マサ斎藤

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マサ斎藤
マサ斎藤の画像
プロフィール
リングネーム マサ斎藤
斎藤昌典
ミスター・サイトー
マサ・サイトー
本名 斎藤 昌典
ニックネーム 獄門鬼
監獄レスラー
身長 公称180cm
体重 120kg
誕生日 1942年8月7日(71歳)
出身地 日本の旗東京都中野区
スポーツ歴 レスリング
トレーナー 豊登
ヒロ・マツダ
デビュー 1965年6月3日
引退 1999年2月14日
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マサ斎藤(マサさいとう、1942年8月7日 - )は、元レスリング選手、元プロレスラー健介オフィススーパーバイザーである。本名・旧リングネーム:斎藤 昌典(さいとう まさのり)。東京都中野区出身。信条は「Go for broke」(当たって砕けろ)である。

来歴[編集]

オリンピック出場[編集]

明治大学在学中の1963年のレスリング全日本選手権にて、フリースタイル、グレコローマンのヘビー級で優勝し、翌年日本代表として1964年東京オリンピックに出場(フリースタイル・ヘビー級、3回戦で敗退)。

プロレスデビュー[編集]

大学卒業後の1965年4月に日本プロレスに入門した。同年6月3日に、高崎山猿吉戦でデビュー。翌1966年6月、日本プロレスを離脱し、豊登が興した東京プロレスに参加する。アントニオ猪木、豊登に次ぐ三番手のポジションで戦い、一時は社長も務めた。しかし東京プロレスは翌年あえなく崩壊、猪木らを除く大半の所属レスラーは国際プロレスに移籍するが、マサは渡米を選択した。

アメリカへ[編集]

アメリカではフリーランスヒールレスラーとして活動する。レスリングの地力を下敷きにした悪党ファイトが高評価を受け、西海岸で長くトップヒールとして活躍した。その後はフロリダ州をはじめとする南部各州、WWFAWAと全米各地の繁栄マーケットを転戦、常にトップとして数々のタイトルを獲得し、アメリカで長期に渡り最も成功した日本人レスラーとなった。

日本では1972年に古巣の日本プロレスに参加した後、1974年4月からは新日本プロレスに日本側として断続的に参戦した。1978年暮れにヒロ・マツダ上田馬之助らと狼軍団を結成し、日本でもヒールに転向、マツダとのタッグで坂口征二ストロング小林組から北米タッグ王座を奪取し、日本での初戴冠を果たした。また上田と共に国際プロレスにも参戦した。その後1980年初めまで新日で外人サイドの参謀格を務めた。

維新軍参加とアメリカ遠征[編集]

1982年から長州力が結成した革命軍、そして維新軍(後のジャパンプロレス)の参謀格として活躍したが、1985年4月にウィスコンシン州ケン・パテラが起こした警官暴行事件に巻き込まれ、部屋に押し入った十数人(4人という証言もある)の警官をなぎ倒してしまったため有罪判決を受け、永住帰国を選ばずに現地で1年半の刑務所暮らしを送った(実は罪状のうちほとんどが無罪だったのだが唯一、女性警官の大腿骨を骨折させた行為のみ有罪だった、という説がある)。しかし、自身はこれを良い休息と考え、刑務所内で肉体改造に成功。のちに監獄固めという技を開発した。1986年末に出所し、AWA地区で海外武者修行中の高野俊二の面倒を見た後、1987年3月、INOKI闘魂LIVE Part2での猪木とシングル戦に合わせ、日本に帰国。

巌流島[編集]

1987年10月4日、巌流島で行われたアントニオ猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチは「巌流島の戦い」と呼ばれ、2時間5分14秒の死闘を繰り広げた。その後たけしプロレス軍団に参謀役という形で参加した。

1990年2月10日、東京ドームにおけるAWA世界ヘビー級王座戦でラリー・ズビスコを破り王座を獲得している。47歳での戴冠劇は快挙と称えられた。

引退[編集]

第一線を退いた後は、「ワールドプロレスリング」の解説者を務めた。1999年2月14日、日本武道館において自らが発掘したスコット・ノートンと引退試合を行った。この引退試合でも巨体のノートンをバックドロップで投げるなど往年のパワーを見せつけた。

2003年新日本プロレスを離脱し、長州力らとWJプロレス旗揚げに参加する。WJプロレス時代、記者会見の席に現れたマサは体の震えや、言葉の発音に難がある状態になっており、以降マサの身体的不調が知られるようになる。WJプロレスはその後1年余りで崩壊する。

健介オフィス入り[編集]

2005年、マサを慕っている佐々木健介が「ファンにマサさんのことを忘れてもらいたくない」として健介オフィス株式会社化の際、マサをアドバイザーとして招聘。記者会見にはマサも姿を現している。マサは寮が無かったジャパンプロレスに入門した当時の健介を自宅マンションに居候させ、「身長がない分、横に筋肉をつけろ」とアドバイスするなど、師匠格の存在であった。

2006年にはAWA時代のタッグパートナーであったニック・ボックウィンクルとの対談が雑誌掲載されるなど、長年の激闘の後遺症はあるがまずまず健在なところを見せている。現在は健介夫婦の住む埼玉県吉川市に住居を移しており、中嶋勝彦らと食事をしている写真が同社のブログに掲載されることもある。また週刊プロレス北斗晶の対談コーナーにも登場している。

2008年には、健介オフィスの新人らにバックドロップの技術を教授している姿が、FIGHTING TV サムライSアリーナで放送された。

2011年頃からは、若手の西川潤がマサ斎藤をとても慕っており、ブログでは一緒に食事するなど近況が知ることができる。

トレーニングへのこだわり[編集]

プロレスラーとしては背が高くない。その体格のハンデを埋めるため、ウエイトトレーニングを熱心に行っていた。その結果、50歳を過ぎても現役のプロレスラーとして活躍し続け、おなかは出ているが、分厚い胸板や太い腕をした身体を披露していた。若手レスラーに、熱心にトレーニングの指導を行っていた。

トレーニングや肉体に対して信仰にも近い拘りを持っており、病気で入院していた時にトレーニングができないことを嘆いて、「見てよ! 身体が縮んじゃったよ!」と看護師にぼやいたというエピソードがある。ただし、それを聞かされた看護師からは「こんな大きな身体してて、どこが縮んだって言うの?」と返され、取り合ってもらえなかったそうである。

ある時、プロレスライターの門馬忠雄がマサに「腕に贅肉がついてきた」と、からかったら徹底的に否定した。それでも門馬が繰り返しからかったところ、納得せぬままその場を去った。そして2週間後、「どうだいモンちゃん、きっちり締まったろ!」と、筋肉痛になった腕をさすりながら、門馬に力瘤を見せた。

既に60歳を過ぎているにもかかわらず肉体に対する信奉は依然強く、最近までトレーニングジムなどで無謀とも思える高重量のバーベルに挑む姿が目撃されている。プロレスラーとしての長い現役生活で、身体のあちこちに怪我を抱えつつも、トレーニングを継続している。全盛期はベンチプレスで200kg以上、インクラインベンチプレスで180kgを挙げていた。

エピソード[編集]

カルピス愛[編集]

プロレスラーとしてのマサ斎藤は一貫して荒々しいキャラクターであったが、カルピスが大好きという愛嬌のある一面や、解説者時代に見せた天然ボケとも言えるキャラクターも知られている。カルピスについては「あんなに美味しい飲み物はないよな」と自他共に認める大好物である。これがマサ自身の豪快なイメージと相まってか「原液をそのまま飲んでいる」という伝説まで生まれた。ただし本人は「薄めないと飲めない」「ちゃんと薄めないと美味しくない」と否定している。

解説者として[編集]

解説者時代のマサ斎藤は、言い間違いや、素頓狂なコメントをすることが多かった。例えば、当時、正体を公式には明らかにしていなかったマスクマンの試合を実名で解説してしまったことも多い(獣神サンダー・ライガーブラック・タイガーエル・サムライなど複数)。また正体が明らかであるが、あくまで別キャラクターとしてリングに上がっている選手(グレート・ムタパワー・ウォリアーなど)も本名で呼んでいた。

蝶野正洋小原道由の試合で小原が犬の首輪をはめられた場面では「イヌワですイヌワ!」と連呼。また「nWoの狙いは世界制覇」と言おうとして「世界平和」と発言したこともある。この種の言い間違いは枚挙に暇がなく、「G1(ジーワン)のことをジーアイと言った」「G1の優勝候補選手予想で、レフェリータイガー服部の腕っ節の強さを熱く語った」「アナウンサーが『受身の取れないバックドロップ!』と実況すると『いや、(受身を)取ってます』と返した」「TEAM 2000(チーム・トゥーサウザンド)を頑なに『ティーにせん』と発音」「辻よしなりがノートン出演CMにひっかけて『スコット・ノートンは和の精神を理解しています』と煽ったところ『それはCMだけでしょ』と無粋な突っ込みをした」などなど、武勇伝は数知れない。

アメリカでの活動が長かったこともあり、英語力に長けている。ノートンなどの外国人レスラーに、流暢な英語でインタビューすることもあった。

アメリカでの評価[編集]

