明石家さんま

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
明石家さんま
(杉本 高文)
Gomaisasa.svg
笑福亭一門定紋である「五枚笹」
本名 杉本 高文(すぎもと たかふみ)
ニックネーム さんまさん、さんまちゃん、さんちゃん、若、チャッピー、お笑い怪獣、Mr.27時間テレビ、眠らない九官鳥
生年月日 1955年7月1日(59歳)
出身地 日本の旗 日本奈良県奈良市
和歌山県東牟婁郡古座町出生)
血液型 BO型
身長 172.5cm
方言 関西弁
最終学歴 奈良県立奈良商業高等学校
師匠 2代目笑福亭松之助
事務所 吉本興業東京本社
活動時期 1974年 -
同期 関根勤
島田紳助
オール阪神・巨人
桂小枝
現在の代表番組 レギュラー番組
さんまのまんま
踊る!さんま御殿!!
さんまのSUPERからくりTV
痛快!明石家電視台
ホンマでっか!?TV
ほか
スペシャル番組

FNS27時間テレビ
明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー
さんま・玉緒のお年玉あんたの夢をかなえたろかスペシャル
さんま&SMAP!美女と野獣のクリスマススペシャル
さんま&くりぃむの芸能界㊙個人情報グランプリ
明石家さんまのコンプレッくすっ杯
ほか
過去の代表番組 オレたちひょうきん族
笑っていいとも!
明石家さんちゃんねる
あっぱれさんま大先生
明石家マンション物語
恋のから騒ぎ
ほか
配偶者 大竹しのぶ(1988年-1992年)
親族 IMALU(実娘)
大竹しのぶの長男(二千翔、にちか)は血縁関係が無いので現在の関係は不明
受賞歴
1982年 花王名人大賞 新人賞
・1982年 日本放送演芸大賞 ホープ賞
1983年 日本放送演芸大賞 奨励賞
1985年 日本放送演芸大賞 優秀賞
・1985年 花王名人大賞 大衆賞
1986年 ゴールデン・アロー賞 芸能賞
・1986年 日本放送演芸大賞 特別賞
1987年 日本放送演芸大賞 大賞

明石家 さんま(あかしや さんま、1955年〈昭和30年〉7月1日 - )は、日本お笑いタレント司会者俳優歌手ラジオパーソナリティー落語家を志して2代目笑福亭松之助門下となったが、師匠命令でお笑いタレントに転向した。

本名は杉本 高文(すぎもと たかふみ)。和歌山県東牟婁郡古座町(現・東牟婁郡串本町)生まれ、奈良県奈良市育ち。 吉本興業所属。奈良県立奈良商業高等学校卒業。

1980年代後半以降から国民的お笑いスターとして活躍を続けている。ビートたけしタモリとともに、日本のお笑い芸人BIG3の1人として称される。

人物[編集]

事務所吉本興業よしもとクリエイティブ・エージェンシー)所属。節税と自身のマネージメントを目的とした個人事務所「オフィス事務所」も設けており、仕事やギャランティー管理はこちらで行っている。オフィス事務所には、ラサール石井村上ショージ松尾伴内らも所属している(さんまと同じく、皆それぞれに所属事務所は他に存在する)。吉本とは所属はしても契約はしていない。

師匠は落語家の2代目笑福亭松之助。なお明石家の「明石」とは、松之助の本名から貰い受けている(後述)。

若手の頃、兄弟子の五所の家小禄と漫才、コントのコンビを組んだり、花月の舞台ではB&B島田洋七・洋八)、西川のりお・上方よしおザ・ぼんちぼんちおさむ里見まさと)らと、「ビールス7」というコントユニットを組んでいた時期もあった。「アトムスリム」と言う漫才コンビを組んでいた時期もある。

芸風[編集]

1980年代頃からは司会業が中心で、20年以上続く番組もある。聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし、話の節目やオチで効果的に連呼し使用する特徴がある[要出典]。トークのテンポを崩されるとすかさずツッコミボケを入れる。張り芸(声を張って笑いをとる芸)を得意とする。

デビュー当初は菅原文太桜田淳子ものまねや、当時人気だったプロ野球阪神タイガース小林繁形態模写漫談が主であった。ただし、同期の島田紳助によると菅原文太と桜田淳子の物真似は「死ぬぐらい似ていなかった」ようで、「あれではお金は取れない」と断言されている[要出典]。そうした経緯もあってか名前が売れるようになってからはこの2人の物真似を人前ですることはほとんど無い。ピンで演じることもあったが、兄弟子の明石家小禄(後に五所の家小禄と改名)とのコンビで、コントスタイルで演じることもあった。ただし、最初は巨人の小林として形態模写をしており、江川卓とのトレードで阪神に移籍した際にこの芸を封印したが、トレード直後の阪神での小林の活躍に伴い、関西地区で小林の形態模写を熱望されるようになり、渋々再開したところ、小林と相乗効果で人気を集めるようになった。

芸名(愛称)[編集]

笑福亭松之助に弟子入りした当初の芸名は「笑福亭さんま」であった。なお、「さんま」という芸名は、さんまの実家が水産加工業を営んでいたことから命名。その後、「明石家さんま」に改名。「明石家」は師匠・笑福亭松之助の本名「明石徳三」から貰い受けたもので、当時は松之助門下の多くが「明石家」を名乗っていた(「明石さんま」は誤字)。亭号を「明石家」に改めた理由としては、落語を演じない者に一門の「笑福亭」を与えることは許されないとした、一門の方針によるというのが通説になっている。しかし師である松之助自身も一時落語を離れ、喜劇役者に専念していた時期があったことや、吉本に所属していた月亭可朝笑福亭仁鶴6代目桂文枝らのタレントとしての活躍、兄弟子の明石家つる松(後の橘家圓三)は古典落語しか演じなかったこと、それに「明石家」自体が落語家的な亭号からして、落語をしないことが「明石家」を名乗る直接の理由ではないといえる。松之助の兄弟子にあたる6代目笑福亭松鶴は、直弟子の鶴瓶にはほとんど落語の稽古をつけていないし、当時鶴瓶も落語をほとんど演じなかった。対して松之助はさんまには落語を少ないながらも教えている。さんまもデビュー間もない頃は岩田寄席など地域寄席で古典落語を演じ、毎日放送大喜利番組では着物を着て落語家として出演していた。松之助は長男には明石家のんき、次男にはパーポ明石と芸名を付けている。

