど、その徹頭徹尾「躁状態」のキャラクター人気は高かった。

来歴[編集]

キャリア初期[編集]

パワーチームUSAなるボディビルのチームに所属後、1985年にプロレス転向。ミッドサウス地区にてスティーブ・ボーデンと組み、ロード・ウォリアーズのコピー版タッグチーム「ブレード・ランナーズ(The Blade Runners)」を結成、ブレード・ランナー・ロックBlade Runner Rock)として活動する。

1986年フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス州ダラスのWCWA(World Class Wrestling Association)にて、フェイスペイントを施したディンゴ・ウォリアーThe Dingo Warrior)に変身。1987年2月2日にはボブ・ブラッドリーからWCWAテキサスヘビー級王座を奪取した。

WWF[編集]

1987年WWFと契約を交わし入団。10月7日、Superstarsにてリングネームアルティメット・ウォリアーThe Ultimate Warrior)と改名し、WWF on NESNやWWF on PRISM Networkなどの番組の前座試合で経験を積む。

1988年8月29日、SummerSlam 1988にてホンキー・トンク・マンからIC王座を奪取。1989年4月2日、WrestleMania 5にてリック・ルードに王座を奪われるが8月29日のSummer Slam 1989で奪還。

1990年4月1日、WrestleMania VIではハルク・ホーガンとのWWF世界王座 & IC王座のダブルタイトルマッチに勝利し、2冠王者となる。同月13日には日本東京ドームにて行われたWWF、新日本プロレス全日本プロレスが合同して行った日米レスリングサミットに参戦すると共に初来日を果たす。WWF世界王者としてテッド・デビアスの挑戦を受けて防衛。8月27日、SummerSlam 1990ではルードとスティール・ケージ・マッチを行い勝利。

1991年1月19日、Royal Rumble 1991サージェント・スローターに敗戦し王座転落。王座転落後はジ・アンダーテイカーと抗争を展開するが8月に金銭トラブルでWWFから解雇される。

1992年4月、WWFに復帰。パパ・シャンゴカマラといった怪奇系レスラーとの抗争やWCWより移籍してきたリック・フレアーとの試合、ランディ・サベージとのアルティメット・マニアックスThe Ultimate Maniacs)なるタッグでマネー・インクと対戦するなどストーリーラインで活躍するも11月に再び解雇となる。

1993年、WWF出身のレスラーが集うWWS(World Wrestlings Superstars)に参戦し、ハーキュリーズと連戦。1995年にはNWC(National Wrestling Conference)にてホンキー・トンク・マンと対戦した。

1996年3月31日、WrestleMania XIIにてWWFに電撃復帰を果たしてハンター・ハースト・ヘルムスリーに勝利。復帰後はオーエン・ハートベイダーと抗争を展開するが会長であるビンス・マクマホンと対立して退団した。

WCW[編集]

1998年、WCWと契約を交わしザ・ウォリアーThe Warrior)のリングネームで入団。8月17日、Nitroにてリングを占拠するnWo、そしてホーガンのマイクパフォーマンス中に入場してリングへ入りnWoを壊滅する事を宣言して去った。

9月13日、WCWデビューマッチとなるFall Brawl 1998にてチームWCWの一員としてダイヤモンド・ダラス・ペイジ & ロディ・パイパーと組んでnWoハリウッド(ホーガン & ブレット・ハート & スティービー・レイ)、nWoウルフパック(ケビン・ナッシュ & レックス・ルガー & スティング)と3way9人タッグマッチを行い勝利した。

9月14日、ジム・ナイドハート vs ディサイプルの試合においてナイドハート入場後リング内へスモークが焚かれ、リング内が見えるようになるとディサイプルの髪掴んだ姿を現す。リングを取り囲むnWoを余所にホーガンと直接対決する旨を伝え挑発すると再びスモークが焚かれ姿を消した。

10月12日、Nitroにて旧友であるスティングとタッグを組んでホーガン & ブレット・ハートと対戦するも反則によりDQ勝利。

10月25日、Halloween Havoc 1998にてホーガンと直接対決を行うもエリック・ビショフにより介入でレフェリーの気を逸らすうちにホーガンの甥であるホーレス・ホーガンに椅子で殴打され、そのままホーガンにフォールされて敗戦した。

キャリア晩年[編集]

1999年にWCW離脱。一時期は公の場にまったく姿を見せなかったため、「ステロイド剤の過剰摂取の後遺症で脚を切断した」という噂や廃人説、果ては死亡説まで流れたこともあった。

近年は政治団体に所属して講演活動を行い、WWEのステロイド剤の使用にも苦言を呈していた。2005年にはWWEからトリビュートDVDが発売されたが、本人の登場は過去の映像のみで新規のインタビュー出演などは一切なく、内容も彼の人格を非難するようなコメントが多く含まれており、WWEとの関係は冷え切っていると見られていた。

2014年4月5日、WWE殿堂でのスピーチ

2008年にはイタリアのプロレス団体NWEに参戦。6月25日、オーランド・ジョーダンを破り第5代NWE世界ヘビー級チャンピオンとなるがすぐにタイトルを返上した。試合のスタイル、コスチューム、メイクパフォーマンスは全盛時と変わらず、WWF、WCW時代と比較して肉体もほとんど衰えていなかった。

WWEとの関係も修復され、2013年2Kから発売されるWWEを題材にしたゲームWWE 2K14の宣伝トレイラーにWWF在籍当時のフェイスペイントで出演。

2014年1月13日、WWE殿堂入りが発表された。レッスルマニアXXXの前日である4月5日、ルイジアナ州スムージーキング・センターにてセレモニーが行われ、WWE殿堂に迎えられた。レッスルマニアXXX翌日の4月7日にはRAWへ登場し、殿堂入りしたことに触れるとともに「アルティメット・ウォリアーをつくったのはファンの皆だ」とファンへの感謝の気持ちを表した。

今後の動向にも注目されていたが、RAW翌日の4月8日夕刻、ルイジアナ州のホテルの外で倒れているところを発見され、間もなく死亡が確認された[2]。捜査当局の検死の結果、死亡原因は動脈硬化症に伴う心臓発作で、妻とともにホテルの周りを散歩中に、心臓発作に襲われたという[3]。54歳没。

前日のRAWで元気な姿を見せながらも、妻と娘2人を遺しての突然の死は関係者にも大きな衝撃を与え、ビンス・マクマホンらWWEの要職・スーパースター等が各種メディアで弔意を表すとともに、その功績を讃えた。

ファイトスタイル[編集]

ウォリアーの試合はワンパターンで以下のような流れがほとんどである。

背中にボディ・プレスを行なうのは従来のボディ・プレスをリック・ルードに膝を立てて返されたためである。

得意技[編集]

獲得タイトル[編集]

WCWA
  • WCWAテキサスヘビー級王座:1回
  • WCWA世界タッグ王座:1回(w / ランス・フォン・エリック)
WWF
NWE
  • NWE世界ヘビー級王座:1回

外部リンク[編集]

 脚注[編集]

  1. ^ 出生時の名前はジェームズ・ブライアン・ヘルウィッグ(James Brian Hellwig)だが、後に「ウォリアー」を正式に本名としていた。
  2. ^ 元プロレスラーのアルティメット・ウォリアーさんが急死 東京スポーツ 2014年4月9日閲覧
  3. ^ WWEアルティメット・ウォリアーさんの死因は心臓発作”. シネマトゥデイ (2014年4月17日). 2014年4月19日閲覧。