木村健悟

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木村 健悟
プロフィール
リングネーム

木村健悟
木村たかし
木村聖裔
パク・チュー
木村健吾

木村健悟
本名 木村聖裔
ニックネーム 稲妻戦士
身長 186cm
体重 107kg
誕生日 1953年9月4日(54歳)
出身地 愛媛県新居浜市
所属 新日本プロレス
スポーツ歴 相撲
トレーナー アントニオ猪木
坂口征二
ベニー・ユキーデ
デビュー 1972年8月2日
引退 2003年4月18日
  

木村 健悟(きむら けんご 1953年9月4日 - )は、日本の元力士、元プロレスラーである。本名は木村聖裔(きむら せいえい、 きむら たかしと紹介しているプロレスラー名鑑もある)。プロレスラーとしての最終所属は新日本プロレス愛媛県新居浜市出身。ニックネームは「稲妻戦士」。

目次

[編集] 経歴

大相撲宮城野部屋を経て、1972年1月に日本プロレスに入門。1972年8月2日鹿児島県喜界島中学校グラウンドでの佐藤昭雄戦でデビューを果たす。

1973年3月、新日本プロレスへ移籍。藤波辰巳とジュニアヘビー級を盛り立てた。1985年12月、藤波辰巳とのタッグアントニオ猪木坂口征二組に勝利し、初代IWGPタッグ王座を獲得した。その後、藤波と敵対関係となり、幾多の熱戦を繰り広げる。この抗争は非常に盛り上がり、1987年1月には、後楽園ホールにて藤波対木村のシングルマッチのみの興行が行われた。木村は決着戦に敗れ海外遠征に出向き、ベニー・ユキーデのもとでマーシャルアーツを身につけて帰国した。帰国後、大阪城ホールで、ケリー・ウイルソン(プロ空手)と異種格闘技戦を行い、バックドロップ、右ストレートのコンビネーションで鮮やかな勝利を飾った。全盛期には、負けそうで負けなかったり、勝てそうで勝てなかったりと試合結果が読めない試合が多く、それが逆に金曜8時のワールドプロレスリング時代からのファンにはたまらない、個性的な昭和のレスラーだった。

1992年8月、越中詩郎らと反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成。

体力が衰え始めた頃に、小原道由から「こんな弱い奴とやらすな!」とまで罵られたこともあった。その当時、本人もそれを自覚していて2003年4月18日後楽園ホールの西村修とのシングル戦(キャッチルール)での大熱戦を最後に、昭和時代のファンから惜しまれながらも引退した。引退試合の相手には長年のライバル・藤波を希望していたが、藤波の体調が優れず実現されなかった。引退後は、新日本プロレスのスカウト部長の要職に就き、テレビ解説も行なっていたが、2006年3月27日付けで自主退社した。

2006年4月、社長として株式会社円天興行を設立した。母体会社の会長を直接の師匠筋である坂口征二から紹介してもらったと新聞インタビューで語っている。

[編集] 藤波との抗争からワンマッチ興行への流れ

発端は、1986年10月9日に開催されたINOKI闘魂LIVEの公開スパーリング(10月6日)に遡る。ランス・フォン・エリックとの対戦を予定されていた武藤敬司の凱旋帰国日程が遅れた事によるカード変更を受けて、木村が藤波への挑戦を表明したが、9月23日にIWGPタッグ王座を二人で奪回したばかりであり、時期尚早と藤波が対戦を拒否した。

翌シリーズでも木村は対戦を執拗にアピール。前田日明が闘魂LIVEの異種格闘技戦でのダメージからシリーズを全試合欠場となり、11月3日に予定されていたIWGPタッグ防衛戦(藤波&木村vs前田&藤原喜明戦)が流れた事から、藤波も対戦を受諾した。しかし、10月27日の奈良大会で、藤波がコンガ・ザ・バーバリアンにジャーマンを仕掛けた際に負傷(奥歯が抜け、手術して元に戻した)して欠場したため、対戦がまた実現せず(11月3日の代替カードはアントニオ猪木ケビン・フォン・エリックvs木村&武藤)。

次の'86ジャパン・カップ争奪タッグリーグでは藤波は武藤と、木村はジョージ高野とタッグを組んでエントリーしたが、共に決勝には進めず、12月10日最終戦の大阪城ホールで急遽シングルマッチが組まれたが、木村は淡白な内容で藤波に回転エビ固めで敗れた。

