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社会民主連合(しゃかいみんしゅれんごう、略称:社民連、英:Socialist Democratic Federation、略称:"SDF")は、かつて存在した日本の政党。
[編集] 歴史
[編集] 社会市民連合
[編集] 社会クラブ
[編集] 社会民主連合
田英夫が代表に、江田五月が副代表に、楢崎弥之助が書記長にそれぞれ就任した。
- 自由民主党の一党支配を終わらせることを第一の目標に掲げ、社公民路線を推進した。議席数はごく少なかったが、反共・社会民主主義を軸に日本共産党を除く各党に対し連立のための歩み寄りを説得する活動で、党勢以上の影響力を行使した。その交渉で他党に妥協を説く必要もあって、自党の政策を推進することよりも、政権交代を最優先と強調した(とは言え、日本共産党を「全体主義政党」と非難するなど反共色は強かった)。党員を「会員」と呼ぶなど、政党というよりは緩い連合体を志向した。
- 反自民共闘を念頭に、新自由クラブと院内会派新自由クラブ・民主連合(自ク連)を結成。1983年の第13回参議院議員通常選挙では比例代表選挙に新自由クラブとの統一確認団体「新自由クラブ民主連合」を結成、田英夫代表を名簿登載1位で擁立、当選させた。
- 院内会派は後に解消したが、新自由クラブ解党後は田川誠一の進歩党と統一会派「進歩民主連合」(進民連、会派代表は江田)を組んだ。1992年の第16回参議院議員通常選挙にはサラリーマン新党の青木茂を名簿1位で比例代表選挙に擁立するも、獲得議席ゼロで落選。
- 反自民・非共産共闘の理由から1986年の総選挙のあと、所属の衆議院議員4人が、日本社会党会派と民社党会派に2人ずつ分かれて属することで、民社党会派が日本共産党を上回り、国会運営から日本共産党の排除に成功したこともあった。
- しかし1992年のPKO法案では、法案推進で自公民路線への傾斜を強める公明・民社を止めることができず、社民連は結果的に社会党に接近する形になった。この後、社会党と単独で統一会派を組んでいる。なおこの時、社会党本部に江田三郎の遺影が掲示された。
- 党の第一の目標であった政権交代は、1993年の細川連立内閣の成立で実現し、衆議院4議席ながら閣僚も輩出した。1994年1月、社会党との統一会派を解消、日本新党との統一会派になった(ただし楢崎弥之助は社民連党籍のまま社会党会派に残った)。1994年5月に社会民主連合は解散(日本社会党会派無所属、1994年12月に自由連合・楢崎弥之助。1994年1月に日本社会党脱党者との無所属会派護憲リベラルの会、1994年9月に新党護憲リベラル・田英夫。日本新党・江田五月、阿部昭吾。新党さきがけ・菅直人)して、日本新党に合流、菅直人など一部は新党さきがけに移籍した。日本新党は同年12月に解散して新進党に合流した。
[編集] 党史
[編集] 歴代の常任役員会・執行部役員表
[編集] 社会市民連合
[編集] 社会クラブ
[編集] 社会民主連合
| 代表 |
副代表 |
書記長 |
政策委員長 |
国会対策委員長 |
参議院議員会長 |
| 田英夫 |
江田五月 |
楢崎弥之助 |
安東仁兵衛 |
阿部昭吾 |
田英夫 |
| 〃 |
大柴滋夫 |
〃 |
〃 |
〃 |
〃 |
| 江田五月 |
安藤仁兵衛 |
〃 |
菅直人 |
〃 |
〃 |
| 〃 |
楢崎弥之助 |
阿部昭吾 |
〃 |
〃 |
〃 |
[編集] 社会民主連合の政権ポスト
()内の党内ポストは、入閣直前のポスト
- (国務大臣)
- 科学技術庁長官・江田五月(常任役員会代表)
[編集] 党勢の推移
[編集] 衆議院
[編集] 参議院
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
- 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク