江本孟紀

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江本 孟紀
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県高知市
生年月日 1947年7月22日(64歳)
身長
体重
188cm
77kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1970年 ドラフト外
初出場 1971年4月11日
最終出場 1981年8月26日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督歴
日本の旗 日本の政治家
江本孟紀
えもと たけのり
生年月日 1947年7月22日(64歳)
出生地 高知県香美郡土佐山田町(現:香美市
所属政党 スポーツ平和党→)
自由の会→)
フロムファイブ→)
民政党→)
民主党→)
国民新党

選挙区 比例区
当選回数 2回
任期 1992年7月27日 - 2004年1月13日
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江本 孟紀 (えもと たけのり、1947年7月22日 - )は、高知県香美郡土佐山田町(現:香美市)生まれ、同県高知市出身の元プロ野球選手投手)。現在は独身(離婚あり)。

現役引退後は野球解説者野球評論家政治家タレント俳優として活動している。元民主党高知県連顧問、元スポーツ平和党副代表、元参議院議員(スポーツ平和党→自由の会フロムファイブ民政党→民主党)。

株式会社江本エンタープライズ代表取締役、政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」代表、タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督。

愛称は「エモやん」。あるいは「エモさん」「エモ」「ルパン三世」。最終学歴は法政大学二部経営学部中退。

目次

[編集] 経歴

[編集] 高校・大学時代

警官の息子として生まれ、実父の転勤に伴い小学校時代は転校を数回経験したが、長嶋茂雄に憧れ野球に打ち込んだ。高知商業時代、選抜高等学校野球大会への出場を決めたが、部員が不祥事を起こしたため辞退。

その後、西鉄ライオンズからドラフト指名を受けるが、4位という下位指名だったために拒否し、法政大学二部経営学部へ進学した。この時の西鉄1位指名が同じ高校で同級生の浜村孝であった。4番で投手の自分が4位指名で、3番打者の浜村が1位指名であることに納得できなかった、と江本は後に著書で語っている。大学時代は1年生の春からベンチ入りするも、監督の松永玲一の方針に合わず幾度となく反発、最終シーズンはベンチからも外れ、半ば退部状態となった(後に松永とは和解する)。法大の1年先輩には田淵幸一山本浩二、同期には東京六大学リーグで史上最多の通算48勝を挙げた山中正竹がいる。

[編集] 社会人野球からプロ野球へ

その後、社会人野球熊谷組へ進む。在職中には、公共事業の入札に参加した事もあった(『おれ、紆球曲球』より)。1970年ドラフト外東映フライヤーズに入団。初年度の1971年は中継ぎしか出番がなかったが、同年オフに南海ホークス監督の野村克也が才能を見抜き、佐野嘉幸と共に、高橋博士との交換トレードで移籍する。

期待の証として野村に背番号16を与えられ、移籍初年度の1972年に背番号と同じ16勝を記録。先発・中継ぎを無難にこなし、1973年にはリーグ優勝に貢献した。優勝決定の試合では、最終回に一打同点の場面で阪急の代打本塁打世界記録保持者、高井保弘を迎えたところで救援、見事空振り三振にとって胴上げ投手となった。しかし、それまで抑えの切り札佐藤道郎が投げており、江本は急遽登板で調整も全くしておらず、審判が運よくストライクを取ってくれたので助かったと後に著書で述べている。読売ジャイアンツV9を達成する同年の日本シリーズでは大阪球場での第1戦で3失点完投勝利。

1974年にはオールスターゲームへの出場を果たして第2戦に先発。阪神タイガース江夏豊と投げ合い、翌1975年オフに両投手はトレードされた(南海からは島野育夫長谷川勉池内豊。阪神からは望月充を加えた4対2の交換トレード)。その際、江本を格下に見ていた江夏との間で激しい舌戦を交わしているが、後に和解し、1993年に江夏が覚せい剤取締法違反で逮捕された際には、江本も法廷で情状陳述を行い、服役中も度々刑務所に面会に訪れて江夏をサポートするという間柄になった。

南海時代に「ノムさん(野村克也)のリードのせいで打たれた試合で腹が立ったのでベンチでノムさんをヤジった」とのエピソードがある。

阪神移籍後初のキャンプでは甘いマスクで女性ファンの人気を集め、キャンプ地は押すな押すなの盛況となった。阪神では先発投手として活躍するも、1978年オフに起きた江川事件で巨人からトレード移籍してきた小林繁にエースの座を奪われる。練習は手抜きの名人だったという。その後、監督の中西太の起用に不満を募らせ、1981年8月26日の対ヤクルトスワローズ戦で、「ベンチがアホやから野球がでけへん」と中西を批判。その後「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪し、同年限りで現役を引退[1]