笑福亭松之助(さんまの師匠)と6代目笑福亭 松鶴(鶴瓶の師匠)の師匠(5代目笑福亭 松鶴)が同じ縁で、笑福亭鶴瓶を「兄さん」と呼んでいる。弟子時代から鶴瓶と面識があり、大判焼きを半分おごってくれたこともある。

松之助は、家業から名前を付けることが多く、さんまの兄弟弟子には、自転車屋から明石家サドル、美容室から明石家パーマなどが命名されている。命名時のエピソードとして、同期の島田紳助が師匠の島田洋之介・今喜多代(現:今日喜多代)に芸名を決められた時、さんまは「その名前やったら絶対売れへん」とからかい、紳助は落ち込んだが、そのすぐ後に「さんま」という芸名を貰った話を聞いて「こいつ(芸能人として)終わったな」と逆に大笑いされたというものがある。ただし、さんま自身は正式な落語家の弟子はとらず、さんまが26歳の頃に吹田市千里丘のMBSで生放送していた『ヤングタウン』の放送中に「尾形久」という当時18歳の少年が、弟子入り志願で入口付近に来ていると警備員から報告が入り、「今、弟子入り志願の少年が来ているらしい」と生放送で話をしていた。

愛称は「さんちゃん」(所ジョージ高見沢俊彦など同年代の親しい人物が使用)。紳助は愛称だけでなく「杉本」と本名で呼ぶことがあった。BIG3であるタモリビートたけしからは「さんま」「さんちゃん」「さんまちゃん」「明石家さんま師匠」「出っ歯」「お前」「あんた」と呼ばれる。たけしは「明石家」と呼ぶこともある。またタモリは第三者とさんまのことについて話す際は、「あの男」と表現する。さんまは年上のタモリとたけしを基本的にはさん付けで呼ぶが、突っ込む時には、たけしを「ビート」、「たけ」、「たけし」、「おっさん」と呼び捨て、タモリを「タモリ」、「タモさん」、「森田」と呼び捨てにしたり、芸能界の後輩でもあることから「あんた」「お前」と呼ぶ場合もある。また、村上ショージジミー大西など付き合いの古い後輩芸人からは親しみを込めて「若」と呼ばれている。

身体的特徴[編集]

出っ歯」の代表的人物として有名。

甲高い笑い声と「ファーーッ!」という引き笑いが特徴。

スポーツ[編集]

スポーツ観戦も趣味としており、仕事で家を空ける時以外は、例え深夜であろうとBSやCSのスポーツ中継をリアルタイムで観戦している。サッカーヨーロッパの各リーグおよびUEFAチャンピオンズリーグUEFAヨーロッパリーグ・野球のMLBアメリカンフットボールNFLバスケットボールNBAアイスホッケーNHLテニスの四大大会・ゴルフのメジャートーナメントなどジャンルは幅広い。オリンピックやサッカーFIFAワールドカップが開催される際にはテレビ中継は当然のこと、キャスターを務め現地で観戦することも多く、トヨタカップ(現:FIFAクラブワールドカップ)では、中継のゲストとして毎年現地で観戦している。

プロ野球巨人ファンで、高校野球も好き。小学生の頃は軟式野球をしていたことがある。

サッカー[編集]

奈良商業高校ではサッカー部に所属しスター選手だと称していた[出典 1]。芸能人として人気が出た1980年代には日本サッカーリーグのキャンペーンポスターのモデルに選ばれたほか、ビートたけし望月三起也と共に芸能人サッカーチーム「ザ・ミイラ」の発起人となる[出典 2]2002 FIFAワールドカップが開催される前にはフジテレビで『さんまの天国と地獄』というサッカー番組のメインパーソナリティを務めた。

ワールドカップやクラブワールドカップなどの関連番組ではサッカー通タレントの筆頭格としてキャスターやコメンテーターを務めることも多く[出典 1]監督や選手に下世話なツッコミを入れて番組を盛り上げようとすることに定評がある[出典 1]

2011年12月18日に日本で開催されたサッカーのクラブ世界一を決めるFIFAクラブワールドカップ2011決勝では優勝しMVPに選ばれたFCバルセロナスペイン)のリオネル・メッシを特設スタジオに呼び出してインタビューを行い「サッカーの質問はみんな聞いてるやろうから、老後はどうしはるんですか」という質問をした。メッシは「引退はまだ先のことだから分からないよ」と冷静に回答したが特設スタジオに残らず早々に立ち去りチームメイトの輪に戻ってしまったため、インターネットでは「サッカーにくだらないお笑いは必要ない」「真剣に戦う選手に失礼」などの批判が殺到した[出典 3][出典 4][出典 5]。この模様は動画投稿サイトにアップされたほか、スペインやメッシの母国アルゼンチンのメディアでも報じられ[出典 6][出典 7][出典 8]、「バルサの10番は日本テレビの奇妙なインタビューの犠牲者になった[出典 6]」「シビアなインタビューに驚きをかくせない[出典 7]」「これまで経験したことのない奇妙なインタビュー[出典 8]」と述べた[出典 9]。さらにイギリスのサッカー専門メディアは「日本のコメディアン明石家さんまによるバルセロナのスターへの悲惨なインタビューはこの国のサッカー放送の下劣さを示した」と報じた[出典 10]スウェーデンでは「排他的なインタビューに失敗」と報じた[出典 11]