アメリカでは、しっかりしたレスリングができるヒールとして各地で大活躍。後にミネソタ州知事となるジェシー・ベンチュラAWAでタッグを組んでいたこともあり、彼の名を冠したカクテルが存在するほどである。特にAWA圏での「悪党人気」は絶大であった。理由の一つとして、1980年代当初、日本車の輸出により斜陽を迎えていたUSA自動車産業の総本山であったデトロイトで、リック・マーテルらベビーフェイスに対する反則攻撃の際に「トヨター、ニッサンー、ホンダー」と、日本の自動車メーカーの名を叫んで観客のヒートを買ったことが挙げられる。関係者からの評価も高く、警官暴行事件の際には、裁判でニック・ボックウィンクルバーン・ガニアらが陳述に立ち、マサの弁護につとめた。

フクちゃん[編集]

若手時代、漫画のキャラクターに似ていたことから「フクちゃん」と呼ばれていた。出獄後マスコミから「獄門鬼」というニックネームがつけられたが、マサ本人が嫌がったためすぐお蔵入りとなった。

東京プロレス社長[編集]

東京プロレス設立の際、豊登はそのドンブリ勘定な性格から周囲より忌避され、また、猪木も帰国していなかった状況だったため、レスリングオリンピック代表の経歴および父親が某電器会社の重役という信用性により、マサが初代の代表取締役社長として登記された。

新日本プロレスでのマサ[編集]

明治大学の同窓ということで若手の頃から坂口征二と交流があり、1972年、東京プロレス時代の縁を通じて新日本プロレスから参戦オファーがあったのを断り、日本プロレスに参戦したのは坂口がエースだから、とプロレス雑誌の坂口との対談で明かしている。またその際に、馬場・猪木離脱後の日本プロレスの集客の惨状を見て、「このままではダメだ」と坂口に進言し、西麻布の某焼肉店での猪木・坂口会談を実現させた。

長州力の参謀についた頃〜現在に至るまでも、大学レスリング部出身およびオリンピック代表という両人の経歴のため、参謀につく以前から師弟関係が存在していたと見る向きがあるが、1982年末に長州力がマサ斎藤に会いに渡米するまでそれほど接点はなかったそうである。マット上では北米タッグ(長州は坂口のパートナーとして)やプレ日本選手権等でのシングルマッチ対戦経験はあったが、当時は「ほとんど喋ったことがなかった」と、プロレス雑誌のインタビューで語っている。

獲得タイトル[編集]

得意技[編集]

解説時のユーモラスな一面とは違いリング上では鬼気迫る表情で、どんな大型選手相手でも決して退かないファイトスタイルが特徴であった。

捻り式バックドロップ
猪木との対戦では3連発してピンフォール勝ち出来なかったので4連発・5連発と回数を増やしていった。ちなみに5連発喰らった猪木は半分意識を失いながらも本能で戦い、普段は使うことがない回転エビ固めで勝利するという珍事を誘発している。なお、ヒールとして活躍していたAWA地区では、この技をバックドロップとは別物と扱いサイトー・スープレックスと呼んでいた。
監獄固め
レスリングフリースタイルで相手の動きを制する際に使われる変形の足4の字固めだが、相手に返されにくいようにするため足部分に重心をかける点が独特。全盛期のマサはこの技をかける際、中継用のテレビカメラを探してカメラ映りのいい方角に体を持っていってから仕掛けていた。なおこの技は刑務所生活の間に獄中の受刑者と開発したというギミックが一般的だが、本人曰く獄中で開発した技ではなく、レスリング技の改良で、佐々木健介と一緒に開発しているとのこと。レスリング由来の技ゆえに、不完全ではあったがPRIDEでレスリング出身の藤田和之が同型の技で相手の動きを制している。相手がうつ伏せの状態から仕掛ける入り方はトルコ刈り式監獄固めと呼ばれることもある。
サソリ固め
長州と行動を共にする様になってから使用。
ラリアット
ドラゴンスクリュー
藤波辰巳がヘビー級転向してからあまり使わなくなり、武藤敬司が足4の字固めに移行する必殺パターンを作るまでの間、ほぼ唯一の使い手として、主にタッグマッチの繋ぎ技として使用していた。
スモール・パッケージ・ホールド
滅多に見せることはなかったが、ラリー・ズビスコをこの技で破り、第36代AWA世界ヘビー級王者に輝いている。

マネージャー[編集]

入場曲[編集]

ザ・ファイト(映画『オーバー・ザ・トップ』サウンドトラックより)

外部リンク[編集]