この発言を現場で聞いたとされるサンケイスポーツ記者の田所龍一は、産経新聞運動部長となった2009年に当時を振り返り、田所自身もそれを田所から聞いた各新聞社の記者も「独り言」と解して直後江本に確認を取ったところ、本人がそれを「正式発言」として認めたこと、また阪神退団の翌日に江本の自宅を訪れたところ「アホやのう、お前がまだ通路の入り口で立っとると思ったから、わざと聞こえるように言うたんや。お前のせいで辞めたんやない。気にするな」と慰められた、と産経新聞に書いている[2]。ただし、江本本人は引退直後から自著の中で「ベンチがアホやから…」の発言を「人に言わせれば…」「人に言わせると…」と自分が言ったものではないことを匂わせる発言を度々しており、前述の田所の記事と食い違いを見せている。また、江本と同じく野球選手引退後タレントとして成功した板東英二は著書でこの一件に触れて「(野球選手を)辞めて結果が良かったから良いようなものの、そうでなかったらその新聞記者は一生恨まれていただろう」と書いており(板東は自らの現役最後の年の年俸が780万で現在はその10倍以上は楽に稼いでいると明らかにした上で「江本もそのぐらいは稼いでいるだろう」と書いている)、事実はともかく既に引退から30年経過し、かつ野球以外の活動で実績を積んだこともあってこの一件を水に流した可能性も考えられる。

当時捕手だった若菜嘉晴と、絶えず黒い交際が噂されていた。阪神移籍当初、数年間は口ひげをトレードマークとしていたが、引退後はそり落としている。

上記のように、現役時代は幾度となくトラブルを引き起こしてきたが、実際には選手会長を務めたこともある程人望があり、決して一匹狼ではなかった。酒も飲まず、読書家であり、根は真面目であったという。

[編集] タレント活動から政界へ

1982年に発売された著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」が200万部を超えるベストセラーとなった。1982年からはフジテレビニッポン放送野球解説者の傍ら、タレント活動も行い、映画、ドラマ、バラエティ出演、歌手デビュー、週刊誌コラムなど、1989年からは三田寛子とフジテレビ系ドキュメンタリー番組『なんてったって好奇心』の司会を務める。

その後政界入りし、1992年7月の第16回参議院議員通常選挙スポーツ平和党より参議院比例代表選出で出馬し、当選する。1995年、スポーツ平和党党首・アントニオ猪木の党運営上の金銭疑惑により猪木と対立して、党の副代表を辞任、離党して無所属になる。その後、自由連合無所属の会に短期間在籍(当時の無所属の会は院内会派で、政党化は1998年)。総理大臣指名選挙で支持した橋本龍太郎総裁を務める自民党入党も検討したが、細川護熙らと1997年12月26日、フロムファイブ、1998年の1月23日民政党、4月27日民主党の結成に参加。長嶋茂雄読売巨人軍監督の支援も受けて1998年7月の第18回参議院議員通常選挙に、民主党より比例代表選出で再選。1999年8月12日成立の通信傍受法案など組織犯罪対策三法案では、反対の党議に従わず退席した。

2004年に民主党を離党し、大阪府知事選に立候補。自身最後の政治活動として表明し、選挙に臨んだが、当時知事であった太田房江に完敗。以降、政治活動からは身を引いた。

自身が代表の政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」は現在も大阪府知事候補としての総務大臣届出資金管理団体として存続しており、政界を完全には引退していないことになる。また、法大の同窓で1992年参院初当選同期の平野貞夫小沢一郎ら政治家や言論人などとも交流が続いている。

[編集] 政界引退後

2004年10月、アメリカ合衆国独立リーグであるノーザンリーグに加盟を予定していたカルガリー・フォースの特別顧問(スペシャルアドバイザー)に就任することを発表した。同球団は日本人の三沢博明樋口直人の出資によるもので、彼らの依頼を受けた形だった。就任会見の席で2006年度からの日本独立リーグの設立構想を明かし、設立後はこちらもコミッショナーに就任することが予定されていた。しかし、カルガリー・フォースは進展がなかったことから、三沢と樋口は同年12月にリーグから運営権を剥奪されて頓挫(地元の経営者が引き継ぎ、カルガリー・ヴァイパーズとなる)。それに連動する予定だった日本独立リーグも事実上頓挫した状態になっている。