こうした世界中のメディアからの批判について、さんまは2011年12月24日放送のMBSラジオヤングタウン土曜日』の中で話題にし「メッシは出演の予定がないのに、日テレが無理に騙し討ちのような感じで連れてきた」とテレビ局の対応により、メッシ選手が終始不機嫌だったことを明かし「もう二度とメッシには会えない」と複雑な胸中を語った[出典 12]。メッシは2011年12月31日付のスポルト紙のインタビューで老後について「家族や友人のいるロサリオで生活するだろう」と語っている[出典 13]。またアルゼンチンのジャーナリスト、レオナルド・ファチオはメッシの評伝の結びに「無性にメッシの引退後を心配するときがある」と書いたうえで、さんまの質問とそれに対するメッシの返答に言及している[1]

サッカーを始めたきっかけはマンチェスター・ユナイテッドだと述べている。2012年にマンチェスター・ユナイテッドに加入した香川真司に関して、「私は、本当は入団してほしくないんですよ。日本人の方にはね」と発言をしたため、インターネットでは再び批判が殺到した[出典 14]

競馬[編集]

2003年・2004年のJRAのイメージキャラクターを務めた。時々番組内で競馬について語り、フジテレビの競馬番組『うまッチ!』内に「さんま馬主プロジェクト」なる企画が登場。手始めに「マイネル」の冠号で知られるラフィアン・ターフマンクラブの岡田繁幸が、妻の岡田美佐子名義で所有する競走馬に名前を付けて欲しいとの依頼を受け、「シャチョマンユウキ」と命名。喜劇映画の名作『社長漫遊記』にちなんでいるが、JRAの規定により9文字以下でなければならないため「ウ」が抜けた。

2004年の日本ダービーに岡田美佐子が所有するコスモバルクで勝負し惨敗。コスモバルクの枠が5枠(黄色)だったため、黄色のスーツに黄色のネクタイを着用。表彰式では勝利したキングカメハメハの手綱を取った安藤勝己に対して、トロフィー授与のプレゼンターを務めた。その際、馬券が外れた腹いせか片手でトロフィーを渡そうとしたり、レッドカーペットの上で土下座をしたりした。

同郷の杉本清とも親交があり、桜花賞天皇賞(春・秋)、日本ダービー宝塚記念菊花賞エリザベス女王杯ジャパンカップ有馬記念の前日には『サタうま!』で予想トークをする。また年末に『夢競馬』として1年間のGI振り返りトークする番組がある(両番組とも関西テレビ制作である)。

初めて競馬予想を始めた時期は、1984年春で『明石家さんまのラジオが来たゾ!東京めぐりブンブン大放送』(ニッポン放送)の中で競馬予想のコーナーが設けられ、素人なりの予想を始めている。

クラシック路線ではスズマッハ(日本ダービーで人気薄も2着)を、古馬中距離路線ではダスゲニーを追いかけている。基本的には、ウケるために穴予想であった。以後、このラジオ番組で翌日日曜日の大レース(シーズンなら毎週日曜日の関東重賞)の予想を展開していくことになる。

日本ダービーの日、東京競馬場日曜競馬ニッポンニッポン放送)に生出演するも、本命グリーンカップは最後方から多少追い込んだだけ(8着)で惨敗。

1986年に入ると予想熱は増していき、毎週末に翌日の重賞の予想を展開していく。

目黒記念では「さんまは目黒に限る」の言葉通り、代用ながらも的中させる。

オークス(優駿牝馬)では、人気薄ユウミロク(2着)を本命に予想している。

そして、日本ダービーでは、日曜競馬ニッポン→フジTV競馬中継→日曜競馬ニッポン、と東京競馬場内で堂々とハシゴし、穴馬グランパスドリーム(2着)を本命とする予想を展開するも、勝ち馬(ダイナガリバー=2番人気)を無視して馬券は敗退。

また、その直前のNHK杯では、前年にNHK連続テレビ小説澪つくし』に出演した関係もあり、「NHKのディレクターは歪んでいる」と発言し、4番人気ラグビーボールを本命として的中している。

芸能関係者との関係[編集]

同期の島田紳助とは、若手時代には営業に一緒に出演する機会が多く、私生活でもお互いの家に出入りする仲であった。

他にもガダルカナル・タカ、桂雀々、笑福亭笑瓶、松尾伴内、中村勘三郎らと交友関係がある。

仕事[編集]

2011年7月、『さんまのまんま』内で「60歳位でテレビは引退する」と公言。その後、他番組でも「60歳でテレビのレギュラー番組を辞めて、仲間たちと舞台をしたい」と主張している[2]。しかし、2014年4月にこれを撤回した。

NHK[編集]

1980年代に『クイズ面白ゼミナール』や連続テレビ小説『澪つくし』などに出演したこともあるが、1990年代以降、出演はほとんどない。

僅かに、1999年の大河ドラマ『元禄繚乱』への出演や2012年の『桂三枝のすべて~六代桂文枝襲名~』(同年7月29日、NHK-BSプレミアム)、2013年の『TV60 NHK×日テレ 60番勝負』(同年2月1日、総合テレビ。NHK・日本テレビ共同制作番組)など数番組に出演歴がある。

  • 「『クイズ面白ゼミナール』に出演した際、「鉛筆」をテーマにした講義を聞いてあくびをして、その様子が放送されてしまい、苦情が寄せられたことでNHK出演が少なくなった」と度々ネタにしている。
  • 1999年に放送された大河ドラマ「元禄繚乱」で、主役を務めた当時の中村勘九郎(後の中村勘三郎)から直々に「さんまちゃん出てくれ」と依頼があった。しかし、撮影がその後の実際の内容で活かされず、喧嘩になったという[3]
  • 2013年2月1日放送の『NHK×日テレ 60番勝負』に出演した際、共演した中居や爆笑問題から同年の『第64回NHK紅白歌合戦』の司会就任を求められ、自身も就任に意欲を見せる場面があった[4]。しかし、これは実現しなかった。
  • 1987年、2000年には『NHK紅白歌合戦』の白組司会の候補に挙がっていたとされる[5]

テレビ朝日[編集]

さんまのナンでもダービー』内で発生した自身とテレビ朝日の確執が原因による1995年9月の番組打ち切り後、テレビ朝日ではレギュラー番組を持っていない。以後、同局への出演は数えるほど。2009年に『アメトーーク』で初めて現本社に足を踏み入れている。一方、系列局の朝日放送とは関係性は悪くなく、レギュラー番組こそないが全国ネットの特別番組(現在は『コンプレッくすっ杯』)で年に数回出演している。

毎日放送[編集]

1978年、毎日放送が大阪で制作していた『妻そして女シリーズ』のドラマで『母の償い』(原作 関幸輔、脚本西沢裕子岡田茉莉子+加茂さくら+吉沢京子主演 )の第一回に酒屋の店員役で出演したのが、ドラマ初出演であるが、『ヤングおー!おー!』ではすでにアイドル的な人気を獲得していた。

TBS[編集]

1979年、堺正章主演ドラマ『天皇の料理番』でドラマ初レギュラーを獲得し、全国的な知名度を得る第一歩となり、当時担当していたラジオ番組MBSヤングタウンにて楽屋話を披露していた。

日本テレビ[編集]

チャリティー番組」『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』へは番組の顔的存在である徳光和夫と共演NGのため基本的に出演していない(徳光自身がさんまとの共演を拒否しているため)。番組側から出演依頼が来た際、さんまのノーギャラ出演の意向を制作者が拒否し出演辞退となった経緯がある[出典 15]

テレビ東京[編集]

かつて司会をした『サタデーナイトショー』が、さんまと淡路恵子とのトークが好評を博し24時台の放送にも関わらず最高視聴率は13%を超え、当時のテレビ東京全番組中で最高視聴率を獲得したが、「局の最高視聴率番組がお色気番組とは体裁が悪い」という上層部の判断で、人気番組であったが終了となった[6]。 本人は、『「ちょっと待てと。俺たちテレビタレントが頑張って面白い人気番組にして終わるって、俺ものすごいショックを受けて。俺もう意味がないと。頑張ってしゃべって人気番組にして、それで打ち切られたら」』という一方で、『「数字(視聴率)なんて取ってもあかんし、取らなかってもあかんから、どうでもええかと思えたのは良かった。その後のお笑い芸人としての人生でものすごく助かった」と、「打ち切り騒動」で得るものもあった』と語っている[7]

私生活[編集]

趣味はゴルフ・テレビでスポーツ観戦・ギャンブル(パチンコ競馬麻雀)・テニス。漫画もよく読み、『タッチ』の浅倉南や『うる星やつら』のラムを理想の女性像に挙げている。『ドラゴンボール』ファンであり、多数のグッズをコレクションしている。

好きな食べ物はカレーライスぶり大根、魚の煮付けなど。自身も認める少食家である。

超ヘビースモーカーである。

家族[編集]

1988年9月、女優大竹しのぶと結婚。大竹には死別した先夫とのあいだに息子が一人いたが、さんまは実の息子同様に扱った。1989年9月、大竹とのあいだに長女・いまるが誕生する。1992年9月に大竹と離婚。長女・いまるは芸名「IMALU」として2009年に芸能界にデビューした。

IMALUが20歳を過ぎるまで再婚はできないなどと言っていたが、2010年7月24日放送の『FNS26時間テレビ2010』内「さんま・中居の今夜も眠れない」において島田紳助から「いい加減、結婚しろ!孤独死は切ないで」と再婚を促されると「もう結婚はあきらめた!俺は結婚不適合者なんやとわかった」と再婚を断念する発言をしている[出典 16]

人気番組でのエピソード[編集]

ひょうきん族[編集]

1981年ビートたけし島田紳助などとともにフジテレビバラエティ番組オレたちひょうきん族』にレギュラー出演。人気の火種となったコーナー「THE タケちゃんマン」の敵役・ブラックデビルは、当初は高田純次が務めていたが、第2回収録前に高田がおたふく風邪で入院したので代役として急遽さんまが抜擢され、それ以後レギュラーになる。代表的なキャラクターとしては以下のものがある。

  • 怪人アミダ婆 - コシノジュンコデザインの服、桑田佳祐作詞作曲のアミダ婆の曲で登場。
  • 怪人ビックリ箱 - ビックリ箱で人を驚かせる。感傷的なテーマソング曲の作詞作曲は松山千春
  • 怪人ナンデスカマン - 大阪万博のテーマソングである「世界の国からこんにちは」に似せた歌と共に登場。甲高い声で「ナンデスカー」と聞き返し相手に不快感を与える。
  • 青森県出身の妖怪人間 知っとるケ - 「ヒャーホホ」と奇声をあげ、民謡を歌う少年少女合唱団と共に登場。
  • パーデンネン - 数々演じてきたキャラクターの中で、パーデンネンだけは恥ずかしかったと語る。カルチャー・クラブボーイ・ジョージにパーデンネンの格好を見られたとき"You crazy"と言われ、派手な服装や髪型で有名だった芳村真理から「さんまちゃん、派手ねー」と言われたこともある。(芳村は当時フジテレビの歌番組『夜のヒットスタジオDELUXE』の司会をしており、1985年に同番組の放送曜日が変更となってから、収録日が『ひょうきん族』と同じ水曜日であった)
  • さんまが一番好きだったキャラクターはブラックデビル。ビートたけしがさんまのキャラで一番好きだったものは、「サラリーマン」である。このサラリーマンはスーツにネクタイ、メガネといったありきたりの風貌で「高卒、手取り18万」という境遇でタケちゃんマンに難癖をつけて絡むというキャラクターだったが、視聴者から「夢がない」と苦情がきてわずが3週で消えてしまう。
  • 番組オリジナルのキャラクターではないが、フライデー襲撃事件でたけし不在となっていた時期、吉永小百合の「奈良の春日野」をバックに鹿の着ぐるみを着て踊った。1987年に『笑っていいとも!』のトークコーナーで、吉永のファンであるタモリをいじるため、楽曲中に「鹿のふん」という吉永のイメージらしからぬ歌詞が出てくる同曲を発掘・放送し大きな話題になったことを流用したもの。