翌1987年、新日本の新春シリーズ「ニューイヤー・ダッシュ」開幕戦(1月2日)において木村のアピールで藤波vs木村戦が組まれた。木村は試合前に「正々堂々と戦って勝つ」、そして、選手紹介前に田中リングアナからマイクを取り上げ、「この試合に負けたら俺は海外に行くから! お前もそのぐらいの気持ちで来い!」とコメントした。しかし試合ではゴング前のボクシング・パンチの奇襲攻撃や、レッグサポーターに凶器を入れた稲妻レッグラリアートを敢行。フォール勝ちを奪うも、反則行為が発覚してノーコンテストとなった。木村は試合後に「勝つためには手段を選ばない」とコメントした。

内容を不服とした藤波から後日再戦の申し入れが出たことを受け、1月14日、後楽園ホールでワンマッチ興行開催の運びとなり、今度は藤波が勝利し遺恨に決着がついた。この試合のレフェリーは上田馬之助が勤めた。なお、この試合はTVマッチとして録画中継されたが、急遽組まれたために、既にタレント活動もしていた古舘伊知郎の都合がつかず、映像に後で実況を被せる手法が取られた。これは音声では解説をしているはずの山本小鉄が、リングサイドで立ち働く姿が映像に何度も出てくるところから判明した。

[編集] 抗争への評価

当時の新日本のリング上では前田日明率いるUWF勢が猛威を振るっており、猪木、坂口、藤波に次ぐ存在であった木村は当然UWFとの対抗戦に集中しなければいけなかったが、その矛先を身内の藤波に向けたこと、また、あまりにも唐突な抗争開始であったことによって、UWFファンからは「UWFから逃げた」藤波ファンからは「単なる話題作り」と批判された。

しかし、UWFに話題を奪われていた当時の木村がワンマッチ興行開催までストーリーを繋げたことは、自己主張が大事なプロレスラーとして一定の評価ができるとの見方もある。またこの試合に至る背景として、後に鶴藤長天と呼ばれるニューリーダー達の世代交代の動きの中心であった藤波に対する一種の防御策として、アントニオ猪木が木村に抗争をけしかけた、とも言われている[要出典]

[編集] 稲妻レッグラリアート

脚の攻撃は腕の3倍の威力が出せるという理由で、脚のラリアットである稲妻レッグラリアートを開発して得意技としており、スタン・ハンセンラリアットを放つ腕にサポーターを付けていたのと同様に、レッグラリアートを放つスネにサポーターを着用していた。また、人差し指を掲げ「イナヅマ!」と叫んでから技を放つことが多かった。技を使い始めた当初は、梶原一騎原作の「悪役ブルース」の主人公・吹雪純也が覆面レスラーとして使っていた技とそっくりだったので「ジャパニーズ・ラリアット」とプロレス専門誌で書かれていたこともあったが、古舘伊知郎がプロレス中継の際に「稲妻のような電光石火で叩き込む足でのラリアート」と叫んだことから、この名前が使われるようになった。相手によって高さを使い分け、胸板を打ち抜く稲妻と喉元を打ち抜く稲妻があった。過去にタッグ戦で、喉元を打ち抜く稲妻で佐々木健介をKOし、同じ試合で胸板を打ち抜く稲妻で長州力にフォール勝ちしたこともある(越中・木村組対長州・佐々木組 平成維震軍自主興行)。喉元を打ち抜く稲妻レッグラリアートに対しては、猪木が「俺にはあんな(危険な)技を使うな」とも言っていたことがある。

[編集] 人物像

入団の経緯からも、新日内では直接の師匠筋である坂口派と見られる事が多かったが、猪木に対してかなり敬意を払っていた。その一因には猪木の元夫人であった倍賞美津子への憧れがあったと言われる[要出典]。ちなみに木村は夫人との結婚を決めた理由を「社長(猪木)の奥さんに瓜二つだったから」と公言している。

若い頃は、顔が間寛平に似ていた。大阪での興業時、試合前に街を歩いていると「寛平ちゃん!」と声をかけられたこともあったという。若手時代のあだ名は、一線を超えて試合相手を怪我させてしまう事から「クラッシャー」だった。

性格は温厚とされ、武藤敬司はCSのサムライの番組で「おれは木村健吾さんの付き人で楽でよかった、あの人は怒らないから」とコメントした。しかし武藤のスペース・ローンウルフ時代に急遽組まれた猪木&ケビン・フォン・エリック組VS木村&武藤組で、猪木が武藤を試合そっちのけで鉄拳制裁で血だるまにした事に激怒し、試合後に「あそこまでやる事ねぇじゃねえか!」と、パイプ椅子を持って猪木の控え室に乗り込んでいったこともある。この時は猪木と坂口が必死になだめた。