その後、2005年4月にアメリカ独立リーグのゴールデンベースボールリーグのバイスコミッショナーに就任し、このシーズンのみ同リーグに参加したジャパン・サムライ・ベアーズにも人脈面などで援助した。ジャパン・サムライ・ベアーズがシーズン後に日本でクラブチームなどと試合を行った際には監督を務めた。同年11月にはジャパン・サムライ・ベアーズは日本のクラブチームである京都ファイアーバーズとして再発足することとなり、監督兼主催者となる。この京都ファイアーバーズには上記の樋口直人も代表者として名を連ねている。

2005年堀江貴文率いるライブドアによるニッポン放送の株式所得問題が起こった際、「ニッポン放送をホリエモンが買収するようなことがあれば、同局の解説から撤退する」ことを示唆する発言が行われた。

2007年7月24日にタイ王国ナショナルベースボールチームの総監督に就任。この年11月に台湾・台中で行われた第24回アジア野球選手権大会に出場したが、予選リーグ敗退に終わった。

2010年度から法政大学で非常勤講師を務める[3]

2010年5月、参議院選挙国民新党公認の比例代表候補として立候補することを発表[4]。6月、大相撲木瀬親方が土俵下の「維持員席」(いわゆる「砂かぶり」の席)を暴力団組長に手配していたとされる問題に関連して、2009年9月の大相撲秋場所4日目に、砂かぶり席で江本が暴力団組長2人と言葉を交わしながら相撲観戦しているところをNHK中継カメラに捉えられていたことが報じられた。これについて江本は「議員になった暁には、この問題を文部科学省の委員会にかけて、相撲協会の正常化を訴える」などと釈明した[5]。7月、参議院選挙落選。

[編集] プレースタイル

通算24ボーク日本プロ野球記録、1イニング3ボークは日本プロ野球タイ記録。1973年のシーズン10ボークも、2003年に広島東洋カープクリス・ブロックに抜かれるまで日本記録であった。記録の背景にはパ・リーグが1973年~1974年の2年間、ボークの宣告を極端に強化したことが大きく影響している。

王貞治が現役時代に苦手としていた投手であり、通算対戦打率は約1割と、50打席以上の対戦がある投手の中では1位。被本塁打はわずかに1本。これは満塁本塁打で、いつもと違う攻めを試した結果であったという(自著『おれ、紆球曲球』)。

球速は高校時代は150km/hを超えていたと自称するが、プロ入り後すぐに速球派から技巧派へ転向している(自著『プロ野球を20倍楽しむ方法』)。変化球に関しては「エモ・ボール(魔球)はフォークのスッポ抜け」(前著)、「フォークボールは高校時代から得意にしていた」「エモ・ボールは一種の都市伝説のようなもので、実際には投げていない」(自著『プロ野球 勝てる監督・使える選手』)、「ストレートとカーブしか投げられなかった」(近藤唯之『引退そのドラマ』)といった具合に、微妙に発言の内容を変えている。

高橋慶彦の連続試合安打を阻止した投手である(1979年)。実は高橋は日本記録を更新した試合で負傷して長期離脱を余儀なくされており、復帰戦で対決した江本は「ボールに目が慣れていない」と判断、速球で押し通す配球で無安打に抑え込んだという(近藤唯之『運命を変えた一球』)。また『FNS27時間テレビ2011』では偶然にも高橋の話題になり、高橋を敬遠との指示を受け4球も投げるのが面倒だから1球(死球)で済ませたことがあると語っていた(直後に冗談ですと言ったので真偽は不明)。

投手としては打撃が良く、ロッテ監督の金田正一から批判された時に金田自身の実績を逆手に取って(金田は投手としての本塁打最多記録保持者)反論したことがある(自著『プロ野球を20倍楽しむ方法』)。