「ひょうきんニュース」のコーナーに出演するときは、本名の「杉本高文」を名乗っていた。

「ひょうきんベストテン」の初代司会者でもあった。

笑っていいとも![編集]

  • 初出演は1984年2月13日の『テレフォンショッキング』のテレフォンゲスト。この時に翌日のテレフォンゲストとして、司会のタモリがかねてから「嫌い」と公言していた小田和正を紹介した。
  • 初出演から2カ月後の4月6日金曜日レギュラーとして初登板。タモリ不在の場合は代理司会も務め、1991年10月3日には10周年記念週間の「最多代理司会者」として表彰され、同日のテレフォンショッキングの特別ゲストとなった。1987年4月から1990年3月まで関根勤片岡鶴太郎所ジョージ笑福亭鶴瓶らと共にタモリを支える曜日リーダー(通称:いいとも!ビッグ5)として親しまれる。やがてベテランの域となり自分の番組を持つようになったさんまは年末の『特大号』には出演しなくなり、1995年4月からは遅刻が多くなった。 いいとも降板の理由としては当時人気コーナーだった「爆笑オールスタータモリンピック。」でボケをかました所、スタッフから咎められた事が遠因だと度々語っている。なおさんまはレギュラー後期には同コーナーには参加しなくなっていた。

レギュラー降板後は「明石家福禄寿の史上最大のプレゼントショー "正月なのに…"編」の番宣で1995年12月22日にゲスト出演後、もっぱら「テレフォンショッキング」に出演する。中でも2008年7月に放送されたFNS27時間テレビでの「増刊号生スペシャル」にて行われたテレフォンショッキングではビビる大木の紹介で登場し、11年ぶりの共演となるタモリと47分間しゃべり続けた。当日の新聞のラテ欄には「タモリとテレフォンショッキングで最長記録樹立か」と書かれていたがその言葉通り「増刊号生スペシャル」も含めた全てのテレフォンショッキングの中で最長記録を樹立した[8]

さんまの友達として次回のテレフォンゲストには「FNSの日26時間テレビ2009」の総合司会である島田紳助を紹介。コーナー終了・さんま本人のいいとも卒業から17年後の2012年11月30日のいいともで日付のごろ・いい(11月)さんま(30日)の日にちなんでさんまがゲストとして3年ぶりにスタジオアルタに登場し、「復活!タモリ・さんまの日本一の最低男」が行われた。

来歴[編集]

若年時代[編集]

出身小学校である奈良市立鼓阪小学校には、小学生当時捕まえたムササビが展示されている。また当時「ムササビを捕まえた少年」として話題になった。奈良県中学生相撲大会で2位になったことがある。

1974年2月、高校3年の時に2代目笑福亭松之助に弟子入り。下積み時代は兵庫県西宮市今津久寿川町「第一久寿川荘」に在住。当初の芸名は「笑福亭さんま」。入門の動機は、花月劇場で見た松之助の新作落語が面白かったからだという。初めて顔を合わせた際、松之助に入門の理由を問われたさんまは「センスがある」と、杉本青年としては素直な気持ちを伝えただけだったが、非常に失礼な発言に対し松之助は「そら、おおきに」と礼を言った。入門生活は、丸刈りにされること以外はあまり厳しくなく、放任主義だったという[出典 17]

関西ローカル時代[編集]

初舞台は京都花月。古典落語で10日間ほど出演した。当時若手タレントのマネジャー的存在だった佐敷愼次は、さんまに「ミラーボール」というあだ名をつけ、その才能に注目。松之助に「さんまを落語ではなくタレントとして立たせたい」と直訴した[出典 18]

1975年、『11PM』(日本テレビ系)でテレビデビューを果たす。「落語家の成人式」というテーマだったが、さんまは師匠・松之助の忠告により営業用の赤いブレザーを着用。また番組内で、女性漫才コンビ「海原千里・万里」の海原千里(現:上沼恵美子)から、「SEXの四十八手以外に知っている技がある人は?」という質問に対し、「逆さ十文字落としでぇーす」と答えて技を説明した。スタジオは爆笑だったが司会の藤本義一から「さんまかいわしか知らんけどな、テレビで言うてええことと悪いことがあんねや。それぐらい覚えて出て来い!」とCM中に叱責される。しかし、横山やすしには「気に入った!飲みに行こ!」と気に入られ、その後やすしの家に招待された。また、この放送を見ていた松之助は、この件を大いに絶賛している。

1976年に毎日放送(MBSテレビ)の人気番組『ヤングおー!おー!』に出演。形態模写の芸が司会の桂三枝(現・六代桂文枝)の目に留まり、レギュラー出演を果たす。「チャッピー」と名付けられ、三枝の愛と厳しさに育まれながら、次第に頭角をあらわす。番組内ユニット「ザ・パンダ」(先代林家小染月亭八方桂きん枝桂文珍)を改編してさんまをメインにした「さんまアンド大阪スペシャル」(SOS)を立ち上げ、諸先輩を差し置いて1コーナーを任されるまでになる(当時のキャッチフレーズ「おれは大阪のさんまや!」)。その後、プロ野球阪神タイガース小林繁投手の投球フォームを形態模写して評判になり、関西を中心にアイドル的な人気を勝ち取る。そして、1980年より、10年余りにわたる同番組司会を卒業することとなった三枝からの指名によって後継司会者の座に付き、番組終了時まで2年9か月にわたり晩期の同番組の大黒柱として活躍した。

1979年関西テレビで午後7時から放送された番組『誰がカバやねんロックンロールショー』で初の司会役に抜擢。フジテレビ系の『裸の大将放浪記』で、和菓子屋ぎおん堂の番頭としてゲスト出演。

1980年代[編集]