サムライTVの番組内にて「稲妻人生相談コーナー」をしていたこともあるが、いかにも木村健吾らしい回答の為、視聴者から大人気であった。

[編集] 芸能活動

歌手としても活動しており『らしくもないぜ』『デュオ・ランバダ』『孤独(ひとり)』などのオリジナル曲がレコード発売されている。映画俳優としては映画「ビー・バップ・ハイスクール」に戸塚水産高校の教師役で出演。1987年には仲村トオル主演の「新宿純愛物語」に大矢健一と共にヤクザ役で出演している。

[編集] 政治活動

妻は、目黒区議会議員の木村洋子。1991年社会民主連合公認で区議選に出馬。初当選し、以後無所属民主党と所属を変えながら5期務めている。2004年にはひったくりの被害に遭った。長男の木村寛紀も2007年東京都議補選大田区議選に出馬したが、いずれも落選に終わっている。

木村本人も1998年第18回参議院議員通常選挙に民主党から比例区で立候補した。その時、自らハーレーダビッドソンに乗り回して、全国遊説していた。この選挙では名簿12位で公認された江本孟紀が名簿順位の低さに民主党の選挙運動を凍結する動きを見せたが、木村は23位という当選可能性の低い順位だったにも関わらず「どんなに苦しくても最善を尽くすべきだ」と批判した。結局、江本はぎりぎりの下位当選、木村は落選に終わる。

[編集] 決め台詞

木村の決めぜりふは得意技の名前でもある「稲妻」であり、テレビのインタビュアーに「一言お願いします」と言われ「イナヅマ!」と答えた。またワールドプロレスリングの放送で、フィリピン遠征の際にいきなり木村の顔のアップが画面に登場して「フィリピンからイナヅマ!」と叫んだ。

[編集] 得意のムーブ

タッグ戦において「散々攻撃を受けてグロッキー状態になり、攻撃の隙を見計らって四つん這いになりながらコーナーまで帰ってタッチをする」もしくは「タッチできそうなポジションまで這って行くと、対戦相手に足を引っ張られながらリング中央まで引き戻される」等がお決まりムーブである。なお、足を引っ張られる時は自軍のコーナーに手を差し伸べながら引っ張られ、タッチできる場合の這い方は異常に速い。また、シングルマッチの際、決め技である稲妻レッグラリアートを放った後、頭部からマットに墜ちてしまったためにグロッキー状態になり、タッチを求めて(パートナーがいない)自分のコーナーに四つん這いで帰ったことがある。

[編集] 海外での戦績

海外遠征先のロサンゼルスで、上田馬之助と組んでアメリカス・タッグ王座を所持した事がある。これが、後に何度も起こる上田とタイガー・ジェット・シンの仲間割れの最初の原因とされた。なお、同時期にロスをサーキットしていたロディ・パイパーは移動の際に、健悟の運転するレンタカーをよく利用していた。ちなみに、ロスでの運転免許取得の際、試験に車に乗って行ったというエピソードを持つ。

この頃(1973年)のロスでは、日本での所属団体に関わらないマッチメークが行なわれており、7月7日のオリンピック・オーデトリアムの興行では、健悟はミル・マスカラスと、上田はプリンス・トンガと対戦している。なお、アメリカやメキシコに遠征していた際のリングネームは「パク・チュー」であった。

[編集] 藤原との対立

若手時代から藤原喜明との不仲は有名で、村松友視はこの二人を主人公にした短編小説を書いている。

[編集] 得意技

[編集] 主なタッグパートナー


[編集] タイトル履歴

NWA
  • NWA世界ライトヘビー級王座 : 1回
  • NWAインターナショナル ジュニアヘビー級王座 : 1回(1980年7月23日、ブレッド・ハートとの王座決定戦に勝利)
  • アメリカス・タッグ王座:1回(パートナーはミスター・イトー(上田馬之助))
新日本プロレス
WWF
  • WWFインターナショナルタッグ王座 : 1回(&藤波辰巳)
大日本プロレス

[編集] 入場テーマ曲

  • ビューティフル・フライト(LP新日本プロレス・スーパーファイターのテーマに収録)
  • ブラック・ストーム