[編集] 人物

2007年の日本シリーズ第5戦で、8回まで完全試合ペースであった山井大介を9回に岩瀬仁紀に交代させた落合博満の采配(2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投)について、翌日の産經新聞の記事で「他球団の監督だったら100%投げさせているだろう。投手も『行く』と言わなきゃ。あそこで続投させる監督は、プロ野球界全体のことを考えている監督。完全試合を達成していれば、野球に興味のない人まで関心を持ってくれるチャンスだった。それが野球人気につながっていくのに」とコメントしている[6]。また、週刊誌のインタビューでも「たとえ、あの試合を落としたとしても、ダルビッシュを使い切った日ハムに流れが変わることは絶対にない。川上を残している中日が断然有利」と述べている。ただし江本氏の意見とは対照的に、2007年11月13日に落合がプロ野球界最高の賞である正力松太郎賞を選考委員会の満場一致で受賞した際、選考委員長であった川上哲治は「正力さんはいつも『勝負に私情をはさんではいかん』と言っておられた。日本シリーズでも勝敗に徹して、そういう強い信念が感じられた。」とコメントし[7]、賞の選考において同年の日本シリーズにおける先述の采配を肯定的に評価したことを明言している。

雑誌EX大衆2009年9月号で理想の監督は森祇晶原辰徳であると述べ、「選手やファンや記者を子供扱いして見下す落合監督とは対照的」と語っている。しかし、中日で落合監督の下8年間ストッパーとして活躍している岩瀬仁紀投手は、「絶対に選手の悪口を言わない監督でしたから、ある意味物凄い責任感が生まれる。一人前に見てくれているので、その分きっちりした結果で応えないといけませんでした。」と江本氏の感想とは正反対の言葉を、中日が連覇を達成した翌日2011年10月19日付の新聞記事[8]で述べている。また、ファンについても、2011年10月18日のセ・リーグ優勝監督インタビューの中で、落合は「やっぱり、ドラゴンズのファンというのは素晴らしいですよ。勝ってても負けてても一生懸命応援してくれますから。」[9]と述べており、江本氏の感想とは正反対の言葉を残している。

また、各報道機関に対し公然と落合を批判する発言を繰り返しているが、その発言の論拠となる取材活動については、「(落合が中日監督をしている8年間の間に)1回しか直接取材をしていない」[10]と公言している。

江川卓長嶋茂雄の後任の監督候補として名前が挙げられた際には「巨人が常勝軍団から転落したのは江川のせい」(『宝石』)と記した。江川は法政大学の後輩に当たるが、著書の中でもともと2部の学部に入学し、後に1部の学部に転籍したことを挙げて「法政大学のOBとは認めない」と記すなど度々批判している。

大学の先輩である田淵幸一を批判していた時期がある。田淵がダイエーを率いていた頃、元木大介のプロ入りに際し当時元木の実家と繋がりのあった江本が代理人と誤認され、元木がダイエー入団を拒否したのは江本がそそのかしたからと誤解されたためだという(自著『'90プロ野球ウソ八百!!』)。元木は結局巨人志望を押し通したが、江本は著書の中で多少の皮肉を込めて「だって田淵さんから野球理論を学びたいという人は居ないもんね」と述べており、田淵が阪神のコーチを務めた際にも「若手選手に田淵コーチのビデオ指導は真に受けるなとアドバイスした」などと記している。なお江本は後年新庄剛志の大リーグ移籍の際にも類似のトラブルに巻き込まれている。

前述の通り東映で芽が出ない状態の時に、当時南海の監督であった野村克也が“あのひょろっと外人の様に背が高いピッチャー”と江本の事を目をかけたことが南海へのトレードに繋がり、江本も成功を収めたことから、今でも野村の事を師と仰いでいる。オフの時期を中心に野村との対談企画も少なくない。

子息が野村沙知代(野村夫人)所有の少年野球チームに所属していたことがあり、自著『'90プロ野球ウソ八百!!』の中で過酷な指導ぶり(選手を強制的に丸坊主にするなど)を明かしている。しかし、いわゆるミッチー・サッチー騒動、沙知代の脱税事件から野村の阪神監督退任に至る一連の騒動の際には積極的な発言を控えていた。

自著(十倍シリーズ)の中で阪神時代に古沢憲司と組んで賭けマージャン(本来なら違法)に手を染めていたことを告白している。古沢がミスを犯した瞬間からすっぱりと足を洗ったという。

金銭に関しては淡白な性格の持ち主とされており、契約更改の席で賃上げ闘争を行ったことはほとんどないと述べている。かつてラジオ番組(「プロ野球 ズバッとど真ん中」、1986年)の中で共演者の田丸美寿々に対し薄給(月給3万円ほどだったという)の東映時代を楽しそうに回想したことがある。