1985年、第1回東京国際映画祭において、タモリとともに司会を務める。後日、その司会ぶりが「ふざけた司会者」「ソフィー・マルソー知っとるケと言う始末」と新聞紙面上で非難される。当時のレギュラーだった金曜日・笑っていいとも!でトークのネタにする。タモリといっしょに「始末か!オレたちは!」と叫び、挙手をしながら「私がやりました!」と言った。

1985年8月12日、大阪でMBSラジオ『ヤングタウン』レギュラー出演のため伊丹行きの日航機に搭乗予定だったが、直前の仕事である「ひょうきん族」の収録が早めに終わり、一便早い全日空の便に振り替えたため、日本航空123便墜落事故を逃れた。

1987年ナムコファミリーコンピュータ用ソフト『さんまの名探偵』を発売する。

1990年代[編集]

1990年代前半には『オレたちひょうきん族』も終わり、またダウンタウンウッチャンナンチャンなどの人気が急上昇、5年連続して1位だったNHKの『好きなタレント調査』でトップ陥落するなど一時的に人気に陰りが見えたこともあった[出典 19]が、95年には6年ぶりに1位を記録、1998年以降は再び5年連続して1位になるなど返り咲いている。

1995年MBSヤングタウン土曜日1月14日放送分のエンディングにて、放送区域である関西地区の聴取者に向けて、地震の際の心構えと対処の方法を講義した。これは当時さんまが関東で頻繁に地震に遭遇していたことを受けてのものだったが、この3日後には阪神・淡路大震災が発生しており、先んじて注意を促す結果となった。

1995年9月29日、11年半レギュラーだったフジテレビ『笑っていいとも!』を突然降板。出演末期の1993年、1994年の同番組のスペシャルに出演していなかったため、当時週刊誌ではスタッフとの確執説が囁かれた。

1996年、フジテレビの人気刑事ドラマ『古畑任三郎』シーズン2の初回スペシャルに犯人役でゲスト出演。古畑の部下である今泉巡査の知り合いでやり手の弁護士・小清水潔を演じる。当初は売れないロックシンガー役の予定だったが、プロットを聞いたさんまは脚本家三谷幸喜に対して軽い気持ちで「弁護士と古畑が闘うってのはおもしろいんじゃない?」と提案。すると自らも法廷モノが好きな三谷は快諾し脚本を書くが、あまりにもセリフが多くなりそれを覚えられないさんまに対し、主演の田村正和が撮影中に「今度間違えたら自分が帰りますよ」と言ったという。しかし、その直後に田村自身が「古畑任三郎」の中では初めてとなるNGを出してしまい、さんまが「あんた、これ貸しな。これでおあいこや」と田村に発言した。スタッフ一同は凍りついたが無事に撮影は終了、さんまは今泉役の西村雅彦に別室に呼び出され、「さんまちゃん。あれはダメなの」と叱られたという。そういったこともあり、さんまは撮影後、「法廷物はもう嫌だ」と漏らしたと言われている[誰によって?]。しかし、その2年後に同フジテレビ「世界で一番パパが好き」にて再び弁護士役となる。

1999年、「日本で最も露出の多いテレビスター」としてギネスブック世界記録認定。

2000年代前半[編集]

2000年7月7日、TBSスーパーフライデー枠で、関西ローカルの『痛快!明石家電視台』が『明石家さんま生誕45年記念番組・大成功!明石家電視台』として一度だけ全国放送された。

2001年

FNSオールスターズ27時間笑いの夢列島』では、当時放送していたバラエティー番組『明石家マンション物語』で演じていた「横山3兄弟」というキャラクターに扮して、27時間テレビ内のコーナー『クイズ$ミリオネア』に出演した。『すぽると!』(フジテレビ系)が『感動ファクトリー・すぽると!』だった時代、「工場長」を務めており、土曜日の放送に不定期に作業服姿で出演していた。

2002年

阪神タイガース監督に親交のある星野仙一が就任した際、「優勝したらパレードに参加して土下座します」と明言したが、その翌年の2003年に優勝。巨人ファンであるさんまであったが、約束通り11月3日のパレードに参加する予定だった。ところが星野監督が辞意を表明していたため、「自分がおふざけで行くわけにはいかない」と参加を辞退した[9]。またこの当日、さんま司会の優勝特別番組が朝日放送・テレビ朝日系列で全国放送され、星野監督他、主力選手達がゲスト出演した。この特番の関西地区での視聴率は33.4%と高かった。

2004年

韓国ドラマ『冬のソナタ』の主演俳優であるペ・ヨンジュンが「ヨン様」と呼ばれて大人気となったことを受け、彼の髪型に似せたかつらを被り微笑を見せ、自らを「サン様」と称して笑いを取ることもある。この「サン様」は、日本テレビ系『恋のから騒ぎ』の「さんま 愛の説教部屋」のコーナーで、「ヨン様」のコスプレをしたことがきっかけで誕生した[要出典]

彦八まつり」にこの年の実行委員長・笑福亭鶴瓶の要請に応えるかたちで出演。混乱を避けるため、出演日は公表されなかった。当日落語を披露するという情報も手伝って、来場者が2日間で例年の2倍である10万人を超え、過去最多記録を更新した(着物姿で「大喜利ガバチョ!」に出演したものの、落語は口演しなかった)。

2005年

50歳の誕生日記念番組として、「明石家さんまつり」を生放送。フジテレビ系列の25時間テレビ(2005年『FNS ALLSTARS あっつい25時間テレビやっぱ楽しくなければテレビじゃないもん!』)の一コーナー「さんま・中居の今夜も眠れない」で紳助と久々の共演を果たした。

2000年代後半[編集]

2006年

石原真理子著『ふぞろいな秘密』で過去に男女関係にあったことを暴露される。

2007年

6月1日放送の「さんまのまんま」で後輩であるダウンタウン・松本人志と10年振りに共演。長年ささやかれていた不仲説もあり話題となった。6月13日放送の明石家さんちゃんねるで次長課長の河本がビリーズブートキャンプを紹介するが、さんまは一蹴するも、後日「明石家さんちゃんねる」2007年6月27日放送でビリー・ブランクス本人がスタジオ外のロビーで共演、さんまはさとうきび畑の唄の旧日本軍の軍服姿でビリーに最後まで抵抗、ビリーもさんまを挑発していた[出典 20]

12月16日TBSにて放映していた自身の主演ドラマ「ハタチの恋人」の最終回が終わる頃を見計らい、FIFAクラブワールドカップの総集編に出演。ゲストとして出演したACミランの選手を指差し、ウェアを脱がそうと大はしゃぎし、非難を浴びた。

2008年

7月26日から27日にかけて、FNS27時間テレビFNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』の総合司会を担当。

  • 11月16日 NGKにて『笑福亭松之助芸能生活60周年記念 よしもとの天然記念物保護の会』の会にゲスト出演。久しぶりに高座着姿を披露。松之助とトーク対談。
2009年

2010年代前半[編集]

2010年
  • 1月17日、デビュー当時に形態模写をした小林繁が死去。さんまは通夜告別式には参列しなかったが、「明石家さんま」名義で供花をした。
  • 10月9日、『めちゃ×2イケてるッ!』の「新メンバーオーディション」に参加。この出演は審査員であるオリジナルメンバーや他のオーディション参加者には極秘で行われ、他の若手芸人たちに混じりパーデンネンに扮して登場した(結果は当然不合格)。
2011年
  • 7月2日千原ジュニアをゲストに迎えた『さんまのまんま』にて、「いつ(お笑い芸人を)辞めるって決めてるんですか?」と質問されたさんまは「60歳くらいでと思てるよ、テレビはね」と答え、明石家さんまが60歳でテレビ引退を表明したとして話題となった[出典 23]
2012年
  • 11月30日「いい(11月)さんま(30日)」語呂合わせで、『笑っていいとも!』の生放送にゲスト出演。出演は2009年7月24日の「テレフォンショッキング」のテレフォンゲスト以来3年ぶり、テレフォンゲスト以外での出演は1995年9月29日のレギュラー卒業後に「明石家福禄寿の史上最大のプレゼントショー "正月なのに…"編」の番宣のため約3ヶ月ぶりに出演した1995年12月22日以来17年ぶりとなった。この日は、レギュラー時代の人気コーナー「タモリ・さんまの日本一の最低男」を1日限りで復活させ、「テレフォンショッキング」の15分を除く全ての時間と生放送終了後のトークにも出演した。
2013年
2014年
  • 3月31日、『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』(フジテレビ)にゲスト出演し、2012年11月30日以来の約1年半ぶりに「タモリ・さんまの日本一の最低男」が復活した。歴代いいとも!レギュラー陣の明石家さんま→ダウンタウンウッチャンナンチャンナインティナインが順番に15分毎に1組ずつタモリとトークする予定だったが、タモリとさんまのトークが中々終わらず「タモリ・さんまの日本一の最低男」のコーナーが45分以上続いた。予定時間よりも長引いたため、しびれを切らしたダウンタウンとウッチャンナンチャンがステージに登場し、その次にナインティナインが登場するはずだったが、とんねるず爆笑問題が乱入する形で登場した。その後、ナインティナインも登場した。

評価[編集]

NHKが1975年から2003年にかけて毎年実施していた好きなタレント調査では、1985年に男性1位に選ばれてからは、2003年に調査終了するまでの19回のうち通算12回(1985年 - 1989年、1995年、1998年 - 2003年)で男性1位を獲得、それ以外は全て男性2位となっている[出典 25]。1999年に「日本で最も露出の多いテレビスター」としてギネスブック世界記録認定。

JNNデータバンク調べによる好感度タレントの支持率調査では、1987年10月に支持率41.3%、1999年5月に支持率43.1%を記録。これは同調査において1980年代・1990年代共に第1位の記録。また、1999年5月の支持率43.1%は、1971年〜1999年においても第1位の記録である[出典 26]

日経エンタテインメント!』の「好きな芸人」ランキングでは、初回の2002年から2011年まで10年連続で1位を獲得している。3年ぶりに復活した2014年のランキングでも1位となり、同ランキング11連覇と圧倒的な人気を得ている。

TBS系列クイズタレント名鑑』の5000人アンケート「本当に面白いと思う芸人」、「好きな司会者」、「好きな芸能人」の全ての項目で1位を獲得した。

ビートたけしが著書『コマネチ!』ISBN 9784101225500(頁未確認)の中で「こいつには負けた、と思った数少ない中の1人」とさんまのことを評した。

お笑い評論家・西条昇を始め、戦前から戦後にかけてお笑い界トップスターとして活躍した柳家金語楼と、現在のさんまの共通点を指摘する論者は少なくない[出典 27]

  1. どちらも落語家を出発点とし、落語家の枠を超えたスーパースターになった。金語楼は大正末に『兵隊落語』で一世を風靡、その後は映画や軽演劇にも進出した後、1942年に落語家の鑑札を返上、喜劇俳優に専念する。戦後は『おトラさん』『ジェスチャー』などでテレビタレントとして人気を博した。さんまは笑福亭松之助門下の落語家として出発するが、現在はテレビタレント・司会者・俳優として大活躍である。
  2. どちらも吉本興業のトップスターである。現在のさんまが吉本のトップスターであり、その年収もトップクラスであることは言うまでも無いが、金語楼も戦前は東京吉本に所属しており、横山エンタツ花菱アチャコ柳家三亀松川田義雄と共に吉本の五大スターと称されていた。そして戦前の吉本で最も高給を取っていたのが金語楼であった。
  3. どちらもお笑い界ビッグ3の1人。金語楼は喜劇俳優の榎本健一古川ロッパと共にビッグ3と言われた。さんまもタモリビートたけしと共にビッグ3と称される。
  4. どちらも息の長い芸人である。金語楼は大正末の『兵隊落語』以降、長い人気を博し、戦後は失速していった榎本健一古川ロッパを尻目にテレビ時代の波にも乗り、晩年まで第一線で活躍した。さんまも1981年の『オレたちひょうきん族』で全国規模の人気者になって以来、近年の若手お笑いブームもものともせず、長期にわたってお笑い界トップの座に君臨し続けている。