趣味はバロック音楽鑑賞。好きな歌手は、親友でもあった大塚博堂。知人を介して知り合い、大塚の生前に、新宿ロフトで一緒にコンサートをしたこともある。また、大塚のメモリアルイベントに、何回か出演している。

[編集] プロ野球における成績詳細

[編集] 年度別投手成績





















































W
H
I
P
1971 東映 26 4 0 0 0 0 4 -- -- .000 267 60.2 61 4 35 1 0 29 5 0 34 34 5.04 1.58
1972 南海 38 32 14 1 0 16 13 -- -- .552 1014 237.1 205 15 118 4 9 115 7 0 95 80 3.03 1.36
1973 34 30 12 5 0 12 14 -- -- .462 889 217.1 167 17 85 2 11 95 5 10 75 66 2.73 1.16
1974 34 33 9 0 0 13 12 0 -- .520 921 216.2 185 19 111 1 14 116 5 3 94 76 3.16 1.37
1975 31 27 13 3 0 11 14 0 -- .440 878 207.0 185 18 78 0 5 109 3 0 94 68 2.96 1.22
1976 阪神 38 36 8 2 2 15 9 0 -- .625 1009 239.2 239 27 66 1 9 115 4 3 107 100 3.76 1.27
1977 36 33 10 3 0 11 14 1 -- .440 952 223.2 202 21 92 1 11 129 4 2 98 92 3.70 1.31
1978 56 10 2 0 0 11 13 11 -- .458 644 150.2 124 16 70 5 9 103 9 2 63 52 3.11 1.29
1979 47 24 5 3 0 12 12 6 -- .500 784 178.2 181 21 67 4 16 141 5 2 93 87 4.38 1.39
1980 31 26 4 0 0 8 15 0 -- .348 704 160.0 168 28 64 6 9 108 5 2 93 85 4.78 1.45
1981 24 12 1 0 0 4 6 1 -- .400 377 87.0 77 11 36 8 4 70 1 0 39 34 3.52 1.30
通算:11年 395 267 78 17 2 113 126 19 -- .473 8439 1978.2 1794 197 822 33 97 1130 53 24 885 774 3.52 1.32
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録

[編集] 記録

[編集] 背番号

  • 49 (1971年)
  • 16 (1972年 - 1975年)
  • 29 (1976年 - 1981年)

背番号について江本は「東映時代は四苦八苦(49)、南海に行って色男(16)、阪神ではニクイ奴(29)」とコメントしている。

[編集] 関連情報

[編集] 著書

[編集] 出演

レギュラー
映画・ドラマ
過去の出演番組
CM出演

[編集] ディスコグラフィー

  • あぶさん台詞水島新司)c/w 暖炉(1973年)
  • 恋する御堂筋(1979年)入江マチ子とデュエット
  • 霜降り橋まで(1980年)  
  • アカシヤの面影(1982年)
  • あなたまかせの夜(1983年)
  • 素敵なジェラシー(1987年、アルバム)

[編集] 脚注

  1. ^ 江本孟紀「ベンチがアホやから」発言の翌日に…
  2. ^ 『やっぱり「書いてよかった」』産経新聞2009年4月15日8時25分配信
  3. ^ 江本先生、法大で初講義「スポーツと政治」 サンケイスポーツ
  4. ^ 江本氏、国民新党から立候補 産経新聞
  5. ^ 『「極道」&「極道の妻」と砂かぶりで相撲を観戦した参院候補「エモヤン」と昔の衆院候補「野村サッチー」』 週刊新潮 2010年6月10日号
  6. ^ 落合監督「言わせておけばいい」山井交代に賛否両論 産経新聞2007年11月2日22時11分配信
  7. ^ 落合監督、正力賞 稲尾氏から最後の贈り物 中日スポーツ 2007年11月14日付
  8. ^ 岩瀬仁紀手記 落合監督に日本一で恩返しを - 中日2年連続9度目優勝 スポニチアネックス 2011年10月19日付
  9. ^ 落合監督6度舞い!優勝「私も待っていました」 スポニチアネックス 2011年10月18日付
  10. ^ ニッポン放送ショウアップナイター 2011年11月6日放送分 ドラゴンズのクライマックスシリーズ優勝直後の同日20時55分〜21時05分の間に発言。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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