受賞歴[編集]

演じた俳優[編集]

現在の出演番組[編集]

レギュラー番組[編集]

単発・不定期番組[編集]

過去の出演番組[編集]

映画[編集]

CM[編集]

舞台[編集]

ゲームソフト[編集]

著書[編集]

  • ビッグな気分―いくつもの夜を超えて(1980年8月、集英社
  • スターのお部屋拝見―人気者のプライバシーを侵害(角川文庫)(1981年6月、角川書店ISBN 978-4044218010
  • こんな男でよかったら(1984年10月、ニッポン放送出版)ISBN 978-4893530219
  • リリが見たやさしい虹(1991年4月、角川書店)ISBN 978-4048726405
編集
共著

代表曲[編集]

豪華な作家陣を揃えた楽曲が数多い。また、1986 - 1988年に発売した曲が多いが、これらの多くはさんまが主演の単発ギャグドラマ『心はロンリー気持ちは「…」』の主題歌として作られた曲。

関連人物[編集]

脚注・出典[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ レオナルド・ファチオ、上野洋子訳『メッシ評伝 情熱を秘めて 』2012年、東邦出版
  2. ^ http://jisin.jp/news/2579/5661/ 女性自身(2013年03月25日)
  3. ^ (日本語) 「テレ東はこっちから出入り禁止」 さんまがテレビ局との確執明かす”. Jcastニュース (2014年1月14日). 2014年1月14日閲覧。
  4. ^ “明石家さんま : NHKに28年ぶり出演 「あくび事件」秘話も 日テレとのコラボ番組”. 毎日新聞デジタル. (2013年2月2日). http://mantan-web.jp/2013/02/02/20130202dog00m200004000c.html 2013年6月9日閲覧。 
  5. ^ 合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』
  6. ^ (日本語) 「テレ東はこっちから出入り禁止」 さんまがテレビ局との確執明かす”. Jcastニュース (2014年1月14日). 2014年1月14日閲覧。
  7. ^ (日本語) 「テレ東はこっちから出入り禁止」 さんまがテレビ局との確執明かす”. Jcastニュース (2014年1月14日). 2014年1月14日閲覧。
  8. ^ 一般には「増刊号生スペシャル」のテレフォンショッキングは時間制限がないことから記録に含めないため、最長記録は黒柳徹子が記録した43分となっている。
  9. ^ 春のキャンプを訪れた際に星野からさんま用ユニフォームが用意されていたが、ユニフォーム背番号は800番であった。星野監督が選んだもので、理由は「嘘八百」から来ている。

  1. ^ a b c W杯、タレントコメンテーターの実力(ZAKZAK、2002年6月18日)
  2. ^ 望月三起也のミイラ・群談(ハマスポどっとコム、2007年4月7日)
  3. ^ “明石家さんまがメッシに「間抜け」な質問 日テレのインタビューが海外でも「酷評」”. J-CASTニュース. (2011年12月19日). http://www.j-cast.com/2011/12/19116832.html?p=all 2011年12月21日閲覧。 
  4. ^ バルサ・メッシ、明石家さんまにキレた!場違い質問の波紋(ZAKZAK、2011年12月19日)
  5. ^ メッシあわやぶち切れ!? テレビの失礼な質問に(J-CASTニュース、2011年12月19日)
  6. ^ a b La entrevista más extraña jamás vista a Leo Messi(SPORT.es、2011年12月19日)
  7. ^ a b La entrevista más surrealista a la que se ha enfrentado Messi(MARCA.com、2011年12月19日)
  8. ^ a b Una insólita entrevista a Messi en Japón(Clarin.com、2011年12月19日)
  9. ^ 世界の“笑い者”になった明石家さんま(ZAKZAK、2011年12月23日)
  10. ^ Japanese broadcaster wastes golden opportunity in Lionel Messi interview farce(Goal.com、2011年12月20日)
  11. ^ Vad är det som händer, Messi?(Sportbladet、2011年12月18日)
  12. ^ 【エンタがビタミン♪】「もうメッシには会えない」。明石家さんまが心境を語った。(Techinsight、2011年12月26日)
  13. ^ さんまさん!メッシが「老後」語った!(海外サッカーニュース : nikkansports.com、2011年12月31日)
  14. ^ 明石家さんま 「マンUに香川は不要」だけじゃないKY発言グセ 「秋田豊に『アゴの話ばかり』で共演NGになっていた」(アサ芸プラス、2012年9月12日 )
  15. ^ 『女性自身』2007/09/11 34P
  16. ^ さんま、"泣き上戸"紳助に苦言「24時間TVの司会も狙ってるやろ!」2010年7月25日配信
  17. ^ 明石家さんま『こんな男でよかったら』ニッポン放送出版 1984年
  18. ^ 1998年3月12日大阪読売新聞「[上方放送お笑い史](111)しゃべりの天才 さんま時代」
  19. ^ 1990年10月13日毎日新聞夕刊「「テレビタレントイメージ」さんまが15位と低迷 ダブル浅野は1、2位」
  20. ^ ビリー隊長が激怒! さんまギャグ連発 2007年6月27日 スポーツニッポン
  21. ^ さんま、『アメトーーク!』乱入でテレ朝に14年ぶり出演 オリコンスタイル 2009年7月28日閲覧
  22. ^ ミュージックステーション 1999年4月16日 テレビ朝日
  23. ^ さんま引退宣言?60歳ぐらいでテレビ界から去る 番組で言及
  24. ^ 参照[1]
  25. ^ 文研世論調査ファイル 2009年5月8日
  26. ^ 『オリコン・ウィーク The Ichiban』2001年1月1・8日号(第23巻第1号、通巻1079号)オリコン(現:オリコン・エンタテインメント)、45頁。
  27. ^ 西条昇『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』白泉社、2003年の「柳家金語楼」の項参照

外部リンク[編集]